2017年12月7日木曜日

「豊橋軍人記念碑」神武天皇像

豊橋市の豊橋公園内にある弥健神社には、明治32年に制作された神武天皇像が奉られています。
この像を制作したのは岡崎雪声。
彼は鋳造師として知られ、西郷隆盛像や広瀬中佐像、竹内久一の日蓮上人立像も彼の仕事です。
また、初めて薪を背負った二宮尊徳像を造ったのも岡崎雪声と言われています。
豊橋の前芝小学校には大正13年に日本で始めて小学校に建てられた二宮尊徳像があります。ちょっと不思議な縁ですね。

さて、現在、美術博物館等が建てられている豊橋公園ですが、明治時期から終戦までは歩兵第18連隊の駐屯地でありました。
今でも門や哨舎が残っていて、見ることができます。

そして、この地に建てられたのが、この神武天皇像でした。
ただし、現在と異なり、高台の上にあって人々を見下ろしていました。
画像は、その当時、お土産品として3銭で販売された石版画です。
版元は豊橋の高木定友。
記念碑の高さ、7間5尺5寸(約14m)
像の高さ、8尺5寸(約2.5m)
石垣広敷10間4方とあります。

その姿を豊橋市美術博物館のサイトで見ることができます。

西郷隆盛の像が上野に建てられたのが明治31年、この像はその次の年の制作であり、日本の銅像の最初期の物と言えるでしょう。
そんな像を一目見ようと人が集まり、こうしたお土産が売られたのだと思われます。
版画の図にも、子連れなんかが描かれていますね。

豊橋市美術博物館のサイトにもあるように、この像は、大正5(1916)年に練兵場内の北側に移設され石垣は撤去されます。
その姿がこちら。コレクションの絵葉書から。
どういった事情で移されたのでしょう?
昭和の金属回収令時にも、天皇の姿と言うことで免れたろうこの像が、大正時代に平地に移動され、規模を小さくした理由が気になります。

2017年12月3日日曜日

畑正吉 作 台湾勧業共進会メダル


畑正吉による「台湾勧業共進会」のメダルです。
「台湾勧業共進会」は、大正5年(1916年)に、日清戦争によって清から日本に割譲された台湾の産業の発展と奨励を目的に行われた博覧会です。
教育、学術及び衛生、美術工芸、農芸畜産、林業狩猟、水産、飲食品、鉱業、工業、機械及び機関、土木建築及び交通、原住民と96種類に渡って当時の台湾の産業の展示がなされました。

このメダルの特徴はその図柄にあります。
中心に女神、足元には第一会場本館となった台湾総統府。女神は羽根を背負い、そこから太陽のように照らしています。
手にはカレー...ではなく、古代中国の酒器を抱えているのだと思われます。
ギリシャ、ローマの女神が酒器を抱えているように、畑は台湾のメダルのデザインに、古代中国の酒器を選んだのでしょう。

そして、なにより特徴的なのは、そのシンメトリーな姿です。
アール・デコの影響を感じさせますが、アール・デコは1920年代に花開いたデザイン様式ですので、畑の仕事はそれより速く、大胆にも「台湾勧業共進会」という大舞台にこの最先端の美を用いたのだとわかります。

また、この「台湾勧業共進会」では、付属会場の図書館に日本内地の美術工芸品が、また北白川宮の馬上像(石膏)が展示されていたようです。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssdj/48/1/48_KJ00001647619/_pdf
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00841549&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

北白川宮の馬上像といえば新海竹太郎によって制作され明治36年(1903年)に北の丸に建立された北白川宮能久親王銅像でしょうか?
この像は木彫原型ですので、そこから石膏にしたものを展示したのかもしれません。

他に台湾に渡った作品はどういったものだったのでしょうね?
畑の作品もあったのかもしれませんね。

2017年11月25日土曜日

Intermission 来年は明治150年!

来年2018年は明治150年にあたり、国を上げて関連イベントが行われるようです。

明治時期の作品の展覧会も多く開かれることだと思われます。
例えば、昨今流行の明治の超絶技巧、自在置物や牙彫、生人形。
これら以外のワードを上げれば、海外のモニュメント(銅像)との出会い、ラグーザとその教え子、彫塑の輸入、骨董輸出、廃仏毀釈、天心の仏像修理、高村光雲、石川光明...
こういったテーマでの展示がなされるのでしょうね。

しかし、これらは明治初期、文明開化時期のお話しなんですね。
そこで、私が上げてみたいテーマは明治後期、題して『知って!明治40年代の彫刻』展です。

明治40年は、高村光雲の息子、光太郎が欧州に渡り、帰国して「緑の太陽」を謳った時期になり、文明開化世代から交代が行われ、新しい世代が台頭します。

そして、特権階級ではない市井の日本人、美術家が海外へ渡りだした時代です。
例えば、明治41(1908)年に帰国した荻原守衛。
明治40(1907)年から43年にかけて農商務省海外実業練習生として渡仏した畑正吉。http://www.tobunken.go.jp/materials/hatapict

それから、当時の欧州で活躍した漆芸家、菅原精造。

明治40年に、日本人で初めてサロン出品を果たし、同年巴里で亡くなった本保義太郎。

少し時代が早いですが、明治36年に渡欧し、国立セーヴル陶磁器製作所に入所、明治43年 仏国政府より「アカデミー・ドゥ・オフィシヱ」勲章授与した沼田一雅。

こうした明治40年代渡欧組作家たちは、荻原守衛や光太郎のみ目立っているだけで、特に欧州を仕事の舞台と選んだ作家たちは、殆ど知られていないのではないでしょうか?

当時の日本の彫刻界がある程度層が広くなったことで、朝倉文夫や北村西望のような非留学組が政治力をつけてきます。
黒田清輝のような藩閥とは異なる作家達が、官展を舞台に台頭してきたわけです。
その結果、渡欧組作家が陰に隠れてしまったのでしょう。
また、渡欧組作家たちが当時まだ若かったことも理由かもしれません。

そこで、『知って!明治40年代の彫刻』展では、これら明治40年の渡欧組作家たちの当時の作品を展示したい!
渡欧による彼らだけでない、日本への影響を、そして欧米への影響を、更に若い彼らの時代的な繋がりを、その作品たちで現すわけです。

しかし!そこで一番問題となるのは、彼ら渡欧組作家たちの当時の作品の殆どが残っていないことなんですよね...
発掘..したいです...

メダルの魅力

小平市の平櫛田中彫刻美術館で行われていました「メダルの魅力」展、先週無事終わりまして、展示作品が戻ってきました。
コレクションをご観覧頂いた皆様、誠にありがとうございます。
関係者の皆様、色々ご迷惑をお掛けいたしました。
厚く御礼申し上げます。

今回の展示では、恥ずかしながら私の稚拙な文章を配布させて頂きまして、ご覧なられた方もあるかと思います。
この私にとっての「メダルの魅力」をまとめた文章を以下に記し、記録に残しておきたいと思います。

『-メダルの魅力に就いて- 

 メダルに刻まれた近代彫刻家たちの作品、これを「芸術だっ!」と声高に言う人ってあまり見かけません。メダルなんて物は記念品で複製品で、言うなれば旅行先で買ったお土産みたいなもので、ギャラリーや骨董屋で高いお金を出して買うものでもなく、わざわざ美術館で鑑賞するものでもなく、あくまでメダルを授与された個人の思い出の品でしかないわけです。
 茶道具などに対し「用の美」といった美意識もありますが、そういった美意識でメダルを見てみても、顕彰や記念と言った抽象的な使用しかできないメダルは、時折手にとっては思い出に耽るだけで、箪笥の奥に大事にしまい込まれてしまいます。その所有者が亡くなった時に「あら、お爺ちゃんたらっ、こんなもの大事にしてたわよ」なんていって出てきたメダルは、遺族にはどうでも良いものなので、捨てられるか古道具屋で売られるか、ネットオークションで格安で出されるかして、誰もそれが芸術だとは思いません。個々人にとっては大切なメダルも、ことさら「芸術」である必要などないわけです。かく言う私も、それはそれで良いのではなんて思いもするのですが、それでもメダルの持つ魅力を少しでも伝えたいなどと思い「芸術だっ!」なんて小声で言ってみるのです。

