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2024年6月23日日曜日

沼田雅一書簡 竹内久一宛




久しぶりに、がんばってヤフオクで落としました!
竹内久一宛の沼田雅一書簡です。
沼田雅一の父、沼田一珍の書簡に一緒に送られたもののようです。
一珍は元福井藩士。維新後大阪に移って商業を試みて失敗、京都に移り美術商池田清助に陶土を分けて貰って拮りものを作って生計をたてていたそう。

竹内久一は、沼田雅一の彫刻の師であり、正木直彦著『回顧七十年』では、一珍の下で働いていた雅一を、通りがかった竹内久一が見つけ、その才を認めて東京に連れてきたそうです。
ただ、京都に来た海野美盛が見つけたという説もあり、もしかしたらこの書簡でその謎が解けるかも……
https://gacma.geidai.ac.jp/archives/100yh_fas02_084.pdf

とは思ったのですが、この私にゃ古文書はよめません!
解読ソフト使ってみましたが、
「高趣難有相続付心百梅面之気段ニ而雨降絵御同事ニ困却之至ニ御座候益御請通被為在奉恐賀毎事病人御案労之段御懇篤不残不参奉待弥之本日唯今部役為替御手形判金三両之名正難有入掌仕候御懇配之御取扱忝奉存類仕五事追々上有之方ニ候……」と何がなにやら。
真ん中の「本日唯今郵便為替御手形即金三両」云々あたりかな、読めるのは。

郵便の日付からみると明治25年。略歴的には沼田雅一が上京した翌年なんですよ。
そのころに、大阪の実家から奈良の竹内久一に向けて手紙を出してるのですよね。
時系列的にどうなってるの?

2024年6月2日日曜日

世界美術月報 広報誌

以前、佐藤忠良によるメダルで紹介しました下中弥三郎。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2018/06/blog-post.html
今回紹介するのは、戦前に彼によって創刊された「世界美術月報」の広報誌になります。
冊子とはいっても、当時の著名な美術評論家による記事から美術用語の説明までと、濃厚なつくりになってます。

彫刻関連では、第7号に小原生による「ロダンのデッサン」。
第22号には田邊孝次による「アトリエに於けるブルデル、ベルナール、マイヨールとデスピオの印象」。
第33号に神原泰の「ブランクシイと日本」等の文章が載っています。

その中で面白かったのが、第三十四号(昭和5年)の冊子に記載された小原銀之助による「彫塑のできるまで」です。

小原銀之助とは、戦後に時計の研究を始め、小・中学校や国立科学博物館をはじめ、アメリカ、中国など4ヶ国に計400個を製作、小原式日時計といわれ国際的に評価された人物です。
彼が戦前、この世界美術月報の編集に関わっており、そのういったことでこの文章を載せることになったのでしょう。

その内容ですが、当時の若い無名彫刻家の日常が書かれています。
『×月×日 ×展が三ヶ月後に迫って来た今年は先生のアトリエ(門下生用)で皆と一緒にやる事とした。午後は4人が使っているので午後にした。Kは8尺の男の裸を作っている。女はモデル達が嫌がるので朝の6時から皆の来るまでやっている。』
女性のモデルと男性との時間が重ならないように、彫刻家側が気を使って製作しているのですね。
モデルの話は他にもあって、
『×月×日 日曜の午前だ。宮崎(東京に唯一のモデル屋)に行く。傾いた古屋の暗い部屋に例の如く大勢の女がぎっしりすし詰めになって座っている。雀のお宿の様にお喋りがやかましい。髪の長い洋画の連中が怖い顔をして黙々と盡し乍ら物色している。』『おやじが「ホイお照さん。××さんのアトリエ。午後だよ」等わめき乍ら紙切れを渡している』『開かれているからそれほどには思はないもののまるで女人市だ』
大正あたりのモデル不足から考えれば、時代が変わった感ありますね。
女人市みたいではあるものの、しっかりとしたビジネスになっているようです。
モデル代は一週間で7円50銭。昭和初期の1円は現在の4000円ほどと言われているので、一週間で3万円と言うところでしょうか。

