アメリカのリー将軍像や各国の慰安婦像、国内の裸婦像や、バブル期に乱立したランドマーク等々の問題、平瀬礼太著「銅像受難の近代」という本がありますが、現代もまた銅像にとって受難の時代ですね。
明治150年を記念しても、当時芽吹いた問題は現在になっても解決していません。
銅像があるイズムを持つものである限り、それに反感を持つものは必ずあるわけで、所謂ポリコレの立場からすれば、公共に特定のイズムを表する銅像など存在できない物です。
しかし、それでも人は何かを主張したい、表現したいといった呪怨から逃れられないものであります。
そういった思いを維持しつつ、他者との共存、つまり銅像が幸せにあるにはいったいどうしたら良いのでしょう?
先に「特定のイズムを表する銅像」と書きましたが、例えば日本の最初期の銅像である楠正成像なんて、正にそうですね。皇居外延に建てられたこの像は、天皇への忠義の象徴です。
だからこそ、戦前は修学旅行先に楠正成像観覧が選ばれたのでしょう。
では、もう一つの最初期の銅像、上野の西郷像はどうでしょうか?
現在、NHKで「西郷どん」が始まりましたが、彼は言わば反政府軍の親玉ですよね。そんな像が上野にど~んと建っているわけです。
西郷の死後、1889(明治22)年の大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷に正三位を追贈たことより、薩摩藩出身者が中心となって銅像建設計画が始まり、1898(明治31)年に建てられます。
建立の目的は、西郷の名誉回復、彼の思想の普及、上野戦争の弔い等々、なによりも薩摩の権威向上がそれだったでしょう。
しかし、この銅像建立には、彼が反政府の立場であったことから、権威を示す表象が削られ、場所や服装など大幅な手直しがなされた結果、現在の形となります。
つまり、この銅像は特定のイズムだけでなく、初めからその反対のイズムを取り込む形で出来上がっているのですね。
その結果、西郷像の建立の目的の表出が薄れます。
目的が薄れたことで、西郷隆盛像を目がけて紙玉を投げつけるという土着信仰的な奇妙な風習が流行(鼻に当たると出世すると言われた。)、関東大震災の時には、尋ね人の貼り紙を貼る掲示板代わりにされます。
楠正成像では考えれないようなあり方、より庶民に近い西郷像となったのですね。
そういった曖昧な姿だからこそ、「上野戦争の弔い」を勝者側のみのイズムのみで語らない、今で言うダークツーリズムとしての象徴ともなります。
そんな愛される西郷像こそが、銅像の幸せの姿だと私は思うわけです。
これは、政治的な判断が熟慮された結果のイズムの複雑化、西郷隆盛のキャラクターのお陰と、いろんなファクターが重なった結果であり、他の銅像も同じようにできるかと言えば、難しいのかもしれません。
誰もが見ても愛される象徴を意図するなど不可能なのかもしれません。
もし、それを可能にする姿があるとすれば、それはそういった銅像にめがけて
誰もが紙玉が投げることができるかどうか...それで見分けができるのでしょう。
京都大学内に設置された「
折田先生像」なんかも紙玉を投げることができる銅像ですね。(撤去させられましたが...)
つまり、その像の姿やデザインの問題ではなく、私たちが紙玉を投げることが出来る態度になっていること、それが銅像建立の為の条件であると思うのです。
慰安婦像に誰もが紙玉を投げることが出来ないのなら、それは銅像の幸せとは言えないのだと思います。
とは言え、銅像ではありませんが、
沖縄県読谷村の洞窟「チビチリガマ」が荒らされた事件は許されるのかと問われれ、やりすぎだと答えれば、そのラインを示すのは難しいのですが。
しかし、そういう態度が絶対に許されないようでは、銅像たちは幸福な王子となって楽園に召されることはないと思うのです。