2018年12月16日日曜日

畑正吉によるメダル史

1937(昭和12)年に出版された『東西美術大集 : 絵画彫刻工芸」には古今東西の美術品を集め、その解説書には木村荘八、太田三郎、田辺孝次、仲田定之助、藤川勇造らが各作品について解説を行っており、当時の美術観を垣間見る事ができます。

その中に、メダル史について畑正吉が語っている文章があります。
短い文章ですが、彼や当時のメダルに関わる作家の考えを理解でき、私にとってはかなり興味深い文章です。
下にその文章を載せます。(旧仮名遣いは変えてあります。)

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工芸作品には工作の如何により大なる変化を与えるものである。
メダルの開祖伊太利のピサネロ(十四世紀)の鋳銅のメダルから、のち希臘、羅馬の貨幣と同様の方法で作られた直彫の極印(鋼鉄の鏨を以て陰刻したメダルの型)から圧印したものには、また別種の趣を呈し、今日も作られている。然るにこの期の末からじかぼりの極印即ち彫金の外に仏蘭西に於いて縮彫機械(マツシーヌ・ド・レヂュクション)を発明され、為に所用メダル数倍の塑像原型から鋼鉄へ彫刻されるようになった。
この縮彫された極印によって、さらに一変化を与えたのである。
この過渡期に際しシャプラン、シャルパンチェ、ローチなどは最も苦心し、図に見るが如き特色ある、またメダル本来の目的にかなった作品ができたのである。図の如くシャプランとローチはまだじかぼりの風を帯びているが、シャルパンチェは塑像彫刻の縮図のようであってこれは全く縮彫機械によって起った変化である。故にこの機械最初の発明者コンタマンとこれを完成したヂュヴァルとジャンヴィエの三氏も忘れることができない。
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ピサネロをメダル芸術の祖とし、シャルパンチェ(ALEXANDRE CHARPENTIER)を縮彫機を用いた近代メダルの祖としています。
芸術性だけでなく、新しい技術を以って、メダルの時代を分けているのですね。

2018年12月11日火曜日

女子中等対抗陸上競技会 東京跳躍競歩 メダル



このメダルに刻まれていることを素直に読めば、1941年(紀元2601年、昭和16年)に東京陸上競技協会主催で行われた「女子中等対抗陸上競技会」において東京跳躍競歩に出場した選手に与えられたメダルだと言えます。

ですが、よく分かりません。
まず、「女子中等」とは中等教育を受けている女性を指すのでしょうか?
であれば、それは「高等女学校」に通う女性と言う意味であり、そういった女学校の生徒のみの大会が行われたことになります。

当時の女学生と言えば、昭和に入っていると言えど、お嬢様たちだったと思います。
そういった彼女たちが行う陸上競技大会のメダルがこれだったわけです。
この、いかつい男の姿が描かれたメダルが!!!

はたして、お嬢様たちはこのメダルを受取って喜べたのでしょうか??

また、このメダルの作者ですが、銘がでかでかとあるのですが、こちらもよくわかりません。
以前、小平市平櫛田中彫刻美術館で行われ、私も参加しましたメダルの展示では、このメダルと同型の作品が展示されていました。
そちらは昭和7年に行われた「第十六回関東学生陸上競技対抗選手権」のメダルで、安永良徳作と紹介しています。
そのメダルには「Re」の刻印がありますが、私の「女子中等対抗陸上競技会 東京跳躍競歩」メダルにはありません。
そして、私の方のメダルの銘は、安永のものとは異なります。
安永作品であるのかないのか、断言できる材料が今のところありません。

2018年12月9日日曜日

日名子実三作 建築学会「建築展覧会賞」メダル


日名子実三による 建築学会の「建築展覧会賞」メダルです。

建築学会は明治期より続いている学会で、現在は「日本建築学会」と称しています。
メダルの左上に「福田欣二君」とあり、昭和8年11月に、彼が建築展覧会でなんらかの賞を得た事がわかります。
「福田欣二」は石本建築事務所顧問となった人物で、1956年出版の「建築デザイン機構の展望とその発展」の著者のようです。

メダルの中央には、ロダンの考える人のように思想する人物が、建築を連想させる幾何学的な構成の中で静かに座っています。
裏側には最古の木造建築、法隆寺の五重塔が、その前には朱雀か鳳凰か、鳥が描かれています...
鳥??
どうみてもグリフォンなのですが、こういった4つ足の鳥の像ってあるのでしょうか?

それとも、このメダルの図柄に似たような海外のメダルがあり、それを元に日名子が日本風にアレンジしたのでしょうか?謎です。
日名子の河童のメダルと並んで、リアルUMAシリーズの一品ですね。

ちなみに原型は大分県立美術館が所蔵しています。
http://opamwww.opam.jp/collection/detail/work_info/7235

戦時下の建築、建築の戦争責任について、現在までかなり色々と議論がされてきているようです。
うらやましい。
彫刻というものは、建築から他者性を抜いたものなのでしょう。
そのため、建築ほど言葉を必要としません。
その結果、彫刻の戦争責任論も他者を抜いた言葉の無いものになってしまったのではないかと思います。
であるならば、逆に考えてみても良いかもしれません。
つまり、建築に用いられた議論を参照し、戦時下の彫刻を語る言葉を捜す事ができるかもしれません。

2018年11月23日金曜日

日名子実三 作「第二回千代田生命陸上競技大会」メダル


日名子実三による「第二回千代田生命陸上競技大会」のメダルです。

今は無き千代田生命は、明治37年の設立です。
当時、このような会社主催の競技大会が行われ、多くのメダルが作製されました。
日名子も多くのメダルを制作しており、これもその一つだと言えます。