7週間ほどで粘土付けが完了、石こう屋に持ち込んで石膏像にします。
このあたりの工程を丁寧に説明しています。
そして、できた石膏像に着色
『先ず全体漆を塗りその上に銅紛をかける。アンモニア水でそれを腐食する。即ち青銅色の彫像が出来上がった。』
そして、最後に彫刻家の嘆きで〆てます。
『×月×日 出来上がった色に不満はあるが日もないので搬入する。―いつになったら此の石膏像が鋳物屋の手に渡ってブロンズになる事やら。恐らく永久にブロンズにはなるまい。等身大で安くて千円だから。ーそれ所か落選の憂き目を見るかも知れないぞ』
しんどい!

2024年4月29日月曜日

乃木将軍銅像と大日本国防婦人会



割烹着姿に白襷、1932年に結成された「大日本国防婦人会」の写真です。
大阪で生まれたこの会ですが、全国に展開します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%98%B2%E5%A9%A6%E4%BA%BA%E4%BC%9A

真ん中に立つ像は、その姿から乃木希典の銅像と思われます。
当時存在した乃木将軍の銅像は、山口県の長谷川栄作による像、香川県の田中雄一による像、愛知県西尾の像、そして江の島の片瀬海岸の像。
この像の姿に似ているのは愛知県西尾の像なのですが、戦時中にコンクリートに変えられ、現在は西尾市の熊野神社に建っています。
https://ameblo.jp/pont-neuf0603/entry-12470632973.html
ただ、この姿の乃木将軍像というのは、二宮金次郎像と並んで量産され全国に建てられていますから、本当に西尾の像なのか。

どちらにせよ、乃木将軍の像の前に並ぶ大日本国防婦人会のご婦人たちというこの写真は、当時の世相を描いてますね。

2024年3月31日日曜日

舟越桂 死去

9日、舟越桂氏が亡くなりました。72歳でした。https://www.yomiuri.co.jp/culture/20240330-OYT1T50036/

私個人としては、2008年に東京都庭園美術館で開催された「舟越桂 夏の邸宅 アール・デコ空間と彫刻、ドローイング、版画」展が思い出深いですね。場所の美しさも相まって、すてきな時間でした。

彼の作品は、「内省的で静謐な」「精神性」を表現しているとされます。ただ日本を代表する木彫作家でありながら、これを時代的な文脈で語る言葉ってあまり見かけないんですよね。

その理由の一つは、彼の作品に言われる私的な「精神性」にあるのではないでしょうか?私的で閉じあまり公的に開かれてみえないところが、同時代的な作家の戸谷成雄や遠藤利克と異なり、語られ辛さになっているよいうに思います。そんな作品の初期モチーフは白シャツの似合う、ハイソな空気の人物。甲田益也子とか草刈民代みたいなお顔。今の言葉で言えば、上級国民なのでしょうか。酒飲んでゲロ吐いて、それが足にかかる様な人物は選ばない。「ナニワ金融道」的世界とはかけ離れたところにあるわけです。でも、それが彼の作品なのでしょうか?

氏の作品は2000年頃から「スフィンクス」という人間を加工、化けさせる作風に変わるのですよね。もともと半身像というのが、人間をぶつ切りにしているわけで、人間を加工する志向ってあったんでしょうけど、それがハイソな空気でだまされていた。それに「スフィンクス」なんて言っているから御綺麗な作品に見えるのであって、あれって不具ですよ。彼の作品は、元来いびつでグロテスクな美であったのですね。

彼の父、舟越保武の「ダミアン神父像」は醜さを神聖として表現しました。その血は、スフィンクスという化け物として再びあらわれたわけですね。「ナニワ金融道」の青木雄二が左派的な思想のもとで漫画を描いたように、舟越保武の「ダミアン神父像」もそういった志向で描かれました。青木雄二はソープで毛を拾う女性を、ある意味美しいと感じていたのではないでしょうか。同じように、「ダミアン神父像」も描かれ、「スフィンクス」もまた同様。つまり、舟越桂氏の作品は「ナニワ金融道」であった!というのが私の感想です。そこに「精神性」なんて無く、青木雄二の公的性と等しいものだと理解したわけです。

