2013年3月31日日曜日

藤井浩佑 作「名古屋鉄道局殉職者慰霊碑」絵葉書


藤井浩佑による「名古屋鉄道局殉職者慰霊碑」の像です。

藤井浩佑は、1907(明治40)年の第一回文展より出品している彫刻界の重鎮で、置物のような彫刻から写実までをこなすフィールドの広い作家です。

 藤井浩佑作「島田三人ノ内」 太平洋画会第十一回展覧会


「名古屋鉄道局殉職者慰霊碑」とは、東海地区の鉄道工事等で亡くなられた人の為に建てられた慰霊碑であろうと思われます。

名古屋鉄道局とは、現JR東海の基礎となった部署で、当時「東海道御殿場-米原間、中央線塩尻以西、北陸線および関西線亀山以東」を管轄していたようです。
1920(大正9)年に「名古屋鉄道管理局」から「名古屋鉄道局」に名称が変わったので、それ以降に建てられた銅像でしょう。

しかし、この像については詳しいことがわからない状態です。
もし、ご存知の方ありましたら、お教え下さい!
鉄オタのみなさん!

木村五郎作 「水汲みの島娘 伊豆大島風俗その三」 絵葉書


木村五郎は、1899(明治32)年、東京生まれの彫刻家。
日本美術院の石井鶴三らに指導を受けながら、独自の彫刻観を生み出します。
それが、この絵葉書に見られる土産物人形のような彫刻。

木村五郎は、まさにこのような木彫を、農閑期の農民たちの仕事として全国の農村に広める活動を行います。
こういった活動を「農民美術運動」と言い、画家山本鼎によって始められたこの運動に木村五郎は興味を持ち、昭和2年頃から、石井鶴三の協力によって関わります。
特に大島の農民美術発展には、大いに関わることとなります。

こうした農民美術の工芸品を、当時の芸術観では、純粋美術とは見なされなません。
しかし、木村五郎は、そんな作品を「美術」として提示します。 

それは、評論家や構造社の齋藤素巌や日名子実三らによって批判されます。
例えば、評論家の外山卵三郎氏にして、「...その制作態度に同感することはできない。それは即興的な写生であり、絵画的であって、漫彫(漫画に対して)と言う感じが不満である。私達はこの作品を見て、彫刻的な何物も感じることが出来ずお土産物を作るような態度に不快を禁じ得ない。」とされます。
しかし、それでも彼は自身の芸術観を揺るがすことはありませんでした。

彼は言います。
「私の彫刻は、私自身の修行とします。然しそこに、何にか運動意識が含まれているとすれば、それは彫刻の原始的精神への立て直しにあると思います。」

彼の言う「原始的精神」とは何か。
それは、民俗学的な意味での日本人を含む人間の「原始」、古代あったと思われる精神を指すのでしょう。
また、ピカソがアフリカ美術に惹かれたように、ゴーギャンがタヒチに渡ったように、木村五郎にとって、大島や日本の地方各地があり、そこに住む農民や現地人が持つ(と考えられた)純粋な精神を指すのでしょう。
そして、日本美術院の新海竹太郎が行なった「浮世彫刻」という、今生きている人々の風俗を題材にしながらも、それを彫刻として成り立たせるという思想から、アンディーウォーホルがキャンベルスープを題材にしたように、今生きる農民たちの姿を彫刻の題材としたのでしょう。

それは、現代でいう、アール・ブリュットであり、ポップアートだったと言えます。
ただ問題は、そう言った思想が啓蒙されていない中で、農民美術や浮世彫刻と同時進行で行われたことにあり、その結果、当時の人々にうまく伝わらない作品になってします。

同期の彫刻家、橋本平八は木村五郎の個展にたいし、鑑賞者は鑑賞者の持つ技量を超えることはない、そのために木村五郎作品の「微妙なる自己の趣味にかなえる美学を試みる作品なるが故に」理解されないだろうといったことを言っています。

そんな木村五郎は、1935年、37歳の若さで(謎の)急逝。同年、同期の彫刻家であった橋本平八と牧雅雄も亡くなっています。
木村五郎は、現代の視点から、もう一度見直すべき作家ではないかと思います。

