2019年11月28日木曜日

来年に向けて...

このところ、このブログもご無沙汰しています。
今年いっぱいはこんな感じで、来年から再始動の予定です。
それまでにコレクションを充実させていのだけど、どうでしょう??

下の作品は新潟県立図書館で出会った北村四海作の少女像。
ここに四海の大理石彫刻があることを知らなかっただけに、出合えた喜びもひとしおでした。


新潟県図書館の前身である明治記念新潟県立図書館の設立に合わせ制作されたようですね。
こんな立派な作品を間近で見られる場所はそうそうないです。

2019年8月12日月曜日

日名子実三 原型 昭和14年 第25回 全国中等学校優勝野球大会 メダル



「全国中等学校優勝野球大会」は現在の全国高等学校野球選手権大会の前身となる大会です。そのメダル制作には、日名子の他に斉藤素巌や朝倉文夫ら多くの彫刻家が関わっています。
上記のメダルは広島の予選大会のもの。
予選からこんな立派なメダルを手にしていたんですね。

そして、レプリカですが全国大会のメダルも紹介します。

昭和14年の第25回の優勝校は、 和歌山の海草中等学校。
現在の和歌山県立向陽高等学校です。
海草中等学校は翌年の26回大会と二連覇し、その原動力となったのが25回の準決勝と決勝でノーヒットノーランを達成した嶋清一選手でした。
彼は学徒出陣によって海軍に応召され、24歳で戦死します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E6%B8%85%E4%B8%80

嶋清一もこのメダルを手にしたのでしょう。

彼をモデルに描かれたのがアニメ「巨人の星」第125話「ズックのボール」です。
星飛雄馬の父一徹が戦場で出会ったのが嶋清一でした。




一徹は戦死した嶋清一からズック製のボールを受取ります。
そのボールを負傷した腕で投げたことが、大リーグボール2号を生むヒントになったというお話しです。
それにしても昔のアニメは壮絶ですね。

アニメでなく現実には、2008年に嶋清一に対して野球殿堂特別表彰が決定、その年の8月15日(終戦の日)、第90回全国高等学校野球選手権記念大会第14日目第一試合開始前に表彰式が行われたそうです。

もうすぐ8月15日ですね。

2019年8月5日月曜日

大塚英志著『大政翼賛会のメディアミックス 「翼賛一家」と参加するファシズム』を読む

大塚英志氏の著書は幾つか読んできたつもりですが、今回は痺れた。
面白い!
彼が80年代に始めて行ったと考えていたメディアミックス戦略や、昨今のオタク的消費者⇔表現者のあり方が、先の大戦の中で、国家主導ですでに行われてきたことを明らかにした本です。

よく考えてみればあたりまえ、戦前と現在は繋がっていて、大戦下のメディア体験あってこそ現在の私たちの「表現」や「消費」のスタイルがあります。
しかし、例えば漫画であれば、トキワ荘史観とでも言うような聖なる手塚治虫を出発点とした漫画史観を持つ私たちは、戦前との繋がりを見ることはありません。

そこで、大塚英志氏は、彼が「奇跡の九コマ」と呼ぶ手塚治虫の試作「勝利の日まで」でさえも、近衛文麿による翼賛体制によって製作された映画やアニメ、漫画の体験あってこそ生まれたのだと言います。
つまり、戦争目的の表現によって「手塚治虫」ができたのだと。

大塚英志氏のこのような議論を、私もこのブログで細々とですが行ってきたと思っています。
戦後史観の中で、見えなくされた戦前のリアリティーを知り、メダルと言う現在はほぼ無くなった戦時下のメディアを通して、過去が現在にどう繋がっているのかを考えたい。

現在行われている愛知トリエンナーレで、「表現の不自由展。その後」が取り止めとなり問題になっています。
これはこれで議論しなければならない事が多々ありますが、私がここで思うのは、戦後の左派的な「表現」ばかりが取り止めになったのどうだのと問題になるのに、戦前の八紘一宇、アジア主義だったり民族主義だったりする「表現」は、そもそもキュレーションされず、展示する機会もなく、議論されることも無かったということ言う事です。
(戦争画を「美術」として展示することはままありますが...)

その功罪は、先の大塚英志氏の議論で分かるように大きいと思っています。
戦前のあり方をどう評価するかは別の話で、まず「表現の自由」の下で公然と見えるようにしなければなりません。

というわけで、今回は「紀元二千六百年 海軍省 特別観艦式記念」レリーフです。


「八紘一宇の塔」もとい「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」が描かれた日名子実三の作品ですね。

1940(昭和15)年に横浜で行われた「紀元二千六百年特別観艦式」についてWikiには『聯合艦隊の艦艇98隻(596,000トン)による特別観艦式と、航空機527機(海軍航空隊及び観艦式参列艦船搭載機)による空中分列式(編隊飛行)が執り行われた。翌1941年(昭和16年)の大東亜戦争(太平洋戦争)開戦に伴い、以降の観艦式は行われなかったため、帝国海軍最後の観艦式である。』と書かれています。

大規模なイベントであり、このレリーフも大量に制作されたのでしょう。アルミ製になっています。

面白いのは、この観艦式が行われたのが昭和15年の10月、八紘之基柱が完成したのは同年の11月なんですね。
完成前でありながら、この「八紘一宇の塔」のイメージを利用しようとしているわけです。艦隊をモチーフにするよりも、このイメージを優先させているのですね。