そうやって彼の初期の作品を見ると、彼の『人間ってグロいな、そして美しいな』という囁きが聞こえてきます。舟越桂氏にとっては、ハイソに見えるモデルたちも、ソープで毛を拾う女性と同じく見ていたのでしょう。

ここまで考察して、やっと私は、彼の作品が戦前から連なる左派的な彫刻、世俗をそのまま描こうとした彫刻群に連なるものだと理解します。ただし、それを60年代安保的なわかりやすさで表現するのではなく、人間にある「内省的」な「精神性」、それがどこまでもグロく汚いものであっても、それを表現する。ただし、80年代にオウム真理教に焦がれた若者たちは、その「内省的」な「精神性」によってグロく汚いものを否定しましたが、舟越桂氏はそれを肯定する。これが彼の「時代性」なのだと思います。

2024年3月24日日曜日

大正12年発行 東京東京美術学校「交友会月報」第弐拾弐巻



東京東京美術学校「交友会月報」です。
大正12年発行された第弐拾弐巻は、同1923(大正12)年9月1日11時58に起きた関東大震災の影響を受けた内容となっています。

「会告」とし「今般の大震災大火災に羅災せられたる、本会特別会員併に、正会員諸君に対する吊慰方法に就き、本校は交友会委員会を開催し、左の議案を満場一致を以て解決し、夫々贈呈を了せり、右報告す。」とし死亡者、その家族に見舞金を送ることを決めています。

羅災特別会員として、亡くなった生徒に「日本画科 星川清雄」「金工科 神谷仁一郎」の名前が名が挙がっています。若いこれからの作家だったろうに、残念です。
彫刻科の羅災者には「清水三重三」「花里金央」「木内五郎」「川邊繁蔵」「大村安治郎」「田中二三郎」「荒居徳亮」「清水彦太郎」「小野田嘉助」の名前が。

また、遭難実記として竹内三男による当時の様子が書かれています。
『……異様な風が吹き始めてきたので、一同を促し先頭に立ち、中央めがけてきた人と荷でうずくまる中を、脱出しようと決心した。しかしその目的の中途まで行かない中に、激風はその行く手を阻み地に伏して僅かに身を支えるのみ、その時火は全く包囲して、最早如何とする術もない、物凄い火遁の渦。トタンの飛ぶうなり、人の叫聲!既に現実とは隔離されてしまった。嗚呼僅かに私の耳に響くのは、人間の断末魔の救いの叫び人の子も親も……』

ジブリの「風立ちぬ」では冷静に対処していたような当時の人々ですが、やはりそうはいかないようです。


また後記には、実業家大倉喜八郎の大倉集古館が焼け落ち、展示品が失われた事、個人所有の銘品が多く被害にあったことが記されています。
彫刻関連では『●新美術品の蒐集家としてしられた、中澤彦吉氏はロダンの「考ふる人」をはじめ、ルノアールの大作も、波斯の陶器も一切焼いてしまわれたらしい』
『●昨年デルスニス氏から買われた、横浜の左右田氏のロダンの大作「影」と「考へふる人」は、あの大火に焼け残った。「影」の方は片腕が折れたが「考へふる人」の方は内部に故障が出来た位で大したことはない。共に目下高村氏のアトリエで修繕中であるから、遠からず又原型に接する事が出来ると思う』
『●ロダンの出世作で最も有名な「青銅時代」の石膏像は、デルスニス氏から本校へ預けたもので、文庫の廊下に安置してあったのが、倒動して、頭、手、足等に大破損をきたし、一時修繕も困難か思ったくらいであったが、朝倉教授は余震の止まない、9月6日頃から、三日間、弟子両三名を引率して毎日出張して、遂々原型通りに完全に修繕をされた。修繕の箇所は記念のために特に着色せずに置いた位よく出来た』とあります。

