2018年2月28日水曜日

日名子実三原型 満州帝国皇帝訪日記念章

1935(昭和10)年は、満州の年号で康徳2年。
その4月6日、愛新覚羅溥儀は、天皇の招待により日本の地に降り立ちます。
その訪日は、日本をあげての祝日だったと言います。
この「満州帝国皇帝訪日記念章」は、その訪日を記念し、関係者に渡されたものだそうです。

原型は日名子実三。
戦を示す鏃の形に美しい花の姿と、相反する組み合わせですね。
この花ですが、菊でしょうか?
もし菊であれば、鏃と合わせてどちらも当時の日本、特に皇室のイメージです。
しかし、満州皇帝の訪日の記念に日本のみのイメージで表すというのは、どうも不自然な気がします。
であれば、満州の花、迎春花(オウバイ)なのでしょうか?
葉は似てますが、花の形や枚数が違います。
正解はなんでしょう?

下の動画は、戦前の流行歌「満州娘」です。歌詞に迎春花が出てきます。

また、記念章の中央には、「一徳一心」とあります。
これは『目的や利益が同じ者同士が心を一つにして事にあたること。または、君主と臣下が協力して物事を行うこと。』を指す言葉だそうです。
「日満一徳一心」は当時の満州との関係を表す言葉として、よく用いられたもののようです。
どちらが君主で、どちらが臣下だったのでしょうね?

2018年2月23日金曜日

Intermission 鈴木大拙と式場隆三郎

以前から戦時の仏教思想に興味があって、いつかちゃんと勉強したいと思っているのだけど、どこからはじめたら良いか迷っています。
特に鈴木大拙については、ちゃんと学ばなくちゃと思いつつ....その周辺である山田奨治著「東京ブギウギと鈴木大拙」を読む。
この本は、どちらかと言えば、大拙の息子のアランを軸に語った本です。
ただ、大拙の姿を神格化せずに書いていて、ここから大拙の姿を学び始めれた事は、良かったと思います。

前から興味があって、このブログでも何度か取り上げた式場隆三郎は、アラン挟んで鈴木大拙との親戚になります。アランの三番目の妻が式場の娘なのですね。
そして、柳宗悦を挟んで、師弟でもあります。

こちらがその相関図

式場隆三郎自身が鈴木大拙について書いた文章もいくつかあるようです。

私は、鈴木大拙や式場隆三郎、柳宗悦にアランも含め、彼らが自身の戦争にどういった思いを抱いていたか、とても知りたいと思っています。
彼らがどう考え、どう影響しあったのか。
さらに、民芸や児童画、山下清まで、それらがどのような影響下にあったのか。
そして、現在の私たちにどのように影響を与えているのか?

この「東京ブギウギと鈴木大拙」では、欧米人とのハーフであり、実の子でもなかったアランが戦争にたいしどう感じていたのか、それまでは書かれていません。
しかし、この本のような周辺の研究が当時の歴史全体に光を当てるような気がします。

ちなみに私の浅はかな考えですが、不肖の息子アランを育てたのは、やっぱり僧侶でもない(体験を共にしない)鈴木大拙の禅思想だったような気がします。
そして、戦争との関係は、著者が言うように、禅よりも真宗との関係で見直したほうが良いのではと思いました。

2018年2月14日水曜日

建畠大夢による日独伊親善図画記念品

以前紹介しました、昭和13年に行われた森永製菓株式会社主催「日独伊親善図画」の記念品ですが、この原型を制作した彫刻家の名前がわかりました。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2017/02/blog-post.html
その作家は、建畠大夢。
彼が森永製菓に依頼され、制作したのがこの可愛らしい仏画のようです。

この記念品と一緒に渡された建畠大夢のメッセージがあります。
此度森永製菓株式会社が日独伊親善図画を企画するに當りその記念碑原型制作を依頼され私は喜んで之に応じたのであります。
まことに子供の世界は争も、憎しみもない平和な世界であって、私達の最も憧憬している親善の極致でありましょう。
万国共通の言語-図画を通じて表現される新しい力に満ちた子供の世界をモチーフとして、その姿をとりあげ、私は原型制作に當って見ました。
愉しい子供の世界をいささかでも再現でき、各位の御期待の万分の一にも副う事が出来れば望外の幸せです。 建畠大夢

今の私たちからすれば、日独伊の国家に争いも憎しみも無い平和な世界を見ることはできません。
当時はそれを夢見ることができたのですね。
そして、それを作品として託すことができた。
この無邪気で優しい作品は、裏返って残酷にも思え、...なんとも複雑な気持ちになります。

2018年2月12日月曜日

幸福な王子-銅像の幸せとは考察-

アメリカのリー将軍像や各国の慰安婦像、国内の裸婦像や、バブル期に乱立したランドマーク等々の問題、平瀬礼太著「銅像受難の近代」という本がありますが、現代もまた銅像にとって受難の時代ですね。
明治150年を記念しても、当時芽吹いた問題は現在になっても解決していません。

銅像があるイズムを持つものである限り、それに反感を持つものは必ずあるわけで、所謂ポリコレの立場からすれば、公共に特定のイズムを表する銅像など存在できない物です。
しかし、それでも人は何かを主張したい、表現したいといった呪怨から逃れられないものであります。

そういった思いを維持しつつ、他者との共存、つまり銅像が幸せにあるにはいったいどうしたら良いのでしょう?

