2023年7月24日月曜日

中村直人ーパリを征服した芸術家ー を読む


相場啓介監修「中村直人ーパリを征服した芸術家ー」を読みました。
戦前彫刻を興味としている私からしたら、中村直人といえば、院展の木彫家、または挿絵画家といった印象です。
けれど、そういった印象だけで語るのは良くないよな~
戦後の絵画もしっかりと見ないと~
とも思います。
けど、やっぱり、戦後のあの絵はどうも苦手です。
あぁでも、藤田嗣治から奈良美智の系譜に、彼のイラストのような絵画も入るのかもね。

この本は、中村直人をある程度知ったうえで読まないとなかなか難しくはあります。
嬉しかったのは、愛知県美術館の学芸員平瀬礼太さんの論を一番最初に持って来ている事ですね。
そこに、中村直人の戦争(記録)彫刻から逃げないぞという編集の覚悟を感じます。

中村直人の戦争彫刻には、彼の作風、特徴が著しく染み出ていると思っています。
それは、実は一つ一つの作品を観ただけでは、よくわらない。
それは、他の彫刻家が出来ず、なぜ彼が成せたのかを知ることでわかるのではないでしょうか。

例えば、彼の師である吉田白嶺や平櫛田中、石井鶴三らに無く、中村直人にあるものと言えば「モニュメント」への志向です。
当時の若い彫刻家たち、構造社の作家や官展の作家には、そういった流行りへの志向がありました。中村直人もそうです。
この志向は、パリ帰りの佐藤朝山にはあります。
けれど彼と中村直人との違いがあるとすれば、中村の作品は他者性があり、クライアント(観客)に眼差しを向けているに対し、佐藤朝山は自己に向けているからではないでしょうか。
この自己への眼差しは、天心から続く平櫛田中や石井鶴三、橋本平八ら院展作家の特徴で、もちろん中村もその考えを受け継いではいます。
その眼差しと、他者性とのバランスが見事にマッチした、それが中村直人の強みであっただろうと思います。

具体的に木彫の姿で言えば、吉田白嶺や石井鶴三らは、農民美術でも用いられる、形を大きく面(プラン)で切り取った塊(マッス)こそ、彫刻の芯と考えていました。
中村直人はそういった塊に「イメージ」を付与したと言えます。
手数を減らして面で彫られた農民の姿に、

農民の「イメージ」があると考えたのではないでしょうか。
つまり農民の「情報」ですね。
彫刻は、他者に「情報」を伝達させるツールだと考えたわけです。
1942年の「楠正成」像を見れば、彼がその造形によって「情報」を伝えようとしていることがわかります。
また、第一回大東亜戦争美術展覧会に出品された「ハワイ海軍特別攻撃隊九勇士」として9体の像を制作しています。
9体で「情報」を伝えるという考えは、吉田白嶺や平櫛田中、石井鶴三らには無いでしょうね。
そういう手法が時局と合い、戦時下の彼の作品があったと考えています。

現在、目黒区では「中村直人 モニュメンタル/オリエンタル 1950年代パリ、画家として名を馳せた❝彫刻家❞」展が9月3日まで行われています。
https://mmat.jp/exhibition/archive/2023/20230715-406.html

見に行きたい!!

2023年7月23日日曜日

斎藤素巌 安永良徳 作 2600年「第十六回日本レントゲン学会長 岩井孝義君」為記念楯





1938(昭和13)年に第十六回日本レントゲン学会長となった岩井孝義を記念して、皇紀2600年、1940(昭和15)年に制作された楯ですね。

岩井孝義は、1894(明治27)年生まれ。
京都帝国大学を卒業し、大正12年京都帝国大学助教授となり、レントゲン部勤務。
レントゲン医学研究のため昭和2〜5年ドイツ、フランス、アメリカに留学。
その後、京大教授となります。

真ん中のヴィルヘルム・レントゲンを描いたのは斎藤素巌。
Soganと銘があります。
「2600」とその隣に「Yasunaga」とあります。
これは安永良徳でしょう。
彼は全体の構成とデザインを担当したのでしょうね。
つまり、このレリーフは構造社の作家による合作です。
構造社の作家はこういった合作を頻繁に行いました。

安永良徳のこの構成ですが、X線の放射の様でもあり、構成主義的でもありイイですね。
斎藤素巌の肖像も流石です。
ただ、この二つの方向がちょっと合わない様な気がしますけどね!

2023年7月17日月曜日

千葉県中等学校体育協会 体育大会参加記念 メダル





1933(昭和8)年と1937(昭和12)年の千葉県中等学校体育協会主催「体育大会参加記念」メダルです。
こちらも銘の無いメダルですが、モダンなデザインが秀逸です。
国内の作家のものなのか、海外のデザインの流用なのかもわかりません。
ただ、国内の市井のメダル業者の作ではなさそうです。

8年のメダルは、前衛的です。
もし、これがメダルでなく、作品としての彫刻であれば、作家の名は彫刻史に残されていたかもしれません。

12年のメダルは、アールヌーボーですね。
とても美しいメダルですが、こんなの当時の若い男子が手に取ったら鼻血でそう!