2019年7月24日水曜日

昭和6年「第一回日米対抗水上競技大会」メダル


最近、以前書いた「日本選手権水上競技大会」メダルの記事にアクセスが多いなと思っていたら、どうやら『いだてん〜東京オリムピック噺〜』で、この大会の話が放送されるのですね。
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/

この記事ではこのメダルについて以下の様に書きました。
『1931(昭和6)年の「第一回日米対抗水上競技大会」。
日本人と米国の選手が交互に描かれているのですが、同じ背の高さで合わせてあるところに日本人の自負心が感じられますね。裏には飛魚が描かれてます。戦後、古橋廣之進選手が「フジヤマのトビウオ」と呼ばれたことを思い出します。』
http://prewar-sculptors.blogspot.com/2013/06/blog-post.html

原型は、日名子実三。
実は大河ドラマってあまり見なくて、この『いだてん..」も見ていないのですが、まさか日名子は出てきていないでしょう??

2019年7月20日土曜日

畑正吉によるエンボス加工の原型

以前、畑正吉原型によるエンボス作品を紹介しました。
http://prewar-sculptors.blogspot.com/2019/05/blog-post_26.html

最近、畑正吉が残した作品を整理していましたら、その中からエンボス加工の為に制作されたと見られる原型作品が見つかりました。
その作品には、畑正吉による裏書がなされています。

尚山堂 水野○○氏依頼 明治四十三、四年頃 紙浮出ノ原型ニシテ西洋写真ニヨル 正吉作』とあります。

この水野○○氏は以前紹介しましたように「尚山堂」の水野倶吉のことでしょう。
明治43年は、畑正吉が農商務省海外練習生として滞欧留学から帰った直後になりますね。
留学で畑正吉が持ち帰った写真を模刻したものかは不明です。

明治38年頃に行われた日露戦争では、それを記念する絵葉書が売れに売れ、絵葉書ブームが起きました。
このエンボスの原型も、水野倶吉の手によって絵葉書等で用いられたのかも。

学生時代の畑正吉は、東京美術学校の学費が払えないほど貧窮していて、尚山堂の依頼のお陰で支払うことができたそうです。
こういった依頼はどれくらいあったのでしょうね?
学生時代の朝倉文夫は、海外向け土産品の原型制作が忙しすぎて歩いて学校に行く時間がなく、人力車を雇って通ったとか。
折からの絵葉書ブームで、畑正吉への依頼もかなりあったのかもしれません。

2019年7月17日水曜日

性愛のロダンと新海竹太郎

私のような素人だからこそ好きに書けるわけで、学者さんの言わない歴史のifだって自由に言い放題!
というわけで、今日の「もしも...」は『ロダンの接吻が日本の彫刻史に強い影響を与えていたら...』です。
いや、ロダンは日本の彫刻史に影響を与えているだろ!と言う人もいるかと思いますが、ロダニズムを受容した当時、ロダンの性愛をテーマにした作品に言及した日本の作家というのは殆ど見当たらないのです。
萩原守衛だろうが高村光太郎だろうが、目に写ってはいるはずなのに形にしない。

たしかにその時代は、「男女七歳にして席を同じゅうせず」の時代だっただろうし、裸体像への検閲だってあったでしょう。
陽咸二の「燈下抱擁像」も展示不可になりかけたんじゃなかったなかったかしら。
http://search.artmuseums.go.jp/gazou.php?id=10575&edaban=1

それでも、抱き合う男女、愛と性欲、そんな私たち人間のリアルを研究しようとする姿勢が、当時の日本人には見られない...

しかし!
私たち日本人が性愛をテーマに出来るモチーフがあり、それに気がついた彫刻家がいました。
それは日本近代彫刻のレジェンド、新海竹太郎です。
シバとバルバチ(シヴァとパールヴァティー)

パールヴァティーは、ヒンドゥの神シヴァの亡くなった妻サティーの生まれ変わりで、愛する妻を失って女性を受け入れまいとするシヴァの頑な心を解いた神妃です。
「山の娘」を意味するパールヴァティーが、シヴァに初々しくも愛を表現するこの姿!
新海竹太郎以外でこういった彫刻をつくれる作家はいません。

また、新海竹太郎には「歓喜天」というガネーシャの姿を描いた作品もあります。
https://www.tobunken.go.jp/materials/sinkai/28022.html

そう、性愛を否定しないインド、ヒンドゥの神々の姿を借りれば、ロダンの性愛を日本人が描く事が可能となるのです。

新海竹太郎が関わった日本美術院では、岡倉天心が明治34年ごろからインドに渡り、アジアを全域を視野に入れて活動します。
岡倉天心という愛と欲の塊が、プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジーというインドの女性と恋に落ちたのは、1912(明治45)年。
この頃、天心がもう少し日本の当代彫刻に興味を持っていれば、ロダンの性愛をインドを通して表現する文化が芽生えていたかもしれません。

しかし、1913(大正2)年に天心は亡くなります。
新海竹太郎が発見した「ロダンの性愛をインドを通して表現」もその後に続く作家はありませんでした。
彫刻における性愛は、禁忌となってしまいます。

「もしも...」『ロダンの接吻が日本の彫刻史に強い影響を与えていたら...』
日本の彫刻史のみならず、日本人の恋愛観をも変えていたかもしれません。
このように...

