よしながふみさんの漫画「きのう何食べた」は読んでいたのですが、完結した漫画「大奥」は未読でしたので、やっと読みました。こういった歴史もの、大河ドラマを読んでいると、私自身が歴史の中の登場人物であればと願った若い頃の想いが蘇ります。
私がこうして古いものに取りつかれているのも、そんな想いが未だあるからでしょうね。
私の欲望、歴史と一つになりたい、大きな物語と一つになりたい、そういう想いは普遍的なものなのかもしれません。
例えば、戦後の新左翼やオウム真理教だってそうでしょう。スターリンや毛沢東、ポルポトもそうであったろうし、ジョンレノンだってそう歌います。
そしてまさに戦時下のナショナリズムがそうでした。
神ながらの国として日本が世界を善意の下で統一する...そんな夢を戦時下のナショナリストは持ちました。
そんなナショナリストの大きな物語への欲望を、自身が持つ同じ欲望を相対化するために研究されているのが歴史学者の中島岳志さんだと思います。
私のブログでも、何度か言及させて頂きました。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2018/06/blog-post_30.html
彼の著書『下中彌三郎 アジア主義から世界連邦運動へ』では、下中彌三郎の一見思想的にバラバラに見える彼の行動が、大きな物語への欲望によって一貫されていることを述べられています。
下のメダルは、下中彌三郎によって創立された出版社「平凡社」が、1934(昭和9)年に制作した平凡社大百科事典完成記念メダルです。
メダルの原型制作は朝倉文夫です。
どうやら現在の平凡社には、朝倉文夫による平凡社の設立者である下中弥三郎像があるそうですね。
1928年に平凡社は「世界美術全集」を刊行します。
それは彼の『美術は万人の有であるべき』といった思想の下、美術を大衆の手に取り戻そうという階級闘争の一環だったと、中島岳志さんは著書の中で述べています。
そうした想いに朝倉文夫や佐藤忠良も共感したのかもしれません。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2018/06/blog-post.html
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2018/06/blog-post.html
大きな物語と一つになりたい。しかし、新左翼もオウムもナショナリスト達も、下中彌三郎もその夢に破れました。
それは、破られるべき夢なのでしょう。
破られた姿をポストモダンと名付けても良いのでしょうが、もっと泥臭い、生活臭のする言葉でなければ合わないような気がします。
それは、破られるべき夢なのでしょう。
破られた姿をポストモダンと名付けても良いのでしょうが、もっと泥臭い、生活臭のする言葉でなければ合わないような気がします。
その言葉をアニメで表現した映画を最近観ました。
「シンエヴァンゲリオン」です。
「シンエヴァンゲリオン」です。
世界を一つにする「人類補完計画」に魅入られたのは、劇中の人物だけではありません。
先の中島岳志さんもそうでした。
https://toyokeizai.net/articles/-/299196?page=5
https://toyokeizai.net/articles/-/299196?page=5
「シンエヴァンゲリオン」では、シンジが大人になることと他者としてのマリ(安野モヨコ)との仲良くなるオマジナイによって、大きな物語への夢は、個々の小さな物語(監督にとっての宇部新川駅へ)へと変わります。
まさに神殺し(フィクションからの決別または融和)ですね。
しかし、私は思います。
何かすがらずに、子を育て、働いていけるほど人は強く生きられるのでしょうか?
誰かと手を取り合えば、それは越えられるのでしょうか?
私はたぶん、弱いです。
何かすがらずに、子を育て、働いていけるほど人は強く生きられるのでしょうか?
誰かと手を取り合えば、それは越えられるのでしょうか?
私はたぶん、弱いです。