2013年2月26日火曜日

民族の身体に就て。

前回は、アルノ・ブレーカー の作品を映像で紹介しましたが、今回は、彼の作品と当時の「戦争彫刻」を含む日本の彫刻との違いは何かを考えます。

まず一つは、アルノ・ブレーカーの作品に見られる、人体の理想化がそうだと言えるでしょう。
ナチスは、支配人種としての自身をイデオロギーとし、それを視覚的な肉体美として表現します。
近代的民族意識と肉体の造形とが結びつくのですが、そういったことは日本ではあまり見られません。
もちろん、後の三島由紀夫のように皆無ではなかったでしょうが、こと彫刻に関しては、それを目的とし、完成させることが出来たとは言えないでしょう。

公共の場に設置された銅像の類で言えば、飛び出す絵本とでも言えるような彫刻しかありません。




ただ、たしかに齋藤素巌や藤井浩祐のように、それを目指した彫刻家もいました。

例えば、朝倉文夫は、昭和17年発行の著書「民族の美」で、「日本民族の誇り」と題して、
 「造物主が人間を造ったとすれば、我々日本民族が計数的に都合よく、最も理想的に作られていて、また我々先祖の生活が神の御意に即していたために、その理想の体躯が今に伝えられているのだと思う。 これは我々の高く誇りとしなければならない点である」
 と、 日本人としての肉体美を語っている。
また、同じ著書の「日本女性の身体美」では、日本人の女性美を、その体格、骨格から語っています。

上の絵葉書は、「民族の美」にも掲載された朝倉文夫による「新秋の作」です。
 この作品を見るに、朝倉文夫の描く女性美とは、しなりのある浮世絵的で古典的な大和撫子のようです。
たしかにそれは日本人のイメージする民族的身体ではあるかもしれないが、アルノ・ブレーカーがそうであるような近代性は感じさせません。
民族意識が近代の所産であるからには、近代的な「自我」を持つ身体でなければ、民族の身体とは言えないでしょう。

ブールデルに学んだ清水多嘉示は、そういった「自我」を持つ日本人の身体を西洋技法で表現しようと試みますが、どうしても日本人離れした造形になってしまい、非難されます。



西洋では、神の姿に似せて作った人間の身体そのものに、美を見出しますが、日本人は芭蕉の句のように身体性を表に出しません。
それが、日本人としての理想的身体を生み出さなかった理由かもしれません。
また、明治初期の彫刻家、大熊氏広だったと思うのですが、日本人の体格は彫刻にするには醜いとか、そういったことを言っており、日本人は自身の姿に、劣等感があったことも確かだろうと思います。
なにより、近代的民族意識そのものを日本人が持てなかった、表現できるまでに至らなかったというのが一番の理由かもしれません。

柳田國男らによって提唱された民俗学とは、日本人の国民としての自意識や自我の高まりを啓蒙し、近代化を図る思想でした。
そういった思想を日本の彫刻は取り入れることができなかったのでしょう。

しかし、彫刻家による研究は立ち止まっていたわけではありません、この時代、そういった近代的民族意識を持つ彫刻の始まりとして、日名子実三の「サイパン」や、堀江尚志の 「少女座像」が上げることができるでしょう。


前者は、物語的ではありますが、戦争を自分のものとした意思を感じさせる女性像で、後者はそういった意思や自我を、正面を見据えたシンメトリーの像という形に乗せて表現しています。

そして、そんな戦前に完成できなかった日本人の身体美は、戦後に佐藤忠良や舟越保武、朝倉響子らによって一つの形を成します。
 近代的民族意識と肉体の造形とが結びついた作品が、戦争が終わってようやく実を結びます。
 彼ら戦後彫刻家は、一番アルノ・ブレーカーに近いと言えるでしょう。
勿論、彼らを生み出したのは、戦前からの研究があったらです。
つまり、日本の「戦争彫刻」は戦後において完成したと言えるのではないでしょうか。

