9日、舟越桂氏が亡くなりました。72歳でした。https://www.yomiuri.co.jp/culture/20240330-OYT1T50036/
私個人としては、2008年に東京都庭園美術館で開催された「舟越桂 夏の邸宅 アール・デコ空間と彫刻、ドローイング、版画」展が思い出深いですね。場所の美しさも相まって、すてきな時間でした。
彼の作品は、「内省的で静謐な」「精神性」を表現しているとされます。ただ日本を代表する木彫作家でありながら、これを時代的な文脈で語る言葉ってあまり見かけないんですよね。
その理由の一つは、彼の作品に言われる私的な「精神性」にあるのではないでしょうか?私的で閉じあまり公的に開かれてみえないところが、同時代的な作家の戸谷成雄や遠藤利克と異なり、語られ辛さになっているよいうに思います。そんな作品の初期モチーフは白シャツの似合う、ハイソな空気の人物。甲田益也子とか草刈民代みたいなお顔。今の言葉で言えば、上級国民なのでしょうか。酒飲んでゲロ吐いて、それが足にかかる様な人物は選ばない。「ナニワ金融道」的世界とはかけ離れたところにあるわけです。でも、それが彼の作品なのでしょうか?
氏の作品は2000年頃から「スフィンクス」という人間を加工、化けさせる作風に変わるのですよね。もともと半身像というのが、人間をぶつ切りにしているわけで、人間を加工する志向ってあったんでしょうけど、それがハイソな空気でだまされていた。それに「スフィンクス」なんて言っているから御綺麗な作品に見えるのであって、あれって不具ですよ。彼の作品は、元来いびつでグロテスクな美であったのですね。
彼の父、舟越保武の「ダミアン神父像」は醜さを神聖として表現しました。その血は、スフィンクスという化け物として再びあらわれたわけですね。「ナニワ金融道」の青木雄二が左派的な思想のもとで漫画を描いたように、舟越保武の「ダミアン神父像」もそういった志向で描かれました。青木雄二はソープで毛を拾う女性を、ある意味美しいと感じていたのではないでしょうか。同じように、「ダミアン神父像」も描かれ、「スフィンクス」もまた同様。つまり、舟越桂氏の作品は「ナニワ金融道」であった!というのが私の感想です。そこに「精神性」なんて無く、青木雄二の公的性と等しいものだと理解したわけです。
そうやって彼の初期の作品を見ると、彼の『人間ってグロいな、そして美しいな』という囁きが聞こえてきます。舟越桂氏にとっては、ハイソに見えるモデルたちも、ソープで毛を拾う女性と同じく見ていたのでしょう。
ここまで考察して、やっと私は、彼の作品が戦前から連なる左派的な彫刻、世俗をそのまま描こうとした彫刻群に連なるものだと理解します。ただし、それを60年代安保的なわかりやすさで表現するのではなく、人間にある「内省的」な「精神性」、それがどこまでもグロく汚いものであっても、それを表現する。ただし、80年代にオウム真理教に焦がれた若者たちは、その「内省的」な「精神性」によってグロく汚いものを否定しましたが、舟越桂氏はそれを肯定する。これが彼の「時代性」なのだと思います。