2016年12月23日金曜日

畑正吉と東郷平八郎

前々回に書きました朝倉文夫の賞状改め、田中雄一「仁禮景範銅像」胸像1等賞状の件に追記。今回は、他の受賞者についてもまとめてみます。

西郷元帥:
1等 本山白雲

川村大将:
1等 本山白雲
2等 畑正吉(東京美術学校彫刻科 明治39年卒)

仁禮中将:
1等 胸像 田中雄一
   立像 朝倉文夫(東京美術学校彫刻科 明治40年卒)

2等 山本鹿洲
   本山白雲
   毛利教武(東京美術学校彫刻科 明治36年卒)

特別賞?
   西郷元帥:後藤良(東京美術学校彫刻科 明治35年卒)
          海野美盛
          竹内定吉
   仁禮中将:杉村傳

この授賞式については朝倉文夫の回顧録があります。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/12/blog-post.html

そこには東郷平八郎も参加されていたそうで、前年あった日露戦争のヒーローである彼らからの賞状受け取りは、若い彫刻家にとって大変な名誉だったろうと思われます。

そんな東郷平八郎のレリーフをいくつか手がけたのが、川村大将像で2等賞だった畑正吉です。
私の手元にあるレリーフとメダルを紹介いたします。



どちらも昭和に入ってからの作品

畑正吉は、受賞時、東京美術学校の学生でした。
畑正吉もこの授賞式には出席されていたと思われますので、彼が東郷平八郎を間近で見たのは、この時が初めてだったのではないでしょうか。
後に、自身で肖像を制作することになるとは、思っていなかったでしょう。

もしかしたら、若い彼にとっては、まともに顔を拝見することなどできなかったかも。
東郷の肖像の制作にあたり、きっと、この時の事を色々思い返しながら行ったことでしょうね。

2016年12月18日日曜日

日本メダル黎明期

日本メダル黎明期について、簡素にまとめます。

まず、1871年10月15日(明治4年9月2日)、新政府は賞牌(勲章)制度の審議を立法機関である左院に諮問。
1873年(明治6年)3月には細川潤次郎、大給恒ら5名を「メダイユ取調御用」掛に任じ勲章に関する資料収集と調査研究に当たらせた。
結果、1875年(明治8年)4月10日、賞牌欽定の詔を発して賞牌従軍牌制定ノ件(明治8年太政官布告第54号)を公布し勲等と賞牌の制度が定められた。
(Wikiより)

明治8年:賞牌従軍牌図式

明治初期には、彫金師や錺師による一品制作、手彫りの原型でした。
明治36年、東京美術学校、翌年造幣局にフランスからジャン・ピエー色式縮彫機が導入されます。
この機械によって、メダルの複製と量産が可能となりました。
当時の日本人には繊細すぎる機械だったようで、明治43年に、やっと造幣局でも使用されます。

さて、こうやって始まった日本のメダルですが、それに関係するのかどうかわかりませんが、ちょっと面白い資料を偶然手に入れたので、覚えとしてここに記します。

明治44年11月5日、考古学会発行「考古学雑誌」より
「1910年万国銭貨学大会報告 工学博士 甲賀宣政」

この会議では、貨幣のみでなく、賞牌についての論文と研究発表がなされたようです。
いくつか抜粋します。

リチ氏:伊太利復興賞牌
ボスシ氏:ルチリオ、ガチ及び歴史文献として賞牌の切要
ストラー氏:白耳義皇妃シャーロッタ、オーギャスタの賞牌
マーシャル氏:現代賞牌論、賞牌術に於ける肖像及び著作権
ヘルンライト氏:賞牌の技術
ウイエッケ氏:現代極印製造に彫刻機の応用
コワルイツイク氏:最近六十年間独逸賞牌術の発達
ブレンナー氏:合衆国に於ける賞牌進歩の概略
etc...

発表の後には、皇立図書館に集まり賞牌収蔵所を見学したとか。

この報告書には詳しく書かれていませんでしたが、この大会はベルギーで行われたようです。
また、甲賀宣政は、造幣局試金部長だった人物。
1910(明治43)年のこの会議が、造幣局での縮彫機使用を促したのかもしれません。

ただ、中には、『近年賞牌の品質太だ下降せり往時の如き壮厳なるもの典雅なるものを作らんには唯々手彫りに復奮するより他に良法なし』という意見もあったとか。

それと、興味深かったのは彫刻家の著作権についてで、『白耳義に於ては美術家が注文を引受るには普通契約の手続を要す又一方の承諾なくして再び打製することを予防する』
『原型を造幣局に預け置き之を再用するには作者及び注文主双方の承諾を要する』云々

流石本場です。日本の場合はどうだったろう?
明治頃の銅像建設は大きなお金が絡むから契約があったようですが、著作という観点からは現在でも怪しい。
作者及び注文主双方の承諾」ですよ、注文主が独占するわけではないのですね。
最後に『美術家は契約により各自の利益を保護すべしと決議せり』という一文あって、泣けます。


愛知県美術館「日本で洋画、どこまで洋画?」

愛知県美術館へ行ってきました。
今日までですが、コレクション展「日本で洋画、どこまで洋画?」が行われています。
展覧会の感想を書きたいところですが、まずは、それと同時に開催していました「うえからながめる」展がかなり良かったので、これについて。

この展示では、鎌倉時代の春日宮曼荼羅図から、東松照明の写真まで、俯瞰図をテーマにが展示がされていました。

所謂日本画は、古来より俯瞰図で描かれてきました。
絵巻物もそうですが、子供の絵のように対象を記号とし、俯瞰した場所に配置して構成するんですね。
それが、飛行機などの発展により、実際に「空から日本を見てみよう」ができるようになり、その結果、画家は新たな視点を手に入れ、作品に現します。

その古来からの視点と、現代的な視点との差を、須田剋太の「甲子園高校野球」や香月秦男の「サッカー」など各々のちょっと変わった作品の魅力も加わって、面白い展示になっていました。

た・だ・し...愛知の美術館の展示で「俯瞰」をテーマにしているのに、吉田初三郎が無いのは何故だ?
http://www.asocie.jp/oldmap/hatsusaburo.html
彼は、関東大震災後、犬山を拠点に仕事をします。
愛知県美術館は持っていないのかな?