2013年3月24日日曜日

日名子実三 原型「帝国軍人後援会」レリーフ

 

日名子お得意の神武天皇像のレリーフです。
背景にあるのは靖国神社でしょう。
「神国相勝」とありますが、この「相勝」とは、五行相勝を意味しているのでしょうか。
五行相勝は、陰陽道などで言われる陰陽五行説、それは、世界を成り立たせる根源要素である「土木金火水」を言います。
神国日本は、世界を成り立たせる根源要素だと言うのでしょう。

前にも書いたのですが、日名子が当時人気だった理由の一つは、神像のキャラクター化によるわかり易さ、受け入れられ易さにあったと考えています。
このレリーフには、まず「神国相勝」というキャッチフレーズ。
そして、泰平や平安を意味するような腕を上げた神武天皇像。その姿は、キャラクターらしく、古代の兜や鎧、雲に乗った姿と要素の集合体でできています。
そして、漫画に使われる効果線のような図形の中心に鳥居。
これらのそれぞれの要素を組み上げる漫画性、デザイン性に日名子の真骨頂があり、それを当時の日本が求めたと言うことでしょう。

こういった神像は、まるで、ビックリマンチョコのイラストのようです。
大塚英志さんが言うような、物語消費の欲望が、このレリーフや日名子のデザインにあったと考えます。
その欲望される歴史が、「神国日本」だったのでしょう。

2013年3月17日日曜日

彫刻家たちの夢殿 横浜市八聖殿

横浜市にある八聖殿は、政治家で逓信・内務大臣を歴任した安達謙蔵によって、1933(昭和8)年に建てられた建造物です。
その内部には、八聖人として、キリスト、ソクラテス、孔子、釈迦、聖徳太子、弘法大師、親鸞、日蓮の像が建っています。
展示風景はこんな感じです。
 これら聖人像の作者には、当時の彫刻界の代表する彫刻家たちを揃えており、八聖殿に行くだけで、そんな作品を一同に見ることができるわけです。


まず、銅製のキリスト像は、清水多嘉示作。
1928年にヨーロッパから帰ったばかりの清水多嘉示は、院展に所属。
 
青銅製のソクラテス像は同じくヨーロッパ帰りの藤川勇造作。
藤川勇造は二科会所属。

 二人の作風を比べると、同じ欧州で遊学した二人ですが、ロダンに学んだ藤川勇造とブールデルを師事した清水多嘉示との時代差を感じますね。
より古典的で抽象度の高いのが清水多嘉示。
ギリシャ風なのが 藤川勇造。

  

木製の釈迦像は、田島亀彦作。
田島亀彦は仏師の出で、朝倉塾に所属。
朝倉塾関係者で木彫とは珍しい作家です。
この釈迦像は、ガンダーラ仏教美術を模して作られており、古典的技法の仏像でありながら、その概念として近代的な仏像だと思います。
  
そして、聖徳太子像の作者は、その朝倉文夫。白銅製。
ものすごく肉感的な聖徳太子像ですね。
朝倉文夫のことなので、きっと、似ていると考えた人をモデルにしたのでしょう。 


そして、木製の弘法大師像もまた、朝倉塾に所属した長谷川桝蔵の作。
空海の持つ独鈷杵は、伝統に沿って、ありえない方向に曲げられて持っているものなのですが、この像は実際持てるようになっていますね。
朝倉の写実主義が生かされているのでしょうか。
それにしても若々しい空海。

それに比べ、年老いた親鸞像は、朝倉塾所属の長谷秀雄の作。銅製。
親鸞の東国布教時の姿に見えますが、その頃は60代でこれほど老けていない。
きっと、親鸞のイメージなのでしょうね。
こちらも写実的な親鸞像で、ここまでいくと、浄土宗信徒のそれぞれが持つイメージの親鸞像と大きく差があったのではないかと心配してしまいます。
  

