2021年12月27日月曜日

朝倉文夫作「報知賞杯 第三回互選和歌人選部会」メダル

やっと手に入れました!
令和3年、今年最後に紹介するのは、朝倉文夫作、昭和10年の「報知賞杯 第三回互選和歌人選部会」メダルです。

以前、このメダルが手に入る前に「まだ見ぬメダルたち」と題して記事を書きました。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2017/04/blog-post_12.html
ここに書いてありますように、このメダルについて朝倉文夫が文章を残しているのですね。
それを昭和17年発行の彼の書籍「美の成果」に「人麿と芭蕉」としてまとめられています。

「人麿と芭蕉」によると、報知新聞社のメダル制作依頼を同郷の廣田湘水漁郎という人物が朝倉文夫に伝えたそうです。また、報知の学芸誌に載せるため、メダル制作の為の考証や史実を文章にするよう頼まれたそう。

『さうだろうネ、歌の聖の人麿、俳句の聖といへば芭蕉、これを一個のメタルの場面に組み立ててみるか』と朝倉文夫が述べ、制作に入ります。

朝倉文夫は柿本人麻呂の姿について、伝説が多くはっきりしないため、『白鬚をしごいた老人でありたい。さうして服装は布衣や直衣でなくして、後世随身、即ち闕腋袍(けってきのほう)の模範となつたものが、僧侶以外の奈良時代の服装であつたように思はれるのである』と姿を選びます。
芭蕉の姿については旅装束のイメージが強く、それに合わせたようです。
『そうして歌の聖と対坐した構図をとつたのであるが、當時江戸の俳壇には貞徳の古風、宗因の檀林派が共に行われていたが、芭蕉は檀林派の新しさを好んでこの派の人々と多く交友してはいたが、檀林のいたづらに奇警で眞實のないところにあきたらず、遠く萬葉集の自然を魂とし、その時代生活を取り入れたいはゆる正風を創始したのであるから、1個のメタルの中に一千年の隔たりのある二人の聖をかうしたえにしの糸でつないだのであつた』

そうしてできたメダルは、朝倉文夫には珍しい物語的で複数の人物(しかもおっさん)を配した作品になってます。
メダルの円形で切られた構図ともに、そこから感じられる二人の間の空気。
流石朝倉文夫と思わせるメダルです。

2021年12月20日月曜日

「光──臺灣文化的啟蒙與自覺」黃土水と「甘露水」

18日から、台湾の国立台北教育大学北師美術館で行われています「光──臺灣文化的啟蒙與自覺」に、私のコレクションから「黃土水」の絵葉書を展示させて頂いています。

この展覧会では、今年発見された黃土水の代表作「甘露水」が展示されています。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2021/01/blog-post_13.html
そこに、当時発行されたこの絵葉書を並べて展示するようです。

黃土水は、台湾に生まれ、東京美術学校で学んだ作家です。
以前にブログでも紹介した作家ですね。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2021/01/blog-post_13.html

「甘露水」発見の経緯はコチラの記事で読むことができます。
林曼麗教授の記事はコチラ

甘露水に残るインク跡にたいし、林曼麗教授は、当時の人の裸体像への不快感からインクをかけられたのではと推測されています。
この時代、文化は西洋から東京へ、そして地方へとヒエラルキーに沿ってありました。
インクをかけた人物の不快感は、そういったモノへの違和感の表明なのでしょう。
その違和感は、新たな表現(この場合はインクをかけるですが、)として、台湾と日本に新たな反応を生み出していった(または生みだしていっている)のではないかと思います。そして、この反応こそが文化なのだと思います。
ですので、このインク跡は是非残して欲しいですね。

今回、私の所有する絵葉書を台湾に送らせて頂いたことで、私自身も新たな反応、台湾文化に対する新しい興味を抱きました。
台湾でもこの絵葉書を観て、新たな反応を生みだされる方があるかもしれません。
そういった国を超えて相互反応が生まれる場に参加できて有難いです。