さて、次は「日本で洋画、どこまで洋画?」についてです。
テーマとしては、日本洋画史をその流れの中で見せた...というものなのでしょうが、実際見た感想は、全て時代の「日本の洋画」というものを、それこそ俯瞰で、フラットに、同じ土俵で見せるといった、かなり(良い意味で)凶悪な展示に思えました。

そう見たとき、高橋由一から奈良美智まであった中で、飛び抜けて見えた作品は、やっぱり藤田嗣治でしたね。
日本画にその手法の源があるとしても、この中では唯一無二のオリジナルだと感じます。

また、好みと言う点では、戦前の官展出品作が良かった。
大人っぽいといいますか、金や名誉を含めた現実を背負った人の絵なんですよね。
それが心地よい。
現代作家は、逆に子供っぽく演じているように思いました。
中村彝や神原泰の方が、本当の意味で若々しい。

それと、これは自分でも理由がよくわかっていないのですが、現代に行くにつれてどんどん画面が小さく感じるのです。もちろん、それは作品の大小に関わらず。
個々の作品のセレクトのためなのか、それとも時代性にそういった流れがあるのか。

考えてみると、その要因の一つは、作品がオブジェ化しているからかもしれません。
一つの物体として完結していると言いますか。
オブジェ化によって、作品の技術的な面をフォローできるからかもしれません。
例えば、アールブリュットの作品なんかがそうだと言えますね。
ただ、以前この美術館で見たポロックは大きかったなぁ~

また、展示作品の中に鬼頭鍋三郎の戦争画の習作がありました。
親族による寄贈のようでしたが、これは嬉しいですね。
戦争画は、歴史と繋がっている作品だけに、こういった秀作であっても意味を持つものだと思いますし、たしかに意味を感じました。
ただ、全ての時代の作品をフラットに見ると言う意味では、戦争画の代表がこの作品では少し寂しいものがありますが。
それでも、このように世に出て、美術館などで展示されるのは嬉しいです。
愛知県美術館が、東京国立近代美術館や靖国神社に負けない戦争画館になると良いな~~~~

2016年12月12日月曜日

朝倉文夫が受賞した賞状? 続報

SAKO様
ありがとうございます!
お許しをいただきましたので、前々回投稿しました「朝倉文夫が受賞した賞状? 」について、SAKO様から頂きましたコメントをご紹介いたします。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/12/blog-post.html

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『仁禮景範銅像の原型図案募集は、美校卒業生の田中雄一と在校生の朝倉文夫の2人が一等賞を受賞し、賞金は折半となったことが、当時の校友会月報で報じられています(『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』pp.347-348参照)。

アジア歴史資料センターのホームページで「3海将」で検索するすると、当時の三海将銅像関係の公文書がズラッと出てきますが、これらに眼を通すかぎり、やはり、仁禮銅像原型は、田中雄一と朝倉文夫の共作だと判断できます。

例えば、C11081409500「建設報告、及除幕式辞」の件に、〈故仁禮中将ノ銅像原型製作ハ田中雄一朝倉文夫両氏ニ嘱シ…〉とあります。

ただし、C11081409100「銅像原型製作、鋳造、参名考案等の件(3)」に気になる書類があります。明治40年11月付で、田中雄一が一年間志願兵として入営することになったので、仁禮銅像の制作を朝倉に引き継ぐ、作者は連名とする、とあります。

最初から共作でスタートしたのか、一人で担当していた田中から朝倉へ引き継がれたのか、もう少し史料を読みこむ必要がありますが、仕上げに至るまでの制作後半は、ほとんど朝倉が一人で行なったとみてよさそうです。

なお、田中雄一は戦前はそこそこ活動していた彫刻家です。
『人物と其勢力』という人名事典に略歴が載っています(299コマ)。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946316

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仁禮景範銅像は、田中雄一と朝倉文夫の共作だったようです。
また、制作に関しては朝倉文夫が担ったと言えそうです。

アジア歴史資料センターのホームページは以下
https://www.jacar.go.jp/

早速私も読んでみました!
その中の『銅像原型図案募集及賞金設定等
『応募者は粘土、油土、石膏、木彫等の模型を以って形容姿勢等を示すべし』とありますね。
やっぱり立体図での応募だったのですね。

それと、川村大将像の次席に畑正吉の名前があります。この時彼は24、5歳のはず。
表彰式には出席したのかな?

さて、ここで重要なのは、『銅像の図様は全身立体像のこと』とあることと、『顔面及び頭部には精密の工を要せず。別に写真によりて正確なる顔面または胸像模型を添うべし』
と、全身像と3海将本人に似せた胸像模型の2つを要求していることです。
そして、仁禮中将像の1等に、胸像の部で田中雄一、全身(立像)の部で朝倉文夫の名前があげられています。

 私のコレクションを見てみると…

『…其胸像第一等の選に當りたるを以て…』とあります。
つまりこれは、胸像部門における田中雄一に渡された賞状(のコピー)だと言えるでしょう。

全体の構成では朝倉文夫が、顔などの細部を田中雄一が担当する予定だったのかもしれませんね。
けれど、田中雄一が一年間志願兵として入営することとなったので、朝倉文夫が顔も含め制作したということかも。

それにつけても、朝倉文夫の回顧録に、この銅像の話題が出ても田中雄一の名前は一切出てこない。不思議だ?
朝倉文夫のプライドか、それとも制作の途中で田中雄一と何かあったのか…




2016年12月7日水曜日

安松みゆき著「ナチス・ドイツと<帝国>日本美術」を読む。

1939(昭和14)年、ベルリンにて「伯林日本古美術展覧会(AUSSTELLUNG ALTJAPANISCHER KUNST)」が行われます。
開会式には、あのヒトラーも出席します。

「ナチス・ドイツと<帝国>日本美術」は、その「伯林日本古美術展覧会」開催に至るまでの、ドイツでの日本美術受容史を縦軸に、それに寄り添うように展覧会実現に向けて奔走する東洋美術史家のオットー・キュンメルと、その縦軸に影響を与える横軸として日本とドイツ政府の各々の政策と思慮、そしてイギリスや中国を含めた世界情勢等々を描きます。

これが、面白い!
学術書なんだけど、歴史物語を読んでいるみたい。
映画にしてくれないかな!