 メダルの美という物はなかなか人に伝わりづらい。どうも私たちはこういったメディアの芸術を自身で評価しづらくしているようです。その理由はいくつかあると思うのですが、その一つは、メダルに用いられる浮彫りという形態にあるのでと思っています。
 わが国において、浮彫りというのは何故か評価が低いようです。例えば古今東西の彫刻展において、浮彫りをメインにした、または浮彫りのみの展示ってあったでしょうか?彫刻家の代表作に浮彫りが挙げられるってことはあるでしょうか?思うに、立体美術としての彫刻、平面美術としての絵画、その中間と見られる浮彫りは、高度な技術が必要ながらも「芸術至上主義」的な視点から蝙蝠のように曖昧なものとして一段低く扱われてきたのではないかと感じます。さらに、そんな浮彫りと建築とは一緒に商業デザインとして用いられ、それ故更に「芸術至上主義」から嫌われます。

 次の思うのは、商業デザインであるメダルは、複製技術による芸術であるという点です。同じ複製芸術でも版画はそれだけで独立した芸術の分野であり、エディションを付けコントロールされます。しかしメダルはあくまで顕彰や記念を目的とした物です。その必要に応じて複製、販売される物であって、彫刻の二次使用だと考えれます。よく考えれば、原型から石膏型を取って制作される彫塑も、全て複製芸術であると言えるのですが、この「二次使用」と言う点で一線が引かれるのです。
 しかしながら、それを手にとって見れば、その当時の若い彫刻家たちの生き生きとした仕事っぷりや生きてきた時代を感じることができます。メダルに込められた美意識に思いを馳せ、そして今、それを美しいと感じることができるのです。

 まずは、私自身がどうしてメダルの美に取り憑かれたのかをお話します。馴れ初めですね。私自身、若い頃は彫刻家を目指していました。と言ってもコンテンポラリー・アートにとって「彫刻家」なんて死語でしかないのですが。
そんな仕事をしながら名古屋の老舗ギャラリーに勉強がてらバイトをしていまして、そこで熟年彫刻家達(彫刻家にとって四十~五十代は若手です。)のお話を多く聞く機会に恵まれます。そんな話から、彼らの若い頃に影響を受けた作品や作家、「もの派」や「アンフォルメル」、「読売アンデパンダン」等々を知り、そこから自身の彫刻観がどうやって培われてきたものかを知りたくなり、日本近代彫刻史に興味を抱き始めます。

 まずはと、日本美術史の本をぺらぺらめくってみれば、ふむふむ明治9年にヴィンチェンツォ・ラグーザが明治政府に招かれ工部美術学校でお雇い外国人教師として教鞭をとる…と、工部美術学校が廃校後は、岡倉天心によって高村光雲らが東京美術学校にて教え、また明治40年には官展である文部省美術展覧会が開かれ、美校出の朝倉文夫や北村西望らが活躍する。また在野では日本美術院の平櫛田中ら、二科展の藤川勇造らによって推進され、更に明治41年に帰朝した荻原碌山や高村光太郎がもたらしたロダニズムは、日本彫刻界に大きな影響を与え、戦後に活躍する本郷新や佐藤忠良らを生んだ…。
 あれっ?これだけ?日本近代彫刻史ってこれだけなの?そんなことを思いました。

 しかし昨今、そんな彫刻史では語られなかった当時の作家と作品の展覧会が少しずつですが行われてくるようになりました。中でも平成17年に宇都宮美術館等で行われた「構造社展 昭和初期彫刻の鬼才たち」は、美術史の中でほとんど語られることの無かった大正から昭和初期までの若い彫刻家達の仕事をつぶさに示し、私の近代彫刻史観を変えたとも言える展覧会でした。「構造社」は1926(大正15)年に齋藤素巌や日名子実三らによって結成、「彫刻の実際化」を標榜し、当時市井の社会からかけ離れてしまった純美術としての彫刻との結びつけを目指します。特に建築と彫刻の融合を「綜合試作」として各展覧会で発表、またメダルやレリーフなどを「雑の部」とし、多くの研究を行います。参加した作家には、先に上げた齋藤と日名子の他に、陽咸二や荻島安二、後藤清一、寺畑助之丞、中牟田三治郎らがいます。齋藤素巌は欧州帰りで日本彫刻界の一匹狼。師である朝倉文夫に反旗を翻した日名子実三。日本彫刻界を縦横無尽にひた走り、展示拒否をも食らった陽咸二に、近代日本マネキンの創始者である荻島安二と、一癖も二癖もある作家による「構造社」が面白くないわけがない。
 そのカタログにはそんな構造社作家が原型を作製したメダルが載っていまして、私にとってこれが近代彫刻家によるメダルとのファースト・コンタクトであり、初めて体験する彫刻世界でした。

 メダルをメディアにした彫刻家たちの作品は、商業と芸術という「芸術至上主義」にとって矛盾する二つを繋げるものでありながらも、彫刻家の息吹が感じられるような生き生きとした作品に感じました。私はこのメダルという作品を、彼らの立体作品以上に面白く感じられたのです。では、そんな私が自身のコレクションを見る時、どうしているのかをお話します。

 メダルの美は他のメディアと異なり、三つの要素が絡み合ってあると考えています。そこで一つのメダルを例にとり、その魅力をお伝えしたいと思います。
 例とするのは1933(昭和8)年に行われた第七回明治神宮体育大会の参加記念章です。

 まず一つ目の要素として上げるのは、メダルが用いられたイベントの歴史性です。何を顕彰または記念する為に作られたメダルであったか。例に挙げた「明治神宮体育大会」は、当時に於けるスポーツの最大の祭典でありました。スポーツは、明治維新後、彫塑がそうであるように西洋から輸入されたばかりの最先端の文化でした。

 明治維新によって、日本に多くの西洋文化が流入します。西洋先進国と同等となるために、国家規模での文化改革が行われました。スポーツもそういった文化の一つであり、水泳やマラソン、登山などが、一般市民に浸透していきます。1911(明治44)年には日本で初めて国内選考会が開催され、短距離の三島弥彦と、マラソンの金栗四三の二人が日本代表としてストックホルム大会(1912年5月5日~7月27日)に参加します。また1913年(大正2年)からの極東選手権競技大会への参加をはじめ、国際大会への積極的な参加を行っていきました。
 国内においては、1903(明治36)年には早稲田と慶応両校の野球大会、いわゆる早慶戦が行われ、社会の関心を集めるようになります。野球だけでなく、水泳やマラソンなど、アマチュア競技団体や新聞社などの主催する多くの競技大会が行われるようになります。1920(大正9)年には東京箱根間往復大学駅伝競走の前身となる大会が行われ、また現在の国民体育大会の前身となる明治神宮競技大会が、1924(大正13)年から1943年にかけ十四回にわたって行われます。陸上競技やサッカー、ラグビー、水泳に、戦時下の明治神宮国民練成大会では、銃剣道や行軍訓練まで行われます。そして、こういったイベントにメダルが用いられるようになります。その原型を依頼され制作したのが当代の彫刻家たちでした。
 メダルだけでなく、スポーツそのものを題材とした彫刻も多く作製されるようになります。当時のオリンピックには、芸術競技という美術作品の優越を競う種目があり、前述した1912年のストックホルム大会から1948年のロンドンオリンピックまで計七回行われます。日本の彫刻作品での参加は、1932年(昭和7年)ロサンゼルス大会で、「日本オリムピツク美術委員会」には、池田勇八や豊田勝秋、高村豊周、藤井浩祐、藤川勇造、齋藤素巌らが彫刻家として参加、「本邦美術の枠を国際場裡に展観して大いに日本文化を宣揚せんとした」ことを目的にオリンピック参加を表明します。出品作家は、池田勇八、藤井浩祐、北村西望、日名子実三、濱田三郎、長谷川義起、宮島久七、武井直也、川崎栄一らでした。
 しかし、これら彫刻家の作品の海外での評価は低く、有島生馬は「全落の醜態を演じた」とコメントを残します。続くベルリン大会でも出品作家はほぼ前回と同じ顔ぶれで、ただし、結果としてこの大会ではドイツを含む枢軸国に多く受賞がなされ、日本も三等賞を二つ、彫刻では長谷川義起の「横綱両構」が等外佳作となりました。