最後は、 構造社所属、日名子実三の銅による日蓮像。
日蓮の強烈な意思を感じさせる像ではありますが、こちらも本家日蓮宗からしたらどうだったのでしょうね。 

紹介していない孔子像は、北村西望の作
これだけ絵葉書がないのでですが、いつか手に入れるつもりです。

さて、各作家の所属する日本美術院、二科会、朝倉塾、構造社と、それぞれの代表を巧みに配したところに安達謙蔵の政治観を思います。
それでも朝倉塾関係者が4名というのは、それだけ政治力があったということでしょう。
誰が、どの聖人を制作するかでもめやしなかったかと、この作家陣を見るとヒヤヒヤします。

全体の作風として、古典と近代とを混ぜたような印象で、それが当時あった思想を表現しているものなのだろうと思います。

これら像を依頼した安達謙蔵は、宗教家田中智學の影響を受けており、田中智學は「八紘一宇」の文字を生み出した人物。
「八紘一宇」とは、田中智學の言うところ 、
「人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である。」
と、これを意味する。
まさにこの八聖殿が表しているような、世界を一つにする意思を指しているわけです。

しかし、田中智學が言うように、「各自の特色特徴を発揮し」でなく、「統一」の意思が優先され、各聖人のそれぞれの信仰や信者がないがしろにされている感があります。
また、マホメットや、パウロ、多くの宗教者や思想家の姿がないことから、思想的な取捨選択がなされていることがわかります。
それは「統一」と矛盾します。それが当時アジアを一つにしようとした「八紘一宇」の思想の限界だったのでしょう。

2013年3月12日火曜日

Intermission 岡本一平と地元の文化

現在、みのかも文化の森で「岡本一平展 -世態人情を描く-」展が行われています。
この展覧会の企画の一つ、この地域の岡本一平ゆかりの地をまわるバスツアーに参加してきました。

岡本一平は、昭和20年に岐阜県加茂郡西白川村(現加茂郡白川町)に疎開します。
そして、地元の人たちとの関わりの中で文化活動を行ないます。


そんな活動の一つが、「漫俳」です。
 「漫俳」とは、俳句や川柳や狂歌をベースに、新しい詩をと一平によって考え出されたものなのですが、定義は難しそうです。
上の石碑は三川地区で行われていた一平の句会、漫風句会の記念碑です。

昭和23年、こちらに来て、たった3年あまりで岡本一平は亡くなります。
しかし、彼の「漫俳」文化は、現在もその句会の参加していた方々の尽力により、行われているそうです。

岡本一平が火葬された火葬場跡地付近

 岡本太郎もかの子について書いた瀬戸内寂聴も、僕の地元を寂しい田舎のように言っていますが(まぁ、そんなですが)、古くより中山道の宿のあったこの地は、決して文化不毛の地ではありませんでした。
そんな地元文化や文化人の紹介を下記にいくつか... 

まずは、岐阜出身の彫刻家、加納鉄哉について。
加納鉄哉は、1825年生れ。現在美濃加茂市にある正眼寺で修行をしています。
その後、細工物を学んで、国内勧業博覧会への出品。
フェノロサや岡倉天心らと知り合い、行動を共にするようになります。
天心の勧めで東京美術学校の教授となるが、すぐに辞職。
加納鉄哉は、彫刻家というよりも誇り高き職人であったと言えるでしょう。

加納鉄哉書簡

次は、最近注目度が高い、吉田初三郎について。
初三郎は絵地図師とでも言うのでしょうか、一風変わった鳥瞰図を描きます。
関東大震災があった1923年から1936(昭和11)年ごろまでを犬山で仕事をしています。
僕も彼の作品が欲しいです!

そして、岐阜市鶯谷の浄土寺には、ロダンのモデルを行なった花子の墓があります。
花子が欧州から岐阜に戻っていた昭和2年には、高村光太郎が会いに行っています。

地元であるのに知られていない所謂「岐阜事件」。「板垣死すとも自由は死せず」」のアレですが、 その場所には現在板垣退助の銅像が建っています。
けど、この銅像は初めに建てられたものと形が違うんですね。
金属回収令のために提出され、再建されたもののようです。
下の写真がかつての板垣退助像