2021年12月6日月曜日

新潟白山公園昭忠碑


新潟白山公園昭忠碑は、明治40年に除幕式がなされた114年前の銅像です。
現在も、白山神社境内に建っています。

詳しくは、藤井素彦さんによるこちらの論文にあります。
意匠は東京美術学校教授・島田佳矣、鋳造は岡崎雪聲です。
114年前の除幕式当日は、「市内ハ各戸国旗ヲ掲ゲ球燈ヲ点シテ敬意ヲ表シ午前ハ市川市山両派芸妓連ノ練リ込ミ等アリ」と、慰霊というよりドンチャン祭りだったようですね。

新潟の軍人慰霊碑として建てられたこの像は、球体化した日本地図の上に立つ神武天皇像と金鵄と、まるでショッカーのマークのよう。



地球儀には金箔された地があります。
画像では見えませんが、南樺太と千島列島、北海道から九州、日清戦争で得た台湾、遼東半島、そして朝鮮がそうなっているようです。
その地の上に神武天皇像が立っているのですね…

この金箔がいつなされたのか?
朝鮮併合前なのか、後なのか?
先の藤井さんの論文では、併合以前説に疑問を呈してます。
もしかしたら、併合後に金箔を追加したというのはどうでしょう?
どちらにせよ、この状態で残っているのが知れ渡ると面倒な問題になりそう…

2021年12月1日水曜日

オーギユスト・ロダン作「老いたる冑造りの女」絵葉書

 

ロダンの『La Belle qui fut heaulmière』を撮影した絵葉書です。

日本名は「美しかりしオーミエール」ですが、この絵葉書では「老いたる冑造りの女」になってます。
詳細が国立西洋美術館のサイトにありました。
https://collection.nmwa.go.jp/S.1959-0005.html
『「兜屋小町(ラ・ベル・オーミエール)」と呼ばれ、絶世の美女であった老婆』を描いた作品なのですね。
この意味を知っていれば、「老いたる冑造りの女」よりも「美しかりしオーミエール」の方が良いかな。
こういう題名ってどういう経緯で誰が付けるのでしょうね?

写真が悪くてシルエットしかわからないのですが、それでも婆さんだと理解できるのはロダンの力なのでしょう。
生老病死の内の「老い」を描いたこの作品は、九相図の朽ちていく美女のような、老いの醜さを描いたものではなく、ただ形として、造形的なラインとして、そのものの在り方にロダンが興味を持ってつくり上げたのではないかと思います。
もう、老婆とも人とも見ていないような、ロダン翁の非情な目を感じます。

また、同じ作品を松方幸次郎が購入しており、戦中にフランス政府が接収、1959年に松方コレクションとして寄贈返還されてます。
この作品が、上の絵葉書の物なのでしょうか?

2021年11月15日月曜日

日名子実三 作 昭和5年 第12回関東学生陸上競技対抗選手権大会 メダル



日名子実三作、昭和5年 「第12回関東学生陸上競技対抗選手権大会」メダルです。
久しぶりの日名子の作品です。
まだまだ知らない作品があるものなんですね。

弓を引く神武天皇像でしょうか?
後輪と弓の形をメダルの円形に沿わせ、弓を引く肉体による直線で構成された日名子らしいデザインになってます。
弓を引く像といえば、ブールデルの『弓をひくヘラクレス』や平櫛田中の『活人箭』などが有名です。そういった作品を参照しつつ、日名子らしく浮彫でまとめられた秀作だと思います。

コロナが流行りだしてから、ぐっとメダルの収集量が減りました。
経済活動の縮小だけでなく、人の動き自体が減り、こういうニッチで需要の無い物の世に出てくる機会も減ってしまったのだと思います。
メダルやレリーフを展覧会などでお見せする機会も減りました。
それでも、こうした彫刻世界に興味ある方にあるだろうと、こうして記事を書き続けます。
もし、どこかで展示してみたいという方ありましたら、どうぞご連絡下さい。
nakakakatsu@gmail.com

2021年11月1日月曜日

昭和17年9月日本美術新報社発行「旬刊美術新報」―白衣勇士の美術―号













昭和17年9月に日本美術新報社によって発行された「旬刊美術新報」35号です。
特集は「白衣勇士の美術」。
白衣勇士とは傷痍軍人の事ですね。
この特集号では、軍事保護院や第一陸軍病院、民間の忠愛美術院で行われてた、傷痍軍人らによる作品と美術製作プログラムを紹介しています。
茶碗や花器の製作、日本画の技法の習得、上野動物園での写生、義手を使った絵画制作等々。

