2019年1月26日土曜日

布施英利著「藤田嗣治がわかれば絵画がわかる」 富田芳和著「なぜ日本はフジタを捨てたのか?―藤田嗣治とフランク・シャーマン1945~1949」

布施英利著「藤田嗣治がわかれば絵画がわかる」
富田芳和著「なぜ日本はフジタを捨てたのか?―藤田嗣治とフランク・シャーマン1945~1949」
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第二回大東亜戦争美術展覧会出品 『○○部隊の死闘』

「藤田嗣治がわかれば絵画がわかる」は、藤田嗣治を『黒の画家』として、布施英利さんの目から見た藤田像が語られています。
そういわれて初めて、藤田が「黒」を用いる画家なのだと気づかされました。
背景にせよ、輪郭線にせよ、藤田は確かに「黒」を多用します。
しかし、その黒が他を邪魔せず、主張しない。その「黒」の軽さが藤田の絵の魔力の秘密なのかも知れません。

画像は第六回文部省美術展覧会出品 『嵐」
第六回文部は、1912(大正元)年。渡仏前の作品ですね。
これも「黒」の絵ですが、この頃は、まだ「黒」が主張しています。
若き藤田の、反黒田の気概が前面に出た頃の作品なのでしょう。


藤田が最後に描いた礼拝堂のフレスコ画に「黒」が多用されていないことから、著者は藤田の心象の変化、彼が最後にたどり着いた心を読み取ります。
ただ、西洋のフレスコ画の黒のありかたについて詳しくないので、本当に藤田が「黒」を避けたのかは、この本の内容だけではなんとも言えませんでした。

次に富田芳和著「なぜ日本はフジタを捨てたのか?―藤田嗣治とフランク・シャーマン1945~1949」ですが、こちらは終戦前後から渡仏までの藤田を、フランク・シャーマンの資料から読みとられた藤田を描いたノンフィクションです。

この本にも書いてある昭和19年の芸大教授の交代劇については、前から興味があって調べているのですけど、著者の言う戦争画と交代劇との関わりは微妙だと思っています。大観が裏で糸を引き、辞退したとは言え高村光太郎を迎えられようとしたことからも、戦争協力していたかが影響したとは思えません。

とは言え、この本の魅力は、日本人ではないが日本を愛し、日本の文化に尽くしたフランク・シャーマンという人物から見た藤田嗣治という新しい視点を描いたところにあると思います。
シャーマンの見た藤田が、実際の藤田を代弁しているとは思いませんが、同時代に生き、藤田に付き添ったシャーマンの視点は、昨今の多くの藤田論の中でも、特別なものに感じます。

また、藤田がGHQの為に描いたという十二単のマリア像を版画にしたクリスマスカードは、布施英利著さんが著書で書かれていた藤田の宗教画の一つなのでしょう。けれど、他の宗教画の作品と違い、何か決定的な作品であったのではと思われてなりません。
是非見てみたいですね~

藤田嗣治の作品を理解するのは、日本の美とは何か、それが西洋と出会いどう変わって行ったのかを理解しなければならないと考えています。
例えば最近、江戸の絵画を「奇想」として語られていますが、この系譜に藤田の作品は繋がっているといえるかも知れません。
しかし、それもまた、藤田作品を語る一つの視点でしかありません。
私は、藤田嗣治の作品に寄り添って、この問題をずっと考えて生きたいと思っています。

2019年1月3日木曜日

日蓮上人銅像掛軸

福岡に現在も建っています、日蓮上人の銅像建立を記念して作られた掛軸です。

1904(明治37)年に建てられたこの像は、 彫刻家竹内久一によって原型が制作されました、日本の銅像としては初期の作品です。
その為、西郷像や楠木正成像のように木彫で原型が制作されています。

Wikiより『「日蓮聖人銅像」は、福岡県の日蓮宗徒の運動により発案され、明治25年(1892年)、東京美術学校に雛形の制作依頼が来る。翌年の4月、久一が50分の一の木彫雛形の制作に着手し、8月に雛形の銅像が完成。明治27年(1894年)2月、正式な契約が結ばれ、5月に木型の担当者に任命される。木型の制作は、校内で明治28年(1895年)1月に開始され、木曽の山中から檜を取り寄せ、翌年の6月に完成した。』



実際の銅像に似せたとは言えない、伝統的な描かれ方がなされているのは、『実際のものをリアリズムで描く」ことが共通認識としてなされていない当時の作品だからでしょうか。
この、目の前にあるというリアリズムより、伝統的な描き方を優先するという考えは、現在の私たちからすれば違和感があり、興味をひきます。
楠木正成像制作に当り図案が東京美術学校内で公募されたのですが、こういった描き方がなされていたのでしょうか?

そしてこれが、実際の日蓮像です。
この建立の後、日蓮は血盟団事件や満州事変等々の思想の柱となって行きます。
その先駆けとなったのがこの銅像でした。
ただし、立像ではありますが、左手に法華経を持つ伝統的な姿です。
1902(明治35)年に制作された高村光太郎の「獅子吼 (ししく)」や戦時に作られた日名子の日蓮像と比べれば、この掛軸の絵の様に、大きくなった仏像といった印象を受けます。
というよりも、明治から昭和初期にかけて、日蓮のイメージが竹内久一を超えていってしまったというのが正しいのでしょう。
日名子の日蓮像

2019年1月1日火曜日

謹賀新年 祝2019 筋肉彫刻!

謹賀新年!
昨年の紅白で、天道よしみの曲に合わせた「筋肉体操」が披露されたわけですが、こちらも負けじと「筋肉彫刻」です!
まずは、朝倉文夫作 第七回帝国美術院展出品「水の猛者」。
第七回帝展は1926(大正15)年。作品タイトルと彫刻の姿から水泳選手の像だと思われます。
競泳初のオリンピック金メダリストの鶴田義行でしょうか?

次は同じく七回帝国美術院展出品「望洋」、作者は横江嘉純。
なんともとりとめの無いタイトルですが、横江嘉純らしい男性美に溢れた彫刻です。

同じ男性の肉体を扱っていても、まったく毛色の違う2点。
朝倉文夫の現実の肉体美を追及する作品と、横江嘉純の理想の究極の肉体美を描こうとする作品。

前述の「筋肉体操」では、この二つのベクトルがせめぎ合い、実際に嘘のつかない筋肉が出来るわけですね。
三島由紀夫は、これらを追い求めて、理想の方が超えて行ったのでしょう。
そう思うと、横江嘉純のこういった男性美の作品は、朝倉文夫以上に危うくて面白いのです。