先に「特定のイズムを表する銅像」と書きましたが、例えば日本の最初期の銅像である楠正成像なんて、正にそうですね。皇居外延に建てられたこの像は、天皇への忠義の象徴です。
だからこそ、戦前は修学旅行先に楠正成像観覧が選ばれたのでしょう。

では、もう一つの最初期の銅像、上野の西郷像はどうでしょうか?
現在、NHKで「西郷どん」が始まりましたが、彼は言わば反政府軍の親玉ですよね。そんな像が上野にど~んと建っているわけです。

西郷の死後、1889(明治22)年の大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷に正三位を追贈たことより、薩摩藩出身者が中心となって銅像建設計画が始まり、1898(明治31)年に建てられます。
建立の目的は、西郷の名誉回復、彼の思想の普及、上野戦争の弔い等々、なによりも薩摩の権威向上がそれだったでしょう。
しかし、この銅像建立には、彼が反政府の立場であったことから、権威を示す表象が削られ、場所や服装など大幅な手直しがなされた結果、現在の形となります。
つまり、この銅像は特定のイズムだけでなく、初めからその反対のイズムを取り込む形で出来上がっているのですね。

その結果、西郷像の建立の目的の表出が薄れます。
目的が薄れたことで、西郷隆盛像を目がけて紙玉を投げつけるという土着信仰的な奇妙な風習が流行(鼻に当たると出世すると言われた。)、関東大震災の時には、尋ね人の貼り紙を貼る掲示板代わりにされます。

楠正成像では考えれないようなあり方、より庶民に近い西郷像となったのですね。
そういった曖昧な姿だからこそ、「上野戦争の弔い」を勝者側のみのイズムのみで語らない、今で言うダークツーリズムとしての象徴ともなります。

そんな愛される西郷像こそが、銅像の幸せの姿だと私は思うわけです。
これは、政治的な判断が熟慮された結果のイズムの複雑化、西郷隆盛のキャラクターのお陰と、いろんなファクターが重なった結果であり、他の銅像も同じようにできるかと言えば、難しいのかもしれません。
誰もが見ても愛される象徴を意図するなど不可能なのかもしれません。
もし、それを可能にする姿があるとすれば、それはそういった銅像にめがけて誰もが紙玉が投げることができるかどうか...それで見分けができるのでしょう。

京都大学内に設置された「折田先生像」なんかも紙玉を投げることができる銅像ですね。(撤去させられましたが...)

つまり、その像の姿やデザインの問題ではなく、私たちが紙玉を投げることが出来る態度になっていること、それが銅像建立の為の条件であると思うのです。

慰安婦像に誰もが紙玉を投げることが出来ないのなら、それは銅像の幸せとは言えないのだと思います。
とは言え、銅像ではありませんが、沖縄県読谷村の洞窟「チビチリガマ」が荒らされた事件は許されるのかと問われれ、やりすぎだと答えれば、そのラインを示すのは難しいのですが。
しかし、そういう態度が絶対に許されないようでは、銅像たちは幸福な王子となって楽園に召されることはないと思うのです。

2018年2月7日水曜日

Intermission 大正12年 森口多里の年賀状


大正12年は癸亥の年。この年に出された美術評論家森口多里の年賀状です。
古代ギリシャの壷に描かれた図と、自身の原稿とを組み合わせた隙の無い年賀状ですね。
お洒落です。

森口多里は戦前を代表する美術評論家で、抽象に入りかけた辺りまでの美術を積極的に言葉で表現します。
その仕事の幅は広く、彼の啓蒙力によって戦前の美術は作られたといっても良いくらいです。

しかし、現在は殆ど語られることがありません。
評論というのが前世代を否定することで成り立つためか、戦中ぐらいには、森口多里の仕事は古臭く思われていたようです。
そして、戦後は忘れられます。

しかし、日本美術史を知ろうと思えば、作品以上に、時代々の美術評論家たちの声を聞く必要があると思うのです。
美術評論の推移を体系的に知ること...こういったことが本当に重要です。
私たちが何者なのかを知る為にも。

そんな美術評論家を主体にした展覧会ってできないかな?
「岡倉天心から針生一郎まで 美術評論家は何を残したのか」なんて...

2018年2月4日日曜日

大連・星ヶ浦 後藤伯銅像の絵葉書

大連の星ヶ浦公園(現星海公園)にあった後藤新平伯の銅像です。


絵葉書には以下の内容が書かれています。
『星ヶ浦公園の丘上に第一次満鉄総裁たりし後藤新平伯の銅像が其功績を永遠に伝へて屹立している。
この星ヶ浦の公園は満鉄が此地を買収して星ヶ裏ヤマトホテルの前進たる海岸ホテルを建て園内道路其他の設備を行ひ又一般避暑地として別荘や付属建設をなし初めて公園らしい体裁を整へた。』

この銅像の建立は1930(昭和5)年。
1929年に後藤新平が亡くなり、彼の意思に基づき東京美術学校正木校長に依頼され朝倉文夫が制作を行いました。

この朝倉文夫の「後藤新平」像ですが、実は現在も同型の像を見ることが出来ます。
場所は、岩手県奥州市水沢区中上野町にあります水沢公園、岩手生まれの後藤新平を記念し、1978(昭和53)年に建立したものです。

こうして作品が残って見ることができるというのは嬉しいですね。
ただ、絵葉書にある大連にあった銅像はどうなったのでしょう?
なにより大連と言う日本の租借地で、当時の現地の人たちは日本人の業績を記念したこの像をどう見ていたのでしょう?


複数のイデオロギーが焦点をなし、その思いを受ける媒体となる銅像のあり方、問題は、今も昔も変りません。
私たちは今年、そんな銅像たちに違うあり方を見出すことができるでしょうか?