2019年7月6日土曜日

日本帝国徽章商会 

明治後半頃の「日本帝国徽章商会」チラシです。
表には「日本帝国徽章商会」がどれだけ凄いかをドャった文章、その隣に徽章と賞牌の功用として、日本の体育の向上などに賞牌がどれだけ役に立つか、日本にとってのメダルの必要性を説いています。
そして裏には、日本帝国徽章商会のメダルを多数記載。


このチラシでは、明治10年に起業となっていますが、山田盛三郎著「徽章と徽章業の歴史」によれば、日本帝国徽章商会の創業者鈴木梅吉は、明治13年ごろに小間物屋をはじめ、明治18年ごろからメダルの受注を受けたとあります。
日本帝国徽章商会として登録したのが明治10年と言うことでしょうか?
しかし、東京千代田区にある「徽章業発祥の地」の碑文には『明治18年(1885),鈴木梅吉により 日本帝国徽章 商会が創られました。』とあります。
チラシの方が明治10年と盛っているのでしょうか?

また、チラシには当時の日本帝国徽章商会の店構えがイラストで載せてあります。
先の「徽章と徽章業の歴史」にも写真がありますが、正にその姿ですね。

「徽章と徽章業の歴史」より
 看板には「賞牌徽章金銀盃木盃 貴金属品製造所 日本帝国徽章商会」とあり、その上には「鈴木」の看板が掲げてあります。これは写真では見えない位置になっていますね。
チラシの絵を観ると、ガラスケースを多用した、和洋折衷のつくりである事がわかります。

その隣に「 UMEKICHI SUZUKI」「MEDAL MAKER」と掲げた西洋館が建っています。
「徽章と徽章業の歴史」によれば、これが建ったのは大正の初めで、「時計部」であったといいます。
チラシは明治30年ごろで、大正初めとは時期が異なりますが、こっちは「徽章と徽章業の歴史」の誤りかもしれません。

この建物、関東大震災は乗り越えたのでしょうか?
日本帝国徽章商会のあった麹町区飯田町(現飯田橋)は震災の影響が少なかったと言いますがどうだったでしょう?
日本のメダル史の遺物として現代まで残っていたらなぁと思います。(さすがに東京大空襲は乗り越えられなかったでしょうけど...)

2019年6月26日水曜日

黄土水の映像 YouTubeより

台湾出身の彫刻家、黄土水(Huang Tu-Shui)の映像を集めてみました。
日本統治時代の台湾から初めて東京美術学校に入学、官展に入選するなど活躍しましたが、1930(昭和5)年に35歳で亡くなります。

黄土水が、近代化を経た(と考えている)日本人から見た未近代(と考えている)の台湾を内在化しなければならなかった事、その上で自身の個(芸術)と向き合わなければならなかった事...
彼の作品には、考えなければならない事が多くあると思います。


声で伝える美術館(第九回)黄土水《台湾近代彫塑の先駆》

【台灣百年人物誌】雕刻家黃土水

【民視台灣學堂】台灣美術一世紀:台灣雕刻家黃土水 作品充滿台灣鄉土關懷
 2017.06.20—李欽賢

清涼音文化 蕭瓊瑞教授:田園牧歌---台灣近代雕刻先驅黃土水

2019年6月23日日曜日

Intermission 荻野真「孔雀王」と岡倉天心の美術

漫画家荻野真さんがお亡くなりになりました。
http://www4.airnet.ne.jp/kujaku/
彼の「孔雀王」は、中学生の頃の私に強い影響を与えた作品の一つです。
同郷の作家として、強いシンパシーを受けていました。

「孔雀王」の特徴は、古今東西のオカルトのごった煮です。
あのオウム真理教の事件で、宗教のごった煮と言われたその教義に既視感があったのは、私に「孔雀王」などのオカルト漫画にはまっていた子供の頃があったからでしょう。
オウムの信徒もまた同じ素地があったのではと思います。

そんな「宗教のごった煮」は、当時のオカルト好きの妄想だったのでしょうか?
いえ、戦前の歴史を調べていくと、そうではなかったことがわかります。
あの大東亜戦争で日本の宗教人や知識人は、アジアにおける宗教の統一を望んでいました。「八紘一宇」はそういった意味を含んでいたんですね。

「八紘一宇」を生み出した田中智学は、天皇信仰と日蓮宗とを結びつけ、そしてその信仰を世界唯一の信仰にすべきだと考えます。

日蓮主義は即ち日本主義なり、日蓮上人は日本の霊的国体を教理的に解決して、末法万年宇内人類の最終帰依所を与えんがために出現せり。本化の大教はすなわち日本国教にして、日本国教はすなわち世界教なり

田中智学の思想では、多くの宗教があるがその根本は一つの「教え」であり、その根本を示すのが『日本国教』であると言います。

また、アジア主義者の大川周明は、19歳頃の論文で「宇宙の大霊と合致すること」が人間の目的であると言います。そして彼は既存宗教を統一し社会主義革命を起こすことを目指します。

そんな大川がサポートした人物がインド独立運動家のラージャ・マーヘンドラ・プラターブです。
彼は、既存宗教を超えた「愛の宗教」を示し、その信仰によって世界を統一、国家をも超えて「世界連邦」の確立を説きました。

このような宗教を一つし、新たな信仰世界を確立しようとする運動は同時代的に起きていたのですね。

例えば、インドの宗教家ヴィヴェーカーナンダは、1893年にシカゴで行われた万国宗教会議で「多様性の中の単一」「一切のものの中心には、同一性が君臨」とすべての宗教が持つ真理の単一性、同一性を説きました。

そのヴィヴェーカーナンダと意を合わせたのが岡倉天心でした。
彼の『不二一元』論、全てのものは根元にて一元化されるという考えは、ヴィベーカーナンダの思想の影響を受けています。そして天心はその意味で「アジアは一つ」と説いたわけです。