2013年2月23日土曜日

安永良徳 原型レリーフ「裸婦坐像」


以前、「シベリア抑留彫刻家に就て。 」として紹介しました安永良徳によるレリーフです。
これはそれほど古い作ではないだろうと思います。
福岡県立美術館のシンボルとして、現在も建っている安永良徳作裸婦座像」と同じモチーフですね。
福岡県立美術館の前身である福岡県文化会館は、1964年(昭和39)に施工されていますが、この像はいつ建ったのでしょう? 同時期に記念品として作られたレリーフなのかもしれません。
鳥が描かれているので、野外のイメージを持って制作されたものには違いないでしょうけれど。

戦前の構造社時代の安永は、こういった抽象的な作品をいくつか制作しているのですが、途中から具象に変わります。
ピカソに倣ったのか、それとも技術が上がって具象をこなしてみたくなったのかわかりませんが、 戦後も具象一本槍だったというわけではないようです。

この裸婦像はなんだかクリオネみたいですね。
ということは、この鳥は捕食される直前なんでしょうか!

2013年2月21日木曜日

Intermission 謎の銅像絵葉書 上原専禄??



  
銅像を撮した絵葉書を購入しました。
左側が実物の画像で、右側が加工したものです。
中央の人物の奥に騎馬像が建っています。

人物だけをアップした画像です。いったいこの人は誰なんでしょう。
絵葉書の裏には
「大正13年1月18日 ウィーン王立博物館前 マリヤテレサの銅像の下にて 専禄」
とあります。
 ここから、この写真の撮られた時期がわかります。
また、マリーアントワネットの母、マリア・テレジア像のあることから、ウィーンの美術史博物館と自然史博物館前がこの場所だと考えられます。

そして、この「専禄」なる人物ですが、もしかしたら、歴史学者の上原専禄なのかもしれません。
上原は、1923年(大正12年)から1926年(大正15年)まで、この銅像の近くにあるウィーン大学でヨーロッパ中世史研究と社会学を学んでいますので、時期的にも合っています。

ネット上で上原の若い頃の写真はこれくらいです。

さて、どうでしょう?

2013年2月20日水曜日

齋藤素巌 原型「第十一回オリムピック後援会長内田信也」メダル

以前も紹介しました齋藤素巌の原型によるオリンピックの記念メダルです。
サイズ:6×9cm。
齋藤素巌らしい、美しい男性裸像。
ライオンとホッキョクグマの造形も流石です。
11回オリンピックといえば、 ナチスのオリンピックであった、1936年のベルリンオリンピックです。
この時期のメダルだと考えられます。
ライオンとホッキョクグマは、1902年(明治35年)に ドイツ帝国ハンブルクのハーゲンベック動物園から上野動物園に送られているので、このメダルのモチーフにしたのかもしれません。
齋藤素巌は、このメダルのために上野動物園へデッサンをしに行ったのでしょうか。

ベルリンオリンピックには、日本も国を挙げて参加しています。
この大会と前回のロサンゼルス大会には、芸術競技という美術作品の優越を競う競技があり、日名子実三や長谷川義起、濱田三郎ら彫刻家も参加しています。
しかし、日本のドメスティックな美は受け入れられず、惨敗。一部のジャポニズム的な作品が注目されるに留まります。

2013年2月17日日曜日

朝鮮に渡った近代彫刻たちに就て

平櫛田中作「平安老母」 李王家美術館蔵

日本から盗み出された仏像の所有を巡って、韓国世論には様々な意見があるようで、 これには近代の根本をなす「所有」と「国家(国民)」という思想の問題や国民感情もあいまって、なかなかやっかいな問題のようです。
「韓国併合」や当時の朝鮮と日本との文化的交流を政治的にどう判断するかは、各人で色々あるでしょうが、ただし、当時において相互的な「交流」 だったと考える者がいたことは確かです。
況んや純粋無垢を信条とした美術家たちをや。