読んでいて驚いたのが、このプログラムの目的が、工芸的な技術の習得だけでなく、傷痍軍人たちの「精神修養」だとしている事です。つまり身体だけでなく、傷ついた心の為に行われていると考えられます。
『陸軍病院の美術教育は、芸術を通して傷病兵に豊かな情操と光明を与えて、それが将来の職業準備の教育となり、人格統治と職業能力を増進させることにある。薬物のみによらずして精神的創痍の治療ともなす。言い換えれば、職能増強、精神修養、治療の訓練と言う様な目標の下に教育を行っている。』

日本人は『芸術が心を豊かにする』という、ある意味で信仰とも呼べるものを持っています。そのように芸術を受容し、価値としてきました。
このプログラムは、こういった信仰がベースにあって考えられたプログラムなのでしょう。
そしてそれは、大きくとれば芸術療法(アートセラピー)とも呼べるものだと思います。
戦前の日本がそれを行っていたと言うことに驚きます。
同年代の他国で同じような試みは行われていたのでしょうか?

2021年10月18日月曜日

昭和9年 塊人社彫塑展出品目録




1934(昭和9)年、4月20日~30日に行われた「第四回塊人社彫塑展」の出品目録です。
会場は上野東京府美術館。

4月21日には上野で忠犬ハチ公銅像除幕式が盛大に行われています。
ハチ公の銅像を制作したのは、塊人社を結成し、この第四回の展覧会にも出品している安藤照でした。
この期日に合わせて、本展覧会を企画したのかもしれません。

塊人社ですが、実際のところどこまで研究がなされているのでしょう。
「構造社」のようにまとまった研究と展覧会が行えるほど進んでいるのでしょうか?
私は、このグループがどのように美術史に影響を与えたのか、知りたいと思っています。
そのため、この第四回に出品した作家と作品名を以下に羅列します。
どこかで役立ちますよう。

第1室
1  裸婦習作  松田尚之
2  首     小倉一科
3  指     長谷川桝蔵
4  T の首   飛岡文一
5  西君の首  堀江尚志
6  胸像(二) 村田勝四郎
7  首A     齋藤吉郎
8  首     兒島矩一
9  C婦人像   泉谷喜一郎
10  胸像習作  藤澤古實

第2室
11  コドモA   兒島矩一
12  兎     小笠原貞弘
13  胸像    安藤照
14  九年第一作 木元斌
15  堀江氏の像 西常雄
16  胸像    三澤寛
17  胸像    河内山賢祐
18  首B     齋藤吉郎
19  兎     小笠原貞弘
20  胸像    藤澤古實

第3室
21  裸像    田中林蔵
22  コドモB   兒島矩一
23  首     荒居徳亮
24  首     佐土哲二
25  水邉    中川為延
26  童女像   藤澤古實
27  習作    北路莞爾
28  少女胸像  前田保三
29  K子の顔   坂井昭雄
30  青年    有井章二

第4室
31  胸像(一) 村田勝四郎
32  猿     荒居徳亮
33  女人像A   水船六洲
34  動物    中野右左人
35  女座像   北路莞爾
36  女人像B   水船六洲
37  習作    石原昇
38  働く少年  有井章二
39  馬跳    宮川理
40  習作    渡邉徹

2021年9月28日火曜日

亀山公園 銅像除幕式









上の写真は、山口県亀山公園にあった、毛利敬親他毛利家の藩主銅像とその除幕式だと思われます。
1枚目はその当日、2枚目は式前でしょうか?
地面には除幕式の為の位置取りがなされています。
銅像にも布が掛けられたまま。
それに、一文字三星紋の毛利家紋の提灯が建っているのが見えますね。

撮影は山口の写真家麻生雲烟(あそううんえん)
https://shashinshi.biz/archives/231
名の上に石観音町とありますが、これは麻生雲烟が構えた店の住所のようです。

除幕式は1900(明治33)年4月15日に行われました。
傘を手にしている人がいますね。小雨でも振っていたのでしょうか?
こちらにサイトによると、その日は『山口の人々は提灯(ちょうちん)や造花で町を飾り、自転車大競争会なども開催。除幕式当日後も、芸妓(げいぎ)たちが奇兵隊の仮装などをして町に繰り出して踊り、祝福』したとか。