「八紘一宇」「アジアは一つ」は戦時中の日本を正当化する言葉となりました。
そしてその思想は、戦後オウム真理教の教義に受け継がれていったわけです。
オウムの事件は、戦時下日本宗教の徒花だったのですね。
否定しづらいわけです。
(ちなみにインドの『不二一元』論は、ニューエイジにも影響を与え、この流れの果てにオウムもあります。)

岡倉天心は日本美術もまた『不二一元』の表れだと考えます。
その薫陶を受けた彫刻家たちは、自らの仏臭い彫刻観を超克するために天心の思想を求めたのだと思います。

つまり、近代の日本彫刻と「孔雀王」やオウム真理教は、同じ潮流にあったと言えます。
だからこそ私は、子供の頃のオカルトに触れた時と同じ奇妙な魅力を近代彫刻に感じているのだと思います。

2019年6月9日日曜日

百貨店のパノラマ「紀元二千六百年奉祝展覧会」記念絵葉書

現在、高島屋史料館TOKYO 4階展示室で行われています「パノラマとしての百貨店」に便乗して、百貨店のパノラマを紹介します。
「パノラマとしての百貨店」は百貨店のパノラマ的な展開を紹介する展覧会のようですが、ここでは字のとおり、百貨店で展示されたパノラマです。

まずは、日本のパノラマについての薀蓄。
明治23年、上野に「パノラマ館」という見世物小屋が建てられました。
円形の建物に360度の絵や模型を配し、日清戦争などをテーマにし、観客を集めました。
「パノラマ館」は明治の終わり頃に衰退しますが、変わってその一部を切り取ったジオラマが制作されます。
これらの制作に関わったのが、当時の画家や彫刻家でした。

今回紹介する絵葉書は、大阪松坂屋の「紀元二千六百年奉祝展覧会」
紀元二千六百年、1940(昭和15)年ですが、この年に全国各地で記念行事が行われました。
当時のハイカラ文化の中心を担っていた百貨店も同様に記念展覧会を行います。
そして、大阪松坂屋にて行われたのが下記のようなパノラマ(ジオラマ)の展示でした。


 橿原奠都(紀元元年頃)とあるように、この造形物は神武天皇が即位したその場を描いたもののようです。
精巧に作られた人物像に当時のものと考えられていた装いをさせています。
後ろを向いて座っているのが神武天皇でしょうか?
もしかしたら竹内久一の神武天皇像の様に、明治天皇像の姿に似せた姿であったかもしれません。
この像の製作者は誰だったのでしょう?
彫刻家か、または生き人形の系譜の作家でしょうか?
 こちらは奈良時代の糸つむぎをする女性を描いたパノラマ。

そして、こちらは「近古の商売」ジオラマです。


こういった展示は、帝国京都博物館の監修が入っていたのではと推測します。
現在でも博物館では、こういったパノラマ(ジオラマ)の展示はありますね。
けれど、全てをリアルに見る事は決して良いことと言うわけではないんです。

パノラマ(ジオラマ)というのは、時間を固定してしまうという彫刻の持つ「虚構」を明示してしまうように思います。
そこばかりが気にかかるのです。
その虚構にさらに虚構を重ねる...それが杉本博司の「ジオラマ」シリーズでしょう。
この絵葉書を眺めていると、彼の作品の様に見えてきます。

彼の「ジオラマ」シリーズは近代の彫刻の問題でもあるだと思います。
彫刻は時間を止めるという「虚構」の上に、ARTであるという「虚構」を重ねることでなりたっている...
いや、それ以上の問題を含んでいるのかも。
それを例えるなら、広島にある「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」と書かれた原爆死者慰霊碑を、時間を止めた「虚構」であると叫びつつ、その虚構性に乗っかるような...それが「彫刻」であり「近代」であり、この「世界」なのだと表明されたような...

私たちはこの絵葉書にある「紀元二千六百年」の姿を、そんな馬鹿なと笑い飛ばすことができます。
これらが模型であるように、リアルな姿ではない。当時のそれをリアルだと考えたかった人々の「虚構」だと。
では、私たちは「虚構」の無い世界に生きていると言えるのでしょうか?
その虚構性に更に『虚構」を重ねて生きているだけでは?
『歴史」はその『虚構」の断面でしかないのでは?
そんなことを考えてしまいました。

2019年6月2日日曜日

第五回帝展 山崎朝雲 作 頭山翁 絵葉書

山崎朝雲は、慶応3年生まれ。
明治29年に高村光雲に師事します。
明治34年に、福岡市東公園に「亀山上皇」銅像建設。
そして、平櫛田中・米原雲海らと日本彫刻会を結成...
https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8812.html

当時の主要な彫刻家を年齢別に並べます。
高村光雲(1852生れ)-山崎朝雲(1867)新海竹太郎(1868)米原雲海(1869)-平櫛田中(1872)-朝倉文夫・高村光太郎(1883)

山崎朝雲は、光雲と平櫛田中との間の世代になります。新海竹太郎や米原雲海と同期ですね。「彫刻」という概念が日本に渡り、朝倉文夫や高村光太郎のように血肉化する直前の作家だと言えるでしょう。
その中で新海竹太郎ほど西洋よりにならず、「日本」にこだわったのが山崎朝雲です。
つまり「仏師」臭さが抜けないことにこだわり続けた作家...それが山崎朝雲だと思うのです。