東京美術学校では朝鮮出身者が学んでいたし、 1922年からは日本の官展を模した朝鮮美術展覧会が行われます。(ただし、この鮮展では彫刻の部が無いのですが)
また、美術品は朝鮮から内地に渡っただけでなく、内地から朝鮮に渡った美術品もあり、李垠(英親王)が収集した官展出品作からのコレクションが李王家美術館に所蔵されます。
この所蔵品は現在、韓国国立中央博物館にあり、その日本室に展示されています。
所蔵されている日本近代西洋画の所蔵数が40点らしいのですが、これはやはり少ない気がしますがどうでしょう。彫刻については何点渡ったのでしょう。
以前紹介した構造社の後藤清一の作品が一点、現在その韓国国立中央博物館で確認できるようです。

 上で紹介した絵葉書、平櫛田中作「平安老母」もまた李王家美術館蔵に所蔵されたもののようです。現在も所有されているのかはわかりません。
この 「平安老母」は2躰あり、片方は田中美術館にあります。これらは、服の絵柄などが少し異なります。

また、下の絵葉書は、「徳壽宮陳列日本美術品絵葉書」として、北村正信の大理石彫刻「凝視」が含まれています。


この作品は、1929年(昭和4年) 第10回帝展出品作です。これもまた、李王家所蔵のものでしょうか。

 こういった韓国所蔵の美術品は、最近になって発表、展示されるようになったそうですね。前述の仏像だけでなく、このような近代彫刻作品の研究も是非進めていただきたいものです。

2013年2月14日木曜日

安藤照に就て


前回、安藤照についてちょっとだけ触れましたので、今回は彼について書こうと思います。
東京に住んでいる人であれば、彼の彫刻を一度は目にしたことがあるかと思います。
あの渋谷のハチ公像がそれです。ただ、あれは戦時中に金属回収され、安藤照の息子によって再建されたものですが。
では、なぜその時彼自身が制作しなかったのか。
なぜなら安藤照が、その戦争末期、1945年(昭和20年)5月に行われたアメリカ軍による空襲、東京大空襲によって 亡くなっていたからです。
米軍の首都への空襲は、1945年(昭和20年)の3月、4月、5月とにわたり5回行われ、8万人の民間人が犠牲になり、また多くの文化財が灰と化します。
現在、当時の戦争彫刻の多くを見ることのできないのは、この時、失われたからです。
また、4月の空襲では高村光太郎と智恵子の思いである自宅が焼かれ、数少ない作品や資料が失われています。
戦争によって、人命だけでなく、文化もまた大きな犠牲を強いられました。

上の画像は、僕の所有している安藤照の直筆です。
彼が主催した彫刻団体「塊人社」の一人、小倉一利の塑像領布會、會員芳名録になります。
安藤の彫刻観が書かれており、彼の数少ない資料の一つではないでしょうか。

安藤照は、1892年(明治25年)、鹿児島生れ、東京美術学校へ入学中に帝展入選を果たし、新人の登竜門であった官展の若きエリートであったと言えます。
同じくエリートの中のエリートであった朝倉文夫に師事し、彼の朝倉彫塑会に参加します。
しかし、1928年(昭和3年)、官展の審査選考の問題のゴタゴタがあり、その大きくなりすぎた朝倉の影響力から逃れ、新たに「塊人社」を結成します。

彼と同時期に朝倉の下にいた齋藤素巌や日名子実三が、同じく彼から離れて「構造社」を立ち上げたように、「塊人社」も新しい彫刻のあり方を目指したのでしょうが、如何せん資料が少なく、まだわからないことが多い。参加メンバーに堀江尚志がおり、彼の作風からして安藤照からも良い影響を受けあったのではないかと想像できます。
僕は、朝倉文夫→安藤照↔堀江尚志→舟越保武→詩的な抽象彫刻と、現在も繋がる彫刻の流れの一源流が安藤ではなかったかと考えています。また何かわかりましたらこのブログで紹介しますね。