銅像製作は長沼守敬。
実は、その時の契約書の写しを所有しています。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2015/05/blog-post.html
この記事を書いたころは写真が無いって言ってましたが、こうして揃えることができました。

写真を見て気が付いたのですが、この銅像たちは柵で囲われてるのですね。
昨今、当時の台座のデザインについて語られることはあるのですが、洋式柵のデザインってどう決めているのでしょうね。

2021年9月27日月曜日

番外編 新津美術館「富野由悠季の世界」観賞





 新津美術館で行われています「富野由悠季の世界」展に行ってきました。
https://www.city.niigata.lg.jp/nam/

アートの展覧会に比べ、情報量が半端なく多く、また企画者の盛る熱量をも感じさせる展覧会でした。
美術館でアニメを観るというのは、ちょっと変わった体験でしたね。

富野監督の資料だけでなく、安彦良和先生やいのまたむつみ先生、安田朗さんの原画なんかもあって、楽しめました。
安田朗さんのターンAの油彩はあんなに大きかったんですね。
中でも、安彦良和先生の現在の漫画でも使われている、墨のようなボカシ表現で描かれたF91の原画は最高でした。
美しい!!
アニメのイメージを伝え、印刷として用いられるための原画は、描かれるキャラクターたちが歌舞伎のように見栄を張らなくちゃいけないのだけど、安彦良和先生のキャラクターは必ず哀愁を感じさせるのですよね。
それがモビルスーツであっても。

演出された裏の物語と言えば、富野監督の指示ではサイド6の戦闘をTVで観るシャーとララーは肉体関係があった後なのだとしているのでけど、今でもそれは感じないなー
距離があるのですよね。ナナイの時も同じように。
それがシャーなのかもしれないですけど。

あと面白く感じたのは、それぞれの作品を観ていると、観賞当時の自分の年齢に戻ったような気持ちになってくることでした。
ダイターン3はどうやって喋ってるのだろうと思っていた幼年期、学校から家まで1時間ちょっとの距離をガンダムごっこをしながら走っていた小学生の頃、塾で全く見れなかったゼータ、友達と映画館へ観に行った逆シャー...
大人になってから観たブレンパワードにキングゲイナー。
富野監督の申し子なんですよね、私たち氷河期世代は。
初めて買った1/100ガンキャノンのプラモを手にした喜びを、今でも覚えています。

その思い出の中でも一番印象深いのは、ずっとイライラさせられたシャクティ...ではなくて、やっぱり∀ガンダムですね。
シド・ミードの原画は(多分色々あって)展示されてませんでしたが、展示スペースはかなり大きくとってありましたし、企画者もそう思うのでしょう。
ラストの6分を「奇跡の6分」って言うのですね。
知りませんでした。
会場でその「奇跡の6分」の映像を観てみたら、何度も観たはずも∀をまた観たくなってきました。
∀は、テレビシリーズで観たくなるのですよね。


富野監督原作の「閃光のハサウェイ」は目茶苦茶面白いし、安彦先生のククルス・ドアンもあります。
まだまだ吾等オジサン達はガンダムと共に生きていけるぜ!!
(ただGのレコンギスタはちょっと心配...)

2021年9月4日土曜日

彫刻家 石川確治より、新潟の樋口正平宛手紙




送り先の樋口正平は新潟の豪農だったようですね。
そして、文化人でもあったのでしょう。
樋口正平で検索すると、太田三郎や小早川清、伊藤晴雨、小堀鞆音、小村大雲といった作家からの樋口正平宛の手紙が出てきます。

この手紙は彫刻家、石川確治によるものです。
時期は大正9年でしょうか。石川確治が帝展を無鑑査になった時期ですね。
正直、何が書いてあるかはわかりません!

2021年8月21日土曜日

新海竹太郎作 第十回文部省美術展覧会出品「龍樹」絵葉書

 


1916 (大正5)年、新海竹太郎制作の「龍樹」絵葉書です。
文部省美術展覧会出品作の絵葉書なのですが、なぜかアトリエでの写真となっています。
なぜでしょう?
わざわざアトリエを選んだのでしょうか?
それとも撮影までに作品が間に合わなかったのかな?