山崎朝雲は、先の日本彫刻会の会長であった岡倉天心の影響を強く受け、日本木彫の近代化を目指します。とはいえ、岡倉天心の唱えた「Asia is one.」は日本を超えてアジア全体を視野に入れたものでした。天心の理想の中では、「日本」にこだわっていてたわけではありません。
しかし、その天心の「アジア主義」は、戦時下に於いて「日本(皇室)を中心としたアジア」に変わります。
その二つの「アジア主義」を橋渡しする思想を持ち、当時の日本に大きな影響を持っていたのが頭山翁、つまり右翼の巨頭「頭山満」と玄洋社でした。

頭山満は、日本の政治と戦争の裏側で暗躍すると同時に、朝鮮の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行います。
それは、岡倉天心の空想・理想を現実的な政治運動にしたとも言えるでしょう。

そんな「頭山満」の像を制作したのが山崎朝雲でした。
1924(大正13)年の第五回帝展に山崎朝雲作「頭山翁」は出品されます。
この年の11月には、頭山満に会った孫文が、神戸で「大アジア主義講演」を行い、「日本は西洋覇道の鷹犬になるのか。東洋王道の干城になるのか」と述べ、アジアの仁義道徳を、世界秩序の基本にすべきであると主張します。
こうした激動の時代の中で、山崎朝雲は、岡倉天心の理想を現実化する人物として「頭山翁」を制作したのだと思います。

ちなみに、千葉県市川市の法華経寺にある「頭山満」銅像は、この山崎朝雲の立像を胸像にしたものに見えるのですが、どうでしょう??https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/e6/15a654e1a4a369ca718e9bc65a5251a4.jpg

重い話が続いたので、私の好きな山崎朝雲の作品「同級生の吊辞」
吊辞の「吊」は「弔う(とむらう)」の意味です。
つまり「弔辞(ちょうじ)」、死者をとむらう言葉を読む女学生の図なんですね...
可愛い作品なのだけどね...
結局重い話で終ります。

2019年6月1日土曜日

清水三重三作「唄」木彫



私の所有する少ない木彫のうち、清水三重三作「唄」を紹介します。

清水三重三は、その名のとおり三重県四日市の生まれです。
構造社の作家には珍しく木彫をも行い、更に戸張弧雁のような挿絵画家として活躍します。
彫刻家と挿絵に就て

で、この「唄」ですが、清水はこのモチーフでいくつか作品を制作しているようです。
まずは、1922(大正11)年の平和記念東京博覧会出品作です。



平和記念東京博覧会は、第一次世界大戦終結後の平和を記念し、上野公園で行われた戦前では最大級の博覧会です。
2013年の本ブログで、いくつかの出品作を紹介しましたね。
http://prewar-sculptors.blogspot.com/2013/06/blog-post_9.html

さすがに、この出品作の方が手が込んでいます。
しかし、お顔は所有作品の方が良いかな~

そして、これは平塚市にあります平岡クリニックのサイトより、
絵のある待合室113」で紹介された「唄」です。(良い作品ばっかりですよねェ~ウラヤマシイ...)
よく見ると、脇差の色が私の所有と異なりますね。

いつか、これらの作品を全部並べて展示してみたいです!

2019年5月26日日曜日

原型 畑正吉 謹作 時事新報付録 明治天皇像レリーフ




エンボス加工とは、凸凹模様を彫った押し型で強圧し、浮き出し模様を作る加工を言います。
このようなエンボス加工は、日露戦争後の多種多様のデザイン絵葉書が販売される絵葉書ブームの中で、多く制作されました。

画像で紹介しました明治天皇をモチーフにエンボス加工で制作された時事新報付録は、明治天皇崩御を記念して制作された物でしょう。
そして、彫刻家畑正吉によって制作された原型を用いています。

畑正吉は、東京美術学校の学生時代に児玉大将の紙型打出し(エンボス加工)像を制作しています。
この時、その加工制作に力を貸したのが紙の加工会社「尚山堂」の創立者浅野鉢太郎の3兄弟の一人、水野倶吉でした。
水野倶吉は、森永製菓のミルクキャラメル紙箱の考案者です。この箱入りキャラメルは、上野公園で開催された大正博覧会でお披露目され、ヒット商品となりました。

実は、彫刻家が粘土で制作した原型を石膏にし、それを縮彫機にかけて押し型原型を作るまでは、メダルの制作と同じです。
この押し型原型を金属に用いればメダルに、紙に用いればエンボス加工となるわけです。
その為、後にメダル制作の大家となる畑正吉が、こうした紙の加工制作に関わったわけですね。
ですから、このエンボス加工の歴史を追えば、近代彫刻の歴史に更に深みを与えることになるのではないかと思います。
しかし、彫刻家によるメダルの歴史と同様に、彫刻家によるエンボス加工の歴史もまた、語られていない歴史です。
更なる探索が必要のようです。

ちなみに、この明治天皇の肖像ですが、エドアルド・キヨッソーネのコンテ画を撮影した「御真影」の像を浮き彫りにしたものです。
つまり、畑正吉の手によって平面写真だったものを半立体化したわけですね。
それは明治天皇のお姿と共に、勲章も同様です。(当時の畑正吉がこれらの勲章を手にとって見ることはできなかったでしょう)
その経験は、後に畑正吉が数々の記念章や文化勲章を制作したことの糧となった...のかもしれません。

2019年5月18日土曜日

日名子実三作 第一回軍事援護美術展出品「サイパン」絵葉書

今までに何度か紹介してきました、この日名子の「サイパン」。
彼の最後の発表作であり、謎の多い作品です。

まず、この作品は女性なのか、男性なのか?
女性であったとして兵隊なのか?
「サイパン」とは、日本軍が全滅した「サイパンの戦い」を描いたものなのか?

