2012年10月30日火曜日

日名子実三 原型「学士會ゴルフクラブ 内務次官賞」盾

昭和11年(1936年)11月1日に行われた学士会ゴルフクラブの記念盾です。
原型は、日名子実三。ゴルフバックを背負った人物が描かれたレリーフです。
日名子実三は水泳、ラグビー、バスケットボール、スキー等々、数多くのスポーツをモチーフとしています。日名子の描くスポーツ選手は、どこか優雅で、女性的で、精神主義の汗臭さが無い。最先端カルチャーとしての「スポーツ」が描かれていると言えるでしょう。そこが当時の人々に受け入れられた理由だったのかもしれません。
日名子自身もスポーツ選手との交流を持ち、水泳選手の高石勝男選手や、オリンピックで日本人初の金メダリストとなった織田幹雄選手の像なども制作しています。
このレリーフにも紳士のスポーツとしてのゴルフ、凛とした人物像です。
このモチーフを用いて立体もあるようで、広田肇一著「日名子実三の世界」で紹介されています。 

ちなみに、寄贈した湯沢三千男 はこんな人。

2012年10月29日月曜日

第二回帝国美術展覧会出品 貝塚七郎作「女」 絵葉書


貝塚七郎については、まったくデータが揃っていません!どんな彫刻家だったかもわかりません。
なのに、この絵葉書を紹介するわけは、この作品の魅力、このモチーフが魅力的だからです。 このふとましい股!豊かな体躯!、柔らかなオーラ!、そして貧弱な乳。デブ専ってわけじゃないですが、素敵じゃないですか。その形状から古代の土偶のようで、崇高な感じさえ受けます。

こういった裸婦を描く作家にコロンビアの作家フェルナンド・ボテロがいますが、彼は1939年生まれ。この作品が発表された第二回帝国美術展が1920年(大正9) ですから、ボテロに先んじてこんな作家が日本にいたわけです。
この時代の彫刻家は、日本人をモデルにしつつも、西洋の美意識に合わせるかのように、等身や頭の大きさなどを変え、デフォルメされています。この「女」も同じくデフォルメがなされているのだと思うのですが、その方向が当時の美意識とは一線を越え、作家の欲望が投射された結果、現代的な作品になっています。マーク・クインの新作だって言われたら信じるかも。

2012年10月28日日曜日

日名子実三 原型「聖戦二周年記念剣道野戦大会」メダル

明治維新後の日本は、世界の一流国を目指すべく、スポーツにおいても官民あげて取り組みました。 そんなスポーツに対し、トロフィーやメダルなどを制作し、芸術面で関わったのが日名子ら「構造社」の作家たちでした。日名子実三の仕事で有名なものに、サッカーのJFAのシンボルマークである八咫烏があります。
しかし、昭和に入り時局は戦争の影響が濃くなっていき、外来のスポーツもその空気の乗って変わっていきます。用語の日本語化やスポーツ大会の規模の縮小、変わって体操競技の規模拡大などが行われます。国粋意識が高まるにつれ、武道もまたより時局に合ったものをと考えられ、そんな中で剣道は銃剣術など訓練としての競技を行うようになります。
これに沿って美術家たちも、そういったメダル等を依頼され作成するようになり、特に日名子実三はスポーツだけでなく、軍に関わる勲章や記章などを多く制作します。
高崎航著「帝国日本とスポーツ 」では、日名子は芸術の面でスポーツと戦争とを結びつけたと評します。

 このメダルの大会は、昭和14年に報知新聞社主催で行われたようです。「聖戦」とは昭和12年に始まった支那事変を指します。
野戦大会とは、銃剣術も含めた野外での剣道大会を示すのだと考えられます。
メダルに描かれた兵士は、刀を持つ人体と言う難しい主題であり、しかもそれを円形のレリーフにしているものだから、若干無理のある体勢です。しかしその結果、迫力ある動きをした人体像になっています。また背景のシルエットの群像によって、戦場の緊迫感が表現されていると言えるでしょう。

日本の戦争画は、1970年にアメリカから、無期限貸与という形で日本に返還され、現在東京国立近代美術館 で時々展示がなされます。研究も多くなされるようになり、関連本も出版され、目に付くようになりました。
しかし、戦争美術は絵画だけでありません。彫刻家もまたこの時代を生き抜いていました。そうして制作されたこのメダルのような小さな戦争美術を、このブログでいくつか紹介できればと考えています。