 一番上の絵葉書の画像は、鹿児島県人であった安藤照による西郷隆盛像です。
これは現在も鹿児島に立っております。この像についてはWikiに詳しく書かれています。

2013年2月12日火曜日

セメント彫刻に就て

大戦末期、物資の不足、配給による統制等々で彫刻家の仕事も立ち行かなくなっていきます。
金属回収命が出され、ブロンズによる鋳造は資金とコネある作家でないと不可能となり、プロパガンダとしての展覧会もいくつか行われるのですが、それに対応することが難しくなっていきます。
そこで、ブロンズ以外の方法で鋳造する方法が考えれれるようになります。
その一つが、 セメントによる鋳造です。
こういった新しい試みを積極的にポジティブに捉え、時局にあった彫刻をといった考えが表明されたりしましたが、まぁ作家にとっては不本意だったでしょうけどね。

画像は、新海竹蔵の作、昭和16年に行われた日本美術院第二十八回展覧会出品「兵士像」。
セメントによる鋳造作品です。
新海竹蔵と言えば新海竹太郎の甥であり、木彫を良くしましたが、このように彫塑も戦前から行なっていたようです。
兵士像という、まさに時局を扱った作品で、院展では珍しいのではないでしょうか。

こういったセメント彫刻をまとめた本が、翌年昭和17年に出版されます。
ポルトランドセメント同業会発行「セメント彫塑写真集
上記の「兵士像」も含まれています。
ハチ公像で有名な安藤照の胸像なんか、なかなか良いですね。
多いのは、中村直人です。彼は軍需生産美術挺身隊に加わったりと、この時局の中で活躍した彫刻家だと言えます。

こういった戦時中に苦し紛れで行なったセメント彫刻が、戦後の日本で面白い広がりを見せます。
例えば、岐阜県出身のコンクリート彫刻家「浅野祥雲」なんかがそうですね。
また、かつて覚王山にあったたぬき寺の軍人像もそう言えるでしょう。
市井の文化、ポップカルチャーとしてセメント彫刻は受容されたわけです。

2013年2月11日月曜日

彫刻家と挿絵に就て

石井鶴三筆 「踊り子」

明治以降、出版の技術の向上と市井の人々の趣味の変化に伴い、江戸から続く挿絵文化に飽き足らなくなった市民は、新しい挿絵画家を求めた。
西洋美術を会得した美術家にその矢が向けられたが、洋画家たちは画業の片手間に行う挿絵の仕事を潔しとしなかった。
その隙間産業に目をつけたのが、西洋的な技術を学び身に付けていた彫刻家たちであった。
 挿絵画家としても有名な彫刻家に、戸張孤雁石井鶴三清水三重三河村目呂二梁川剛一等々があります。


清水三重三直筆原画

その彫刻家の中の一人、石井鶴三の所謂「挿絵事件」とは、中里介山の小説『大菩薩峠』での鶴三の挿絵に人気があり、、その中から『石井鶴三挿絵集第一巻』を出版しようとするが、原作者に断りを得ず、金もよこさず何をするんだと、中里介山に訴訟を起こされた事件を言う。
結果、鶴三の勝訴となって、そのおかげで、挿絵そのものが芸術作品だと認識されるにいたった。
ここから近代挿絵の時代が始まるとは言うのですが、何故、洋画家が不純だと避けた挿絵仕事を彫刻家は請けたのか。
その一つの理由に、当時の(現在も)彫刻家たちが貧乏だったというのがあるのだろうと思います。
売れない、金のない彫刻家たちは、中原悌二郎にしても橋本平八や木村五郎にしても、早死にするわけです。評論家落合忠直に「呪われている人達をよ」と言われるわけです。
ゆえに、手っ取り早く金になる挿絵を請けた。
 そういう面もあったろうと思います。
でも、それでも「呪われた」彫刻家たちは、得た金を注ぎ込んで彫刻をしてしまうのですね。