現状で分かっているのは、この作品が1944(昭和19)年の10月に行われた第一回軍事援護美術展に出品されているということだけです。

この謎を解くために、まずは当時「サイパンの戦い」が一般的にどのようにイメージされていたかを知らなくてはなりません。そして、特にサイパンにいた女性たちががどのように語られたのか知りたい。
そのため、フェミニストで女性史研究家の加納実紀代の著書『「銃後史」をあるく』より『殉国と黒髪―「サイパン玉砕」神話の背景』をもとにまとめてみたいと思います。

まず、当時の日本国民がサイパン陥落を知ったのは、南雲中将が自決し、全軍が玉砕突撃した1944年の7月7日から10日後の7月18日
この日のラジオによって大本営発表が伝えられます。

そして一ヵ月後の8月19日。朝日新聞の一面トップに『壮絶・サイパン同胞の最後/岩上、大日章旗の前/従容、婦女子も自決/世界驚かす愛国の精華』の見出しが掲げられます。これは、アメリカのタイムの記者ロバート・シャーロッドによるサイパンでの民間人死者にたいする記事を、大本営発表の内容に合わせ、殉死として変容した内容でした。
この記事では、『悠然、黒髪を櫛けづる』の小見出しで『(米軍の)海兵は女達が岩の上に悠然と立って長い髪を櫛けづるのを見てびっくりした』『息を殺してみつめているとやがて日本の女達は互いに手を取りあって静に水中にはいって行った』と入水自殺の情景を語っています。

21日には報知新聞でも『サイパン同胞かく自決せり 悲壮絶す!従軍記者の筆に偲ぶ実相』とタイムの記者による記事を取り上げ、『兵士自決の模範示す/婦女は黒髪梳って死出の化粧』とします。

さらに8月23日の朝日新聞では、高村光太郎や作家林芙美子、歌人中河幹子にこの殉死について語らせ、高村光太郎はその女性を『古代の穢れなき心」と評します。

そして、その1ヵ月強後の10月4日、第一回軍事援護美術展があり日名子の「サイパン」が発表されるわけです。

この「サイパン」が「サイパンの戦い」を示していることは間違いないでしょう。
ただし、サイパンの戦いで女性兵士がいたのかどうかは、『殉国と黒髪―「サイパン玉砕」神話の背景』には書かれていませんでした。

しかし、前述のとタイムの記者ロバート・シャーロッドが1945年に出版した「On to Westward: The Battles of Saipan and Iwo Jima」では、『サイパンの在留邦人女性がアメリカ軍部隊に向け小銃を乱射し、最後に足を撃ち抜かれ野戦病院に収容された話が掲載されている』そうです。
Wiki
また、サイパンの戦いで自決を試み重傷を負うもアメリカ軍に救助された従軍看護婦の菅野静子が“サイパンのジャンヌ・ダルク”と1944年7月25日付ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンで報道されたのだそうだ。
ただし、これらの情報を当時の日本人が知りえたのかはわかりません。

在留邦人女性と従軍看護婦...そのどちらも日名子の像とは異なります。
この像は、腰に弾薬盒を下げ、銃を立てかけながら、長い髪を梳かす姿です。
もしかしたら、「黒髪を櫛けづる」亡くなった女性と、米兵に乱射した在留邦人女性、また“サイパンのジャンヌ・ダルク”菅野静子の情報が入り混じり、日名子の描いた像となったのかもしれません。
この整理には、まだ情報が足りないようです。

ちなみに1944年の9月に始まったパラオのペリリューの戦いでは、『中川大佐配下の独立歩兵第346大隊長 A少佐の愛人芸者(慰安婦)がパラオの中心地のコロール島からペリリュー島にやってきて日本軍と一緒に戦い最期は機関銃を乱射アメリカ兵86人を死傷させ玉砕した』という、まさに日名子の像のままの伝説があるそうです。

もしかしたら、日名子のこの像が、その伝説をつくったのかもしれません。

2019年5月12日日曜日

畑正吉 作 造幣局長 草間秀雄 レリーフ H.KUSAMA DIRECTOR OF THE IMPERIAL MINT

『H.KUSAMA DIRECTOR OF THE IMPERIAL MINT』と刻まれた1924(大正13)年当時、造幣局長だった草間秀雄のレリーフです。
このレリーフは、メダルとしても用いられています。

草間秀雄は、東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、大蔵属となり税務監督官、ロシア駐箚財務官、大蔵書記官、主税局国税課長、造幣局長となります。
1924年には造幣局長を辞し、朝鮮総督府財務局長、朝鮮銀行監理官、東洋拓殖監理官を歴任し、満洲採金株式会社副理事長等を勤めた...まぁエリートですね。

このレリーフが1924年に制作されていることから、造幣局を辞した記念であったと思われます。
畑正吉が、造幣局の賞勲局技術顧問としてメダルを手がけ始めたのが1915(大正4)年、それ以降、多くのメダルを造幣局からの依頼で制作し、特に1924年は、第一回明治神宮体育大会が行われ、畑正吉のメダルが多くの人の手に渡った年でした。
草間秀雄は、こうした畑の作品の後ろ盾とであったのではないかと想像します。