近代彫刻史関係で言えば、退廃美術と言われ不幸な最後であったドイツの彫刻家バルラハに関する著書を書き、発禁処分となった批評家カール・ディートリヒ・カールズが、同展の批評を新聞に書いていることですか。

彼は雪舟とゴッホとの近似性を述べているのですが、そこにはゴッホという退廃美術を、「伯林日本古美術展覧会」の展示作品というナチスの政治的に批判できないものに似ていると言うことで、暗にナチスの美術政策批判をしているのだと言います。
骨太だなぁ~

さて、私が以前書いたバルラハに関する投稿です。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2012/12/blog-post_23.html
バルラハのような表現主義彫刻が、戦前においてどこまで日本に影響を与えたか、よくわかりません。
逆にバルラハがどこまで日本の彫刻から影響を受けているかもわかりません。
バルラハは浮世絵から影響を受けたことは知られていますが、彫刻はどうでしょう?
特に能面や狂言面についてどこまで知っていたか気になるところです。

「ナチス・ドイツと<帝国>日本美術」に書かれていることでは、1908年に日本の面が本で紹介され、1925年には「日本の仮面 能と狂言」という本でまとめられたそうです。
ドイツにおいては、当時から能面・狂言面の評価は高く、それが表現主義に影響を与えたと考えることはできないでしょうか??

それにしても、「伯林日本古美術展覧会」に関するナチス寄りの評論が良い味!
重文「大威徳明王像」にある卍が、ハーケンクロイツに似ているからといって、日本人のアーリア人的気質を語るとか...
飛鳥昭雄氏が喜びそうなオカルトだな!

ポケモンでも卍が使われ、差し替える問題がありましたが、この時期からそんな言説あったのね。

さて、横道にそれたので話を戻して...
この本で著者は『戦争へと至るプロセスの中で、美術が国際政治の道筋を示す機能を担わされた』と言います。また、『大戦前夜の国際関係の緊張は、むしろ不可能であったはずの美術展を実現へと導き、その質を高める役割を果たしている』と、この戦争へのプロセスが無ければ、この展覧会は実現しなかったとも言います。

この矛盾、いや矛盾ではなく、これこそがリアルなんだろうと思います。

2016年12月5日月曜日

朝倉文夫が受賞した賞状?

私にとってはお宝ですが、他人にとってはど-でもいいもの。
今日は、そんなものを紹介します。


ファイルに入ったまま撮影しましたので、画像が悪くてスミマセン。
この賞状は、明治39年の海軍中将「仁禮景範」子爵のための銅像図案審査によって1等に与えられたものです。
金150円を受け取ったとありますが、それは現在の金額でおよそ150万円くらいだとか...
大金だ!

その海軍中将「仁禮景範」子爵ですが、明治33年に亡くなっています。
死後、東郷も含めた薩摩藩有志の手によって銅像設立がなされたのでしょう。
賞状には「西郷、川村 仁禮 三将銅像設立」とあるので、仁禮銅像と同じ海軍省に設置された西郷従道、川村純義も同時に公募されていたとわかります。
この銅像達は、全て昭和18年の金属回収令によって回収され、現在はありません。



上は、そんな仁禮銅像の絵葉書です。
絵葉書には、明治42年5月除幕、1丈2尺とあります。
図案が決定してから、3年ほどもかかっているんですね。

さて、問題は、その受賞者「田中雄一」ですが、史実では、「仁禮景範」銅像の作者はあの朝倉文夫ということになっています。
どういうことでしょう?
朝倉文夫の回顧録には、彼が美術学校3年生で23歳の頃、石川光明に誘われ、この公募に出したとあります。
つまり、学生で公募に出す資格の無かった朝倉が、「田中雄一」の名前で応募したのでしょうか?
昭和初期に発行された銅像写真集「偉人の俤」には、仁禮銅像の作者として二人の名前が列記されています。

この入賞によって、朝倉文夫の名前が一躍世に出ることになります。
除幕式では東郷平八郎らが居並び、朝倉は山本権兵衛にシャンパンを注いでもらったとか。

ちなみに西郷従道と川村純義は朝倉の先輩、本山白雲が制作しています。
当時の白雲は、銅像作製では第一等の人物であったわけで、そこに食い込んだ朝倉は、やはり早熟の天才だったのでしょうね。

こういった、楽しいことを色々想像させる賞状ですが、東郷の印がないことからも、実際は写しじゃないかなと考えています。
それはそれで、なぜ写しが出回ったのか?とか、オリジナルはどこにあるのか?などなど、妄想が膨らみます。

2016年11月27日日曜日

銅像(再)受難の現代? 岩田洗心館へ行く

今日は、犬山市にあります岩田洗心館へ行き、大嶽恵子さんの彫刻(銅像)論を拝聴いたしました。
論旨は、公共の場所における裸婦像における、ジェンダー的視点からの違和感について...とまとめられると思います。

銅像ではないですが、最近ですと、「東京メトロ「駅乃みちか」スケスケスカート問題」とか、「三重県志摩市の海女さん「碧志摩(青島)メグ」」問題」なども同じ様な問題意識だと思います。

その内、私としてはまず、「公共の場とは何か」を、ここで考えてみます。
「公共の場」のあり方を考えてみると、以下のようになるでしょう。

1.特定の者の意思によってコントロールされた場
 美術館などの建築家によって設計された場所なんかがそうですね。
 マクドナルドの店舗だってそうです。
 哲学者 中島義道にとっての公共放送みたいなもので、
 それが気に入らない人には悪意の場になります

2.異なった他者同士の意思が、すべて存在しうる場
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であるエルサレムなんかがそれだと言えます。
 ですが、現実争いは耐えないわけです。

3.誰の意思も介入しない場
 靖国神社の代わりに考えられている「国立戦歿者追悼施設」論がそうです。
 しかし、それは1の「.特定の者の意思によってコントロールされた場」と同義でしかありません。

4.見たい人が見たいものを見る、見たくない人は見ることの無いフィルタ機能のある場
 レンタルビデオ屋の18禁部屋なんかがそうですね。

4.が、理想だと思います。
しかし、銅像などには、TVやネットのように、フィルタをかけるということが物理的に難しい。
だからと言って、1.2.3.にしても良いかと言えば、それはそれでデメリットがあるわけです。

次に「美術(彫刻)」としての問題を考えます
美術は歴史を背負います。
歴史を知らない人にとっては無意味、無駄なものでしかありません。
そして、知っていることと、知っていないこととは、等価値でもあります。