2023年7月10日月曜日

畑正吉 作「東宮殿下御成婚記念」レリーフ

現人神であった昭和初期の昭和天皇の像というのは、実は少ないのです。
ただし、皇太子時代の像というのは、いくつかあります。
このレリーフは、1924(大正13)年に良子様との御成婚を記念して制作されたレリーフです。
造幣局から、このモチーフでメダルも制作されています。

作家は、彫刻家畑正吉です。
周りにあしらった菊の美しい彫り姿は、まさに畑正吉の作だと言えます。
菊ではありますが、海外の王室の紋章に用いられるバラやアザミの様に扱われています。
正に和洋折衷。
当時の殿下らしい、お姿だと思います。

また畑正吉は、現上皇様のご結婚記念メダルも制作してますので、2代のお姿を描かれた彫刻家なんですね。

戦前サイパン「群島開拓の功労 松江春次氏銅像」絵葉書







松江春次は、大正11年サイパンに南洋興発を設立。13年には砂糖生産量を74500トンとし、パラオ、トラック両島からフィリピン、ニューギニアにわたる地域に関連会社20社をもつ大コンツェルンに成長させた人物です。
そんな彼は、「砂糖王(シュガーキング)」と呼ばれます。

また彼は、サイパン島や他の島々に、工員のための映画館・理髪店・演劇場・酒場など様々な娯楽施設を建設したそうです。
これらの絵葉書に移された写真は、そういった町の姿です。

 1934(昭和9)年8月に、社長在籍中に銅像が建立されます。
場所は彩帆(サイパン)神社前。
それが、この絵葉書にある銅像ですね。
この像は、戦後まで残り、現在も砂糖王公園のシンボルとして建っています。
現状の姿をネットで検索すると、前身に弾痕が残っているようです。
そうした歴史を背負う姿こそが、パブリックな「彫刻」のあるべき姿ではないか......などと考えてしまいます。

銅像の作者はわかりませんでした。
日本から運んだのでしょうか?

それと、この「近代的文化整然たるサイパン島の本通り」絵葉書には、道脇に像が建っています。

サイパンの人をモデルとした像でしょうか? 
『近代的文化整然たる』街のありようとして、西洋の様なパブリックアートを必要とし、このように建てられたのかもしれません。
この像も作者は誰でしょう?
気になります!

2023年7月3日月曜日

独逸の彫刻家 Paul Scheurle(ポール・シューエル)「ガイア」絵葉書



1941年、ドイツで開催された「大ドイツ芸術展」。
そこに展示された作品で、彫刻家「Paul Scheurle」による「ガイア」です。
ナチスお抱えの彫刻家、アルノ・ブレーカーは巨大男性像で有名ですが、「Paul Scheurle(ポール・シューエル)」は女性像を多く制作していたようです。

この像のように、ヒットラー好みに理想化されたアーリア人「女性」は、産む性として大地や農作地のイメージと結び付けられます。
その均整とれたスタイルは、ナチスの「正しさ」の象徴するものであったのでしょう。

大地の神、豊穣の女神を想像したとき、例えばオーストリアで発見された土偶「ヴィレンドルフのヴィーナス」のような豊満な女性を想像するのではないでしょうか?
日本人なら、「まんが日本昔ばなし」で椀にペタペタとご飯をよそうお母ちゃんのような。
この「ガイヤ」に見られる女性像ではないでしょう。

ヒットラーの愛したアドルフ・ツィーグラー の「四大元素」の女性像も、筋肉質な労働者、近代的な女性像です。
この女性像が豊穣と結びつくのですね。

この豊穣は近代的な農業生産、または工業生産、大量生産を意味しているのかもしれません。
つまり、豊穣=近代的な生産→近代的な女性像 となるのでしょう。
その結果、「ヴィレンドルフのヴィーナス」が、ポール・シューエルの「ガイア」になるわけですね。

良い悪いは別として、近代化によって肥大化した戦争は、働き生産する女性を生みだしました。
これはドイツだけでなく、アメリカや日本もそうです。
日本では「銃後」と言われますね。

戦争が生みだした近代的な女性像は、それまであった男性に従属し、裸体を魅せる女性の彫刻とは異なるベクトルを生みだした、と私は思っています。
例えば、朝倉文夫や藤井浩祐の女性像と、日名子や清水多嘉示とは、その視線、ベクトルが異なる。
そして、佐藤忠良らに繋がるわけですね。
多様化、多様化と叫ばれる昨今、ここから日本の彫刻はどこに向かったと言えるのでしょうか?