2018年3月30日金曜日

FUMIO YOSHIMURA Nancy Hoffman Gallery 個展DM

「FUMIO YOSHIMURA」は戦後アメリカで活躍した日本人の彫刻家です。
彼が1973年にNancy Hoffman Galleryで個展を開いた時のDMがこちら。

手紙自体は、作家ではない人による記のようなのでぼかしています。(なんだかお怒りの手紙...)

さて、「FUMIO YOSHIMURA」ですが、
Wikiによれば
《東京芸術大学で絵を学び、1949年に卒業。
1960年代初頭にマンハッタンへ(1963年だと思われる。後述するケイト・ミレットの日本からの帰国に合わせて)フェミニスト作家のケイト・ミレットと結婚( 1985年に離婚)
タイプライター、ミシン、自転車、またはホットドッグのような日常的なものの彫刻を木彫で精密に製作するスタイルで、超現実主義と関連しているが、彼は作品を物体の「ghost」と表現している。
1981年よりダートマス大学で准教授として教鞭を執る。
2002年7月23日 死去》

日常品を細密木彫によって表現するスタイルは、現代でも見られるものですが、当時はポップアートや、シュールレアリスム、スーパーリアリズム等で語られたのでしょう。
彼が木彫を「ghost」と呼ぶのは、能や能面との関連を思わせますね。
それにしても、失礼ながら、こういったアメリカで活躍された日本人彫刻家がいたことをまったく知りませんでした。

それと、「FUMIO YOSHIMURA」についてネットで調べていますと、「吉村二三夫」と「吉村二三生」と両方表示されますが、ごちらが正しいのでしょう。

「吉村二三夫」では、中川直人オーラル・ヒストリーでケイト・ミレットとの出会いの仲介者として紹介されています。
「吉村二三生」では、1953年に成立した青年美術家連合に「フォール」から流れで参加したとあります。

どうも「吉村二三生」が正しそうです。
というのも、「シュルレアリスム宣言」を訳した評論家の巖谷國士にとって吉村二三生は母方の叔父にあたるそうで、彼の「かえで」という文章で叔父への思い出を語っています。
かえで

海外に渡って活躍した日本人彫刻家の先駆者と言えば、川村吾蔵を思い出されますが、どちらも日本での展覧会を行うことなく、母国で忘れられた作家というのが共通しています。(吉村二三生の名前さえあやふや...)
こういう作家は、まだまだいるのでしょう。
日本美術史の教科書で語られる作家だけが、日本の作家ではないですよね。

また、日常品の精密木彫といえば、1970年代の鈴木実の作品を思い出されますが、彼とは交流あったのかな?

それと、このバイクの種類がわからなかったのだけど、なんでしょう?
YAMAHAかな?
詳しい写真はこちら

2018年3月17日土曜日

長谷川義起 作「東京帝大総長賞」トロフィー

長谷川義起と言えば、スポーツをモチーフとした彫刻、特にベルリンオリンピックで等外佳作となった相撲をモチーフとした作品が思い浮かびます。
高岡古城公園で見ることの出来る「国技」等が代表作ですね。

その長谷川義起による、ゴルフをプレーする姿を描いたトロフィーがこちらです。


このトロフィーは、昭和10年、ゴルフのコンペで用いられたもののようです。
病理学の教授で東京帝国大学第12代総長となった長與又郎の寄贈した物だとわかります。
彼は東京帝国大学野球部長も務め、スポーツへの造詣も深かったようですね。

現在、東京大学には長與又郎の銅像がありますが、作者が不明です。
http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DPastExh/Publish_db/1998Portrait/03/03200.html#077

そのトロフィーの裏側のプレートには歴代の優勝者でしょうか、多くの名前が載っています。
・本位田祥男(経済学)
・岸田日出刀(建築学)
・大河戸宗治(土木)
・田中於菟弥(インド文学)
・矢追秀武(医学)etc...

そうそうたる顔ぶれですが、惜しむには、この像が長谷川義起の相撲の像に比べ、どこか硬い印象を与えることです。
パターだからしょうがないのかもしれませんが、彼のダイナミズムが見えなくて残念。

まぁ、でも野々村一男の裸でゴルフに比べたら...