ただし、この「第二回千代田生命陸上競技大会」のメダルは、日名子の他のメダルと異なり、彼の作品に多くある写実的なモチーフではありません。
どこか古代ギリシアかローマを思わせるデザイン性の高いモチーフになっています。
二人の裸の男性走者が、太陽を跨ぎつつ、同じような体勢で重なり合い、どこかユーモアを感じさせます。
このメダル以外で、日名子のこういったモチーフは、思い浮かびません。

このメダルの原型は、大分県立美術館の所蔵となっています。
http://opamwww.opam.jp/collection/detail/work_info/7182;jsessionid=2318F598633C3EB5D769672D063AF0BF?artId=636&artCondflg=1

そこには、このメダルの原型が、「陸上競技奨励大会参加章」「東京陸上競技協会」「本院貫井間十哩競走」と幾つか使用された事が書かれています。
人気の作品だったのでしょう。
ただ制作年が昭和8年となっていますが、先に紹介しました「第二回千代田生命陸上競技大会」のメダルには、昭和7年と刻まれています。
もしかしたら、もう少し早く制作された作品なのかもしれません。

2018年11月17日土曜日

齋藤素巌 作「杉村七太郎教授」レリーフ



齋藤素巌による「杉村七太郎教授」のレリーフです。
左側に篆書で「杉村七太郎教授」と、右側に大正5年-昭和16年とあります。
下のほうに「素巌」の銘がありますね。

斉藤素巌のレリーフは、破綻なく、うまいですね!
畑正吉より線が細く柔らかい感じがします。
おっさんの像なのに、どこか色気を感じるのですよね。

そのモチーフの杉村七太郎は明治12年生まれ、腎結核の研究で知られた東北帝大(現東北大学)教授でした。
「大正5年-昭和16年」は、東北帝大教授を勤めた間にあたり、このレリーフは、それを記念したものだと思われます。
ただし、どのようにこのレリーフが用いられ、何を顕彰されたのかは不明です。
また、どういった経緯で齋藤素巌に依頼されたのかもわかりません。

それでも、先に書いたように、レリーフに用いられた文字が篆書であることから、戦前の作だと思われます。

この篆書ですが、当時のメダル等にはよく使われます。特に構造社作家によるスポーツのメダルに多い。
一瞥しただけでは読めないこの書体は、きっと「かっこいいから」とか言う軟派な理由で構造社の若手が使い始めたのではないかと悪推量します。
「杉村七太郎教授」の「村」の字が、わざわざ「邨」に変えられているのですね。これがかっこつけでなくてなんであろう?(それとも、そういう決まりがあるのか?)

はたまた、メダルという作品に用いる「印」として、印であれば篆書と使い始めたのでしょうか?

ただ、海外から学んだメダルと言う媒体に用いる書体に、篆書を用いるのは、古典回帰の手法であることは確かです。

戦時下の書体の歴史というのは、調べがいがありそうですね。

2018年10月21日日曜日

「銅像建立記念」の印のある書


「銅像建立記念」以外は何が書いてあるのかさっぱり!
崩し字の解読など、色々検索してみましたが、よくわかりませんでした。
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/db.html

まぁ、気長に情報収集していきます....

2018年9月30日日曜日

戦前のモニュメント考察 ―忠霊塔はなぜ立方体なのか?ー




前回の「歩兵第三連隊戦跡記念碑」を設計した須藤徳久は、どうやら東京美術学校彫刻科卒の人物のようです。帝展に入選までしているのですが、その後はどうなったのでしょう?もしかしたら兵隊として出兵されたのでしょうか?気になります。

このように、当時の忠霊塔を含むモニュメントは、彫刻家の仕事でもあったのですね。
「構造社」の作家や、戦時下の多くの作家たちは、モニュメントにたいし(実現できたかどうかは別として)強く関心を示しました。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2012/11/blog-post_5.html

ここで気になるのは、なぜ当時の忠霊塔が記念碑と同じ形をしているのか?です。
双方共に高く細く聳え立つ立方体であるのはなぜでしょう?

記念碑がそういった形なのはわかります。
当時の海外のモニュメントがそういった形であったため、モニュメントという概念を輸入した当時に於いて、その形も取り入れられたのだと思います。

しかし、忠霊塔は、そういった記念碑とは用途が異なります。
下の図に示すように、納骨室があるなど死者にたいする信仰と結びついた構造物です。
日本の信仰を表す構造物が、なぜ西洋のモニュメントの形態であるのでしょうか?



忠霊塔は、もともとあった忠魂碑の延長上にあると考えられています。
つまり、それ以前からあった石碑の一つなんですね。
石碑を建てる文化は、日本古来の信仰の形としてある巨石信仰の名残だと思われます。
現在でも、奈良の三輪山では、巨石を奉った場所があるそうです。

このような忠魂碑では、形状に於いて記念碑と変わりがありませんでした。
次にこの忠魂碑は、立方体の石の柱に文字を刻んだ慰霊標(記念標)に移り変わります。
慰霊標は、霊標や卒塔婆をより大きくしたものと言えばよいのでしょうか。石碑にあった自然の形状ではなく、より抽象化し、イメージのみで取捨されたモノでした。

ここで、抽象化された形態を持つ西洋のモニュメントと日本の信仰(慰霊標)が重なります。
石碑では、記念碑と忠魂碑が同じものでったため、記念碑(モニュメント)と慰霊標もまた同じものと考えられたと思われます。
さらに、慰霊標は忠霊塔となって、よりモニュメントに近づいたということだと思います。


忠魂碑は古代神道の影響を受け、慰霊標は霊標や卒塔婆など仏教の影響があるようです。
忠霊塔は日名子の「八紘之基柱」が国家神道の影響下で出来たように、神道の影響が強く見られます。
「八紘之基柱」の「柱」とは神道の神を数え方であり、古来から「柱」は依代として用いられてきました。
忠霊塔は、日本の信仰心を表す形状でありながらも西洋のモニュメントと重なるというハイブリットになり、それを当時の日本人は特に違和感なく、忠霊塔=モニュメントを受け入れたわけです。