 現在でもフィギュアスケートやシンクロナイズド・スイミングに芸術点と言われる良くわからない採点がありますが、当時はよりスポーツと芸術とが近い関係にありました。それを伝えるのが彫刻家によるメダルなんですね。また、スポーツ以外では明治維新後に西洋からもたらされた文化として写真技術があります。アサヒカメラのコンテストなどによって素人写真家の裾野が広がり、そこで行われた写真コンテストの賞牌としても、多くの個性的なメダルが作られます。

 さて、二つ目の要素は、このメダルの原型を制作した彫刻家の魅力です。その彫刻家の名前は日名子実三。彼は先に述べたように朝倉文夫の下で学び、東京東京美術学校を首席で卒業後、1919(大正8)年には「晩春」が帝国美術院展覧会に入選する等、若くして頭角を現します。1923(大正12)年に起きた関東大震災を経験したことで芸術の社会的な働きかけの必要を痛感し、齋藤素巌と共に「構造社」を立ち上げます。
 しかし、時代が戦争に向かう中で、社会との結びつきを求めた日名子は、次第に戦争彫刻家としての名を成して行きます。代表作は現在も宮崎県に建つ「平和の塔」もとい「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」です。(この塔は戦後「平和の塔」に改称され、また正面にあった秩父宮雍仁親王の揮毫「八紘一宇」も撤去、ロッククライミングの練習場代わりに使われるほど荒廃しますが、現在は当時の状態に戻されています。)また、戦時下のメダルも数多く制作します。特に有名なメダルが、「支那事変従軍記章」で、正面に二足の八咫烏(やたがらす)が描かれています。
 日名子は、終戦の年の1945(昭和20)年4月に脳出血により死去、戦後を見ることなく亡くなります。その為か、同じく戦争美術作家の代名詞とった藤田嗣治と異なり戦争責任の糾弾も受けず、戦後は忘れ去られた作家となります。
 日名子実三は都会的で近代的な自我を持つモガ、そして労働者を描きます。その一方で神話の神の姿をリアルに描きます。優雅なモダンとその延長上にあった全体主義的な国威発揚。その二つが組み合わされたまさに日本の近代史を語っているような作風です。ヒットラーを生んだワイマール憲法が当時に於いて最新鋭の憲法だったように、かつてモダンは全体主義の兄弟、または表裏の関係にありました。そう、彼はこの時代を写す鏡のような彫刻家だったと言えるでしょう。

 三つ目の要素は、メダルに描かれたモチーフの魅力です。この第七回明治神宮体育大会の参加記念章で描かれた像は、第十三代出雲國造(出雲の国の統治者)であり、またの名を襲髄命(かねすねのみこと)こと「野見宿禰(のみのすくね)」でした。垂仁(すいにん)天皇の時代、当麻蹶速(たいまのけはや)と野見宿禰による御前相撲が執り行われ、勝った野見宿禰は朝廷へ仕えます。この故事より「野見宿禰」は相撲の神として祭られるようになります。明治神宮体育大会では相撲も競技の一つであり、また神事としてのスポーツといった見方から、このモチーフが選ばれたのだと考えられます。

 肉感的なその像は、仏像のような形式から離れたリアリズムを持って神の姿を写し取り、蹲踞をする両足は地に根が張っているようです。同時代のナチス政権下の男性彫刻像がどこか三島由紀夫的なエロチシズムが感じられるのに比べ、「野見宿禰」像は労働者の肉体のように愚直な男の美の姿を描いたものだと言えるでしょう。髪は角髪(みずら)で、中央で二つに分けて、耳の横でそれぞれ括って垂らします。この姿は幕末まで少年の髪型としてありましたが、出土した埴輪の形から古来に用いられた髪形であることがわかっています。そういった考古学的な情報が昭和初期には共有してあったのでしょう。このメダルの「野見宿禰」像は、江戸時代後期から明治時代に刊行された伝記集「前賢故實(ぜんけんこじつ)」に描かれた姿をベースに、考古学的な情報を加え、作られた姿だと言えそうです。
 ちなみに江戸時代の浮世絵に描かれるような神の姿は、ほとんど武者絵でした。神主が鎧と着物を着ているような姿です。それ以降は、例えば1890(明治23)年 に制作された竹内久一による巨大な木彫「神武天皇立像」は明治天皇の姿を基にし、原田直次郎が1896(明治29)年に油彩で描いた「騎龍観音」では欧州の宗教を参考に観音が描かれます。また、1907(明治40)年の東京勧業博覧会に出品された中村不折の絵画「建国刱業」は、猿から人へ進化の途中であるような古代の人の姿で神を描き、「我が皇室の尊厳を冒涜する恐れあり、又秩序を紊乱する嫌ある」と九鬼隆一に非難されるような出来事もありました。このように歴史を積み上げながら、誰も見たことの無い「神」の姿が日本人の共有するイメージとして成り立っていきます。
 しかし、元来日本人は神の姿を描くことを禁忌(あるいは思いもしなかった。)としてきました。仏教以前に神の姿を描くことは無く、仏教伝来以降に仏像の影響と、本地垂迹による神と仏の融合によって神の姿が描かれるようになります。明治維新後、国家神道はオラが村の神さんを神道の体系の中に組み込み、日本の神の物語を共有させます。それに伴い、人々は神の姿をビジュアルとして希求するようになっていったのでしょう。そういう需要と、日名子の彫刻観が重なり、神をリアルな筋肉男として描くことになったと思われます。

 また、「野見宿禰」は墓陵での殉葬を取り止め、代わって埴輪を納めるたことから、彫刻としての像(埴輪)の創始者と考えられ、彫刻の神ともされました。日名子は野見宿禰が埴輪を持つ姿を描いたメダルも制作しています。彫刻家であった日名子にとって野見宿禰は特別な神であったと思われます。その姿をスポーツの祭典であった明治神宮体育大会に用いたいと考えたのでしょう。このメダルの背景には明治神宮が描かれています。明治神宮の前で蹲踞を行う姿、それがまさにこの大会のスポーツが神事であることを強調しています。日名子実三はそういった想いをこのメダルに込めたのでしょう。

 これまで述べた様に、歴史性、作家性、そしてモチーフの三つの要素がメダルを魅力的にさせます。これは純粋芸術としての彫刻とは異なり、彫刻家の目を通してダイレクトに社会と人と、その歴史に繋がります。メダルを手に取ったとき、その繋がりを一瞬で感じることができるわけです。
 ただし、注意したいのは、これらメダルの時代と言える明治後半から昭和の初期にかけては、戦争の時代であったことです。私はメダルの魅力を「生き生き」しているからだと述べました。この「生き生き」は戦争の時代の産物だとも言えるのです。日中戦争が始まる頃には、大正時代にあった退廃美が影を潜め、当時の言う「健康」美が推奨されます。その中で、高村光太郎が詠ったような、朝倉文夫が著書で述べたような戦争賛美が語られ、そしてその表現は「生き生き」しているのです。
 戦争画(戦争記録画)に対して画家が自主的にのめり込んで行った様に、人はこの時代をよき事と考え、自らの立場の中でそれを表現していきます。私はそれを断罪するつもりはありません。高みからそれを評価するつもりもありません。ただ私が美しいと思うものには、そういった影があることを忘れてはならないと思っています。そして、私たちの同胞が経験した「生き生き」した時代の表現を、これからを生きる人たちの糧となることを願います。』

2017年11月19日日曜日

水連四十年史より、日名子実三の矛

先日、地元で行われましたイベント、マーケット日和に出店し、私の古本のコレクションを一部販売しました。
当日は、かなりの人出で、娘と共に楽しい一日を過ごしました。

売ってばっかりでは寂しいので、私も購入したのがこの「水連四十年史」。
100円で購入しましたが、売主は手放したくなさそうでした!

大正13年に創立した日本水泳連盟の歴史が書かれた本です。
その冒頭に、水連のシンボルマークの説明が書かれていました。
『日本水連のマークは昭和6年、第1回日米水上が神宮プールで開かれ、各種目に一流彫刻家の手になる優勝トロフィを出し、4百リレーのは日名子実三のネプチューンのホコであった。(写真)そのホコの先端の形を水の文字に図案化し。この年から公式マークとして使用しだした、』
とあります。
水連のシンボルマークは、日名子の作品をモチーフに作られたのですね。

ただ、日名子がデザインしたサッカーJFAの八咫烏は現在も使用されているのですが、現在の水連のマークはこの形ではありません。
少し、残念。

ちなみに第一回日米対抗水上競技大会は、日名子のメダルも使用されています。
また、そのネプチューンとホコをモチーフとした早慶対抗水上競技大会のメダルもあります。

上記の記事にあるように、第一回日米対抗水上競技大会の各種目のトロフィ制作に彫刻家が参加したことに興味がわきます。
どんな作家が参加し、どんな作品を作ったのでしょう?