ただ、草間秀雄のレリーフを作品としてみると、顔に比べて体が平らで貧弱に感じるところが気になりますね。
しかし、『H.KUSAMA DIRECTOR OF THE IMPERIAL MINT』と全てを英文字で表し、サインまでもそうであることから、「欧米に肩を並べる我が国の造幣局」といった畑の気概を感じます。
当時に於いて、洒落たデザインであったろうと想像できます。
草間秀雄もそういった人物だったのかもしれません。

2019年5月6日月曜日

畑正吉作 第27代内閣総理大臣 濱口雄幸 レリーフ

1928(昭和3)年に起きた張作霖爆殺事件の責で田中義一内閣は総辞職。代わって濱口雄幸が内閣総理大臣に就任します。
1930(昭和5)年11月14日、濱口雄幸は午前9時発の神戸行き特急「燕」に乗車するため東京駅を訪れ、ホームを移動中に愛国社社員の佐郷屋留雄に銃撃されます。
この傷がもととなって翌年、亡くなります。


佐郷屋留雄は、明治41年、吉林省生まれ。満州で岩田愛之助の右翼団体愛国社には入り、戦後は血盟団事件の井上日召らと護国団を結成、後に団長となる人物です。

濱口首相襲撃事件は、1932年より始まる血盟団事件、その後の五・一五事件、二・二六事件の発端となる事件であり、こうして日本は右傾化していきます。

さて、ここでやっと濱口雄幸のレリーフについてです。
こうした歴史を思いつつ、このレリーフを見れば、歴史のモニュメントとして立ち上がってきます。
畑正吉は、濱口雄幸をモチーフにその時代を表現した...とも言えるかも知れません。

2019年5月4日土曜日

畑正吉作 新聞人 守屋善兵衛 レリーフ

これからは、私が託された畑正吉作レリーフの紹介を増やしていきたいと思っています。
多分、あまり表に出ない作品であり、様々な研究等で興味持って頂ければ嬉しいですね。

このようなレリーフは、対象とする人物への賞賛や、その像を用いた顕彰等の目的があって畑正吉に依頼された作品だと思われます。
一部はメダルに使用されたのが分かっていますが、殆どの目的が不明です。
この「守屋善兵衛」のレリーフもどのような目的で制作されたものでしょう。
レリーフの裏側には、「守屋善兵衛」と「大正2(?)年作」の文字が書かれています。
大正2年だとすれば、畑正吉が東京美術学校教授に就任した年です。
ただ、その横の文字が気にかかります。何を書いてあるか分かりません。

さて、「守屋善兵衛」ですが、彼の名を冠したコレクションが目黒区の守屋図書館に寄贈されています。
その多くが彼が設立、または関わった新聞で、「台湾日日新報」や「満州日日新聞」です。
守屋善兵衛は、1898(明治31)年に台湾新報と台湾日報を合同して台湾日日新報を経営し、その後、満州日日新聞、満州の教育貯蓄銀行、東京動産火災保険などの重役を務めた人です。所謂新聞人ですが、外地の新聞に関わった人物なんですね。
この図書館には銅像も建っています。

この守屋善兵衛と畑正吉がどのように繋がるのか、興味がわきます。
例えば、畑の台湾関連の仕事にはこういうものもあります。
台湾勧業共進会メダル

また、台湾の彫刻家、黄土水が東京美術学校に入学したのが大正4年ですから、日本と台湾が身近になっていった時期に、畑正吉は東京美術学校教授であったということなのかもしれません。

2019年4月30日火曜日

畑正吉作 皇太子殿下御結婚記念 メダル

平成最後の日に紹介するのは、このメダルとしました。
畑正吉作「皇太子殿下御結婚記念」メダルです。

1959(昭和34)年、今上天皇陛下と皇后様(あと30分程で上皇、上皇后となられますが)の御結婚を記念して制作されたメダルです。
明治15年生まれの畑正吉は、当時77歳。どのような想いでこのメダルを制作したのでしょう。きっと次の時代を想いながら、このお二人の姿を描いたのではないでしょうか?

このメダルは、畑正吉らしい誠実な仕事の中に、陛下を若干あおり気味に、皇后様を真正面にすることで、陛下の次の天皇となるという重圧と、陛下を支える皇后様という姿をも描いているようです。この姿がそのまま現在のお二人の姿に重なるという事が、畑正吉の仕事の凄みを感じます。

天皇の肖像というのものは、御真影のあった戦前が一番多くあったでしょう。
明治天皇は写真を嫌い、キヨッソーネの描いた肖像画と、晩年の横顔くらいしかありません。大正天皇の肖像画は多く出回ったのですが、如何せん期間が短く、やはり皇太子時代から肖像が描かれた昭和天皇が一番多くあったと思います。
今上天皇は、それに比べれば少ない。
これは象徴としての天皇というあり方の違いだと言えるではないでしょうか。
メダル等の肖像となるのは、肖像となった者自身を称える場合です。
今上天皇は、それを望まれなかったのかもしれません。

茴香社第一回展覧会出品 太田南海作「唄」絵葉書

太田南海は、1888(明治21)年、松本市中町生まれ。
米原雲海に入門し、「善光寺仁王像」などの制作に雲海の工房の主力として腕をふるいます。独立後は、地元松本を拠点に文展・帝展などへの出品を続けました。