ここで、不思議に思うことがあります。
忠霊塔は国家によって全国の市町村に建立を求められたわけですが、それはミニ靖国神社として、靖国神社を頂点とするヒエラルキーに収めるためのシンボルとして設置ました。
しかし、その靖国神社のシンボル、参拝対象は「柱」ではありません。
大村益次郎の像はありますが、信仰対象ではありません。参拝者は社殿で参拝するだけです。
仏教に於いても、仏舎利のような塔はありますが、日本では特に信仰対象ではありません。
つまり、神道でも仏教でも塔に対する信仰が強くあるわけではないのですよね。

神道、仏教共に、垂直への信仰上の志向は、あまりないように感じます。神道で天孫降臨や仏教での西方浄土より迎えに来る阿弥陀の信仰等ありますが、実際に空を見上げて祈ることは行いません。

忠霊塔は、そういった体系化された信仰ではなく、墓や位牌などといった市井の信仰の形に沿ったものなのだと思います。
そういった市井の信仰ゆえに、西洋のモニュメントと結びつくことができたのかもしれません。

こう考えた時、忠霊塔は、西洋のモニュメントという「美術」が日本に本地垂迹したモノと言えます。
私たちの信仰という「心」に西洋の美術が馴染んでいったと言うのでしょうか。
忠霊塔は、戦争と言う国家主導によって生まれたモノですが、それでも、日本に於ける「美術」の一つだったのだと思います。

2018年9月24日月曜日

「功烈不朽」歩兵第三連隊戦跡記念碑 須藤徳久設計




須藤徳久設計による歩兵第三連隊戦跡記念碑です。
紀元2591年とありますので、1931(昭和6)年に配布されたものだとわかります。
1931年は満州事変が起こった年ですね。

この年、第三連隊がどういう動きをし、どうして記念碑の作製に至ったのか、よく分かりませんでした。
そして、この記念碑が忠霊塔を模しているわけもです。
この忠霊塔は実際に建てられたのでしょうか?
また、なにより不明なのは、この忠霊塔の設計者である「須藤徳久」という人物です。
この人は、いったいどういった人物なのでしょう?
ネットでは、いくら検索しても見つける事ができませんでした。
市井の建築士なのでしょぅか?
しかし、そういう人物が第三連隊戦跡の設計をするのも疑問です。

このような忠霊塔は、全国津々浦々建てられ、現存するものもあります。
だからこそなのでしょうか。未だに全貌が把握できていないように思えます。
丹下健三のような有名どころではない、当時の無名な建築士の仕事も、当時の状況を知る上で大切なデータではないかと思います。

2018年9月2日日曜日

猫を飼いました。

我家に猫が来ました。名前は風(ふう)です。
ウチのこの子がカワイイ、カワイイと書きたいところですが、このブログはメダルについて語ってるのでメダルと絡めて書いて見たい。
けれど、メダルのモチーフに猫が使われているものはまったく見たことないので語れない!(ライオンならありますが。)
戦争彫刻については尚更で、靖国神社に鳩や馬の像はあっても、猫はありません。

猫は犬と同様に深く人の生活に関わる生き物ですが、メダルや戦争など人の社会的な面にはあまり馴染まない生き物なのでしょうね。
または、人の方が馴染んで欲しくないと考えているのでしょうか?
不思議です。

とは言え、彫刻家が猫を造らなかったわけではありません。
朝倉文夫や木内克、河村目呂二等は大の猫好きです。
下の絵葉書は、朝倉文夫作、第五回文部省美術展覧会出品「餌食む猫」
河村目呂二作、第四回構造社美術展覧会出品「接吻」です。


朝倉文夫は、猫の肉感を、河村目呂二は人との関係性を主題としているようです。
猫を飼って思うのですが、猫の馬や犬の構造的な角のある立体感とは異なる、流動的な肉感は魅了されます。
そして、その柔らかさは、目呂二が女性を通して表しているような穏やかで癒しを感じさせる関係性を生み出すようです。

猫は、星新一の小説にあるように、我家で王様かお妃の様に振舞い、尚且つ実的な利益をまったく与えない生き物でありながらも、その「関係性」をもって人に必要とされているのですね。
不思議な生き物です。

2018年8月16日木曜日

公共のアート

福島でヤノベケンジさんの作品が設置され問題になっているようですね。https://www.bbc.com/japanese/45192561
公共の場所に置かれる像は、美術館に守られること無く広く民意に晒されます。
その時、美術家はどんな態度で設置にあたるべきでしょうか?
こういった民意に真摯に向き合うことこそが、現代のアートのあり方だという人もいるでしょう。
けどね、私はそんな真摯な態度を嫌悪する人だっていると思います。
真摯に話す息が顔にかかることを気持ち悪いと思う人だっていると思うのです。
かといって冗談でしたと言われても癪に障る。
そういう作家の意図にどこまでもどこまでも絶対的に添えない人はあるはずです。
美術家が公共の場に作品を建てるとは、彼の正義を謳っているわけで、それは他の正義からしたら悪です。
『皆にわかってもらいたい。」は独善的な暴力です。
民主主義での解決は暫定的に正しさを確定したに過ぎません。
結局は政治的な力の「正しさ」でしかないでしょう。
そういったアートが公共の場に建っても美しいと言えるのでしょうか?