2017年11月13日月曜日

荒谷芳雄作「古墳時代」絵葉書

とても奇妙な作品です。
埴輪を模した女性像とでも言うのでしょうか?

作家は荒谷芳雄。作品名は「古墳時代」で、1929(昭和4)年に行われました帝国美術院第十回美術展覧会での出品作です。

これまで高村光太郎らの「埴輪の美」や後藤清一の作品などで埴輪について語ってきましたが、この作品はまた毛色が違います。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2013/02/blog-post.html

戦前、埴輪の美が取り上げられたのは、それがモダニズムと結び付けられたからでした。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/03/intermission_21.html

しかし、この「古墳時代」は、もっとプリミティブなものとして埴輪を考えているように思えます。
南洋文化の彫刻や黒人彫刻への評価と繋がっているようです。

この作品は、埴輪の形状を維持しながらも人体構造を抽象化して表し、くねって動きを与えています。
現在の私たちから見れば土偶に類似を感じます。

また、埴輪ではあまり無い女性像としたのは、こういったプリミティブ彫刻の影響なんでしょうか。それとも帝展という裸婦の乱立する展示に合わせてでしょうか。
サイズも気になります。焼き物の様ですが、どのくらいのサイズを焼き上げたのでしょう?大型の作品が入選した帝展ですから、実際の人のサイズ程はあったのかもしれません。

作者については、上野製作所標本部技師で、博物館の展示物を作る本職だったようですが、詳しい事は不明です。
まったく奇妙な作品で、現存しているのらなら是非拝んでみたい!

2017年11月12日日曜日

日名子実三 作 主婦之友社「軍人援護会長賞」楯 

久しぶりに日名子の楯を手に入れました。
財団法人 文化事業報国会 主婦之友社による「軍人援護会長賞、建気なほまれの会表彰」です。

この記念楯には年号がありませんが、財団法人 文化事業報国会の成立が昭和16年なので、そこから昭和20年までの4年間に使用された物だ推測します。

左上に日名子実三の銘があります。
描かれたのは、楠正成楠の嫡男、楠木正行(くすのき まさつら)。
楠木正行は、四條畷の戦いで足利側の高師直・師泰兄弟と戦って敗北し、弟の正時と共に自害したとされています。
太平記には、この合戦に赴く際、吉野の如意輪寺の門扉に辞世の句を矢じりで彫ったと言う物語があり、このレリーフはその姿を描いたものだと思われます。
中央には、その辞世の句が描かれています。

「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」


戻らない梓弓の如く、我々も生きて帰ることはない。死んで名前をここに残す。
と言った内容でしょうか?

楠正成楠の像と言えば皇居外苑が有名ですが、彼の銅像は戦中、二宮金次郎像と並んで数多く造られています。
そういった中でその子楠木正行の像というのは珍しいですね。

ここで楠木正行が選ばれたのは、主婦の友社によって銃後の女性や子供たちを顕彰した「軍人援護会長賞」ならびに「建気なほまれの会表彰」であることがその理由ではないでしょうか。
つまり、楠正成楠の意思を継ぎ、その背中を追いかける正行の姿に、前線で亡くなった者の意思を継ぎ、銃後を守る女性や子供たちの姿を重ねさせたのでしょう。

そう、辞世の句の心持を銃後の人々に訓示しているかのような楯なんですね。
この日名子の楯は、言葉と物語とその彫刻作品とが、がっちり合った完全なプロパガンダであり、それでいて、作品として美しい...
私の持つ日名子作品の中でも一級品の一つだと思っています。

2017年11月5日日曜日

「国民美術」大正13年発行 畑正吉「芸術の時代様式」

国民美術協会発行、美術雑誌「国民美術」大正13年発行 第壱巻 第弐号 通巻第二百四十二号、これに畑正吉が「芸術の時代様式」という文章を寄せています。

この文章は、確か現代の本に再録されていたような。どうだったかな?
ここでもう一度再録するのも面白いのですが、大切なのは畑正吉が何をどう考えていたのかですので、ここは概要にしたものをお伝えし、畑の思想を理解してみたいと思います。
と言っても、私が訳しますので、理解が及ばない部分もあるでしょうが、そこはスミマセン。


芸術の時代様式
 畑正吉 ブログ主(訳)

私たちは、古代の遺物や非欧米文化の製作物や子供の作品を鑑賞すると大いに感銘を受け、共鳴します。
そして、芸術のありがたさを教えられ、真の芸術は時代を超越し永久の生命を持っていると信じるわけです。

ただし、時代は水の様に流れ続け、同じ所にとどまりません。
美術を愛する人は過去の時代の芸術に憧れ、研究し、そこに戻るべきだと論じることもありますが、それはそういった愛好者の個性であって一面の見方に過ぎないと私は思います。

芸術家は、過去の芸術を研究し、これによって大自然の尊さを感受し、自身の作風の一要素とするべきでありますが、それと全く同じに達しようとするのは不可能なのです。

無垢な子供の作品は、ある点で原始時代の素直さを持っていると言いますが、それもある点でしかなく、私たちは煩悩を抱えた現代社会の中で生きていくことしかできません。
しかし、私たちは煩悩のみを抱えて生きているわけではありません。それは、私たちが過去の芸術に触れることで感銘し、共鳴していることでわかります。
もし私たちがただ不純であるならば、芸術は時代を超越して永い生命を保つことはできないでしょう。
私たちは、煩悩(不純)の社会で「真」を持って生きているのです。それを私は「人間芸術的本能」の真情と名付けます。

この真情は有史以来現代に至るまで、そして未来永劫あり続け、さらに螺旋状にあって、始まりあれど終わりはないものです。
純(プユール)であった始まりは、時代の推移によって複雑になり、重なりあってその輪郭ができあがります。
その中で多少の屈折はあっても真情は連綿として変わること無く進むのです。

真情が変わること無く進むのに何故各時代の芸術が多種多様であるか、これを論じるのに私の「工芸芸術の独立」論をもってお答えします。

真の芸術は時代を超越して永久の生命をもち、それゆえ敬意を払われるものです。
しかも、それらの芸術は、その時代の社会意識、時代思潮の影響を受け反映されます。
その両方を統合したものがある時代の様式として現れるのです。

これを後世から見て、様々な様式の展開のみに目を奪われ、時には真情さえも見えなくなっているとき、それは(良い意味での)迷いなのです。
人は迷わされ、時には行き詰まり、そのお陰で真情を進みながらもなにか新しい物を産すことができます。
人種、気候、風土によっても異なる特色として現れます。
ギリシャやローマの作品を復興したルネッサンスといえど、それはその当時の複製ではなく、ルネッサンスの芸術として優れているです。

よって私たちはそういった真情を辿れば、すぐにでも原始時代やギリシャ、ローマの他、どんな時代の芸術でも感受することができるのです。

つまり、様式とは真情を包んだ時代思潮の反映なのです。故に私たちは無意識的に時代様式を産み続けていると言えるのです。
しかし、ただ単に古来の作品を複写するもの、開祖の様式を受け継いで行っているもの、これは時代思潮を無視した複写でしかないと言えます。

また、工芸製作の時代様式については、これが実用と装飾とを併用するものであり、その用途にたいし約束ごとがあります。
その約束ごとが人の生活に必要な形式となって永い年月をもって形式として形成されていきます。
そして工芸作品は、その形式の範囲において芸術の自由があり、多様に変化して時代思潮を遷した様式となって現れるのです。
それを形式に囚われた様式だと断じるのは誤りなのです。
そう、真情を隠して時代思潮の衣を被った工芸芸術であれば、永遠の命を保ち、永遠に敬意を払われるものとなるのです。
(おわり)


畑正吉の主張は、工芸もまた、大文字の芸術の一つだと言うことでしょう。
そのために古代美術や児童の作品を持ってきて、芸術の範囲を大きく広く表すところに畑の思想のダイナミズムを感じます。
所謂アールブリュットをも芸術史に含もうとしているのですね。
そのダイナミズムが後半の「工芸芸術の独立」論でややトーンダウンしているように思えます。

それと、実はこの文章の次頁は高村豊周が工芸そのものを評価する文章を載せています。
豊周は、工芸部門が帝展に編入されたことでの工芸界のアレコレを書いているのですが、ことさらそれを他の芸術と比べることはしていません。
それと比べてみると、畑は、工芸を「芸術」に近づけようと考えているとわかります。
つまり、工芸は「芸術」でなはないことが前提なんですね。畑はその橋渡しをしているのです。

そこから、鋳金等の確立した価値体型を持っている豊周と違い、純粋美術と工芸の合の子的なメダル等を仕事としてきた畑正吉の立ち位置が見えてきます。
その場所に一生立った畑の想いを含め、この文章を再度読めば、文中に収まりきらない彼の叫びが聞こえてきます。

2017年11月3日金曜日

小平市平櫛田中彫刻美術館でのトークイベント無事終了

トークイベント、無事終わりました!