2013年2月9日土曜日

Intermission -Chiune Sugihara-

杉原千畝銅像と記念館

杉原千畝記念館に行ってきました。

杉原は、1900年(明治33年)、岐阜県加茂郡八百津町生れ。
大戦中、リトアニアのカウナス領事官代理として、ナチス迫害により逃れてきたユダヤ系難民にたいし、名目上の行き先への通過ビザを大量に発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救った。一部の難民は、シベリア鉄道を利用して来日、そこからアメリカなどへと渡っている。



同じ加茂郡出身でありながら行ったことのなかった記念館に、今回初めて訪れてみました。
施設は、こじんまりとして可愛らしく、杉原の偉大な仕事をこなしながらも持っているその謙虚さを感じさせます。


  
人道の丘公園のシンボルモニュメント

ただ、直筆の手紙やビザなどのほとんどがレプリカだったのは寂しい。できればアウラあるものが見たかった。
また、彼にたいする掘り下げ、現在の研究状況なども知りたいと思いました。
当時の日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結びますが、日本国内世論も軍部も政治も親ナチス一辺倒というわけでなく、杉原以外の日本人の働きや、神戸にあったユダヤ人協会(手塚治虫の「アドルフに告ぐ」に描かれてますね。)のような組織もからこそ、このような出来事がなされたってことも広く知らしめていただきたいですね。
(余談ですが、「アドルフに告ぐ」で神戸に逃れてきたエリザは、もしかしたら杉原のビザを受け取ったのかも?彼ら難民を撮影した「丹平写真倶楽部」に手塚の父がおり、手塚治虫もまた目にしていたようです。)


八百津の風景

海外からのお客も多いようで、僕が訪れたときもいらしゃていました。
日本のこんな田舎にユダヤ系の人たちに関連した施設があるのは不思議です。
現在のパレスチナを肯定する物言いはしょうがないかなと思いますが、逆にあまり宗教色を感じさせないのもまた不思議だと思いました。この変なモニュメントも含めて。
 

左:ナインチンゲール銅像 右:シュバイツァー銅像

館の近くに建てられた二つの銅像。
作者は岐阜県土岐市出身で、名古屋芸術大学美術学部部長の神戸峰男氏。
腰から上で、手が付いた銅像は珍しいかも。物語性を出したってことでしょうか。
せっかくなので、ユダヤ系の偉人にすれば良いのに。

2013年2月5日火曜日

Intermission


MY COLLECTION 
散髪される女の子を描いたドローイングです。
作家名、年代すべて不明。
油紙のようなものに、インクで描かれています。
1911 ST(TS)とあるのですが、この数字が1911年のことを言ってるとしたら、明治44年の作だってことになりますね。どうでしょう??

2013年2月1日金曜日

埴輪の美に就いて


岡本太郎が縄文の美を語ってから昨今、縄文土器の美術的な価値について誰も否定する者はないでしょう。昨年行われたミホミュージアムでの「土偶・コスモス」展でも素晴らしい縄文土器を観賞することができました。大英博物館で行われた「火炎土器展」も好評だったようです。
 しかし、それに比べて埴輪というのは、あまり美術館で観賞する機会はありません。それを美術として見ることは少ないと言えるでしょう。
しかし、戦前の日本では、埴輪の美を語り、その美を啓蒙していた時代がありました。
なぜ、現代ではその美を語ることがなくなってしまったのか、美が永遠のものでなく時代によって左右されるものだとしても、その理由は何なのか。