私はね、今の時代、ある正義や美意識に基づいた像を公共の場に設置するのは無理なのではないかと考えています。
コンビニのエロ本やネットのエロ動画がゾーニングされなければならないように、公共空間に於いて見たいもののみが見れるといった技術的なゾーニングがなされない限り、無理なのではと思います。

こういった無味乾燥な社会を望むか、善意によって誰かが犠牲になっても(そしてそれがが見えていても)「あたたかい社会」を望むか、その岐路にあるのではと考えています。

2018年8月13日月曜日

戦前の徽章業

このブログの対象は、戦前のメダルにおける彫刻家の仕事です。
けれど、当時のメダル作製の多くは民間の徽章業者によってなされていました。
そこでは、彫刻家の変わりに図案屋と彫刻師によって原型が作製されました。
美術界とは異なる彫刻の世界があったわけですね。

民間徽章業者の始めは、明治18年に設立された鈴木梅吉の日本帝国徽章商会と言われています。
千代田区には、「徽章業発祥の地」として彼の記念碑が建っています。
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/752/Default.aspx

その頃の彫刻師は、江戸時代からの彫金師の流れを汲んでいました。
山田盛三郎(著)「徽章と徽章業の歴史」では、日本帝国徽章商会の彫刻師「小山秀民」よりの系譜が書かれています。

彼らは、彫刻家と交わりがないわけではなく、構造社に出品している者もいました。
しかし、多くは職人として「芸術」とは距離を置きつつ、彫刻家たちと競い合い制作していたようです。

彼らにとって、彫刻家とはどういう存在だったのでしょうね?
官展に入選するような作家は、ある程度敬意を表されていたでしょうし、きっと「先生」なんて呼ばれていたでしょう。
彼ら彫刻師は、そんな「先生」を立てつつ、裏では「あんな奴らは、先生、先生とおだてられちゃいるが、まったくメダルのことはわかっちゃいねぇ」なんて言ってたのかもしれません。
彫刻家の作った原型に駄目だしをして、勝手に手直しすることもあったのかも。

前述しました「徽章と徽章業の歴史」では、戦前からの徽章の歴史を詳しく述べており、彫刻師についても同様なのですが、業界とちょっと離れたところにあったろう彫刻家たちについてはあまり触れていません。
畑正吉が紹介されますが、実際どうやって彫刻家と関わっていたのかは、書かれていません。
まだまだメダルの歴史は霧の中ですね。

下の画像は、昭和に入り徽章業者の増える中で、差別化を図ろうと行われたカタログ販売の冊子です。

それぞれのカタログの図柄を見ると、業者間に差別化できるものがあったようには思えません。
際立った個性は無いといいますか、徽章に突飛な図柄を必要としなかったのでしょう。
どちらかと言えば、安定した納品とか、製品の精度とかを問題にしていたように思います。

2018年7月18日水曜日

ロダンと親鸞とナショナリズム

「煩悶青年のテロと彫刻家」にて、当時テロを起こした煩悶青年の思想と彫刻家たちとの間に似たものが流れていたのではないかと書きました。
http://prewar-sculptors.blogspot.com/2018/06/blog-post_30.html

そんな煩悶青年だった人物、「原理日本」を創刊し、左派や識者に対し強烈な批判を行った国家主義者で詩人の三井甲之は、1913年に「人生と表現」誌で発表した「歎異抄」においてこのように述べています。
宗教とは人生の全展開に随順して拡大無辺の内的生活に没入することである。(中略)阿弥陀経などは此の心境を説明したものであるが、それはむしろ直接的芸術的創作を以て代ふべきもので、阿弥陀経に代ふべきものはロダンの芸術の如きである

三井甲之は、自身の煩悶を乗り越える為に、正岡子規の俳句と親鸞の思想に傾倒します。
正岡子規のあるがままを写す「写生」という概念は、ヨーロッパの自然主義からの影響もありますが、何より松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」のような我や個性を超越した境地、観察者の視点さえ無くなった自然のあるがままを詩文で表すことを目指したものです。

この「あるがまま」を肯定する思想として、三井甲之は親鸞の「自然法爾」を理解します。
「自然法爾」とは、自己のはからいを打捨てて、阿弥陀如来の誓いにすべてを生ききることを言います。

また、彼にとってロダンの芸術とは、まさに自然主義であり、人間身体をあるがままを描いたものだと考えます。
自己の我や個性を超えて、自己のはからいを打捨てて、ただ「芸術」にすべてを生ききる、それが彼の芸術観であり、阿弥陀経によって述べられた心境と同じものだと言います。
そうして、彼はロダンと親鸞の思想とを結び付けます。

彼のようなロダニズムは、特殊なものではありません。
例えば朝倉文夫は、自身の出世作「墓守」についてこう述べます。
『従来の制作は自分の主題のものばかりだったから非常に苦しんだ。ところが自然を見ると自分が考えているより自然の方がどうもよく見える。(中略)「墓守」を作ったとき、私は純客観の立場にいた。(中略)純客観は正岡子規が論じていたが、私はこれでなくてはいけないことに気がついた。そしてその後私は主観と決別して客観に徹する態度に一変した。』
ここでも正岡子規が登場しますが、朝倉文夫は正岡子規に弟子入りしようとするほど傾倒していました。
ですから、自身の彫刻観に正岡子規の「写生」を取入れたのですね。
三井甲之のロダニズムも朝倉文夫の彫刻観も同様に、純客観を重視し、自己のはからいを討捨て、あるがままの自然に美を見出したわけです。

親鸞とロダンを結びつけた三井甲之は、その後親鸞の思想によって国家主義を肯定していきます。
彼の親鸞信仰にある「あるがまま」を受け入れる思想は、この世界を肯定することであり、『祖国日本』つまり天皇の統治する故国日本を肯定することへと繋がっていきます。
そして、左派や識者は、この阿弥陀の誓いによって救われるべき世界を知識や思想による社会改革、つまり自己のはからい、自力によって変えようとする者たちであり、何よりも否定すべきだと考え、思想攻撃をしたわけです。

それはつまり、自然をあるがままに映し出すロダンの美しい彫刻を、人智によって歪ませる輩があり、それを強く非難したわけですね。
その姿は、抽象彫刻を非難する後年の朝倉文夫や石井鶴三に重なります。

朝倉文夫は、戦時下の著書「美の成果」や「民族の美」では強烈なナショナリズムを展開しますが、戦時下の彫刻作品にはそれほど戦時を感じさせる作品は少ないようです。
それは、彼が戦時下の作品を生み出せなかったのではなく、もしかしたら彼の裸婦のような「あるがまま」を描いた作品そのものが、三井甲之と同じ強烈なナショナリズムを内包したものなのかもしれません。

