観てきました。「シン・ウルトラマン」!
傑作ですね~。面白かったです。
私はウルトラマンを直接観ていた世代でありませんが、怪獣図鑑と怪獣消しゴム人形を片時も手放さなっかった幼児でした。
怪獣もとい「禍威獣」の出番は少なかったですが、それでも「ウルトラマン」を堪能できて大満足でした。
さて、「シン・ウルトラマン」の脚本と編集は庵野秀明。
私が庵野監督を知ったのは「南の海のナディア」だったと思います。
Vガンのシャクティなみにイライラさせるヒロインで、湾岸戦争の煽りをうけての延期の中、面白いのかどうかわからないまま見続けて、ラストのレッドノアとの決戦のみで納得と感動させられるようなアニメでしたね......
当時のアニメ雑誌には、ナディアのどこにどんなパロディーがあるか説明がなされていました。
パロディーまたは二次創作の作家、それが庵野秀明のイメージでした。
「新世紀エヴァンゲリオン」では、パロディー作家庵野監督の持つ「オリジナル」への欲望、「オリジナル」でありたいという欲求そのものがテーマであったのではと思います。
パロディーとは、神話を脱構築するもので、神話の外にあります。
パロディーを描くものは、高みから物語を見下げ、神話を信じることができない呪いを受けます。
その苦しみを庵野監督は描いてきたのだと思います。
「ゴジラ」「ウルトラマン」「仮面ライダー」らの神話を、その原作者のように信じて描くことができない......そんな呪いと苦しみです。
私は戦前の人物で、同じような呪いと苦しみを受けていた作家を知っています。
それが高村光太郎です。
高村光太郎は、光雲ら維新後作家の第二世代であり、西洋のsculptureを直接体験できた新世代でした。
高村光太郎は日本の「彫刻」をオリジナルさえ無いコピーであることを知っていました。
日本人である限り、その循環から自分が逃れられない事も知っていました。
その苦しみを超克するために戦争を望んだとも言えるでしょう。
「オリジナル」でありたいと願い、無知である(ように見える)父と、神話に添い遂げる荻原碌山を愛しながらも自身はその外側にあって、「詩」によって自身がパロディーであることを打ち消そうと苦しんだ彫刻家、それが高村光太郎です。
私からすれば、智恵子も「緑の太陽」に感動した学生たちも、吉本隆明を含め戦争詩で自身を鼓舞した若い兵士たちも、彼の呪いの犠牲であったと思います。
ゆえに、高村光太郎の木彫への回帰も父光雲と伝統的「日本」へのパロディーでしかありません。
「蝉」も「柘榴」もそういう作品です。
庵野監督の「トップをねらえ」や「南の海のナディア」もまた、そういった作品でしたが、「新世紀エヴァンゲリオン」でその呪いと向き合います。
先の「シン・エヴァンゲリオン」で、10年かかってやっと監督の答えが出たようですが、高村光太郎は答えを出さず引退し、引きこもり、シャーのように「ララァ・スンは私の母になってくれたかもしれなかった女性だ」と母胎回帰まるだしの作品をつくるのみ。
しかし「シン・ウルトラマン」です。
庵野秀明は神話の外にいる者だった。けれど親しい友人達と「ゴジラ」「ウルトラマン」「仮面ライダー」の話をワイワイガヤガヤ楽しくしてる間は神話の内側に入れたのではないでしょうか?
そう、樋口真嗣監督があって初めて、庵野秀明の苦しみが解放されたのではないのか。
そう思わせる映画が「シン・ウルトラマン」でした。
高村光太郎も「詩」ではなく、誰かとの会話の中にあれば、救われたのではないかと思ってしまいます。