もっと私のトーク力を磨かなければなぁ~等々、思うこともありますが、まぁ、なんとかなったかな?
館長さんが、藤井浩祐の帯紐を着けていらっしゃって、とても素敵でした。
こうやって現役で使っているのは良いですね。

メダルの展示は、とても美しく展示がしてあってありがたく思いました。
他のコレクターの作品もありまして...これがとても良い物でして....羨ましい.

翌日は生憎の台風で、楽しみだった神田の古書市の屋台は中止…
けれど、古書会館では4冊の雑誌を買えました。
大正13年の「国民美術」1冊、大正14年が2冊、それに昭和16年の「造形芸術」。
「国民美術」には、畑正吉、朝倉文夫、石川確治、小倉右一郎、「造形芸術」には本郷新らの文章が載っています。
けっこう面白いので、それぞれの内容をこのブログで書いていくつもりです。

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
現在、小平市平櫛田中彫刻美術館にて「メダルの魅力展」開催中!
来週12日までです。
http://denchu-museum.jp

2017年10月20日金曜日

28日はトークイベント!!

現在、小平市平櫛田中彫刻美術館にて「メダルの魅力展」開催中!
来月の12日までです。
http://denchu-museum.jp
展示されているメダルを掲載したカタログや私の書いた冊子なども置いてあるそうです。
是非、お越しください。

前にお話ししましたように、来週の28日(土)は13時30分より、私のトークイベントが行われます。
現在、色々仕込み中。
と言いますか、つっこまれないように色々勉強中...
気軽にお越しください...ね。

では、皆様に会える日を楽しみにしています!!

2017年10月14日土曜日

近代日本メダル史

明治期から太平洋戦争終結までの間の日本メダルの歴史をまとめてみました。
今後も、この忘却された美術史をさらに深く掘り下げていきたいですね。

年代 出来事
1867年(慶応3年) パリ万国博覧会にて、薩摩藩が日本の代表を称し、フランスのレジオンドヌール勲章を摸した「薩摩琉球国勲章」を制作、ナポレオン3世以下フランス政府高官に贈る。
1869年3月17日(明治2年2月5日) 新政府の太政官中に造幣局が設置される。
1869年(明治2年)7月 彫金家加納夏雄とその門下益田友雄は新1円銀貨貨幣の図案及び見本貨幣を試作する。
1871年10月15日(明治4年9月2日) 政府が賞牌(勲章)制度の審議を立法機関である左院に諮問する。
1873年(明治6年)3月 細川潤次郎、大給恒ら5名を「メダイユ取調御用」掛に任じ勲章に関する資料収集と調査研究に当たる。
1875年(明治8年)4月10日 賞牌欽定の詔を発して賞牌従軍牌制定ノ件(明治8年太政官布告第54号)を公布し勲等と賞牌の制度が定められる。
1875年(明治8年) 有栖川宮幟仁親王以下10名の皇族が叙勲される。
1876年(明治9年) 台湾出兵の功により西郷従道が勲一等に叙された。また同年には、清国との交渉に功のあったアメリカ人のルジャンドルとフランス人のボアソナードが最初の外国人叙勲として勲二等に叙される。
1876年(明治9年)10月12日 正院に賞勲事務局(同年12月に賞勲局と改称)を設置し参議の伊藤博文を初代長官に、大給恒を副長官に任命する。
1876年(明治9年)11月15日 太政官布告により、賞牌は勲章(従軍牌は従軍記章)と改称される(明治9年太政官布告第141号)。
1877年(明治10年)8月 第1回内国勧業博覧会開催。加納夏雄による龍紋章賞牌が制作される。
また、博覧会の第1類其の3として貨幣やメダルが展示される。
1890年(明治23年) 武功抜群の軍人軍属に授与される金鵄勲章(功一級から功七級の功級)が制定される。
1894年(明治27年) 日清戦争勃発。
1902年(明治35年)3月 新海竹太郎が太平洋画会展に「少女浮彫凹型」及び「婦人メダル用原型」を出品する。
1903年(明治36年) フランスから東京美術学校に、メダル作成の為に用いるジャン・ビエー式縮彫機が導入される。
1903年(明治36年) 第五回内国勧業博覧会の名誉賞杯として、海野美盛が縮彫機を用いてメダルを制作する。
1903年(明治36年) 萩原守衛が生活したニューヨークのフェアチャイルド家にて、フェアチャイルドを描いたメダル原型を制作する。
1904年(明治37年) 日露戦争勃発。旅順港のロシア艦隊を日本海軍駆逐艦が奇襲する。
1904年(明治37年) フランスから造幣局にジャン・ビエー式縮彫機が導入される。
1904年(明治37年) 海野美盛が欧米遊学より帰朝する。東京彫工会主催第19回彫刻競技会にて、欧米のメダル原型や各国のメダル標本等を参考出品する。
1910年(明治43年) 造幣局の甲賀宣政、ベルギーにて「万国銭貨学大会」に参加する。
1910年(明治43年) 造幣局にてジャン・ビエー式縮彫機を用いたメダル作成が始まる。
1910年(明治43年) 戸張弧雁が太平洋画研究所彫塑部に入り、メダル原型を制作する。
1911年(明治44年) 大日本体育協会が創立。初代会長として嘉納治五郎が就任。オリンピックや極東選手権大会などに選手を送る。
1913年(大正3年)2月1~6日 マニラにて第一回極東選手権競技大会が行われる。
1915年(大正5年) 高村光太郎による園田孝吉銅像完成。同じく記念メダルを制作する。
1915年(大正4年) 畑正吉が、造幣局の賞勲局技術顧問(嘱託)として記念メダル彫刻を手がける。
1916年(大正6年) 斎藤素巌が英国ロイヤル・アカデミーを修了し、帰朝する。
1918年(大正7年) 日名子実三が東京美術学校を首席で卒業。メダル制作を始める。
1920年(大正9年) ベルギーで開催されたアントワープ五輪にて、熊谷一彌選手がテニスのシングルス・ダブルスともに準優勝し、日本人初の2つの銀メダルを手にする。
1923年(大正12年)9月 関東大震災起きる
1924年(大正13年) 第1回明治神宮競技大会開催。1943年(昭和18年)の14回大会まで行われる。
1926年(大正15年) 齋藤素巌や日名子実三によって構造社が組織される。
1926年(大正15年) 写真雑誌 アサヒカメラ 第1巻発刊。写真コンテスト賞牌メダルの需要が生まれる。
1927年(昭和2年) 「第一回塑像展覧会 構造社」が開催される。以下ほぼ毎年行われる。
1928年(昭和3年) オランダのアムステルダム五輪に出場した織田幹雄選手が陸上男子三段跳で金メダルを獲得する。記録は15m21cm。
1932年(昭和7年) ロサンゼルス五輪の芸術競技大会に日名子実三らが出品。長永治良による版画「虫相撲」が等外佳作として入賞。
1935年(昭和10年) 日名子実三や畑正吉らによって第三部会が組織される。
1936年(昭和11年) ベルリン五輪の芸術競技大会参加。長谷川義起の彫刻「横綱両構」が等外佳作として入賞。
1937年(昭和12年) 日中戦争(支那事変)起きる。
1937年(昭和12年) 学術、芸術上の功績があった者に対し授与される単一級の文化勲章が制定される。
1940年(昭和15年) 予定されていた東京での夏季オリンピックが取止めとなる。
1940年(昭和15年) 第三部会が国風彫塑会と改称される。
1941年(昭和16年) 太平洋戦争(大東亜戦争)始まる。
1945年(昭和20年)4月25日 日名子実三、脳出血により死去する。
1945年(昭和20年) 終戦。 

2017年10月8日日曜日

藤井浩佑作「第14回全国選抜中等学校野球大会」バックル

藤井浩佑による「第14回全国選抜中等学校野球大会」バックルです。
現在ある春の選抜高校野球大会にあたる大会で、第14回の皇紀2597(昭和12)年に行われた本大会では、大阪の浪華商(現在の大阪体育大学浪商高等学校)が優勝しました。

このバックルは、その大会の記念品として制作されたものだと思われます。


作家の藤井浩佑はこのバックルと同じモチーフで夏の高校野球大会のメダルや、幾つかの立体の彫刻を制作しています。
よほど気に入ったモチーフだったのでしょうか。

ただ、野球をやったことのある方ならアレッ?って思うかもしれません。
いや、逆に違和感抱かないかな?