2018年7月15日日曜日

田中修二 (著)「近代日本彫刻史」を読む

前回に続いて田中修二 (著)「近代日本彫刻史」を読む。
http://amzn.asia/cZ2Nqv4

小平市平櫛田中彫刻美術館にて昨年行われました「メダルの魅力」展で、私の書いた文章を配布させていただきました。
その内容をこのブログでも載せたのですが、「あれっ?これだけ?日本近代彫刻史ってこれだけなの?....」と現在ある日本近代彫刻史への違和感を書きました。

田中修二さんの「近代日本彫刻史」も、同じような問題意識をもたれて書かれているように思います。
日本近代彫刻は明治維新後の西洋の受容と模倣から始まり、萩原守衛、高村光太郎らによるロダニズムによって更新され、戦時での低飛行を抜けて、戦後になりコンテンポラリーと出会う...といった日本の歴史観に対してです。

歴史や歴史観と言うものは、恣意的なものです。
その時代時代によって、必要とされる「歴史」が切り取られ語られることで生まれます。
ですから絶対的な、またはたった一つの真実の歴史というものは無いのですね。
同じ出来事でも、それを受取った人が二人いれば二つの真実が生まれます。
リアルに平行世界が多数存在し、それを観察者が切り張りして「歴史」が成り立ちます。

ですから、歴史や歴史観は、民主主義と同様に常に不足している状態であり、不断の努力によって更新し続ける必要があるのですね。
これは美術史や美術史観も同様です。
ただ、美術史は「美」という個人にとって絶対的な価値観に拠るものだからこそ、こういった更新が難しいのでしょうね。

田中修二さんの「近代日本彫刻史」では、明治以前から続く日本の豊かな立体造形史を「彫刻」として語ることで、近代彫刻史観では見えづらくなている人形やマネキン、建築と建築装飾、工芸等にある「彫刻」を浮び上げます。
それによって、私たちが生きている「今」ある「彫刻」の豊かさを語ることができるようになるのだと思います。
(ただし、メダルの扱いはまだまだ小さいのですけどね...)

例えば、昨今のニュースで話題のオウム真理教で、第7サティアンにあったサリンプラントを偽装するために作られた発泡スチロール製のシヴァ神像であっても、私たちの彫刻史観の上に出来上がったものなんですよね。
そういうものも直視しつつ歴史を更新し続ける必要があると感じます。

それと、この「近代日本彫刻史」では、彫刻家の仕事として「ゴジラ」等の特撮造形が語られているのですが、そこだけ凄く熱がこもっている様に感じました!(読んでいて目頭が熱くなった...)

2018年7月10日火曜日

黄檗宗と近代彫刻

田中修二 (著)「近代日本彫刻史」を読む。
http://amzn.asia/cZ2Nqv4

日本近代彫刻史を全て語り尽くそうと試みた物凄い情報量の本。
田中修二さんの編集された「近代日本彫刻集成」3部作の別冊のようなもので、これらを歴史と言う縦軸で束ねています。
できることならば電子化され、Wikipediaのように各テキストから画像や細部の情報が表示されるような仕様が欲しい!

まだ読み出したばかりですが、感想をちょこちょここのブログに書いていこうと思っています。

まずは、近代に入る前の前近代、つまり江戸の彫刻文化については、黄檗宗が紹介されていて嬉しい。
江戸期に中国から渡った黄檗宗は、この所の江戸期の仏教の再評価によって注目されています。
近代美術史観によって否定されてきた江戸期の彫刻文化も、その豊かな地域性と多様性を見れば同様に再評価が必要だと思います。
そして、その中でも黄檗宗は、「わび・さび」でもなく、「粋」でもなく、「風流」とも違う美意識を日本にもたらした様で、とても興味深い。
2011年には黄檗宗大本山萬福寺開創350年記念と言うことで展覧会が行われたようです。
http://post.artgene.net/detail.php?EID=8308
見たかったな。

本地垂迹と言いますか、神さんも仏さんも一緒くたの江戸期の「日本教」における彫刻文化はまだまだ掘り下げられることが多そうです。
近代を生み出す土壌であったというより、近代と同価値の美意識の系譜の一つとして。
これからの研究に期待したいと思います。

2018年6月30日土曜日

煩悶青年のテロと彫刻家

このところ政治学者、中島岳志さんの著書をいくつか読ませて頂いています。
彼の言う、明治後期に自身の存在に悩む煩悶青年たちが、日蓮や親鸞の思想を通して、国体論に身を投じ、超国家というユートピアを目指す為、二・二六事件等のテロを起こすに至った...と言う歴史観には、深く考えさせられました。

このモデルは、当時の若い彫刻家たち、特に日名子実三を代表するような、戦時に於いて超国家主義に傾倒した作家たちの説明にも使用できるのではと思ったからです。
彼等もまた、その時代を生きる煩悶青年たちではなかったのか。
そして、テロを起こした井上日召らが日蓮の思想(宗派の信仰ではない)を信仰したように、彫刻家たちは「芸術」を信仰し、その美で彩られたユートピアを現前化しなければと考えたのではないでしょうか?