最後に、可児市土田に疎開していた彫刻家、土方久功について。
土方久功は、パラオ諸島やヤップ島を調査、研究を行い、そして南方を思わせる彫刻作品を制作します。
高村光太郎らに見出された土方彫刻は、官展などとは異なる独特の立ち位置にあったといえます。
彼は、1944(昭和19)年に、岐阜県可児郡土田村(現在の同県可児市土田)に疎開します。
その頃のことを文章で残しているのですが、余り良いイメージを持てなかったようです。
隣町には岡本一平がいたのですが、交流があったのかは不明。
岐阜にいた頃の土方久功の情報が見つかりましたら、また報告します。

土方久功著 パラオの神話伝説 1942年発行
土方久功の1958年 年賀状

2013年3月10日日曜日

彫刻の「教育」に就て その2

前回は、彫刻家になるための教育史についてざっと書きましたが、今回は児童教育における彫刻ついてです。

近代児童教育における彫刻を用いた教育は、「手工科」として、明治19年に高等小学校へ、ついで尋常小学校にも随意科目として設置されたことから始まります。
大正15年の小学校令改正によって、手工科が必修となり、教育にしめる彫刻の役割が大きくなります。ここで求められた教育効果は、技術としての手工だけでなく、情操教育としての面も強調されています。
そういった情操教育としての美術教育のあり方を提唱したのが、山本鼎の自由画運動で、彫刻を用いた教育もそんな大正デモクラシーの流れの中で生まれ育ったようです。

では、山本がどういった教育効果を志向していたかについて、手元に大正15年発行の「アルス婦人講座」があるので、そこに書かれた山本鼎の自由画教育講座「家庭と美術教育」という文章を抜粋してみます。
 山本は言います「子供達が好んで絵を描く、それは実に優しい良い遊びだ。」「極く自然に彼らの『見る生活』が開展する。」「子供の眼は技術的行楽のうちに自然に成長し、やがて美を識り出す。」
山本にとって「美」意識の教育の目的とは、「その結果として国民全体、いや人類全体が、美に対する徳性を有つに至る事」 だと言います。
この「美」意識信仰は、あのマルクス信仰のように、皆が念じれば幸せになれるというような、イデオロギーとして熟されたものだとは言えないところもありましたが、当時の教育にたいするカウンターとして大きな意義があったろうと思います。

そのような自由画運動ですが、彫刻における提唱者の一人が横井曹一です。彼は、大正13年に、「児童芸術 粘土彫塑と木彫」という本を出版しています。

そういった流れの中で、彫刻家たちもその技術と思想を児童教育に注ぎ込みはじまめす。
大正12年には、すでに東京美術学校の教授であった建畠大夢や北村西望ら児童彫塑展覧会を開いています。
それを記事にした読売新聞の婦人欄では「子供が眼に観て感じたままの表現」として、西望の談を掲載「例えば鶏を作った場合にそれがたとえ形が整っていなくとも、鳴くところを感じて作った口を開いたものであれば、それで立派に認めてやるというようにする。ようするに技工などを問題にしてはならぬ」と、山本鼎ほど徹底されてはいませんが、児童の表現意識優位の教育法を推奨しています。

また、同年、藤井浩祐によって三越で、同じく児童彫塑の展覧会が行われています。
面白いのは、ここで展示した作品を売って生徒に還元しているってことです。

昭和16年発行 児童用美術の教科書「エノホン」より

現役の彫刻家たちは、彫刻(彫塑)という新しい分野を育てるために、そして彼らの思想を伝えるために児童教育に積極的に関わろうとしたようです。
先に書きました「民族の身体に就て。」にある近代人としての自我を描くことを児童教育に求めます。
もしかしたら、児童教育の方が、彫刻家たちのそれより成功していたのかもしれませんね。

このような彫刻を用いた児童教育は、戦後も必要とされ、行われますが、そこはまた機会あれば語ることにします。

2013年3月9日土曜日

彫刻の「教育」に就て

昨今、日教組や体罰の問題、柔道界や相撲界においても、戦後教育について色々な議論がなされています。
元来教育とは、それそのものが権力構造をもったものであり、何を教え、何を教えないかなどイデオロギーを内包するものです。
戦前中の国家主導による教育が、民間主導になったからといってそれが変わるわけではなく、右から左へと権力とイデオロギーが移り、ただ時代が求める「教育」だけが変わって、需要に供給が追いついていないというのが現状であろうと思います。
 その狭間の子供たちには負担がありますが、近代国家による間接民主制の限界のように、受け入れるしかない近代教育システムの限界なのだろうと思います。