高村光太郎は埴輪についてこう語る。
『これはわれわれの持つ文化に直接つながる美の源泉の一つ であって、同じ出土品でも所謂縄文式の土偶や土面のような、異種を感じさせるものではない。
縄文式のものの持つ形式的に繁縟な、暗い、陰鬱な表現とはまるで違って、われわれの祖先が作った埴輪の人物はすべて明るく、簡素質樸であり、直接自然から汲み取った美への満足があり、いかにも清らかである。
そこには野蛮蒙昧な民族によく見かける怪奇異様への崇拝がない。所謂グロテスクの不健康な惑溺がない。
天真らんまんな、大づかみの美が、日常性の健康さを以て表現されている。此の清らかさは上代のの 行事と相通ずる日本美の源泉の一つのあらわれであって、これがわれわれ民族の審美と倫理との上に他民族に見られない強力な枢軸を成して、綿々として古今の 歴史と風俗とを貫いて生きている。
此の明るく清らかな美の感覚はやがて人類一般にもあまねく感得せられねばならないものであり、日本が未来に於て世界に与 え世界に加え得る美の大源泉の一特質である。
...美の健康性がここに 在る。』

埴輪の美の特徴を「明るく」「直接自然から汲み取った美」「天真らんまんな」「日常性の健康さ」だと言い、「暗い」「陰鬱な」「怪奇異様」「グロテスク」ではないと言っている。
そんな「暗い」「グロテスク」であるために同じように否定された美意識を知っている。ヒトラー政権下のドイツにおいて否定されたカンディンスキーやクレー、エルンスト・バルラハらの作品、退廃美術にあてられた言説だ。そして、「明るく」「日常性の健康さ」を持つ美がナチスドイツの美意識だとされた。
つまり、埴輪の美とは戦時下の美であった。高村光太郎は「此の明るく清らかな美の感覚はやがて人類一般にもあまねく感得せられねばならないものであり、日本が未来に於て世界に与 え世界に加え得る美の大源泉の一特質である。」と埴輪の美意識、つまり日本の美意識の大東亜共栄圏、またそれ以上の広がりを語っているのだ。

日名子実三が明治神宮体育大会メダルでモチーフに用いた「野見宿禰」と言う相撲の神は、埴輪の創始者とも言われ、埴輪も手にした姿を用いたメダルをも日名子は制作しています。


同じく日名子の「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」の四方に配置された信楽焼の像も、埴輪のイメージだと言えるでしょう。


そして、直上の画像は、昭和12年の官展「戦時特別美術展」に出品された後藤清一の作品です。

このように、 この時代に於いてこそ、埴輪の美は強く印象付けられたのだった。
兵士や軍馬の形状をし、権力者に殉教する埴輪は、戦争の時代に肯定されるものだったのでしょう。

よって、戦後はそんな時代的な美だったからこそ、否定されたという面があるのではないだろうか。
岡本太郎や滝口修造らによる共著「現代人の眼 : 伝統美術の批判」では、そういった 「明るく」「直接自然から汲み取った美」「天真らんまんな」「日常性の健康さ」ゆえに埴輪の持つ薄暗さによって埴輪の美を否定します。

しかし、こういった時代的なものだけだと本当に言えるだろうか。
ロダンは埃及の彫刻を自身の源流とし、ロダンに影響を受けた荻原守衛は日本の仏像、中でも飛鳥時代の仏像に強く感化されました。高村光太郎はロダンや萩原にとっての埃及彫刻や飛鳥仏のようにプリミティブな美として埴輪を見ていたのではないだろうか。
そうして見れば、埴輪にも現代に通じる美があるのではないか、まだその美を語り尽くせてはいないのではないか、そんなことを思います。

上でも紹介した後藤清一の「第一回軍事援護美術展覧会」 出品作「櫻花」です。後藤は近代的な彫刻方法とは異なりモデルを用いず、仏像のように作品を制作したと言う。
この表現主義的な像もまたそういった作品であり、このデフォルメされた少女を見ると、ちょっと極端かもしれませんが、現代の美少女フィギュアにも通じるものがあるのではないかと思うのです。 

日本の美少女フィギュアが「明るく」「天真らんまんな」「日常性の健康さ」でありながらも薄暗さを持つように、そこに埴輪の伝統は息づいていないだろうか。