そこで、大正5年から二・二六事件が起きた昭和11年までの期間でその対比を行ってみました。


社会 親鸞主義関連 日蓮主義関連 彫刻史
1916
(大正5年)



齋藤素巌、帰国
1918 第一次世界大戦後の不況、米騒動 三井甲之が長詩「祖国礼拝」を発表
日名子実三が東京美術学校を卒業
1919
蓑田胸喜が三井甲之のグループに合流 北一輝「国家改造案原理大綱」を発表
北一輝、大川周明らが「猶存社」を結成
第一回帝展
1920

石原莞爾、宮沢賢治が「国柱会」に入会
1921 朝日平吾による安田善次郎暗殺事件 原敬暗殺事件
朝倉文夫、北村西望らが東京美術学校の教授に就任
1923 関東大震災


1924 第1回明治神宮競技大会開催。1943年(昭和18年)の14回大会まで行われる。


1925 普通選挙法、治安維持法制定 三井、蓑田らが「原理日本」を創刊、帝大教授批判を展開

1926
(大正15年/
昭和元年)


宮沢賢治「農民芸術概論綱要」を起稿 日名子実三ら「構造社」を組織
1930
この頃から暁烏敏が皇道と真宗信仰の一体化を説く

1931 満州事変
石原莞爾ら関東軍司令部による満州事変
1932

血盟団事件
1933
滝川事件

1935
天皇機関説事件
国体明微運動

松田改組
日名子実三や畑正吉らによって「第三部会」組織
1936 二・二六事件
北一輝らと若手将校による二・二六事件 改組第一回帝展

第一次世界大戦後の大不況の時代に日名子は東京美術学校を卒業し、関東大震災後の国粋的な風潮が強まる中で「構造社」が組織されます。
テロリストや一部の軍人たちが日本による宗教的な世界統一を夢見、満州事変や血盟団事件、二・二六事件が起こされ、そんな思想に足並みを揃えるかのように、美術界を大政翼賛会化させた松田改組が行われます。
その中で、日名子や畑正吉らは「第三部会」を立ち上げます。

上の年表の比較では、彫刻家達の心の動きまでは分かりません。
けれど、彼らが、というよりも当時の多くの若者たちが、テロリストと同じような煩悶を持っていたのではないでしょうか。

私がこの時代の彫刻家に惹かれるのは、ここに原因があるのかもしれません。
もっと、深く考えてみたいと思います。

ちなみに、わたくし最近、井上日召に顔が似てる気がしています。
どうですかね?

2018年6月13日水曜日

皇太子殿下海外御巡遊記念章 の絵葉書

皇太子殿下(後の昭和天皇)が1921(大正10)年に行った欧州への御巡遊を記念して造られたメダルの販促絵葉書です。
販売元は尚美堂寳飾店で、明治33年創業より現在まで続く老舗の宝飾店ですね。

まずは、絵葉書に書かれた内容を記述します。

造幣局製 皇太子殿下海外御巡遊記念章
本章意匠は東京美術学校作製 御肖像は宮内省下賜 艦姿は海軍省より交付されたる写真により謹刻さる
第壱種記念牌 直径二寸サック付
 九百五十位銀製 金八円七拾銭
 青銅製 金壱円弐拾銭
  右箱代及送料 三箇以内同一 {内地 金参拾五銭 植民地 金六拾弐銭}
第弐種記念章 直径八分サック付
 九百位金製 金拾九円五拾銭
  右箱代及送料 四箇以内同一 {内地 金参拾五銭 植民地 金六拾弐銭}
 九百五十位銀製 金八拾銭
  右箱代及送料 十箇以内同一 {内地 金弐拾八銭 植民地 金五拾五銭}
  右箱代及送料 三十箇以内同一 {内地 金参拾五銭 植民地 金六拾弐銭}
申込 直接御来店予約御申込の方は毎日自午前八時至午後六時迄(日曜休業)願上候
郵便申込は尚美堂記念章係宛 各品名を明記し其代價に送費を加へ為替又は振替を以て前金にて御申込相成度候
発送 本品は九月一日以降造幣局より御廻付次第御申込順により書留にて御送付可申上候
申込取扱元 大阪市東区淀屋橋南詰 尚美堂寳飾店 振替口座大阪四二六番


この絵葉書ですが、表の消印より大正10年の8月頃に送られたことがわかります。
丁度、発送一ヶ月前になるのでしょう。

また、上記の文章から、造幣局製のメダルが一般の店に卸されて販売されていた事がわかります。
そして、大き目のメダルを「記念牌」、小さいメダルを「記念章」と分けていたこと、内地と共に植民地まで通販網があったこともわかります。

「本章意匠は東京美術学校作製」とありますが、これは誰の作でしょうか?
大正初期より東京美術学校で教えていたのは水谷鉄也や畑正吉です。
その後、大正10年の5月に教授陣が一新し、朝倉文夫や北村西望が起用されます。
朝倉文夫らにしては発売ギリギリ過ぎることから、造幣局の技術顧問であった畑正吉の作なのかもしれません。
たしかに畑正吉らしさのある像ではありますが、もしかしたら西郷像のように学生を含めて合同制作したとも考えられます。
後に天皇となる人物の像ですからね、作家個人の制作物にするのは重すぎたのかもしれませんね。

2018年6月11日月曜日

佐藤忠良作「下中弥三郎」メダル

1968年の平凡社「世界大百科事典販売コンクール」のメダルです。

下中弥三郎をモチーフに描かれたこのメダルの作者は、「CHU」のサインから、佐藤忠良だと思われます。
しかし何故、佐藤忠良が下中弥三郎を描くことになったのでしょう?