2012年10月27日土曜日

陽咸二 原型「第十六回全国中等学校優勝野球大会」バックル


全国中等学校優勝野球大会とは、現在の全国高等学校野球選手権大会にあたる大会です。
第十六回大会は、1930年(昭和5)に行われました。
当時、この大会のメダルやバックルは彫刻家たちによって制作され、日名子実三や齋藤素巌、朝倉文夫らによるものがあります。
このバックルの原型は陽咸二です。明治31年生まれの陽は、小倉右一郎に師事し、帝展では特選を取るまでとなります。そして、日名子実三や齋藤素巌らの「構造社」に加わり、メダルなどの制作を行います。
帝展時代には、制作した裸婦彫刻が風俗上の問題として取り上げられて話題の作家となり、
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=106800
また現代では抽象彫刻の先駆けとして紹介されます。
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=68465&isHighlight=true&pageId=4
しかし、その制作する雑器の類は、日名子実三や齋藤素巌がレリーフとして成立しているのに比べ、伝統的というか、漫画的というか、どこか俗っぽい作風です。
このバックルもバットやグローブを手にした野球をする阿修羅像がクモの巣のようなグランドを背にするという、漫画な作り。
当時の彫刻界をどこか斜に構えた感じが、この彫刻家の魅力の一つになっているのでしょう。
陽咸二は、このバックルが球児に渡された5年後、1935年に38才の若さで亡くなります。
1935年は、日本の彫刻にとって大きな損失の年であり、その年、堀江尚志(38才)、藤川勇造(53才)、木村五郎(37才)、牧雅雄(48才)、橋本平八(39才)ら若き彫刻家たちが亡くなっています。(括弧内は享年)彼らが終戦を生き抜いていたら...日本彫刻史はまた違ったものになっていたかもしれません。

2012年10月25日木曜日

齋藤素巌 原型、「紀元二千六百年奉祝東亜競技大会 東京大会」メダル


齋藤素巌は前回紹介した日名子実三と共に、1926(大正15)年、彫刻家の在野の団体である「構造社」を立ち上げるなど、戦前から戦後にかけて活躍した彫刻家です。
この構造社は、「彫刻の実際化」を標榜し、彫刻作品だけでなく、このようなメダルや建築など実社会に近い作品を制作します。

「紀元二千六百年」は昭和15年のことであり、この年は神武天皇即位2600年を祝い、多くの行事が行われます。同年には東京オリンピックが開催される予定でしたが、日中戦争が始まった為に 流れてしまい、その代わりとなったのがこの「東亜競技大会」でした。

このメダルの特徴は、奥へと重ねられた人体像であり、そこにはユーゴスラヴビアの彫刻家、メストロウィッチの影響があります。メストロウィッチは、ロダン以後の彫刻家として当時の日本の彫刻界に受け入れられ、中でも「構造社」の若き作家たちの作品には、その影響が強く出ています。

メストロウィッチのレリーフ(「メストロウィッチの彫刻集」より

もう一つ、このメダルの重ねられた六躰の人体像からいえることは、その大会の趣意を描いているということです。
http://bunzo.jp/archives/entry/000884.html 
西洋のオリンピックに代わるアジアの競技大会。この東亜競技大会には日本、満洲国、新生中華民国、比律賓(フィリピン)、布哇(ハワイ)、蒙古が参加しました。つまり、この六躰の人体像はこれら参加六国を指してるのだと思います。そのアジアの国々が同じ一点を指す...そんな政治性を感じさせるレリーフです。

2012年10月24日水曜日

日名子実三原型メダル「第3回国際広告写真展覧会」

日名子実三原型の「第3回国際広告写真展覧会」メダルです。
日名子実三は、 大正から昭和初期に活躍した彫刻家。終戦の年である1945年に亡くなります。戦時下の日本を代表する彫刻家だったと言え、当時のメダルや記念碑等を多く手がけました。宮崎県にある「八紘之基柱」も彼の作です。

この「第3回国際広告写真展覧会」は1932年(昭和7)に行われました。
昭和初期において写真は新しいメディアであり、その普及の為、このような展覧会が行われたのでしょう。
このメダルの特徴は、表面のカメラを手にした裸婦。日中戦争の直前でありますが、この頃はまだ、このような裸婦像をモチーフにできたようです。しかし以降扱いが難しくなり、日名子自身も用いなくなります。
日名子実三はこのモデルを好んで用いたようで、他にもこのモデルの彫刻がいくつかあります。

2012年10月22日月曜日

美術学校模範石膏塑像(帝国美術出版協会藏版)


よくわからない絵葉書。

「美術学校」とは東京美術学校のことでしょうか?
「模範」というと生徒の作品なのかな?
作りがあまいので、教師の作品には見えませんが、どうでしょう?
正面でなく、側面なのもわかりません。

東京芸大の所蔵品が検索できるサイトで調べてみましたが、それらしい作品は見当たりませんでした。

それにしても、日本髪の裸像って不思議。