中澤彦吉は実業家ですね。『ルノワールの亡くなる1919年に、ルノワール本人に会い、その年に描いた作品を買って戻って来たほどの収集家であった。』そうですが、その作品が失われたということでしょう。これはもったいない。
横浜の左右田氏とは経済学者の左右田喜一郎でしょうか。
高村氏とは高村光雲でしょう。光太郎の手記にこの話があったかどうか?
そして、朝倉教授とは朝倉文夫、この話は有名ですね。

最後に裏表紙もある「文房堂」の宣伝を載せます。

今もある上野の文房堂ですが、復興する人の力を感じさせる宣伝文になってますね。

2024年1月8日月曜日

中国によるチベット問題プロパガンダ彫刻「塑像群 《農奴の怒り》」







この 「塑像群 《農奴の怒り》」は、1977年に中華人民共和国にて発行された彫刻作品のカタログです。日本語で表記されています。
つまり、中国によるアートを用いた日本向けのプロパガンダ本なんですね。

複数人の共同制作作品で、中央五・七芸術大学美術学院教師及び潘陽魯迅学院の教師、そしてチベットの芸術家たちによるものと記されています。
等身大の人物像が106点、動物像6点、舞台のような構成がなされています。
赤茶色の像であるからテラコッタなのでしょう。

この作品は、抑圧されたチベットの民が中国人民解放軍とともに領主らに反乱、共産主義の道を歩んでいった姿を彫刻としたものです。
第一部に封建領主と、彼らによって牛馬にも劣る生活を強いられたチベット民を、第二部ではその現状を肯定し、それに反する民を苦しめぬくチベット寺院を、第三部では支配機構「ガシャ」を描いた構成となっています。最後の四部で農奴たちの反乱及び共産党への強い支持が描かれます。

彫刻として描かれた人々は、とにかく舞台映えする演出がなされ、あえて言えばカッコいい!
戦前は西洋美術を日本から西洋美術を学んだ中国ですが、この塑像群は日本的な表現というよりロシアプロパガンダ的な表現に見えます。
そんな表現をアジア人に用いて大成させた作品だと言えるでしょう。
ここまでアジア人を情熱的に、演技的なリアリズムで描いた作品、ここ日本では未だかつて無いと思います。
もしかしたら、今の北朝鮮にも無いのかもしれません。
プロパガンダであること、今のチベットで苦しんでいる人がいることを抜きにして語れば、とても奇妙でエネルギッシュで、魅力的な作品です。

私はここで戦前中のメダル等を紹介していますが、この作品たちの一部はプロパガンダであり、今回紹介した「塑像群 《農奴の怒り》」と同じものなんですよ。
ですからあえて「魅力的」と言います。
けれど、どこかの誰かを傷つけた、傷つけているモノであることを忘れないようにしたいですね。

2024年1月3日水曜日

安永良徳作 木彫花丈煙具

謹賀新年
皆さん地震は大丈夫でしたか?
我が家もかなり揺れましたが、誰も怪我無く、皆無事でした。
コレクションは木彫が若干破損、倒れたのブロンズ像には傷は無いよう、梱包されている作品の確認はまだできていません。
なかなかしんどい一年のはじめとなりました。

今年も少しづつコレクションの紹介をしていきます。
できることを一歩ずつですね。



さて、今年の一回目は構造社の彫刻家、安永良徳による煙管です。
昭和26年の作になります。
煙管は3本あり、ひまわり、菊、そして女性の顔が描かれています。
それとロシア語ですね。これが刻まれています。
(すいません、読めませんでした!)