佐藤忠良と言えば端正な女性像で有名ですが、おっさんの像もないわけではありません。
王貞治の像やメダルなんかもありますね。
http://www.asahi.com/culture/gallery_e/view_photo_feat.html?culture_topics-pg/TKY201101120322.jpg

とは言え、相手は下中弥三郎です。
彼は、平凡社の創業者であり、教員組合(日本教員組合啓明会)の創始者、また労働運動や農民運動の指導者...そして愛国者にして国家社会主義者だったと言われます。
戦後は世界連邦運動に関わるなど、右と左を思いっきり振りぬく姿は、そこらのネットウヨ・サヨとは違う巨大なスケールを持った人物です。

下中弥三郎の本質は「平凡社」の名前からは遠く、皇国日本による世界の統一と平和を求めた夢想家だったと言えます。
ジョン・レノンのように世界中の人々の幸福を語る彼は、世界中の人々が異なる正しさの中で生きている事が想像できず、自身の正しさを理解しない人々を拒絶しました。
しかし、ヒトラーやポル・ポトのように独裁者にもなれなかった彼は、ユートピアの夢の中でしか生きれなかった人だったのでしょう。

そんな下中弥三郎と佐藤忠良はどこで繋がったのでしょう?
戦後、シベリア帰りの佐藤忠良は、本郷新と共に多分に政治的な彫刻家でした。
一時期は共産党員でもあり、平和活動などを行っていた佐藤忠良は、世界連邦運動に邁進していた下中弥三郎をリスペクトする機会があったのかもしれません。

2018年5月23日水曜日

イワン・メシュトロウィッチの木彫

 大正13年の「意匠美術写真類聚. 第2期 第5輯  メストロウィッチの彫刻集」より
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/976839
メシュトロウィッチの作品は、戦前の構造社ら彫塑作家に大きな影響を与えました。
では彼の木彫はどうだったでしょう?


 この作品集にある木彫は、木材を縦に切り、木の形状そのままに像を彫っています。
像の背景には鑿跡が残り、平面全体を強く印象付けています。
私の知識の範囲だけで言えば、戦前の日本に於いてこのような表現主義的な木彫のレリーフは無かったのではないかと思います。

 戦前の表現主義的な木彫作家と言えば橋本平八ですが、彼の木の姿を生かして制作された作品にも、このようなレリーフは無かったのでは。
ただ、橋本平八は鉈彫を意図して制作しており、鑿跡を残した作品はあります。

 橋本平八は、師匠の佐藤朝山や弟の北園克衛の影響で海外の作品にも明るく、もしかしたら彼の鉈彫や木の姿を生かす思想は、円空や東北の仏像だけでなく、イワン・メシュトロウィッチの木彫の影響があったのかもしれませんね。



2018年5月12日土曜日

Intermission 藤田嗣治 本の仕事

現在、目黒区美術館で『没後50年 藤田嗣治 本のしごと』展が6月10日まで行われています。
さすがに希少本とはいきませんが、私のコレクションより、藤田が挿絵を描いた本の紹介です。
まずは、1929年の「Michel GEORGES-MICHEL著 Les Montparnos. Roman illustré par les Montparnos.」
モンパルナスに集まった画家たちの絵が掲載された本書ですが、表紙は藤田の自画像です。

パリの寵児となった藤田の、この正面を見据える自画像から、それを自覚的に演出する彼の気概を感じますね...

もう一冊は「YOUKI DESNOS LES CONFIDENCE DE YOUKI」。
こちらは戦後1957年の本、「お雪」ことリュシー・バドゥの回想録です。
こちらも表紙は元夫の藤田のもの。
中にも藤田の自画像があります。

この挿絵にあるように日本語で「勉強」と「働け」を掲げ、正座して絵を描き、そしてモンパルナスのカフェで女性に抱かれる...この矛盾したあり方を体現しているのが明治生まれの男、藤田嗣治であり、彼の魅力なんですよね。

2018年5月5日土曜日

Intermission 戦時下の絵画

防空頭巾を被った男子の図
日本画の様ですが、時代、作家ともに不明です。
もしかしたら戦後のものかもしれません。

作者の銘が入っていないので写しなのかも。それとも習作かな?
習作だとしたら、同じような構図の作品があるかもと色々探してみたのですが、見当たらず...

ただ、こうやって子供が防空頭巾を被っていることがモチーフになるのは、終戦間近だったのではないかと思います。
鞄に挟まれた紅白の旗が手旗信号の物だとしたら、それを授業で習い始めるのは、これもまた終戦間際のようです。
そこから、昭和19年頃を描いた、またはその当時に描かれた作品ではないかと思います。

ただ、その当時の子供がこんなにふくよかで良いのかな?
けれど、だからこそ安心してこの絵を観れるのですけどね。

2018年4月29日日曜日

自由学園美術展覧会 絵葉書



自由学園は、大正10年にクリスチャンだった女性思想家の羽仁もと子と羽仁吉一の夫婦によってキリスト教精神(プロテスタント)に基づいた理想教育を実践しようと東京府北豊島郡高田町(現・豊島区)に設立。
現在も、幼稚園から大学まである一貫校として運営されています。「自由学園美術工芸展」として美術の展覧会も行われているようです。

この絵葉書は、戦前に自由学園が行っていた「自由学園美術展覧会」の彫塑作品や絵画です。

実は、自由学園の発足当初からこの学校の美術教育に関わってきたのが、自由画教育の提唱者であった山本鼎です。
そして、彫刻については、木彫を吉田白嶺が、彫塑を山本鼎に推挙された石井鶴三が、大正15年から昭和15年まで教えてきます。
山本鼎との関係も深く、児童自由画協会の会員でもあった石井鶴三は、山本鼎の教育論の彫刻での実践者として適任だったのでしょう。

そう言われると、これらの作品になんとなく石井鶴三臭がするかなぁ~と。

また、石井の発案で、こういった絵葉書が発売されるようになったそうです。彼のおかげで、こうして当時の作品を見ることができるわけですね。感謝。

2018年4月22日日曜日

BankART school「 いかに戦争は描かれたか」を読む。

この本は2015年にBankARTスクールで行われた「戦争と美術」と題した講義をまとめたもので、講師は大谷省吾林洋子河田明久木下直之

戦争画についての研究は、戦争画が話題となった1970年代と比べ本当に隔世の感があるなぁと感じました。
戦争体験者が生きていた頃より、今の方が情報が増えているというのは、まぁ、何と言いますか、人間って難しいですね。

藤田嗣治について、多くの情報が出てくるようにありましたが、例えば戦時下の朝倉文夫の戦争協力について語られたものはほとんど見たことがないですね。
高村光太郎については、吉本隆明の本がありますが、アレは詩ですしね。
この本でも忠霊塔などのモニュメントについての講義はありましたが、彫刻についてはほぼノータッチで悲しい。

