鵜飼武彦著「岡本太郎と未来を拓く」を読む。
この鵜飼武彦さんという方は、1988年に行われた岐阜中部未来博において、シンボルタワーとして建設された岡本太郎の「未来を拓く(ひらく)塔」をプロデュースした方だそうです。
本によれば、当時、鵜飼さんは高島屋岐阜店勤務をされていた。
オリンピックの名古屋誘致失敗から、中部での博覧会が計画され、岐阜で行われることになった未来博に、彼は大阪万博の「太陽の塔」のようなシンボルをと考えたのだそうだ。
そして単身岡本太郎に会いに行った。
岡本太郎は、計画していたフィラデルフィアの独立記念二百年記念モニュメントがオジャンになって、その作品を「未来を拓く塔」に使用する。
なぜアメリカの独立記念に岡本太郎かはわかりませんが。
鵜飼さんは、それからスポンサーを探し、財団法人宝くじ協会が1億円を寄付、それでも足りなくて、高島屋から「未来を拓く塔」のミニチュア置時計を270個、金、銀、銅の記念メダルを制作、販売した。
それが岐阜県博物館でも展示したメダルですね。
金のメダルの価格が25万円、銀は2万5千円、銅は3千円。
残念ながら、私の所蔵してるメダルは銅ですが、25万円のメダルを持ってる人もいるんでしょうね。
父親である岡本一平が最後に住んだ地である岐阜。岡本太郎は、このモニュメント建設のために何度か足を運びます。
食事は長良川湖畔の肉料理屋「
潜龍」。
その後は柳ヶ瀬街を飲み歩いた。
当時はまだ柳ヶ瀬も眩しい街だったんだなぁ~~
そして、岐阜高島屋にて、「岡本太郎展」が開催。多治見の陶芸家二代加藤春鼎のアトリエで制作された陶芸及び版画や書が展示販売されたのだそうだ。
「未来を拓く塔」完成式典には岡本太郎も参加したが、その時はすでにパーキンソン病の症状があったと著者は書いています。
面白いのは、この著者鵜飼武彦さんが、岡本太郎が岡本敏子さんを養女にしたことに違和感を感じていると書いていることです。
同時代に生きてきた人しか書けない事だと思います。
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話は変わりますが、オリンピックの名古屋誘致失敗の件、手元にその反対運動をされた運動家の一人、杉浦登志彦著「たった十人ではじまった反乱」があります。
名古屋オリンピックだけでなく、名古屋市立美術館の反対運動もしているんですね。
この反対運動のメンバーには、
岩田信一さんの名前もあります。
いつか、その内容をまとめてお伝えいたします。