安永良徳は昭和22年にシベリア抑留より帰国します。
そんな彼が、その数年後に木を削って作った煙管。
彫塑家でありながら、ロシア語を用いて削り上げた木彫。
もしかしたら、彼はこうした作品をシベリア抑留中にロシア人相手に作っていたのかもしれません。
確かに、こうした実用品を作ることのできる技術者は、日本人を管理するロシア人に重宝されていたと聞いたことがあります。
そういう人は、そうではない人よりも、生き残る確率が高かったとも。

そう考えると、なかなか重い作品に感じます。

2023年12月31日日曜日

黒田頼綱 作 「海」と「ゴジラ-1.0」




画家黒田頼綱による「海」です。
板に油彩。
裏側には「文展無審査 光風会会員 〇〇美術〇〇 陸軍美術協会会員 海洋絵画協会会員」と書かれています。
このことから、戦前の作品と思われます。

黒田頼綱は、1940(昭和15)年に近衛文麿内閣によって、対中政策のために設置された興亜院の委託で北京に、1943(昭和18)年には海軍報道班員としてフィリピン・ジャワなどに従軍しています。
板に描かれていることからも、このころに現地で描かれた作品なのではないでしょうか?


手元に1941(昭和16)年に開催された「第五回 大日本海洋美術展」のカタログがあるのですが、こちらにも海洋絵画協会会員であった黒田頼綱の作品が掲載されています。
この作品「ボートデッキ」も、船内を取材して描かれたのでしょうね。

この年の瀬に、この作品を紹介するわけ……
それは、ただ単純時に当時「海」を描いた「ゴジラ-1.0」について語りたいからでしかありません!
観に行きましたよ!

このゴジラが現れる海、実写部分とCGの組み合わせなんですよね。
真昼間のゴジラを至近距離で見られるだけでもすごいのに、それが海中ですよ。
黒田頼綱も見ただろう、そして描いた当時の日本の海を、こうして現代になって新たなメディアで描かれているわけですね。

ゴジラと言えば、私にとって東京というより海なんですよね。
60年代以降のゴジラがベースとなって人格形成されてからなのかもしれません。
南海に現れるゴジラ、海から来て海に戻るゴジラ、それがゴジラのイメージなんですよね。
そういう意味でも、「ゴジラ-1.0」は素晴らしいゴジラ映画でした。

演技が臭いとか言われてますが、こうして戦時の物を収集している私から言わせれば、この時代の「熱さ」を感じられる演出だったと思うんですよ。
それは浮かれていたとも言えるのかもしれませんが……

「ゴジラ-1.0」では、戦争に生き残った人々が、もう一度彼ら自身の「終戦」に向き合います。それは、戦後処理のやり直したい、あいまいであった日本の私たちに区切りを付けたいという、新しい戦時下となった令和の欲望なのではないでしょうか?
私自身、ここにこうして戦前戦中のメダルの記事を、誰から頼まれているわけでもなく書いているのですけど、これってどこかで「戦後処理のやり直し」って気持ちがあると思うのですよね。そういう意味で「ゴジラ-1.0」にリンクしてしまう部分があったんじゃないかと思います。

この映画は、かつてビートルズが、ブルースリーが、スターウォーズがそうであったように、文化としてのエポックメイキングになり得る作品だと、私は劇場を出るときに思いました。皆さんはいかがでしたでしょうか?

2023年11月3日金曜日

MADE IN SSAR(ソ連) ホフノマ塗の火の鳥

戦前の日本では、絵画や彫刻など西洋アカデミーによる上からのエリート主義的美術の受容と、児童画や農民美術等の民衆による、民衆のための西洋美術受容の異なる美術受容・教育がなされました。

大正期、その下からの西洋美術受容を進めたのが山本鼎です。
彼は、ロシアから自由画教育や農民美術を学びます。
日本の下からの西洋美術受容を支えたのが、ロシアであり社会主義国家ソ連の美術だったんですよね。

現在、ウクライナに軍事侵攻をするロシア。
私は、そんな国の姿に蓋をせず、観ていきたいと考えています。
そのため、そういった日本に影響を与えたロシアでありソ連の作品を集め、紹介していきたいと思います。まぁ、できる範囲でね。

で、まず今回紹介するのは、ロシアの民芸雑貨、ホフロマ塗りの器です。

現在も作られている木製漆器ですね。
スズと漆を重て塗りし、窯で乾燥させさらに塗ってを繰り返して金色に発色させます。
その歴史はこちらに詳しいです。
https://jp.rbth.com/arts/86854-rosia-no-mingeihin-hofuroma
形状は火の鳥。