というのも、このモチーフの選手は、左手を右手の上でバットを握り、右足を前に大きく踏み出しています。
つまり、これは左打席に入った左打者が、振り抜いた時の姿なんですね。
下の動画を見ていただければよくわかると思います。

では、なぜ藤井浩佑はわざわざこの姿を選んだのでしょう?
「オレは野球に詳しいぜぇ~!ニワカとはとは違うんだぜぇ~」というマウンティングだったのでしょうか?
または、当時有名な左打者があったのかもしれません。
例えば、この大会の3年前、昭和9年にベーブ・ルースが来日し試合をしています。
この姿に影響を受けたのでしょうか?

動画はベーブ・ルースの打撃フォーム
さて、真実はどうでしょう?

2017年10月1日日曜日

Intermission 式場隆三郎「狂人の真似とて大路を走らば狂人なり」


式場隆三郎の色紙です。
狂人の真似とて大路を走らば狂人なり

これは、吉田兼好の「徒然草」に出てくる言葉です。
『人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから、正直の人、などかなからん。
己れすなほならねど、人の賢を見て羨むは、尋常なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。
大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとすと謗る。
己れが心に違へるによりてこの嘲りをなすにて知りぬこの人は、下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、仮りにも賢を学ぶべからず。
狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。』

この一節は、儒教の思想を説いたものだと考えられます。
儒教では、天子と同じように行動し、同じように振舞えば、それは天子だとする考えがあります。人間の内面(何を信じ、考えているか)より、その表出たる行動を重んじる思想です。
「舜を学ぶは舜の徒なり」つまり、ある信仰や思想を志向する者は、すでにその信仰下にある。故にそう振舞うことが重要だと説いています。
これを強調するための「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」なのです。

しかし、式場隆三郎は「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」の部分だけを抜き出しています。
これでは「徒然草」の意図が伝わりません。まったく反対の意味になってしまします。
なぜ、彼はこのような事をしたのでしょうか?

もしかしたら、ただ『なんだかわからないけど、「狂人」という言葉が出てくるしカッコイイ!!」といった安易な意図だったかもしれません。それもまた式場隆三郎らしい。
もう少し優しい目で見れば、「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」を抜き出すことで「徒然草」とは異なる意図を示したいのではないのかとも思えます。

この言葉を抜き出した事、それはつまりこの言葉に価値があると式場隆三郎が考えたと想像できます。
彼は、「狂人の真似をする者は、狂人になりえる」と言った意味でこの文章を訳し、「狂人」に価値を見出し、「狂人」になることを推奨しているのだと言えます。

ゴッホに魅了され、ゴッホが狂人であることに価値があると考えていた(戦前の)式場隆三郎にとって、そういった思想を表す言葉だったわけです。
その思想を強調したいがために、「徒然草」の意図を反転させたのです。

しかし、「狂人」になることと、ゴッホのように狂人であったこととは違います。
あえて「狂人」であろうとする思想、私はその思想の根元に、仏教があるのではないかと考えています。
例えば一休禅師や良寛さんにみられるような狂気。
仏教には一般常識に反する思想があります。世俗から出家し、その全てを否定(実際には空と)する態度を取る仏教には、そういった狂気が含まれています。
親鸞上人の悪人正機「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」もまた、そういった狂気の面があると思います。

仏教は悟りを目指す信仰であり、そのための修行を行っているわけですが、そういった修行を行わないで悟っている者を「縁覚」または「独覚」と言います。
維摩経で語られる維摩居士が有名で『文殊が「どうしたら仏道を成ずることができるか」と問うと、維摩は「非道(貪・瞋・痴から発する仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。』と言います。
維摩居士はまさに「狂人」として描かれ、ここに「狂人」であろうとする思想の一角を見ることができると思います。

こういった「縁覚」を示す物語で、日本人に好まれたのは「寒山拾得」の二人です。
寒山と拾得は、中国江蘇省蘇州市楓橋鎮にある臨済宗の寺・寒山寺に伝わる風狂の僧です。
この二人の絵画は多く描かれ、特に曽我簫白や長河鍋暁斎による図が有名です。
また、森鴎外や井伏鱒二がその物語を描いています。
これらについては、松岡正剛さんの書評での紹介が一番わかりやすいので、リンクを張らせていただきます。

コレクションより-加納鉄哉画「寒山拾得」図

なぜ「寒山拾得」が好まれたのか。
それはこの二人の笑いという狂気に、一般常識や世間の壁を打ち破る力があり、それを託したからだと思います。
価値観をひっくり返す、新しい価値を生み出す力、その象徴として「狂人」である「寒山拾得」が用いられたのでしょう。

そう、こうして戦前まで好まれてあった「寒山拾得」の姿を見てみれば、式場隆三郎は、現代の「寒山拾得」として山下清を担ぎ出したのだとわかります。
式場は山下の絵の「狂気」に「価値観をひっくり返す、新しい価値を生み出す力」を見出したのですね。
そして、そういった「縁覚」として彼をプロデュースした。

しかし、戦時には、お国のための労働力として、戦後には「障がい者」への養護のあり方や人権、ヒューマニズムから、こういった「狂人」のあり方は否定されます。
アール・ブリュットについても、以前に書いたように、いくつかの価値観で引き裂かれているように思います。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2017/02/blog-post_28.html

その結果、戦後に「寒山拾得」が描かれなくなってしまったのですね。
そして、式場の意図した「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」の言葉もまた、禁止用語となってしまったのでしょう。
つまり、戦前の式場隆三郎の「狂気」の扱いこそが、アール・ブリュットではないが、アートではあったと言えるかのもしれません。

2017年9月24日日曜日

贋作と美術

今週、80年間行方不明だった雪舟の真筆が見つかったとか。
http://www.sankei.com/life/news/170919/lif1709190053-n1.html
この作品は所在が不明だっただけで、新しく発見されたわけではないからこそ真筆と判断されたのでしょう。
もし、そういったまったく未知の雪舟が発見された場合、その鑑定は困難を極めるだろうと思います。
比較対象の雪舟の直筆作品は少ない上に、膨大な数の偽の作が存在するからです。
かつて、雪舟の絵は大名の娘の嫁入道具であり、そのため「雪舟」と銘された画が数多く生産された時代があります。
本義において、これらは贋作とは言えません。贋作とは、『他者を偽る意図をもって絵画、彫刻、書などの芸術品や工芸品に似せて模倣品を作成すること』であるからです。
ですが、現在ある「雪舟」作の幾つかがそうした『意図』をもって市場の裏側を回っているのでしょうね。

美術品を欲しいと願う人間がいて、それへの供給が間に合わない場合、必ず贋作は生まれます。そんな贋作は美術の一部だと思います。「なんでも鑑定団」はそういった贋作でもっている番組ですしね。
http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20120821/08.html