その上で、「美術(彫刻)」史を見ると、近代において彫刻とは「像ヲ作ル術」であり、人体特に女性像を作ること=(イコール)彫刻でありました。
さらに、野外展示、またはそれに準じた場所での展示が欧州的な正当だと考えられています。
室内展示では、わざわざ草木を配置したりするんですね。

つまり、公共の場所で裸の女がドヤっと立っているのが正統的な美術形態だと考えられたわけです。
だからこそ、戦前から裸婦像問題があるわけですね。
そして、先に書いたように、そんなことは知らない人には知ったことではありません。

最後の問題は男性視点についてです。
大嶽恵子さんがおしゃっていましたが、芸大にて女性を物として見る様に訓練されることが、苦だったとか。
日本の彫刻史は、男性美術史と言っても過言ではありません。
ほぼ男。
私の知っている限りでは、戦前の官展に出品した女性はほんの数人だったのではないかと。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2013/05/blog-post_18.html

佐藤忠良が描く自立した女。母でも少女でもない女を描いていますが、それだって男が描いたモノでしかないわけです。
それを苦と感じる人だっているでしょう。

こういった3点の足かせを得てある、現在の銅像なわけです。
受難の時代だなと思いますよね。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

一つの解決策として、無理だと思いながらも言います。
女性は、男性が描く「女」の性を自身のものと客体化してしまうわけです。
それを止めたらどうでしょう?
男は、どれだけ女性がBL的な漫画を描いても、そこに描かれているモノを男だとは認識しません。
客体化して、自身の性のあり方に影響を与えないのです。
つまり、東京メトロの「駅乃みちか」も、「三重県志摩市の「碧志摩(青島)メグ」も、女だと見るから問題なのです。
あれは、ああいう生物で、女とは別物と考えたらどうでしょう?

銅像に描かれた、男が作る「女」みたいなモノは、実際の女では無いのです!!
どちらかと言えば、ルネサンスの天使みたいなものなんです!!

2016年11月23日水曜日

「裸でゴルフ」再考察

前回紹介しました、野々村一男のレリーフ。
この「裸でゴルフ」には、根深い問題があるのではないかと考え、再考察します。

まず、ゴルフというスポーツには、ドレスコードがあるわけです。
それは、ゴルフが貴族のスポーツであったこと、帝国主義時代に広まったことといった歴史によって発生したものです。
スポーツは、無国籍化される傾向にありますが、テニスや柔道などのように、ドレスコードとして「歴史」を背負っているわけです。

さて、では野々村一男は何故「裸でゴルフ」に至ったのか?
思うに、彼はそのスポーツの歴史を遡り、根源として古代ギリシャでのスポーツに至ったのではないでしょうか?
古代ギリシャでは裸でレスリング、競走、ボクシング、やり投げ、円盤投が行われます。
ディスコボロスの像が有名ですね。


その、根源の姿を作家は描きたかったのではないでしょうか?

では、何故「根源」を描かなくてはならないのか。
それは、ロダンがそうであったように、古代の彫刻をリスペクトし、自身の彫刻観とする当時の彫刻家の意識があったからではないかと思います。

ロダンや萩原守衛は、エジプト彫刻を高く評価しました。
自身の彫刻と古代の彫刻とを繋げて考えたのですね。

それは、橋本平八が円空を見つけたように、円空仏が「仏像」であるこという、元々持っていた意味以上のものを彫刻家が見出したことを意味します。
つまり、彫刻家は古代をリスペクトしながらも、それは当時のありかたそのものを評価したわけではないのですね。

彫刻家の「古代と自身とをつなげる。」「古代のあり方を自身の必要に応じて加工する。」といった姿勢から、近代的な「ゴルフ」というスポーツを古代ギリシャの姿に加工してしまったのだと思います。

近代彫刻家(ロダン)の呪縛とでも言うのでしょうか。

しかし、他文化を「自身の必要に応じて加工する。」つまり勘違いを表現するということは、新しい文化生成のための様式なわけです。
日本と言う東の果てでは、仏教も儒教も、音楽も「自身の必要に応じて加工する。」ことによって文化を生み出してきました。
ですからね、そんな「裸でゴルフ」という姿を、私は高く評価したいと思うのです。

2016年11月21日月曜日

野々村一男? 作 第十二回朝日ゴルフ大会レリーフ

以前別のサイトで紹介して、「なんで裸でゴルフ!」とつっこんでいたレリーフでしたが、どうやらこれが野々村一男の作らしい。



このレリーフは、大須の骨董市で手に入れたのですが、それが野々村一男作だとは、なんだかできすぎですね。
名古屋市出身の野々村の銅像作品は、名古屋のあちこににあって、まさに愛知を代表する近代彫刻家であると言えます。

野々村 一男は、明治39(1906)年生まれ、終戦の年には30代後半で、彫刻家として、油の乗り切った時代でした。
同世代の中村直人や、中川為延、中野四郎、清水多嘉示、古賀忠雄らと共に軍需生産美術推進隊に参加します。
今でも当時の炭鉱で制作されたセメント彫刻が残っています。
彼らは、戦前において彫刻の最先端にあり、戦後において時代遅れの長老となった世代。
そこに何があり、彼らは何を思ったか。
戦時中の事をあまり語りたがらない世代ですが、できれば後世に伝えて欲しかった...

さてさて、それにしてもこのレリーフ、何故にフルチンでゴルフなんだ?

★中国の宋家二代 「呉竜府(ご りゅうふ) 」が編み出した 「纒がい狙振弾」 とは...
民明書房刊「スポーツ起源異聞」より
『棍法術最強の流派として名高いチャク家流に伝わる最大奥義。
この技の創始者 宗家二代 呉 竜府(ご・りゅうふ)は 正確無比の打球で敵をことごとく倒したという。
この現代でいうゴルフスイングにも酷似した 運動力学的観点からいっても 球の飛距離・威力・正確さを得る為に もっとも効果的であることが証明されている。
ちなみに ゴルフは英国発祥というのが定説であったが 最近では前出の創始者がその起源であるという説が支配的である。』

きっと、こっちの「呉竜府」(ご りゅうふ)」 の像なんだな!!違いない!


2016年11月10日木曜日

佐藤朝山「八咫烏」の謎にせまる!

彫刻界三大ミステリーの一つ!(嘘)
佐藤朝山の「八咫烏」の色はどんなだったか?