2018年3月14日水曜日

Intermission 靉嘔 ~70年代の本

特にコレクションしているわけではありませんが、手元にある本を紹介します。
アーティスト「靉嘔」が1970年代初頭に出版(?)した本だと思われます。

現在、埼玉県立近代美術館で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」が開催中で、「靉嘔」の作品も展示されているようですね。



さて、この本ですが、版元が無いことから自費出版だと思われます。
内容としては、当時の靉嘔の雑文から、手紙、雑誌に記載した文が載せれられています。

久保貞次郎との手紙のやり取りや、イサム・ノグチとの日々、福井の人との関係、オルデンバーグやウォーホルとのイベント等、大変興味深い。
ここに書かれていることの多くは、彼のアーカイブ「靉嘔オーラル・ヒストリー 2011年11月6日」と同じです。(当たり前ですが)
ただ、作品の画像は殆ど載せていません。この当時は、作風を限定されることを嫌がっていたのかもしれませんね。

私としては、彼の作品をどう見たら良いのか分かりかねていたのですが、この本の一文でなんとなくわかるような気がしました。
「アメリカのポロックなどのアクションペインターは自然主義なんですよ。しかし土壌が違うから個人の合理性が根本にあるわけですね。・・・合理的な土壌がなければ、ぼくはいやだという気がする。・・・日本の場合は違いますね。拒否するものというのではなしに.....。」
彼は、(当時の)日本の湿った自然主義を嫌って、アメリカのポップを求めたのでしょう。
とは言え、私から見れば靉嘔のポップも大概に湿っているように感じますが。
まさに「拒否するものというのではなしに.....」なんでしょうね。

この湿り気は、例えば斎藤真一のポップにもあり、横尾忠則のポップにも感じます。
それに村上隆もそうです。
逆に感じないのは、草間彌生に日比野克彦、奈良美智...

あぁ、「靉嘔」は日本的な作家で、その文脈上にあるのだと、そう思いました。

2018年3月7日水曜日

ロシアの絵葉書

「デッチスキー公園ノ銅像(浦潮)」絵葉書です。
「浦潮」とはウラジオストク。
この絵葉書はウラジオストクのデッチスキー公園に建つ銅像前で撮った写真から作られたものだと思われます。
ウラジオストクと日本との関係は古く、日露戦争後には日本人街が生まれます。
この絵葉書は、訪れる日本人に向けて売られたものでしょう。
あの与謝野晶子も、シベリア鉄道に乗ってウラジオストクまで来ています。


絵葉書にある銅像ですが、ネット上を色々と探しましたが、見つからず...

しかし、公園内に建つ同じような台座を見つけました。
ただ、上にある像の姿が異なります。

この像は、「セルゲイ・ラゾの記念碑」だそうです。
セルゲイ・ラゾはロシア革命の戦士だそうで、そうなると、この絵葉書の時代に現状の像と同じ人物の像が建っていたとは考えられません。
当時の像を破棄され、今の姿に変えられたのでしょうか。
台座に比べ、像が新しい(キッチュ)である理由も説明できます。
となれば、かつてこれは帝政ロシア、ロマノフ王朝の誰かだったのかもしれません。
だからこそ、それを写真に撮り、記念の絵葉書としたのでしょう。

済軒学人著「浦潮斯徳事情」によれば、ウラジオストクには、美術奨励会なるものもあったようで、この地で仕事をした日本の芸術家たちもいたことでしょう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932607

そういったこの地の成果も全て、あのシベリア出兵(の失敗)の結果、全て失ってしまったのでしょうね。

もう一枚は、ロマノフ朝第13代ロシア皇帝であるアレクサンドル3世の銅像の絵葉書です。
この銅像は現在も存在しています。
https://fr.dreamstime.com/photo-stock-statue-%C3%A9questre-%C3%A0-l-empereur-alexandre-iii-st-petersburg-image58721034
ただ、絵葉書にある台座からは外され、別の場所に置かれているようです。

どの国のどんな銅像に於いても、始めは恒久的な顕彰を目的としながらも、なかなかそうはいかないものですね。