2021年5月17日月曜日

無言館と四大元素と犬死


新潟市美術館で行われている『無言館―遺された絵画からのメッセージ―』展に行ってきました。
長野の無言館の作品郡を構成し展示した展覧会です。

私の趣味的に好物な展覧会で、かなり楽しめました。
戦時下に生きた人たちの生々しい作品は、拙くても面白い。
けれど、こう言うことを書くのは社会的に問題あることなのでしょうね。
この無言館の趣旨として、戦争の残忍さや彼ら若くして亡くなった作家たちの苦しみ、平和への祈り等々…
そういったものに思いを馳せる必要があるのでしょう。けれど、申し訳ないのですが、別段そこに興味がわかず。ただただ楽しく鑑賞しました。

作品をこう鑑賞す「べき」論は、昨今、本当に難しい問題になっていると思います。
ポリコレ的に先回りしなければ、表現できないという壁が高くなってきているように思います。

確かにナチスの退廃美術展のように、一方的な為政者による『鑑賞す「べき」』圧力は問題あるのですが、美術館や展覧会自体、そういった啓蒙的側面を持っています。
だからこそ、愛知トリエンナーレで政治問題化されました。
この『無言館―遺された絵画からのメッセージ―』展でも「遺された絵画からのメッセージ」を鑑賞者が読み解くことが期待されているわけです。

そして、そういった与えられた『鑑賞す「べき」』以外でも、例えばヒトラーの絵画から、絵画にまつわる物語を拭い去るのは難しいように、私たちは作品の文脈から『鑑賞す「べき」』圧力を受けないではいられません。

そう、村上隆氏的な「美術は文脈で見るべき」も、びじゅチューン的な「アートは自由に心のままに見てほしい」論も互いに受け入れられないが『鑑賞す「べき」』圧には変わらない。

美術はそういうものでしかないようなのですが、そいうの、私には必要なさそうです。好きにします。

この処の「カオスラウンジ」の問題も、東浩紀氏が自身の立場から批判しているのにも関わらず『アートはこうある「べき」』論者から、色々迷惑受けて大変そうだ。

前田良三著「ナチス絵画の謎」を読んだのですが、途中で投げ出してしまいました。
アドルフ・ツィーグラーの「四大元素」論なのですが、この作品がハンナ・アーレントがアイヒマンを評したように陳腐であることから論を始める。
なぜ陳腐とあなたが感じたのかには言及せす、それを現代の反ナチス論で埋めようとする。
そのため、「それってあなたの感想ですよね」とひろゆき氏みたいな事しか言えなくなる。
まぁ、そういう本自体が間違っているわけではないので、そっと頁を閉じるしかないわけです。(最後まで読めなかったので、もしかしたらまったく違うことが終わりのあたりで書いてるかもしれません。その時はすみません。)

最近、Netflixで「東京裁判」を観たのだけれど、東条英機の死と、無言館の学徒の死に違いを見出せませんでした。
ヒトラーの死とホロコーストのユダヤ人の死も同じです。
すべての死は犬死だと宮崎哲弥氏は話されたが、私も同じ意見です。
政治的に意味を持たせることとは別の話で、そう思います。
そういった犬死の残骸を持て遊ぶのが、物故作家の作品を鑑賞するという事なのだと思っています。

0 件のコメント:

コメントを投稿