やっと手に入れました!
令和3年、今年最後に紹介するのは、朝倉文夫作、昭和10年の「報知賞杯 第三回互選和歌人選部会」メダルです。
以前、このメダルが手に入る前に「まだ見ぬメダルたち」と題して記事を書きました。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2017/04/blog-post_12.html
ここに書いてありますように、このメダルについて朝倉文夫が文章を残しているのですね。
それを昭和17年発行の彼の書籍「美の成果」に「人麿と芭蕉」としてまとめられています。
「人麿と芭蕉」によると、報知新聞社のメダル制作依頼を同郷の廣田湘水漁郎という人物が朝倉文夫に伝えたそうです。また、報知の学芸誌に載せるため、メダル制作の為の考証や史実を文章にするよう頼まれたそう。
『さうだろうネ、歌の聖の人麿、俳句の聖といへば芭蕉、これを一個のメタルの場面に組み立ててみるか』と朝倉文夫が述べ、制作に入ります。
朝倉文夫は柿本人麻呂の姿について、伝説が多くはっきりしないため、『白鬚をしごいた老人でありたい。さうして服装は布衣や直衣でなくして、後世随身、即ち闕腋袍(けってきのほう)の模範となつたものが、僧侶以外の奈良時代の服装であつたように思はれるのである』と姿を選びます。
芭蕉の姿については旅装束のイメージが強く、それに合わせたようです。
『そうして歌の聖と対坐した構図をとつたのであるが、當時江戸の俳壇には貞徳の古風、宗因の檀林派が共に行われていたが、芭蕉は檀林派の新しさを好んでこの派の人々と多く交友してはいたが、檀林のいたづらに奇警で眞實のないところにあきたらず、遠く萬葉集の自然を魂とし、その時代生活を取り入れたいはゆる正風を創始したのであるから、1個のメタルの中に一千年の隔たりのある二人の聖をかうしたえにしの糸でつないだのであつた』
そうしてできたメダルは、朝倉文夫には珍しい物語的で複数の人物(しかもおっさん)を配した作品になってます。
メダルの円形で切られた構図ともに、そこから感じられる二人の間の空気。
流石朝倉文夫と思わせるメダルです。