空襲により焼失した佐藤朝山の「八咫烏」ですが、色彩鮮やかな木彫だったと言われています。
現在、作品のモノクロ写真しか残っておらず、その色は謎となっています。


このたび、「colorization」のWEBサービスが始まり、モノクロ写真をカラーに置き換えることが手軽に行えるようになりました。
早速、上記の「八咫烏」の画像を変換してました。

結果はこちら!!


 残念!単なるツートンカラーになってしまいました!
写真が粗いんでしょうね。
もっとクオリティーの高い写真で次は試してみます。

2016年11月6日日曜日

日本の木彫

前回書いた「プロダクトとアート」ですが、今回はその中でも木彫について語りたいと思います。

「彫刻」によって信教と切り離された木彫は、モデルでは「平櫛田中」が表すように、プロダクトでもアートでも無く、またはプロダクトでもあり、アートでもあり、さらに新たな信仰でもあるような「モノ」となります。

その中には、橋本平八らが示すような、仏教以前の自然崇拝と結びつけや、抽象彫刻などのただ単に「彫刻」の素材として扱う場合、または戦後となって木が「モノ」であることを表す「もの派」もその流れの一部だと言えるでしょう。

日本の木彫は、系譜がひねくりまわってて、一言では表せ辛いですね。

そういった日本の木彫の一つの姿として、次の作品を紹介します。
畑正吉による能をモチーフにした木彫の浮彫です。


畑正吉の出自は木彫です。
畑は彫塑ではなく、仏像のような「プロダクトとしての彫刻」を学びます。
農商務省海外実業練習生として、パリに行った時も木彫の勉強の為です。

上記の作品は、能に惹かれていた晩年の物かと思われます。
面白いのは、メダルなどの彫塑技法による浮彫で木彫がなされている点です。
以前、私のブログで寺の浮彫の木彫を紹介しましたが、それとは技法が違います。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/07/blog-post_21.html
また、能という伝統芸能には、能面という木彫を用いますが、その技法とも異なります。
つまり、西洋的「プロダクトとしての彫刻」の技法で、東洋的信仰対象である「能」を表した作品であるわけです。

それに、畑正吉という作家が、わざわざ木彫を選んだことから、これは作家の意思「アートとしての木彫」でもあると思います。
こんがらがっているな~

今回も図でまとめてみました。


「伝統的能面技法」の近くありながら離れ、、「アートとしての木彫」「信仰対象」「プロダクトとしての彫刻」の中心にあるのが、畑正吉の木彫です。

始めてこの作品を見たとき違和感があったのですが、それは日本木彫の抱える違和感だったのでしょう。
ちなみに、現代作家で代表的な木彫家、舟越桂の場合、「信仰対象」が西洋的なこと、伝統技法(仏像等の)から遠く離れていることから、その違和感を感じ無いのではないかと思います。
ただ戸谷成雄の場合は、違和感ありますね。
...江口週にはなく、植木茂にはある...感覚的なものかもしれませんけどね。

2016年11月4日金曜日

プロダクトとアート

近代日本彫刻におけるプロダクト(応用美術)とアート(純粋美術)との関係を私なりにモデル化してみました。



もともと日本には、所謂「工芸(応用美術)」という分野しかありませんでしたが、明治維新後、西洋美術の輸入により、工芸が分化され、人体の像を形作る「彫刻」が産声を上げます。
ただし、それは西洋文化及び技術の獲得が目的であり、目的を持った美術「プロダクトとしての彫刻」でありました。
この時代の代表作家が東京美術学校の高村光雲や石川光明ですね。

次にロダンの影響によって、「彫刻」による自己表現、思想、感情、衝動の表現を求める「アートとしての彫刻」が高村光太郎らによって謳われます。

それが両翼の片方だとしたら、もう片方、「プロダクトとしての彫刻」として純化したのが畑正吉らの仕事で、銅像などのモニュメント、そしてメダル等を手がけます。

その中間、「アートとしての彫刻」であり「プロダクトとしての彫刻」でもあり、且つ「アートとしての彫刻」でもなく、「プロダクトとしての彫刻」でもない、そして西洋のように宗教的な裏づけも無いといった鵺のような、根無し草のようなあり方をしたのが朝倉文夫や平櫛田中ら、官展、院展の作家たちだと思います。
それはそれで、ドメスティックな日本オリジナルの文化でもあります。

そんな「アートとしての彫刻」、「プロダクトとしての彫刻」の最も濃い部分を併せ持つ「アートでもありプロダクトでもある彫刻」を成そうとしたのが、これまで何度も語ってきました「構造社」です。
そして、その流れは社会全体が「戦争」という目的を持つに至った「戦時下」において重要度を増していきます。

このモデルを一番体現しているのが「畑正吉」です。
パリ時代に同居していた高村光太郎と畑正吉ですが、ロダンの受容によって二人の生き方は決定的に異なります。
その二人が、官展等の主流になれない中で、「戦時下」において畑の章メダルや光太郎の詩や軍需生産美術挺身隊などの国粋的活動において再び交わるわけです。

2016年10月26日水曜日

荻島安二 作 三菱倶楽部 端艇部 メダル


サインから荻島安二の作だと思われる昭和6年の「三菱倶楽部 端艇部」メダルです。

↓今まで紹介した荻島安二のメダル
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/search?q=%E8%8D%BB%E5%B3%B6%E5%AE%89%E4%BA%8C

図柄はサロメがヨハネの首を捧げるように王冠を持った女性像。
荻島安二らしい昭和初期デカダンな作品です。
他の水泳競技にこういった洒落た図柄はあまり見ません。
ボート競技って、テニスやゴルフといったハイソなイメージを持つスポーツなんでしょうね。

三菱倶楽部 端艇(ボート)部ですが、三菱では多くのスポーツクラブを持ち、ボートでは内漕艇大会が開催されていたそうです。
1917年の大会には、4代目総帥岩崎小彌太自ら選手として年長者番外レースに出場したと言います。
このような比重を置いた活動によって、荻島安二というお洒落男にメダル原型を頼む流れになったのでしょう。