そういった教育システムについて、近代彫刻界ではどうであったかと言うのが今日の話です。

まず明治初頭は、例えば高村光雲などは、江戸時代から続く丁稚制度により技術を学んでいます。
そこに登場するのが岡倉天心による東京美術学校で、光雲もそこで教鞭を取ります。
しかし、天心は光雲に直接「教育」をすることを求めず、ただ学生に仕事を見せて欲しいと求めます。つまり丁稚の伝統がまだ息づいているのですね。

美術学校模範石膏塑像(帝国美術出版協会藏版)

東京美術学校にしても、新技術である「彫塑」について教育の技量があるわけでもなく、学生との手探りの状況でした。
その後、教育技術も上がり、東京美術学校から朝倉文夫や北村西望、建畠大夢の「文展の三羽烏」と呼ばれる彫刻家たちを含め、戦前後に活躍する彫刻家たちが育っていくようになります。

 「文展の三羽烏」による国会議事堂内にある銅像
朝倉文夫作「大隈重信」像、北村西望作「板垣退助」像、建畠大夢作「伊藤博文」像

その朝倉文夫の考える教育システム実施の場が、昭和に入り始めた「朝倉塾」でした。
そのイデオロギーは、一言で言えば心身の鍛錬が彫刻の技量の向上に繋がるといった精神論です。
まずは掃除と植物を育てさせることから始まり、彫刻家に必要なのは足の指の鍛錬だと、冬場でも裸足でした。デッサンをさせず、粘土による模刻を徹底させます。
朝倉が言うには「教えれば教えただけしかよくならないものですよ。それだから教えるのではない、一つの暗示を与えるのです。そして其の人がそこで自分で発見するように仕向ければいかんですな。」と丁稚教育法と近代的な自由意思を尊重する教育法とが混ざっているような独特の教育を行います。
こうしてできた朝倉塾により展覧会(塾展)が行われ、その技量がお披露目されます。さらに、それに留まらず官展にもその影響を与えるようにもなります。
まさに、教育のもつ「権力」指向が発揮されるわけです。

ここで問題なのは、朝倉文夫が天然の天才だったってことです。彼にはできることが塾生にはでない。長嶋茂雄監督時代の巨人みたいなもので「ガーッときたらバーッといってダーって打つ」では教育にならないわけです。
そのために彼のあとを継ぐ者が生まれなかった。
たしかに、朝倉塾を引っ張ってきた安藤照や、塾頭だった日名子実三などの才能を生み出しはしましたが、彼らは二人とも朝倉から離反しています。
朝倉文夫の強い個性には、近代の「教育」は合わなかったようです。

  長谷秀雄作 「錬成十題 其四」 第十三回朝倉彫塑塾展覧会(昭和16年)

その頃、東京美術学校はどうだったかと言えば、教授は同じく朝倉文夫であり、その息のかかった建畠大夢、北村西望でした。朝倉はここでも独特の教育法を行なってはいたが、この三教授のトライアングルのおかげで、全体的な教育はうまくこなされていたようです。学校は最先端技術と思想の場としてあり、学生は自由を重んじ、学生運動の盛んな70年代の東大のそれに近いイメージでありました。
昭和初期の東京美術学校には、「プロレタリア美術運動」の波が押し寄せ、第1回プロレタリア美術大展覧会へは、多くの学生が出品します。

しかし、戦争という時代の流れからか、そういった活動を制限させられ、教授陣も 朝倉文夫や建畠大夢、北村西望から、日本美術院の平櫛田中や石井鶴三に変わることとなります。
学徒出陣などもありながら終戦を迎え、東京芸大へと移行するわけですが、彼ら平櫛田中や石井鶴三は同学校でも教鞭をとっています。

