2021年5月31日月曜日

体育賞 陶製レリーフ


作者不詳のレリーフです。
銘はありますが、よく読めません。「金」でしょうか?

陶で制作されていることから昭和15~20頃と思われます。
明治神宮体育大会のメダルもその頃から銅以外の素材が使われました。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2012/11/blog-post_6.html

モチーフはメストロウィッチ風の多重像で、スポーツ選手が描かれています。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2012/10/blog-post_25.html
3段と少なく、造形もそこまで達者ではありませんが、阿吽の様な左右の効果が面白く、結構気に入っています。

日名子実三 原型「島儀七翁之像」メダル




1918(大正7)年、日名子が東京美術学校を卒業した年の作品です。
広田肇一著「日名子実三の世界」には、このメダルが最古のものだと書かれています。
日名子のメダルを集め初めてかれこれ8年くらい。ようやくこれが手に入ったのかと感無量ですね~

「島儀七翁之像」とあることから、日名子による胸像制作の記念品としてのメダルではなかったかと推測します。
島儀七がどういった人物かは不明です。
造形は、立体感を感じるしっかりとした浮彫ですね。
さすが主席卒業者と言ったところでしょうか。


裏側が何もデザインされていません。そこまでの技術の無い業者に頼んだのか、または予算が無かったのか。

サインは英文字でJ.Hinagoと筆記体で書かれています。
後のデザイン化された文字ではなく、彫刻に刻む正当に合わせたという感じがしますね。
そう思うと、なんだか当時の日名子の若々しい気負いまで見えてきそうです。

2021年5月17日月曜日

無言館と四大元素と犬死


新潟市美術館で行われている『無言館―遺された絵画からのメッセージ―』展に行ってきました。
長野の無言館の作品郡を構成し展示した展覧会です。

私の趣味的に好物な展覧会で、かなり楽しめました。
戦時下に生きた人たちの生々しい作品は、拙くても面白い。
けれど、こう言うことを書くのは社会的に問題あることなのでしょうね。
この無言館の趣旨として、戦争の残忍さや彼ら若くして亡くなった作家たちの苦しみ、平和への祈り等々…
そういったものに思いを馳せる必要があるのでしょう。けれど、申し訳ないのですが、別段そこに興味がわかず。ただただ楽しく鑑賞しました。

作品をこう鑑賞す「べき」論は、昨今、本当に難しい問題になっていると思います。
ポリコレ的に先回りしなければ、表現できないという壁が高くなってきているように思います。

確かにナチスの退廃美術展のように、一方的な為政者による『鑑賞す「べき」』圧力は問題あるのですが、美術館や展覧会自体、そういった啓蒙的側面を持っています。
だからこそ、愛知トリエンナーレで政治問題化されました。
この『無言館―遺された絵画からのメッセージ―』展でも「遺された絵画からのメッセージ」を鑑賞者が読み解くことが期待されているわけです。

そして、そういった与えられた『鑑賞す「べき」』以外でも、例えばヒトラーの絵画から、絵画にまつわる物語を拭い去るのは難しいように、私たちは作品の文脈から『鑑賞す「べき」』圧力を受けないではいられません。

そう、村上隆氏的な「美術は文脈で見るべき」も、びじゅチューン的な「アートは自由に心のままに見てほしい」論も互いに受け入れられないが『鑑賞す「べき」』圧には変わらない。

美術はそういうものでしかないようなのですが、そいうの、私には必要なさそうです。好きにします。

この処の「カオスラウンジ」の問題も、東浩紀氏が自身の立場から批判しているのにも関わらず『アートはこうある「べき」』論者から、色々迷惑受けて大変そうだ。

前田良三著「ナチス絵画の謎」を読んだのですが、途中で投げ出してしまいました。
アドルフ・ツィーグラーの「四大元素」論なのですが、この作品がハンナ・アーレントがアイヒマンを評したように陳腐であることから論を始める。
なぜ陳腐とあなたが感じたのかには言及せす、それを現代の反ナチス論で埋めようとする。
そのため、「それってあなたの感想ですよね」とひろゆき氏みたいな事しか言えなくなる。
まぁ、そういう本自体が間違っているわけではないので、そっと頁を閉じるしかないわけです。(最後まで読めなかったので、もしかしたらまったく違うことが終わりのあたりで書いてるかもしれません。その時はすみません。)

最近、Netflixで「東京裁判」を観たのだけれど、東条英機の死と、無言館の学徒の死に違いを見出せませんでした。
ヒトラーの死とホロコーストのユダヤ人の死も同じです。
すべての死は犬死だと宮崎哲弥氏は話されたが、私も同じ意見です。
政治的に意味を持たせることとは別の話で、そう思います。
そういった犬死の残骸を持て遊ぶのが、物故作家の作品を鑑賞するという事なのだと思っています。

2021年5月5日水曜日

新津の軍需生産美術推進隊によるセメント像

昨日、新潟県秋葉区にある「石油採掘工夫像」を見てきました。
昭和19年に軍需生産美術推進隊によって制作された像です。







戦争末期の1944(昭和19)年、軍需生産の増強を美術で推進させようと画家や漫画家を含め計四七名が軍需生産美術推進隊をつくり、美術による戦争参加を試みます。彫刻家では、中川為延、中野四郎、清水多嘉示、古賀忠雄らがおり、画像の像は中村直人、柳原義達、木下繁による合同制作のようです。
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/common/content/000791960.pdf
彼ら推進隊塑像班は、1944年の9月に新潟に向かい、3班に分かれ、それぞれ作品を制作しします。
・新潟県長岡市 東山油田(長沼孝三、野々村一男)
・新潟県出雲崎町 西山油田(林是、川上全次 )
・新潟県新潟市 新津油田(中村直人、木下繁、柳原義達)
石油確保のための戦争であったからこそ、国内の油田は重要な意味があったのでしょう。

合同制作特有の、どこの誰だか特的できないシンボリックな人物造形は、労働者をモニュメント足らしめており、中でも画像の新津油田の像は、機械を操作する人物を描いていて特徴的です。
機械の姿をデザイン的に切り取り、彫刻に仕立て上げていて、この部分が私的にはそそられる...
ただ、人物の首から肩とその付け根がなんか変じゃないですか?