小さなメダルですが、凄く素敵。

2016年10月18日火曜日

Intermission お伊勢参り

先週末は伊勢神宮へ参拝に行って来ました。
神嘗祭前日でもあった為か、それほど人もなく、外宮から内宮へとゆっくり廻ることができました。


途中、外宮にて祭主池田厚子様をお見かけ致しました。
翌日の神嘗祭の準備だったのでしょうか。

神宮といえば、外宮には「豊受大御神」が、内宮には「天照大御神」が祭神として祀られております。
とはいえ、そのお姿を描いたものは、意図的に排除されているようです。

嘗て伊勢神宮の外には宇治古市と言われる遊郭が立ち並びました。
「伊勢参り 大神宮にもちょっと寄り」という川柳が歌われるほど、伊勢参りのメインとも言えるような賑わいだったといいます。
その頃には、大津絵のように天照を描いた絵なんかも売られていたでしょう。
それが、国家神道となっていく中で、伊勢神宮も厳格化し、「神」の像を排除していったのだと思います。

しかし、実は神宮内には天照の像が安置されていると言います。
それが彫刻家「越智綱雄」による木彫作品です。
戦前から始まるその像の制作でも、当時の神祇院が「神像は具現すべきでない」と待ったをかけます。
そこで越智は日本神道思想の大家、今泉定助に会いに行き、その思いを説いて納得させたのだそうです。
越智が疎開していた間、この像は横山大観の倉庫に保管され、終戦後昭和26年に遂に完成します。
そんな天照の像を一度見てみたいものです。



2016年10月10日月曜日

堀江尚志 続報


前回、堀江尚志の鶏レリーフについて、書き込みを頂きました。
SAKO様ありがとうございます。

書き込み頂いた内容ですが、製作者として書かれているのは、盛岡の南部鉄器職人「三代目髙橋万治」ではないかということです。
もし、そうであれば、この鶏レリーフは南部鉄器かもしれないということですね。

絵葉書は、盛岡の志士「横川省三」の銅像です。
この銅像もまた、堀江尚志が原型を制作し、髙橋万治が鋳金を行い、昭和6年に建立しました。
http://www.morioka-times.com/news/2012/1205/28/12052802.htm
↑によると、台座を入れて高さ8m、銅像だけで高さ3.3mと、堀江作品では最大のものでしょう。
当時の盛岡市長がこの銅像の発起人とのことなので、盛岡出身で若手新鋭彫刻家の堀江尚志を選んだと言うことなのでしょうか。
この二方のタッグで、他に作品があるのか気になるとこころです。

この「横川省三」の銅像ですが、どこかロダンのバルザックのようです。
直立不動で静的なシンメトリーの姿は堀江尚志の特徴を感じさせますね。

2016年10月2日日曜日

堀江尚志に就て

突然変異による特異点が生まれ、徐々に必要なカタチに推移していくような進化。
めちゃくちゃ首の長いキリンが生まれ、その子孫が徐々に現代のサイズとなっていくような....
そんなのが実際あるのかどうかわかりませんが、戦前の彫刻についてはあると思っています。

そんな特異点の作家とは、橋本平八堀江尚志です。
特に堀江尚志がそうですが、舟越保武ら同世代の彫刻家に大きな影響を与えます。
そして、私の思うところではどんな作家も彼ら自身を超えることはできなかった。

彼らの特徴は、その近代性(モダン)です。
橋本平八の現代性というとわかり辛いですが、過去を志向する「右派」と革新を志向する「左派」が、どちらも社会革命を目指している点で同じだということです。(さらにわかり辛いか...)

堀江尚志の作風も、エジプト彫刻やロダン、マイヨールなどからの影響はあると思いますが、より洗練されており、戦後のモダンな日本人像彫刻の祖となります。

ここで重要なのは「日本人像」だということです。
簡単に言えば、堀江は日本人を初めてモダンに描いた彫刻家なのだと。

当時、彫刻というのは、モデルをそのまま描くものでありました。
ただし、当時の日本人は「近代的」な視点で美しいとは言えず、よって彫刻作品もそうでした。
そこで、堀江以前から作家による抽象化がなされ、できるだけ美しい顔、形へと工夫がなされます。
絵画においては、明治以降の絵画に多く見られるように、まるで西洋人のような日本人が描かれます。
しかし大正時代となって、「カワイイ」がモダンに取り入れられた結果、特に日本人女性像の描き方に変化が現れ、より「モダン」な日本人像を描く手法が確立しだします。

彫刻においては、それが堀江尚志なのだと、私は考えています。
その完成形が彼の「少女座像」ではないかと。

さて、ここで堀江作品(伝)の紹介です。



彼の作品に「」はありますが、この鶏は本当に彼の作かどうかよくわかりません。
裏側に「某卵店主の注文にて作りたる珍品なり」「堀江尚志作品」「原作堀江氏」「制作馬橋○造」とありますが、この製作者もよくわかりません。
といいますか、橋本平八に比べ、堀江の資料が少なすぎてなんとも...
この作品が今後の研究材料になればと願います。

牧雅雄に陽咸二、そしてこの堀江尚志と、昭和10年に亡くなった作家作品は、少しづつでもコレクションしていきたいです。

2016年9月11日日曜日

昭和8年度 千葉県中等学校体育協会 メダル 作者不明



「昭和8年度 千葉県中等学校体育協会」のメダルです。

作者は不明。
と言うのも、このモチーフの右腕にサインらしきものがあるのですが、それにあたる人が思い出せないからです。
数年前にどこかで見たような気もするんだけど...

この絵本の様なデザインも不思議です。
オリーブを掲げたピエロの様な、王様のような人物が描かれています。
面白いです。
昭和初期に、こういったをデザインを扱える作家ってそんなに多くはなかったでしょう。

「千葉県中等学校体育協会」ってお硬そうな感じなのに、こんなデザインを採用したんですね。
作家に力があったのか?それとも...

それにしても、このデザインにも、どこかで会ったような気もするのですよね...