この器は、菓子入れですね。
朱で縁とられ、底は金色で塗られています。
裏には「MADE IN USSR」と彫られています。


また、包み紙が残っており『満州資源開発紹介』『大興股份有限公司』『満洲土産品陳列所』『新京駅前』の文字が読めます。
満州の大興股份有限公司という会社によって販売されていた、お土産品だったようです。
満州でソ連製品を買って、日本に持ち帰った方がいたのでしょう。
戦争末期の混乱時には、そんなこと難しかったでしょうから、昭和の一桁あたりかもしれません。
もしかしたら、この器を参考に日本で新しい作品が生まれたかもしれませんね。

2023年10月22日日曜日

明治37年 清国水師営を描いた絵葉書用の石版


絵葉書の版として作られた石版ですね。
印の様な図には「第三軍 37‐9‐20 水師営」とあり、1904(明治37)年の清国軍の駐屯地を描いたものだと思われます。

版を紙越しに鉛筆で擦って、それを画像反転したのがこちら。
この版で描かれた1904(明治37)年に勃発した日露戦争によって、絵葉書ブームが起きます。
この版の絵葉書も、ご当地の絵葉書として、生の情景を描いた最新ニュースとして物凄い需要があったでしょうね。
ですから、このような多少稚拙な石版でも人気あったと思います。

石版による印刷をリトグラフと言います。水と油の反発作用を利用してインクを乗せていくのですね。材質は石灰石を用います。
けど、どうなんですかね?
この版だけでなく、多色のための別版があったのでしょうか?

また、石板の右端に「乙巳九月十三日 於清国顧家屯 大塚郡六彫刻」とあるので、この石板が制作されたのは、1905(明治38)年だとわかります。
中国の青島市「顧家荘村」において、「大塚郡六」という人物が彫った作品のようです。
「大塚郡六」についてはよくわかりません。

この版を用いた絵葉書が見つかったら、是非声をかけてください!

2023年10月16日月曜日

HOPITAUX JAPONAIS EN FRANCE メダル

今日の謎メダルです!



表には、日本赤十字社。ベッドに横たわる患者と、日本人医師と看護師が描かれています。
彫刻家の銘があり、「P. LENOIR」と記されています。
裏には、フランスと日本の国旗、「1914」、「1918」、「HOPITAUX JAPONAIS EN FRANCE 」とあります。
また横面には、「1970」「bronze」「France」と小さく刻印されてます。

P. LENOIRは、フランスの彫刻家でメダル作家であるピエール・チャールズ・ルノワール(pierre charles lenoir)だと思われます。
https://en.wikipedia.org/wiki/Pierre_Charles_Lenoir
彼は1879年パリ生まれ、1953年に亡くなっています。
このメダルでは、彼によって日本人が描かれているのですね~
ちょっと変ですけど。

1914年に第1次世界大戦が始まります。これに日本も参戦したため、日本赤十字社はロシア、フランス、英国に病院船と救護班を派遣し、傷病者の治療に当たります。
このメダルは、その功績を称えるものだったのでしょう。

横面の「1970」は再作成された年ですね。
日本とフランスの深い繋がりを確認するようなイベントに用いられたのかもしれません。
(万博?)

今、まさにいくつかの国で戦争が行われています。
その地で、こうした医療者たちが必死で働かれています。
頭が下がる思いです。
しかし、そんな彼らへの「顕彰」そのものが無くなる時が来ることを望みます。

2023年10月10日火曜日

柚月芳 作 石膏レリーフ


柚月芳は、1901(明治34)年、富山県朝日町生まれの彫刻家です。
富山県立高岡工芸学校を卒業して上京、小倉右一郎に師事し、東京美術学校彫刻科を出ています。
26歳でキリスト教の洗礼を受けて以来、キリスト教をモチ-フとした作品を制作します。
富山といえば、畑正吉や佐々木大樹等の著名な作家を生んだ地ですね。
この作家もそんな地元を愛した作家のようで、朝日町立ふるさと美術館でその作品を見ることができます。