絵葉書は太田南海の木彫で「唄」です。
飛鳥時代風の衣装で肩を組んで詠う女性像ですが、当時の女性がこのように声を張り上げ歌っていたのかどうかはちょっと疑問。

また、「茴香社第一回展覧会出品」とあり、色々調べてみましたがこの「茴香社」がどういった団体だったのかまったくわかりません。
茴香とはウイキョウという漢方などで用いられる植物です。
太田南海の出身地である長野県もその産地であり、「茴香社」はそういった意味を持つ団体であったのかもしれません。
もしかしたら同郷作家による展覧会か、または長野県で行われた展覧会なのかも。

上の絵葉書は、『第五回信濃美術協会展覧会出品 丸山節作「消え行く幻」』です。
「信濃美術協会」は、信州出身者による親睦団体だったようです。
信州(長野県)出身者の彫刻家は多く、荻原守衛、清水多嘉示、中村直人、そして川村吾蔵もそうですね。
また、信州の人々に農民美術を教えた石井鶴三や木村五郎などの彫刻家もいます。
長野の地は、多くの彫刻家を輩出し、また東京とは別の彫刻世界を作り出した地であったと思います。

2019年4月28日日曜日

日名子実三?戯画

これが平成最後の記事になるのでしょうか?
これまでも数々紹介してきました「日名子実三」の描いたと思われる自画像です。
もしも本当に日名子の直筆であれば貴重なモノなのですが、よくわかりません!
右下に「実三戯画」とあります。
筆跡は日名子のものと似ていますが、「豊後彫工」の印は何でしょう?
色々調べてみましたが不明です。
ちなみに下が日名子の写真です。
私が岐阜県博物館でメダルの展示をしたときに使った日名子実三の似顔絵はこちら
日名子の戯画と比べてどうでしょうか?
戯画の方がハゲすぎてるな~

2019年4月20日土曜日

故萩原守衛作 「女」絵葉書 

1910年に行われた第四回文展出品作、萩原守衛作 「女」の絵葉書です。
この作品の発表時には、萩原守衛は亡くなっており、絶作となりました。
石膏原型が重要文化財とされ、近代日本彫刻史では必ず紹介される作品ですね。


萩原守衛の絵葉書は、実は今まで一枚も持っていませんでした。
どうしても欲しかったので、この「女」の絵葉書の入手はかなり嬉しい。
というのも、私が絵葉書を集めだしたのは、萩原守衛の作品を展示する碌山美術館で、当時の手足が残る「労働者」の絵葉書を見て、こういうものが世にあるのかと思ったのがきっかけだからです。
いつか、萩原守衛の絵葉書をと思ってまして、この「女」絵葉書が、第一号となりました。

下の映像は1958年、碌山美術館施工式から開館までのあゆみです。
これは貴重な映像ですね。


2019年3月18日月曜日

The Medal Maker

凄く貴重な映像を見つけました!
1920~1930年代頃のアメリカでのメダル制作を映した映像のようです。
とはいえ、巨大な縮彫機、まだ電気鋳造でない製造方法と、かなり古い技術をわざわざ選んで撮ったように思います。
これは勉強になる!

2019年3月17日日曜日

昭和13年 大独逸展覧会 Große Deutschland Ausstellung 絵葉書

昭和13年に日本各地で巡回して行われた「大独逸展覧会」の絵葉書です。
昭和13年は日独伊三国同盟の2年前、ベルリンで行われた「伯林日本古美術展覧会」の前年にあたります。
 https://prewar-sculptors.blogspot.com/2016/12/blog-post_7.html

ナチス・ドイツがミュンヘン会談でチェコスロバキアのズデーテン地方を得た年にあたり、ヒトラーの絶頂期と言えるでしょう。
ドイツの「優れた」文化と発展の経緯を広く知らしめる為に行われたこの展覧会では、地図、写真の他に絵画や彫刻も展示されたようです。

下の絵葉書は、油彩「世界大戦の於ける英国の大攻撃に対する防衛」です。

この時代に「世界大戦」と言うのは、第一次世界大戦を指します。
第一次大戦では、日本もドイツに宣戦布告し、青島等を占領します。
戦勝国に、自国の敗戦も含めた文化のを示そうというのですから、ナチスの自信は相当のものだったと想像できます。(もちろん、ナチスにとって帝政ドイツは、否定するものだったとも言えますが)

このドイツの戦争画を見るに、藤田嗣治や宮本三郎ほど巧くは無いように見えますが、緊迫感の質が違うように感じます。
根本的には日本兵の敗北を描けなかった日本の戦争画との違いでしょうか?

また彫刻関連では、時代で分けられた軍服を着たマネキンが展示されました。
第一次世界大戦時のマネキンが、どこか卑屈で、可愛そうですね...
これらのマネキンは母国から運んだドイツ製でしょうか?
それとも日本製なのでしょうか?
当時の西欧はマネキン文化の花盛り。このマネキンもかなり良くできていると思いますがいかがでしょう。
http://jamda.gr.jp/museum/01/02.htm

最後に一人の建築家を紹介します。
当時の北海道に住み、全国各地に近代建築物を建てたスイス出身の建築家マックス・ヒンデル(Max Hinder)は、この展示の全体構成をしました。
カトリック神田教会カトリック松が峰教会など、現代も残り登録無形文化財にもなっている建築物が、彼の作品です。
そんなマックス・ヒンデルが、ヨーゼフ・ゲッベルス首相下の宣伝省と共に企画運営したのがこの「独逸展覧会」でした。
そして、彼は1940年というドイツがフランスに無血入城した年に、ドイツへ、あのヒトラーの山荘、ケールシュタインハウスのあるバイエルン州の学校へ赴任し、その地で亡くなります。
彼はただの一介の建築家だったのでしょうか?