2020年9月14日月曜日

式場隆三郎:脳室反射鏡

現在、新潟市美術館では『式場隆三郎:脳室反射鏡』と題し、式場隆三郎を紹介し、掘り下げる展覧会が行われています。
http://www.ncam.jp/exhibition/5602/
十年来の式場ファンの私としては、本当に感無量!
また、式場隆三郎という人物の持つ問題が、今日性を持つという私の思いを再確認できました。

式場問題の今日性とは、例えば大塚英志氏が『「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち』で書かれてことにも通じます。
大塚英志氏は、昨今の「新しい生活」が大衆化していく様が、戦時下で「ていねいな暮らし」というプロパガンダが大衆化していく様子と同様で、その気持ち悪さを語られています。
私たちのまわりの、それほど気にもとめないこと、小さな生活を彩るもの、それらが実際は国策的で暴力を伴う大きなプロパガンダで出来ているのだという事です。

では、式場隆三郎はどういったプロパガンダに加担していたのか。
私はそれが『アート』の大衆化であったと考えています。
私たちがアートと言われ考えるもの、アーティストの姿として描くもの。
その背後に式場隆三郎があるのではと考えています。

ゴッホのようにただ一つの美をもとめ、苦悩し死んでいく姿。
山下清のように「野に咲く花の様に」「生きてゆけ」る姿。
これらに私たちは感動し、アートに纏わる物に動員されます。
しかし、私たちは作品そのものに動員されたわけではなく、作品が背負う物語に動員されています。
その物語を私たちの耳元でずっと囁き続けるのが、式場隆三郎です。

確かに白樺や民芸運動にも、新しい「美」を啓蒙する思いはあったでしょう。
それを民衆に向かって、ケバケバしく、大衆紙的な切り口で浸透させていったのが式場です。
もちろん彼一人の力ではありませんが、そこに向かう情熱の異常性から、どうしても式場隆三郎が悪目立ちするのですよね。

悪目立ちと言えば、柳宗悦の民芸運動では、ハイカルチャーとして「民芸」があり、「民衆」に対して差別まではいかないものの、区別があり、それに敏感で、「民衆」に自身が入り込むことはありません。
しかし、式場はロウな「民衆」にたいして「民芸」を説いてしまう。
そこに生まれるのは、「美」を知る者と知らない者といった「民衆」の分断です。
「民衆」の分断とは、同じ民衆の中で、私(達)とそれ以外とで分けてしまうことです。
それは、例えば芸能人を「薬を使うような人間は駄目な奴だ」と蔑んで楽しむ大衆紙的な姿であり、例えば美術館へ行く層とそうでない層とを分断させ、焦燥させて、さらに互いに憎み合わせる姿です。
そう、あの「表現の不自由展」の裏にも式場隆三郎がいます。

猛毒である彼の呪縛は「それほど気にもとめないこと、小さな生活を彩るもの」だけに静かに広く浸透していることに気がつきにくいかもしれません。
ですが、耳元で囁く式場の声が聞こえる人が増えれば、もう少しアートの景色も鮮やかになるのではないかと思います。