戦前彫刻を興味としている私からしたら、中村直人といえば、院展の木彫家、または挿絵画家といった印象です。
けれど、そういった印象だけで語るのは良くないよな~
戦後の絵画もしっかりと見ないと~
とも思います。
けど、やっぱり、戦後のあの絵はどうも苦手です。
あぁでも、藤田嗣治から奈良美智の系譜に、彼のイラストのような絵画も入るのかもね。
この本は、中村直人をある程度知ったうえで読まないとなかなか難しくはあります。
嬉しかったのは、愛知県美術館の学芸員平瀬礼太さんの論を一番最初に持って来ている事ですね。
そこに、中村直人の戦争(記録)彫刻から逃げないぞという編集の覚悟を感じます。
中村直人の戦争彫刻には、彼の作風、特徴が著しく染み出ていると思っています。
それは、実は一つ一つの作品を観ただけでは、よくわらない。
それは、他の彫刻家が出来ず、なぜ彼が成せたのかを知ることでわかるのではないでしょうか。
例えば、彼の師である吉田白嶺や平櫛田中、石井鶴三らに無く、中村直人にあるものと言えば「モニュメント」への志向です。
当時の若い彫刻家たち、構造社の作家や官展の作家には、そういった流行りへの志向がありました。中村直人もそうです。
この志向は、パリ帰りの佐藤朝山にはあります。
けれど彼と中村直人との違いがあるとすれば、中村の作品は他者性があり、クライアント(観客)に眼差しを向けているに対し、佐藤朝山は自己に向けているからではないでしょうか。
この自己への眼差しは、天心から続く平櫛田中や石井鶴三、橋本平八ら院展作家の特徴で、もちろん中村もその考えを受け継いではいます。
その眼差しと、他者性とのバランスが見事にマッチした、それが中村直人の強みであっただろうと思います。
具体的に木彫の姿で言えば、吉田白嶺や石井鶴三らは、農民美術でも用いられる、形を大きく面(プラン)で切り取った塊(マッス)こそ、彫刻の芯と考えていました。
中村直人はそういった塊に「イメージ」を付与したと言えます。
手数を減らして面で彫られた農民の姿に、
つまり農民の「情報」ですね。
彫刻は、他者に「情報」を伝達させるツールだと考えたわけです。
1942年の「楠正成」像を見れば、彼がその造形によって「情報」を伝えようとしていることがわかります。
また、第一回大東亜戦争美術展覧会に出品された「ハワイ海軍特別攻撃隊九勇士」として9体の像を制作しています。
9体で「情報」を伝えるという考えは、吉田白嶺や平櫛田中、石井鶴三らには無いでしょうね。
そういう手法が時局と合い、戦時下の彼の作品があったと考えています。
現在、目黒区では「中村直人 モニュメンタル/オリエンタル 1950年代パリ、画家として名を馳せた❝彫刻家❞」展が9月3日まで行われています。
https://mmat.jp/exhibition/archive/2023/20230715-406.html
見に行きたい!!