アトリエには新海竹太郎による作品が陳列されています。
「原人」の頭の部分だけもありますね。
他は何でしょう?上部のレリーフも気になります。

東京文化財研究所所蔵ので新海竹太郎資料を見ると、この「龍樹」と背景が同じ写真がありました。
https://www.tobunken.go.jp/materials/sinkai/27963.html
ただ1914年の作品なのですよね。
棚の配置がそのままだったのか、それとも「龍樹」撮影時にまとめて撮ったのでしょうか?
この「龍樹」絵葉書の原板も東京文化財研究所にあるようです。

さて、「龍樹」と言えば中観派の祖であり、空論を発展させた大乗仏教の創始者というイメージがあります。
それが新海竹太郎の手で表現されるとこういった厳しさを漂わせた立ち姿になるのは面白いですね。

2021年7月17日土曜日

中原悌二郎 「若きカフカス人」「憩える女」絵葉書




中原悌二郎による 「若きカフカス人」「憩える女」はどちらも1919(大正8)年の作です。
その2年後に悌二郎は没します。
この絵葉書は、そんな悌二郎の代表作を撮影したものになります。

この2体が揃ったのは、製昨年に行われた再興第6回院展です。
この時に撮影された写真を絵葉書にしたのでしょうか?
ただ、絵葉書の表面は無地で、販売元の名前もありません。
私のコレクションには、院展で販売されたであろうこの2体の絵葉書を所有していないので詳しくはわからないのですが、写真の撮り方からして正規の記録写真ではないような気もします。
特に「憩える女」ですが、正面から撮らず、背中のクローズアップがされていて、作品の記録以上の撮影者の意図を感じます。
この絵葉書が生まれた経緯が知りたいですね。

2021年7月5日月曜日

菊地鋳太郎 作「百合花ノ像本」


正面下に「菊地鋳太郎作 T.K.」のプレートが埋め込まれています。
石膏像制作販売のパイオニア菊地鋳太郎の石膏レリーフです。

菊地鋳太郎については、以前も紹介させて頂きました。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2018/01/42.html

どうなんでしょう?
菊地鋳太郎作となってますが、菊地の石膏製作所の作ということなのでしょうか?
①輸入した原型をコピーしたもの
②工房作品
③菊地鋳太郎本人の作
のどれかなのかもしれません。

菊地鋳太郎本人の作ではないかもしれませんが、白い肌に「百合」の姿も相まって、美しい石膏像ですね。
以前、Twitterで常滑の陶業試作訓練所に所蔵されている菊地鋳太郎作の石膏像を見て、是非コレクションしたいと思っていました。
嬉しいです。


裏側には、「熊本県立第一所女学校」所蔵のラベルが残っています。
「熊本県立第一高等女学校」は現在の熊本県立第一高等学校になります。
大正10年から昭和22年までこの名称が使用されていたので、その時期に所蔵されていた物でしょう。

...それにしても女学校で「百合」とは...
女学生が集まって、このレリーフでデッサンなんかしてたのかなぁ~(妄想)

2021年6月21日月曜日

北村西望作「怒涛」絵葉書




1915(大正4)年に行われた第9回文展出品作、北村西望の「怒涛」絵葉書です。
 文部省買い上げとなる西望の出世作ですね。

最初の絵葉書は手彩色です。
どうやら持ち主が水彩で塗ったようですね。
青色で塗ってありますが、実際は石膏に濃緑で彩色されていました。
この彩色された石膏像は国立近代美術館に所蔵されており、先日の『コレクションによる小企画 男性彫刻』展で展示されましたね。

官展での石膏像の展示は初期からみられるものですが、彩色はいつ頃から始まったのでしょうか?
当時の彫刻家は、銅像色に彩色するための研究も行っていたようですね。
ただ、院展系の作家が行う木彫の彩色を否定する考えも当時からあったようで、彫刻の彩色問題は調べると面白そうです。

2枚目の絵葉書は、この「怒涛」への感想のようです。
「何とブリリと張り切った豊肉だろう―
 緑色の〇(棈?)の力の溢る〇過ぎし〇肉塊」
合ってますか??
ところどころ読めないので言葉の意味はよくわかりませんが、とにかく男の肉体への愛は伝わります。
ちんこも彫刻にあるような曖昧もっこりでなく描いてますし。