最近、レニー ソールズベリー 、アリー スジョ  (著), 中山 ゆかり (翻訳)『偽りの来歴 ─ 20世紀最大の絵画詐欺事件』を読みました。
『自称・原子物理学研究者のドゥリューと、元美術教師のマイアット。生活に困窮していたマイアットは名画の模写の仕事がきっかけでドゥリューと知り合い、贋作作家となってしまう。「来歴がきちんとしていれば、ほとんどの売買は成立する」という美術界特有の慣習を知ったドゥリューは、寄贈や寄付の約束を餌にテート・ギャラリーなど著名美術館のアーカイヴに入り、偽造した展覧会目録や売買記録をファイルにはさみ込む。美術館アーカイヴに記録が存在すれば、マイアットが描いた贋作はお墨つきの「ほんもの」となって流通してしまうのである。』
詐欺師ドゥリューによって、マイアットの贋作が2百数点ほど世に放たれます。
そのいくつかは警察によって押収されたようですが、マイアットにとっての駄作であったジャコメッティの画など、未だどこかの壁に飾られているようです。
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG24H4W_U5A021C1000000/

贋作画家マイアットは、刑に服した後、実際の画家として評価されるようになります。
こういうところが英国らしいですね。
マイアットの贋作教室『The Forger's Masterclass(偽造のマスタークラス)』という番組まであります。

マイアットは救われたようですが、実際詐欺師ドゥリューのせいで、周りの人間が皆不幸になっていきます。
そう、彼らの贋作からは、本物の美術作品が持つものと同等かそれ以上の人間の性(さが)を感じてしまいます。まさに『偽りの来歴』という来歴を、「贋作」というマイアットの作品が背負っていると思えるのです。
贋作をそれと知っていてコレクションする人もあるようですが、その気持ちもわかります。(現在、ドゥリューはアメリカにいるとのことですが、何をしているのでしょうね?)

さて、このブログで紹介しているようなメダルに贋作はあるのでしょうか?
どうも、勲章などはあるようですね。この分野はあまり詳しくないので紹介できません。
それと、以前に模造メダルについて書きました。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2013/01/blog-post_16.html
しかし、これらもまた贋作とは呼べません。

では、これはどうでしょう?

『昭和12年 支那事変記念』のメダルです。
実はこのメダルには別のバージョンがあります。
実物が手元に無いので申し訳ないのですが、それは、黒の背景に兵隊の姿が金メッキされたメダルで、どうもそれが造幣局から出された正式なメダルだと思われます。
では、このメダルは何なのでしょう?

こういう記事もありました。
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20090511/Searchina_20090511015.html
ここでは本物だと言っていますね。
しかし、何と比べて本物としたのでしょう?
300枚製造されたとありますが、このメダルがヤフオクなので常に出ているのを見ると、国内だけでそれ以上が流通されているように思います。
『中国の他の都市でも同じ種類のメダルが見つかっているという回答を得た。』とのことから、中国国内でも流通していることがわかります。

私は、このメダルは戦後、正規のメダルを模倣して造られた贋作ではないかと考えています。
正規のメダルから型を取ったのか、それとも金型が流れたのか(どこから?)....

私がこの写真のメダルを入手したのは、京都の骨董市でした。
当時まだメダル収集を始めたばかりで、これがどういったものか知りませんでした。
今は先ほど書きましたように贋作ではないかと疑っています。
しかし、「贋作は美術の一部」だとも考えていますし、これはこれで歴史を背負っているとも思い、コレクションとして大切にしています。

2017年9月13日水曜日

小平市平櫛田中彫刻美術館にて 「メダルの魅力」展 開催!

本日より11月12日までの間、小平市平櫛田中彫刻美術館にて「メダルの魅力」展が行われます。
http://denchu-museum.jp/

『小さなメダルの中には彫刻家たちの世界が広がっています。
メダルに魅せられた蒐集家のコレクションを中心に、メダルの魅力をご紹介致します。』

この展覧会には、私のコレクションも展示しており、ブログで紹介してきました幾つかのメダルを実際に見ていただけます。
「メダルの魅力」展とあるとおり、小さなメダルの魅力を少しでも知っていただければ幸いです。

また、10月28日 1時30分より、私のトーク・イベントも開催されることになりました。
どんなお話をしようかとまだ迷っている最中ですが、近代のアート・メダルと、それらを生み出した彫刻家たちの活動にご興味を持っていただけるような話ができればと思っております。

というわけで、来月末は久しぶりの東京です。
お会いしたい方もあります。
芸術の秋真っ盛りでイベントも盛りだくさん…(神田の古本祭りもやっているな~、国立歴史民俗博物館の「1968年」-無数の問いの噴出の時代-展も面白そうだな~~)
いかんいかん!
目的はアート・メダルの布教活動!!

2017年9月9日土曜日

東京オリンピックと天皇像

東京オリンピック...と言っても1940(昭和15)年に行われる予定だった大会のお話です。
2020年開催予定の東京オリンピックでも、そのビジュアルイメージでゴタゴタがあったわけですが、昭和15年も同じようなことで問題となります。

当時、東京オリンピックのポスターデザインは公募されました。それにより一等を得たのは松坂屋京都支店勤務の黒田典夫による神武天皇と八咫烏を描いたものでした。なぜ、オリンピックのイメージに神武天皇なのか。それは、昭和15年が皇紀2600年にあたり、オリンピックはこれを祝したイベントでもあったからです。

しかし、このデザインは「内務省図書検閲課ニ於イテ発行不許可」となります。
その背景には、「神武天皇」つまり天皇の姿を描く事への批判があったのだと言われています。

1935(昭和10)年、菊池武夫議員が、美濃部達吉議員の天皇機関説を「緩慢なる謀叛であり、明らかなる叛逆になる」として非難、結果、機関説排撃を決議します。
こうして国体明徴運動が活発化、それまでゆるい感じで扱われていた御真影に対し、厳しい公の目が差すようになります。

東京オリンピックの問題で、天皇のイメージが扱え難くなったことは、市井のメダル等のデザインにどのような影響を与えたでしょうか?
今後も調べていきたいと思っています。


2017年9月3日日曜日

catalogue illustré du salon

1910(明治43)年以降に出されたフランスのサロンのカタログです。
1910年と1911年、1920年と1921年が手元にあります。

ジャンル毎に一冊作られた日本の帝展のカタログと比べると簡易に見えますが、そういう簡易版なのでしょうか?
このあたりは詳しくないので、これから勉強して行こうと思っています。
というのも、この下の画像を見ていただければわかるように、フランスのサロンではメダルもしっかり彫刻作品として掲載されているのですよね。



こういった作品に日本の作家が影響されないわけもなく、その繋がり、または断絶がわかれば面白いのではないかと。

断絶と言えば、先に書いたように日本の官展においては、メダルを作品として発表した作家はありません。
明治期の博覧会や、官展以外の展覧会、団体展ではあるのに、官展では頑なに無い。
その元となったフランスのサロンでは発表しているにも関わらず。
これは何故だろう?

このあたりを紐解いていければと考えています。

ちなみに掲載頁の上右の作家はLEON DESCHAMPS。下はP.DANTEL
メダル三点の作家はCharles Pillet。https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Pillet

こちらのサイトでも膨大な資料が掲載されていました!
http://antiquesanastasia.com/art/reference/medailles/medailles_francaises/l%27histoire/index.html
奥深いぃ~!!

Charles Pilletについても書かれていますね。
また、先に書きました畑正吉が模刻した作品も特定できました。
http://antiquesanastasia.com/art/reference/medailles/medailles_francaises/l%27histoire/ovide_yencesse/general_info.html

作家はOvide Yencesse(オヴィド・ヤンセス)。
ありがたいことに、この模刻の元となった作品まで紹介されています。
小さいサイズのメダルなんですね。
畑の模刻は横16cmほどありますから、一回り大きく模刻したことがわかります。(裏に小メダルヨリ拡大とあったとおりでした。)

オヴィド・ヤンセスの元の作品の方がちょっと肉厚に思いますが、ほとんど変りないですね、畑正吉の技術力がわかります。

2017年8月17日木曜日

新潟市 護国神社 戦没犬慰霊碑


新潟市の護国神社に行ってきました。
そこにあったのが写真の戦没犬慰霊碑です。
平成2年に元関東軍軍犬育成所により建てられたこの慰霊碑には、日名子のシェパードのレリーフが使われていました。
以前、紹介したものと同形のようです。