それと、長岡の東山油田の像を中村直人作と勘違いされ、そのように修復されたという話があるようです。
これは難しい話だなぁ。

新津油田の像は、修復も無くボロボロです。
どうにかしなくちゃならないよね。
けれど、どう修理するかが難しい。
美術作品としたら、制作された状況に近い方が良いのでしょう。
上の菅野泰史氏の論文もその方向です。
ですが、歴史からみれば、現状のまま維持するというのもありかもしれない。
また、愛知の浅野祥雲の像のように、ペンキで塗ってしまうのも、今生きている私たちといっしょにある像として、悪いやり方ではないと思う。

今はどうしたら良いかわからないけど、とにかく話題化しないとね。

2021年5月4日火曜日

式場隆三郎-脳室反射鏡 カタログより「民藝」とは。

昨年行われた『式場隆三郎-脳室反射鏡』展のカタログが届きました。
こんな時期の展覧会開催は、大変なことだったでしょう。
カタログも凝りに凝ったデザインで、本を愛した式場隆三郎のイメージを伝えるものになっています。

カタログを読んで思うのは、式場隆三郎という人物の美意識の形成に「民藝」が深く刺さっているのだと言うことです。
当時の煩悶青年の一人であったろう若き式場隆三郎にとって、「民藝」的、「白樺」的な美意識は生涯を支えるものでした。
ただ、他の民芸運動家とは異なり、式場隆三郎は、どうも骨董や日用品より新作民藝を好んだようです。
そして、エリート達の世界に留まらず、市井への啓蒙活動に勤しみます。

「民藝」とは何か。
それは「民衆の暮らしのなかから生まれた美、用と美」をハイカルチャーであった芸術へのカウンターとして価値づけた物です。

先に式場が『新作民藝を好み』と書きましたが、それは、市井の人が手に入る物より、高価で手の届かない新作を好んだと言うことです。
市民感覚から離れた高価な新作民藝は、北大路魯山人が民芸批判した点であり、「用の美」である「民藝」の矛盾に見えます。
ですが、柳や式場は「民藝」を新たなハイカルチャーにしようと考えていたわけですから、利休好みと同じように、新作民藝こそがそれを体現した物と考えていたはずです。

魯山人からしたら、骨董や日用品の美を盗用し、求めてもいないのに新たに「民藝」として価値づけられたように思えます。
例えるなら、オタク文化を盗用し、「クールジャパン」とか村上隆的「コンテンポラリーアート」として価値づけられたようなものです。
ですから、北大路魯山人のようなオタク(市井の消費者)から、仲間ではないと嫌われます。
村上隆氏が嫌われる理由と同じですね。

そして、「民藝」という新しい美を次のハイカルチャーとしたい柳らエリートにとって、「民藝」が市井の民に理解できるものでは困ります。
「おまえらの理解できない美を我々はわかるのだ」という態度こそがハイカルチャーを支えているのですから、誰でもピカソであっては困ります。
なのに、式場のゴッホ工芸や、アイドル山下清に絵付けさせたり、カストリ雑誌に書きなぐっているようなサブカル活動は、「白樺」文化圏の人々には、「民藝」をローカルチャーに落としていると見えたことでしょう。
戦後、柳らと交流が途絶えたのは、そんな理由もあったかもしれません。

市井の消費者からもエリートからも嫌われる。
それが式場隆三郎という人物ですね。
そして、それが彼の魅力の源だと思っています。

柳宗悦は、柳好みと言わず「用の美」なんて言うから、魯山人につっこまれるわけです。
利休のように、カウンターカルチャーであると認識すれば、もっとやりようがあったのではないかと思います。

「用の美」の「用」は当たり前ですが、「用いる」という言う意味です。
では、いつ用いるのか?
それは「今」なのか「過去」なのか?
柳宗悦にとって、それは「李朝」であり「木食の時代」であったはず。
つまり「過去」です。
「過去」あった認識されていない美を「今」価値化することが「民藝」という運動であると思います。
「過去」を良しとし、それと異なる「今」を変革しようとする運動、それを右翼と言います。
「民藝」運動は美術の右翼運動なのですね。
ただ、エリートである柳宗悦は、式場と違い、同時代の政治的な右翼とは距離あったようですが。

よく考えれば、常に新しさと理想を求めるコンテンポラリーアートは、美術の左翼運動だと言えます。
であれば、カウンターカルチャーとして美術の右翼運動だってあっても良いはず。
「民藝」はそうなりかけたが、柳宗悦が亡くなり、変革無いまま、アートの片隅に残るものになりました。

「民藝」自体が「過去」になり、自己言及しなければ生き残れない思想になってしまいましたね。右翼の陥る罠ですね。

そう考えてみると式場隆三郎は「民藝」を生き残らせるため、常に更新していたのだと思います。
ゴッホや山下清の中に人間の原初(過去)の美を見、「二笑亭」ではシュールレアリズムというコンテンポラリーアート(左翼)に近づきつつも、「民藝」という右翼の立場を貫き、ポップにメディアを使い、地べたに近い感性で死ぬまでやりきった人物。
それが、私の好きな山師、式場隆三郎なのですね。