河田明久さんが、支那事変(日中戦争)時と大東亜戦争(太平洋戦争)時の作品の違いを語られていましたが、彫刻はどうだろうと思い、支那事変時の聖戦美術展と大東亜戦争時の大東亜戦争美術展の彫刻を見比べてみました。

以下が昭和14年7/6~7/23に行われた聖戦美術第一回展の出品作家と作品。

相曾秀之助 傷つける伝書鳩
赤堀信平(招待) 生鮮下の観兵式を拝するして
池田鵬旭 默壽
一色五郎(会員) 従軍記者
伊藤國男 重要任務
伊藤國男 敵陣蹂躪
江川治 征空基地
遠藤松吉 蹄鐵工
大内青圃(招待) 初陣
大庭一晃 水と兵士
岡本金一郎(招待) 腰留め撃ち
小川孝義【大系】 少年快速部隊長
加藤正巳 芽生え行く新東亜
木林内次(出征) 戦盲
木林内次(出征) 傷兵M君像
古賀忠雄 狙撃
古賀忠雄 爆音のあと
坂口秋之助 銃後の婦人
坂口義雄(出兵) 陸軍看護婦
酒見恒(招待) 行軍-群像の一部-
鹿内芳洲 相場の門出
鈴木達 伝令犬
中川爲延 尚武
永原廣 荒鷲
中村直人(会員) 工兵
羽下修三(招待) 蒙原睥睨
橋本朝秀(招待) 伝書鳩
長谷川榮作(会員) 病舎ノ一隅
羽田千年 平和への労苦
濱田三郎(招待) 出征譜
春永孝一 稜線
日名子実三(会員) 慰問袋
宮島久七 皇軍來
宮元光康 濁流
村岡久作(出征) 手榴弾
梁川剛一(招待) 瑞昌の人柱-細井軍曹-
吉田三郎(会員) 軍犬兵
吉田三郎(会員) 治安恢復
吉田三郎(会員) 偵察

聖戦美術展での絵画の特徴は、支那事変の大儀の無さに故に、そのイメージが固定されず、例えば絵画では、支那兵(中国兵)が描かれないとか、背を向けた日本兵が俯瞰で立っている大陸の風景画だとかが多い。
では彫刻はどうだと言えば、兵隊が立っていると言う様な作品にそれほどの違いは見られないのだだけど、ただ聖戦美術時にはモニュメントが無いと言えます。
そして、大東亜戦争美術では、ただ立っている兵隊でもモニュメンタルな象徴としてあることに比べ、聖戦美術では、よりモチーフの個人性が際立っているように思えます。
だから大東亜戦争美術では個人を描く胸像がほとんどありません。
言うなれば聖戦美術はより銅像的であり、大東亜戦争美術はよりモニュメント的だと言う事ですね。

その中でも、中村直人だけは、日本人を美化して描けていて、それによって彼が戦争彫刻のトップランナーに成り得たのだとわかります。

この日本人をある意味記号化して描くというスタイルは、戦後の佐藤忠良らに引き継がれるわけで、この時代はそれを用意したと言えますね。

2018年3月30日金曜日

FUMIO YOSHIMURA Nancy Hoffman Gallery 個展DM

「FUMIO YOSHIMURA」は戦後アメリカで活躍した日本人の彫刻家です。
彼が1973年にNancy Hoffman Galleryで個展を開いた時のDMがこちら。

手紙自体は、作家ではない人による記のようなのでぼかしています。(なんだかお怒りの手紙...)

さて、「FUMIO YOSHIMURA」ですが、
Wikiによれば
《東京芸術大学で絵を学び、1949年に卒業。
1960年代初頭にマンハッタンへ(1963年だと思われる。後述するケイト・ミレットの日本からの帰国に合わせて)フェミニスト作家のケイト・ミレットと結婚( 1985年に離婚)
タイプライター、ミシン、自転車、またはホットドッグのような日常的なものの彫刻を木彫で精密に製作するスタイルで、超現実主義と関連しているが、彼は作品を物体の「ghost」と表現している。
1981年よりダートマス大学で准教授として教鞭を執る。
2002年7月23日 死去》

日常品を細密木彫によって表現するスタイルは、現代でも見られるものですが、当時はポップアートや、シュールレアリスム、スーパーリアリズム等で語られたのでしょう。
彼が木彫を「ghost」と呼ぶのは、能や能面との関連を思わせますね。
それにしても、失礼ながら、こういったアメリカで活躍された日本人彫刻家がいたことをまったく知りませんでした。

それと、「FUMIO YOSHIMURA」についてネットで調べていますと、「吉村二三夫」と「吉村二三生」と両方表示されますが、ごちらが正しいのでしょう。

「吉村二三夫」では、中川直人オーラル・ヒストリーでケイト・ミレットとの出会いの仲介者として紹介されています。
「吉村二三生」では、1953年に成立した青年美術家連合に「フォール」から流れで参加したとあります。

どうも「吉村二三生」が正しそうです。
というのも、「シュルレアリスム宣言」を訳した評論家の巖谷國士にとって吉村二三生は母方の叔父にあたるそうで、彼の「かえで」という文章で叔父への思い出を語っています。
かえで

海外に渡って活躍した日本人彫刻家の先駆者と言えば、川村吾蔵を思い出されますが、どちらも日本での展覧会を行うことなく、母国で忘れられた作家というのが共通しています。(吉村二三生の名前さえあやふや...)
こういう作家は、まだまだいるのでしょう。
日本美術史の教科書で語られる作家だけが、日本の作家ではないですよね。

また、日常品の精密木彫といえば、1970年代の鈴木実の作品を思い出されますが、彼とは交流あったのかな?

それと、このバイクの種類がわからなかったのだけど、なんでしょう?
YAMAHAかな?
詳しい写真はこちら