彼らの教育思想が戦後世代にどう影響を与えたについては、また調べていきたいと考えています。

日本の近代彫刻教育は、「像ヲ造ル」以後、国策として順調に進められていったのではないでしょうか。
もちろん各々の作品や作家を見れば足りないところもあるかもしれませんが、彫刻という概念そのものが無かった時代から、ある程度の社会的な地位を得ることができたと言えます。
ただし、今も昔も小さな市場でしかなく、また、現代の日展の彫塑が伝統美術になってしまっている現状を生み出したのも、この時代の教育法が持つ問題なのでしょう。
そのあたりの掘り下げも行なっていきたいですね。

2013年3月6日水曜日

濱田三郎に就て

濱田三郎 原型「有馬研究所満十年記念」メダル 1936(昭和11)年
裏側には齋藤素巌原型の研究所の図

濱田三郎 原型「第七回全国中等学校籠球選手権大会」メダル 1930(昭和5)年

不明

濱田三郎は1892(明治25)年12月生まれ。東京美術学校を卒業。大正15年帝展に初入選し、その後、齋藤素巌らの構造社に参加、会員となる。
また、日名子と共に国風彫塑会に参加、聖戦美術展などいくつかの戦争美術展に出品する。
戦後しばらくは在野で活動するが、齋藤素巌に誘われ日展に出品、1939年には「楽人」が菊華賞を受賞する。

彼の第一回構造社展における評価は、高村豊周にして、「濱田三郎氏は新人で、あまり名を知られていないようではあるが、今度の出品が示す通り驚くべき才能の人である。」「自然の中に伏在する幾何学的必然を洞察する氏の叡智からの組み立てである。これは、日本ではユニイクの美で、突如として出現した新惑星の輝きを示すものである。」と評された。

マイヨールやユーゴスラヴビアの彫刻家のメストロウィッチの影響を受けた濱田三郎は、抽象彫刻への過渡期の作家と言えるでしょう。
それゆえ、日本彫刻史上に名が出ることは少ないですが、こういった作家無くして戦後の彫刻史も無いことは確かだろうと思います。

彼の原型製作したメダルもユニイクで、僕のコレクションの目玉の一つです。

1973(昭和48)年11月死去。


このレリーフは、濱田のサインであるS.Hと刻まれてますが、
濱田の作であるかどうかは不明です、どうでしょうか??

2013年3月3日日曜日

戦後の銅像に就て

今回は、戦後の彫刻の紹介です。各作家については今後掘り下げていきたいと思っています。

 
 
本郷新作 「嵐の中の母子像」 1960(昭和35)年

1959(昭和34)年、第5回原水爆禁止世界大会に、この像の原型が贈られました。 その後、銅像として平和記念公園への設置されます。
「襲いかかる業苦に耐え、悲しみを乗り越えていく母親の強い愛情を示す像に市民の平和への願いを託しています。 」のだそうです。

本郷新作 「牧歌の像」 1959(昭和34)年

ちなみにこれは、本郷新の戦中の作 
第一回軍事援護美術展覧会出品 「援護の手」 1944(昭和19年)

本郷新の戦後の作品は、手法として整理されていますが、戦前とそれほどの違いはありませんね。
本郷新は「戦争」に用いられた彫刻のあり方には、それほど疑問抱いてるようには思えず、それよりも作家としての思想面に思うところがあったようです。

北村西望作 「平和祈念像」 1955(昭和30年)

慈悲を象徴し、垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は救った命 を表し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている。」 のだそうだ

  
ちなみにこれは、北村西望作の戦前の作 
戦時特別美術展出品「神威発動」 1937(昭和12)年

北村西望は、その技法を戦前に完成させており、戦後となっても変わることはありません。
戦時下の彫刻もいくつか制作していますが、あまり戦時を感じさせず、そのためなのか、美術家の戦争協力について触れることなく、戦後「平和祈念像」など作ってしまえる立場となります。

 高村光太郎作 「乙女の像」 1953(昭和28)年

 戦争協力詩をいくつも生み出し、戦争協力を惜しまなかった高村光太郎の最後の銅像ですが、こと「戦争」という点では、この銅像から受ける印象はありません。

舟越保武作 「日本二十六聖人記念碑」

 矢野秀徳作 「平和の群像」 1956(昭和31)年