2020年8月26日水曜日

昭和16年 セメント美術工作研究会発行「セメント美術」





国家総動員法の翌年、昭和14年に「物価統制実施要綱」が制定。彫刻家に必要な物品に対しても統制がなされます。
そこで、銅像に必要な銅やその他の金属に代わり、セメントを使用した彫刻作品が推奨され、この研究の為にセメント美術工作研究会が発足となります。

冊子「セメント美術」は、昭和16年4月15~17日の間に東京帝国鉄道協会で開催された「日本ポルトランドセメント業技術会第26回例会」に於いて、セメント美術工作研究会理事の森田亀之助、矢崎好幸の研究講演を基礎に、セメント美術についてまとめられた内容だと言うことです。
右上の像が何だったか思い出せない!



 
森田亀之助は、東京美術学校の教授職の後、昭和21年に創設された金沢美術工芸専門学校の校長を勤めます。また美術史家として「美術新報」を含め多くの雑誌に寄稿、執筆を行っています。
矢崎好幸は、東京美術学校のセメント美術教室主任教官だった人物のようです。
当時の新しく、時局に沿った素材「セメント」の第一人者がこの方々なのですね。

この冊子には、
『ことに最近に於ける工藝界も、事変という大きな動揺によって、かつての貴族・個性・稀有・高貴・異常・自由という特殊の世界から、国民・実用・多量・廉価・通常・規格といった国家目的線変換し、著しくもモニュメンタルのものとなって、その合理化・機能化・経済化が強調されつつある』
と書かれています。
敗戦間近の日本の有様を見ると忘れがちなのですが、あの戦争は合理的で機能的で科学的な生活を求めた結果なんですよね。
はてさて、昨今の「新しい生活様式」はどちらなのでしょうね?

2020年8月23日日曜日

第二回プロレタリア美術大展覧会 絵葉書

本日は絵画の絵葉書です。
 第二回プロレタリア美術大展覧会出品
岡本唐貴作「無題」
吉原義彦作「ひきあげろ!」
の絵葉書です。

第二回プロレタリア美術大展覧会は1929(昭和4)年に行われました。
その時、販売された絵葉書だと思われます。
岡本唐貴の「無題」は「争議会団の工場襲撃」として晩年に再制作されているようですね。
当時は作品名を付けられなかったのでしょう。けれど見る人が見ればわかるといった作品だったのでしょうね。

300号というサイズ、構成的な色彩と絵画として見れば岡本唐貴の作品の方が優れているのかもしれませんが、絵画の持つ熱量は暑苦しい肉の壁が迫ってくる吉原義彦の「ひきあげろ!」に感じます。

正面に子供を配置したわけは何でしょう?
プロレタリアートのプロパガンダを信じる、殉教者のような純粋な笑顔のこの子が正直怖いです...
プロパガンダの洗礼を受けた子供たち、ヒトラー・ユーゲント、毛沢東の紅衛兵、そして日本の軍国少年少女にオウムチルドレン、皆同じように純粋な笑顔だったのでしょう。
この純粋な信仰者の狂気を、当時のこの作家も持っていたのかもしれません。

吉原義彦は後に従軍画家として活動します。
それは、この時代に作家として生活し食っていくためでもあったかもしれませんが、純粋な信仰者の狂気が「プロレタリアート」から「日本」に移行しただけなのではないかと考えてしまいます。

2020年8月3日月曜日

高村光雲宛の絵葉書の送り主が桜岡三四郎と判明!

先日UPした高村光雲宛の絵葉書ですが、送り主は桜岡三四郎だと教えていただきました!
桜岡三四郎は明治3年生まれの鋳金家です。
東京美術学校の鋳金科の主任、後に教授となります。
東日本大震災により崩壊してしまった仙台、青葉城跡に建つ昭忠碑の上部に取り付けられた金鵄像は沼田一雅が設計し、桜岡三四郎、津田信夫らが鋳金した代表作です。

その桜岡三四郎は、明治36(1903)年にアメリカに留学しています。
この絵葉書の消印の日付と同じですね。
桜岡三四郎は、高村光雲に無事アメリカに着いたことを伝えたかったのでしょう。

桜岡三四郎がアメリカの行く5年前の明治31(1898)年には、岡倉天心が東京美術学校を辞職することとなる美術学校騒動が起きています。
当時、美術学校助教授だった桜岡三四郎は、天心に味方して一緒に辞職。
対して高村光雲は美術学校に残ることとなります。
袂を分けたように見える二人ですが、しかし、この絵葉書を見てもわだかまりは感じませんね。
その後の桜岡三四郎が美術院と東京美術学校の両方に籍を持ち、架け橋となって働いたことを見ても、桜岡三四郎が光雲らに対して思うところは無かったのだろうと想像します。