2016年9月2日金曜日

岡本太郎作 岐阜中部未来博覧会 メダル 追加情報

鵜飼武彦著「岡本太郎と未来を拓く」を読む。

この鵜飼武彦さんという方は、1988年に行われた岐阜中部未来博において、シンボルタワーとして建設された岡本太郎の「未来を拓く(ひらく)塔」をプロデュースした方だそうです。

本によれば、当時、鵜飼さんは高島屋岐阜店勤務をされていた。
オリンピックの名古屋誘致失敗から、中部での博覧会が計画され、岐阜で行われることになった未来博に、彼は大阪万博の「太陽の塔」のようなシンボルをと考えたのだそうだ。
そして単身岡本太郎に会いに行った。

岡本太郎は、計画していたフィラデルフィアの独立記念二百年記念モニュメントがオジャンになって、その作品を「未来を拓く塔」に使用する。
なぜアメリカの独立記念に岡本太郎かはわかりませんが。

鵜飼さんは、それからスポンサーを探し、財団法人宝くじ協会が1億円を寄付、それでも足りなくて、高島屋から「未来を拓く塔」のミニチュア置時計を270個、金、銀、銅の記念メダルを制作、販売した。

それが岐阜県博物館でも展示したメダルですね。


金のメダルの価格が25万円、銀は2万5千円、銅は3千円。
残念ながら、私の所蔵してるメダルは銅ですが、25万円のメダルを持ってる人もいるんでしょうね。

父親である岡本一平が最後に住んだ地である岐阜。岡本太郎は、このモニュメント建設のために何度か足を運びます。
食事は長良川湖畔の肉料理屋「潜龍」。
その後は柳ヶ瀬街を飲み歩いた。
当時はまだ柳ヶ瀬も眩しい街だったんだなぁ~~



そして、岐阜高島屋にて、「岡本太郎展」が開催。多治見の陶芸家二代加藤春鼎のアトリエで制作された陶芸及び版画や書が展示販売されたのだそうだ。

「未来を拓く塔」完成式典には岡本太郎も参加したが、その時はすでにパーキンソン病の症状があったと著者は書いています。

面白いのは、この著者鵜飼武彦さんが、岡本太郎が岡本敏子さんを養女にしたことに違和感を感じていると書いていることです。
同時代に生きてきた人しか書けない事だと思います。

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話は変わりますが、オリンピックの名古屋誘致失敗の件、手元にその反対運動をされた運動家の一人、杉浦登志彦著「たった十人ではじまった反乱」があります。
名古屋オリンピックだけでなく、名古屋市立美術館の反対運動もしているんですね。
この反対運動のメンバーには、岩田信一さんの名前もあります。
いつか、その内容をまとめてお伝えいたします。


2016年8月28日日曜日

板垣退助銅像撤去の追加情報

コメント頂いた内容をもとに、再度戦前の新聞を確認いたしました。


その結果、岐阜公園内の板垣退助銅像は、昭和19年4月6日に、その撤去のための慰霊祭(脱魂祭)が行われたことがわかりました!

確認した新聞は、昭和19年4月4日の朝日新聞(岐阜版)と4月7日の毎日新聞(岐阜版)。
朝品新聞は、慰霊祭の2日前に、そのお知らせを行っているのですね。
で、ここが面白いのですが、7日の記事では取り扱っていないんです。
毎日新聞では扱っているのに。

朝日新聞の他の銅像の供出をどう伝えているかと言うと、例えば大垣市の「愛馬忠魂像」の献納問題では、三段写真入りで伝えていますし、高山市の「加藤清正公全身像」もかなり大きな写真入での供出の様子を報道しています。
同じく高山の「伊藤氏の胸像」では「兵器となって前線へ」と、これも胸像の写真入、代用に石造りを制作することまで伝えています。

これも高山ですが、軍神廣瀬中佐の母校にある幼年時代の全身像(三十五貫 約131キロ)!と、城山公園内にある胸像(八貫 約30キロ)が出陣。この全身像は、同窓生らがタバコの銀紙を集めて基金に充て、中村清雄によって制作されたとしています。

かなり詳しく記事にしているのですよね。
板垣退助銅像の供出が昭和19年であり、これらの記事が昭和18年であったからというのが理由の一つかもしれません。記事内容の選択に時勢が絡んでいるのかも。

ちなみに、高山の廣瀬中佐幼年時代の全身像の制作者「中村清雄」は、昭和10年に東邦彫塑院展に入選、昭和14年頃からその廣瀬中佐像の制作を始め、昭和19年5月に完成させます。けれど、その2ヵ月後に供出となったのだとか....
サイズ違い、素材違いの像が残り2体あり、ひとつは昭和18年の院展に出品し入選、もう1体は現在も東小学校にあるそうです。

話は戻して、板垣退助銅像の慰霊祭ですが、毎日新聞では関係者を集め行ったとしか書かれていません。どんな規模で行ったのか、関係者とは誰だったのか。
また、後日供出されたとなっていますが、それは何時だったのか。
朝日の7日版で記事にされていないことも含め、まだまだ謎が多いです。

2016年8月24日水曜日

Intermission サツキとメイの家

彫刻とはぜんぜん関係ありませんが、今年の夏休みは愛・地球博記念公園にある「サツキとメイの家」に行って来ました!

で、私の興味はサツキとメイのお父さん、草壁タツオの部屋にあるわけです。
どんな本があるかな~




考古学者のお父さんですが、民俗学的な本が多かった。
仕事の資料は、研究室にあるのかな?

あと、埼玉県史など、埼玉県に関する本が多い、トトロの森がある埼玉からの移築だからかな?

あと、私の所蔵する美術の本も一冊だけ見つけたよ!




壁に掛かった、サツキが描いたと思われるカレンダー
8月1日が火曜日なのは、1950年、1961年、1967年、1972年、1978年....
その内、昭和30年代は、1961(昭和36)年。



千尋が油屋に迷い込んだように、私もこの時代にタイムスリップしてきたようだ。

また、今週からは、蚊帳が立つそうだ。
季節によって模様替えされるそうなので、また行ってみたいな~


2016年8月22日月曜日

畑正吉作 「ハードル」

オリンピックでの連日のメダル獲得。
本当にすごいですね。
特に400mリレーでの銀メダルは、歴史に残る出来事だと思います。

そんな陸上をモデルとした作品「ハードル」。

畑正吉による石膏原型です。
畑は、スポーツを題材に多くの作品やメダルを制作しており、これもそうした作品の一つでしょう。
まさに、ハードルを越えるその一瞬が描かれています。
レリーフでありながら奥行きを感じさせる構成は流石です。

また、この作品が特別なのは、「第三部会」に出品された物だということです。

この「第三部会」ですが、1935(昭和10)年の帝展改組にあたり、野に下った彫刻家有志が集い新設した団体です。
1936年には以下の声明を発します。

『第三部会では七月七日午後丸の内マーブルに会員集合協議の結果、文展不参加に決定、左の如く声明書を発した。 「明治、大正、昭和を通じ我国彫塑界に捲起したる凡ゆる闘争、すべての情実の根源たる松田改組によりて成れる現帝国美術院第三部会員の独占的に鑑審査に携はる文部省美術展覧会には本会会員は招待礼を受けず、純在野団体として我国彫塑界進展に努力せんことをここに声明す。 会員 池田勇八、石川確治、畑正吉、上田直次、小倉右一郎、開発芳光、吉田久継、日名子実三」

1940(昭和15)年に、国風彫塑会と改称される5年間のみあった団体だということもあり、どんな作品が展示されていたのか、私もあまりわかっていません。
絵葉書で、池田勇八の作品を知ったくらい。
その作品の現物が、ここにあるというのは、感動です!