この作品は、こうして近年となっても使用されているのですね。
感慨深いです。

2017年8月12日土曜日

畑正吉による摸刻「エエサス作 親子」


今月は連続して畑正吉について。
3回目は畑の習作です。
制作時期は不明ですが、それほど新しい物でもないと思われます。

表には抱き合う母子。
裏側には、これも畑の直筆でしょう「親子 仏近代 エエサス作 小メダルヨリ拡大摸刻 畑正吉」とあります。

母子というモチーフは、構造社では多く使われていますが、官展では思いの他少ないです。
現代のように母子の触れ合いに価値を持つという文化が、明治頃にはそれほどあった訳でなく、作家自身にも経験が無いため、リアリティーを感じなかったからかもしれません。
畑もまた、「母子が触れ合う」という姿を、新しい文化として見ていたのだろうと思います。そうしてこの作品を模刻しようと考えたのでしょう。

裏に書かれた、メダルの原型作家「エエサス」。
この作家についてはまだ良くわかっていません。
柔らかくて、かわいらしい作品ですね。
こういった作品を造れる日本の彫刻家は、思いつかないですね。

2017年8月11日金曜日

畑正吉のスポーツ彫刻

畑正吉のスポーツ彫刻について色々考えています。
以前紹介しました石膏像「ハードル」や秩父宮記念スポーツ博物館に所蔵されている第11回ベルリンオリンピック芸術作品出品作品「スタート」等...そんな畑のスポーツ彫刻について。
https://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/08/blog-post_22.html
http://www.jpnsport.go.jp/muse/annai/tabid/69/Default.aspx

特に「スタート」に見られるような、誰ソレとわからない抽象化されたような人物像を用いて描いているのは何故だろうと思います。
畑の作品には、こういった抽象化された人物像がスポーツ彫刻の他に無いわけではのだけれど、スポーツを表すのにどうしてこれを選んだのだろう?

思うに、そういった技法を用いて畑正吉はスポーツの「動き」そのものだけを取り出して彫刻にしたかったのではないでしょうか?
選手のそれぞれの顔や表情、肉体や汗、人格、躍動感や勝敗の結果までをすべて捨て、「動き」の一瞬のみを描きたかったのではないでしょうか。
平櫛田中が「活人箭」で動の中の静を描くために弓の姿を消したように、「動き」以外の要素を消し去ろうとしたのだと考えます。
その結果、「ハードル」や「スタート」は半抽象のような姿になったと思うのです。

「動き」を描こうとした作品と言えば、20世紀初頭にイタリアを中心として起こったフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティらの「未来派」があります。ボッチョーニによる彫刻作品「空間の連続における唯一の形態」では、連続する「動き」を一つの形態で現します。
写真や映画の技術革新によって人の動きを視覚化できるようになり、こういった芸術運動が生まれらわけですが、きっと畑正吉もそれを知っていたろうとは思います。
畑の作品もまた、写真や映画の一場面を切り取ったものだと考えられるからです。

畑の「スタート」を展示したベルリンオリンピックでは、走り幅跳びの走者の姿をいくつかに分けて、その上で一つの彫刻にした連続写真のような作品があったようです。しかし、畑はそういった「未来派」的なやり方でなく、ただただ一瞬を描きます。

その結果がうまくいっているかと言われれば、私は必ずしもそう言えません。
走者の歯を食いしばる顔の無い、また筋肉が弾けるような躍動感の無い畑のスポーツ彫刻では、彼ら選手の一瞬の煌きを描いているとは感じられないからです。
「ハードル」がまさにそうなのですが、走者の顔がなんだか涼しそうにさえ見えます。
もしかしたら、制作当時の鑑賞者には、畑の描きたかったものの理解はされなかったかもしれません。

ただし、先に書いた様に、まるで機械のような「動き」そのものだけを抜き出したいという理念、そんな「未来派」に近い理念は、面白いものだと思います。そこから先、さらなる抽象化によって人の姿までもなくなるような抽象作品にするには、畑の生まれた時代は少し早すぎたかもしれません。

2017年8月4日金曜日

畑正吉作 日伊仏英米 文明擁護之大戦 レリーフ



「日伊仏英米 文明擁護之大戦」メダルの原型サイズのレリーフです。
大正3年、第一次世界大戦参戦による日伊仏英米の「同盟及連合国」を記念して制作されました。この戦争を日本では「文明擁護之大戦」と呼んでいたんですね。
また、実際のこのメダルの表には「武甍槌命」が描かれています。

原型は畑正吉。彼の直筆と思われる文章が、その裏側に墨で書かれています。
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図案並原型 畑正吉
製造 造幣局
勝利神像トシテ我国ハ
武甍槌命(タケミカヅチ) 考証高橋健次
賞勲局総裁 伯爵児玉秀雄
世界大戦従軍微章 各国一定ノ七色
表 決定図ハ勝利女神ノ正面立像ニテアルモノナレド
  我国二於イテハ以ノ如キ神像ナシ 依テ独特ノ図二○ル
裏 同盟ノ五大国梯花五牌二各国旗ノ色彩二テ表ハシ中央地球
  周囲ノ二十二ヶノ玉ハ連合国二十二ヶ国数を表ス
書 高田忠周号竹山
大正十年春
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ここには畑正吉の他に3名の名前が出てきます。
神像の考証に高橋健次(高橋健自に誤りか?)
賞勲局総裁の児玉秀雄
書家、高田忠周

高橋健自は、日本考古学会の基礎を築いた人物で、『鏡の研究から邪馬台国大和説を主張。また埴輪の研究から転じて服飾史の分野も研究』するといった、当時の古代史スペシャリスト。
児玉秀雄は政治家で、賞勲局総裁以前は内閣書記官長、1929年(昭和4年)からは朝鮮総督府政務総監を勤めます。
高田忠周は、『勝海舟のすすめにより内閣印刷局(朝陽閣)に奉職し、明治、大正、昭和にわたり紙幣金銀貨公債等の文字を担当する。内閣印刷局漢字主任となり、内閣印刷局の蔵書を整理し、説文学の研究に励んだ。説文六書の学を研究し、三代より秦・漢に至る古文字の読法及び書写法を独修、後に説文学の大家となった』と凄い人。

ここで私が気になるのは、高橋健自ですね。
古事記等で語られる神の姿を、古墳時代を考察した考古学的な知識でもって描いているわけです。
以前「神像について覚書」で書いたことが確かにそうだとわかります。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/07/blog-post.html

また、面白く思うのは、メダルに描く女神の代りに武甍槌命を描くことに了解を得ようとしている点です。
畑正吉は、神像ありきでその使用を考えていたので無く、女神を描く海外のメダルのあり方を重要視した上で、それを選択したのですね。
こういう作品が前例となって、以降の神を描いたメダルラッシュとなっていったのでしょう。

2017年7月7日金曜日

日名子実三のシェパード像 ブック・スタンド

日名子実三は幾つか動物の像でメダルを制作していますが、これはシェパードをモチーフとしたブックスタンドです。
ちゃんと2対あり、そのどちらにも同じレリーフがあります。
このシェパードの像ですが、他にも化粧品用のコンパクトに用いられていることが確認されており、もしかしたら使用権をデパートなんかの業者に渡したのかもしれません。
ただ、このブックスタンドの円形のレリーフをみると、もともとはメダル用に制作したのかも。

日名子はシェパードの他にもエアデールテリアを飼っていたらしく、多くの軍用犬のメダルにその姿を描いています。
第二回軍用犬展覧会 メダル

犬好きの彫刻家として知られる作家には、他に藤井浩祐が上げられますね。
犬の著書まで出しています。

逆に猫好きは、朝倉文夫や木内克です。
犬を好む彫刻家と言うのは、その構造物としての確かさを好むのでしょうね。猫のような柔らかい姿を好む彫刻家の方が少数のような気がします。
その二者は交わらないのでしょう。そう考えると、日名子が朝倉文夫から離れた理由はそこにあったと言えるかもしれません!

また、馬と言えば、池田勇八。そして、皇居前広場の楠木正成像の馬像を制作した後藤貞行に、近衛騎兵だった新海竹太郎。
高村光雲の老猿のように猿、獅子、兎、牛、猪などは彫刻のモチーフとして多く使われています。

メダルで言えば、齋藤素巌のホッキョクグマといった変り種もあります。
このホッキョクグマとライオンは、1902年に、ドイツのハーゲンベック動物園から上野動物園に贈られたものだと思われます。

そして日名子の山羊。
このメダルは東京市で行われた「動物写真撮影週間」記念章です。
このイベントがどういったものかはわかりません。
そのモチーフに山羊を選んだのは何故でしょう?

動物をモチーフにしたメダルは、まだまだ探すとありそうです。
干支ぐらいはコンプリートしてみたいですね!