画像の作品は、口づけをする男女を描いたもので、石膏作品です。
裏に「昭和十二年一月六日 於作者アトリエ贈典サル 柚月芳氏作 橋本有」と来歴が書かれています。
1937(昭和12)年で、柚月芳は36歳。
脂ののりきっている頃の作品でしょう。

これも、聖書の物語をモチーフとしたものなんでしょうか?
アダムとイブ?
男が天に指を指してるのも意味深です。
陽咸二の燈下抱擁に似てますね。1924(大正13)年の作ですから、10年後の作品ですけど、それでも時代的に”破廉恥”な作品には違いありません。
公には出せない作品故に個人に直接手渡したのかもしれませんね。

2023年10月1日日曜日

武石弘三郎ー人物と作品

2か月ぶりです!
今日から再開します。
これからも小さなコレクションの紹介していきます。

ですが今回は、ゆいぽーとで行われている「二葉アーツスクール2023 めだかの学校」のレポートです。『武石弘三郎ー人物と作品』と題し、新潟出身の彫刻家武石弘三郎について、新潟県立近代美術館の学芸員、伊澤朋美さんによる講義がなされました。
ここ「ゆいぽーと」は、妻の出身校である旧二葉中学校が前身で、そこには武石弘三郎による1942(昭和17)年制作の「竹内式部像」が現在も設置してあります。

この像の見学も行いました。





戦前の金属回収も敗戦時の銅像回収も免れ、隠すために土に埋められる等もされたこの像ですが、今はこの暗い木々合間に凛と座られています。
1メートル程しかない小さなサイズですが、威厳を感じまさせますね。

左手には日本書紀。
天皇に「尊王攘夷」を説いた人物であることを、昭和の戦時下で評するための銅像であり、つまりこういうカタチでの「戦争彫刻」と言えます。

その横には「紀元二千六百年 武石弘三郎作」と刻されています。
全国各地で行われた神武天皇即位紀元(皇紀)2600年の祝い行儀の一つとして、この銅像建立があったのだとわかります。

紀元二千六百年は昭和15年。
この像の建立が昭和17年ですから、企画が15年だったのか、それとも必要な物資がなくて延期されたのか、どちらでしょうね?
それと、金属提出を免れるために土に埋めたというエピソードがあるのですが、それも変な話で、敗戦まで埋められていたというの事なのでしょうか?
像の正面に2か所、ボルトで留められているのですが、これは取り外した跡?
色々気になりますね!

あと、私の持つ小さな銅像ですが、やっぱり武石弘三郎じゃないかも!
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2021/03/1918-kt.html

2023年5月29日月曜日

戦前メダルのカタログ

内外徽章製作所 No.40

内外徽章製作所 No.42

内外徽章製作所 No.44

内外徽章製作所 No.47

日本帝国徽章商会

サヌキ商会徽章製作所

アサヒ徽章製作所 No.85

市井のメダル制作会社によって配布されたカタログになります。
昭和に入り、メダルが一般化し需要も増えます。
制作会社も増えていく中で、差別化やクイックな対応、地方からのアクセスし易さ等の為にこのようなカタログが必要とされ、各社毎に発行されました。

中はこんな感じで、メダル原型の一覧が載っており、ここから選ぶことができます。

『御注文の栞』には、
『原型の彫刻料は四五圓及至七八圓位、』『裏面の原型彫刻料は......大凡三圓位より五六圓位の處で出来ます、特殊の彫刻は其の難易に依て実費を申受けます。』
『カタログの中から御擇撰御注文の場合は 掲載のもの全部何れも表面の原型彫刻料を要しませんご利用ください。』
等々と書かれています。

このブログでは、彫刻家によるメダルをメインに紹介していますが、こうした市井のメダルや造幣局製の公のメダル等もあります。
こうしたメダルに縦横に人々が関わり、立体的に戦前のメダル界が成っているのですね。