2016年8月20日土曜日

板垣退助銅像撤去の情報求む!

戦前、岐阜城下にあった「板垣退助伯遭難記念銅像」。
この畑正吉によって制作された銅像ですが、昭和18年の金属回収令によって撤去されます。

この撤去時の状況を知りたいのですが、一向にわからない。
色々手を尽くし、調べて頂いたりもしたのですが、どうしても。

なぜだ!
当時の関係政治家に配慮し、隠れて行ったのか??
情報求む!!


石川光明の書

書は本当に真贋わからないです。
今回紹介するのは、あの石川光明(伝)の書。



なんて書かれているかわかりませんが(龍?)、カッコイイ。
最初にバッシっと筆を置いて、そこから龍がのたくった様にグググっと一気に引っ張る。
その勢いと構成がカッコイイ。
「大字書」になるのでしょうか。素人目には殆ど抽象、前衛書みたいに見えます。

以前、井上有一中村不折について触れましたが、こういうカッコイイ書が好きで集めたいって思うのですけど、如何せん真贋だけはわからない。
書の世界は本当に怪しいし、怖い。

ただ、これが本物だったら、この時期の作家は凄いねって思います。
何でもできる。教養が桁違い。
石川光明と高村光雲の出会いの話しを聞くと、その人柄も良かったんだろうね。

明治維新のヒーローたちも凄いけど、こういう市井の人達のレベルも高かったんだな。

2016年8月17日水曜日

Intermission 重箱の隅

最近の藤田嗣治展では、作家の戦時中の作品も、他の作品と同様に展示されていますね。
藤田の場合、これがなくちゃ話にならないというのはあるけど、他の作家はどうかな?
今までの彫刻家の作品展や書物ではどういう扱いがされているだろう?

手元にある1983年に行われた辻晋堂展のカタログには、1943年に臨時海軍報道班員になったこと、第二回大東亜戦争美術展に「陸戦隊の進撃」を出品、朝日新聞賞を受賞したこと、しっかり書かれています。

この当時の方が、風当たりが強かったんじゃないかと思っていたので、1980年代の展覧会のカタログに書かれていたことにはちょっとした驚き。

辻晋堂のサイトでも、この事が書かれていますね。
http://www.shindo-tsuji.net/index.php?lang=jp&page=bio
なんだか清い。

じゃあ、朝倉文夫はどうかな?
朝倉彫塑館のカタログを見てみると...
1944(昭和19)年の戦艦献納帝国芸術会員美術展出品、陸軍献納帝国芸術会員美術展出品、戦時特別文部省美術展出品と、これも書かれています。
さすが大将!

あの、平和記念像の作家、北村西望はどうかというと。
手元には、東京都井の頭自然文化園の作品目録しかなく、略歴も短いからなんともいえませんが、1941年に全日本彫塑家連盟の委員長になったこと、飛んで1945年に疎開したことしか書いてないな~
この公園には、「児玉源太郎大将馬像」「山県有朋公騎馬像」「日満鮮」など所蔵されているのですけどね。
特に「日満鮮」は凄い。日本、中国、朝鮮各国の民族衣装を着た三人の少女が並んで笑っている姿です。これは見てみたいな。

さて、あの本郷新はどうでしょう?
1975年の現代彫刻センター発行「本郷新」作品集には『1944(昭和19)年、野間美術賞受賞「援護の手」太平洋戦争次第に激しくなり、制作思うにまかせず、秋より奈良唐招寺にこもり、鑑真和尚の模刻に専念する。』とあります。
「援護の手」は、第一回軍事援護美術展覧会出品作で、これでの賞なのですが、そこは書かれない。
こっちもそう。
http://www.city.ube.yamaguchi.jp/kyouyou/choukoku/library/artist/hongou_shin.html

まぁ、本郷新だしね。しょうがないね。

カタログじゃないのですが、ヒトラーに愛された彫刻家アルノ・ブレーカー著「パリとヒトラーと私」には、彫刻家「イサム・ノグチ」と過ごした日々が書かれています。
彼らは隣同士のアトリエを借ります。色男だったイサム・ノグチの家には米国の女学生が押し寄せたそうだ。
その一人と結婚の約束したため、証人をアルノ・ブレーカーに頼み、彼らは祝杯をあげた。イサム・ノグチがブラックマンデーの煽りを食い帰国する際には、ブロンズの作品をアルノ・ブレーカーに手渡したと言う。

イサム・ノグチがパリ、デドゥーヴル通りのアルノ・ブレーカーの隣に引っ越してきたのは1928(昭和3)年です。パリでの彼は最初年上のフランス人女性アート・ディーラーと付き合っていたが、その後ニューヨークから若い恋人がやってきて、しばらく一緒に過ごしていた。女性が妊娠した結果、イサム・ノグチが中絶を強い、その処置が悪く、女性が生死にかかわる状態になったのだそうだ。

これは、イサム・ノグチ伝であるドナウ昌代著「イサム・ノグチ 宿命の越境者」に書かれていたことなのですが、ここにあるニューヨークから来た恋人というのが、アルノ・ブレーカーが結婚の証人になった女性だと思われます。
まぁ、偽装結婚の片棒を担がされたわけね。

で、この本には、アルノ・ブレーカーには何も触れていませんね。
女性問題の為か、アルノ・ブレーカーの問題の為かはわかりませんが。
アルノ・ブレーカーはパリでの日々として記しているのに寂しいね。

とまぁ、戦時の出来事を、彫刻家に関する書物がどう書いてきたか、重箱の隅をつつくように見てみました。

2016年8月7日日曜日

畑正吉 原型 第十一回オリムピック後援之章

今日から始まりましたリオ・オリンピック!
開会式見ていましたが、やっぱり楽しいですね。
次の東京はどうなるか、気になるところです。

3Dプロジェクション映像で、無人在来線爆弾を夜空に上げるとかどうでしょう?

さて、今回の画像は、日本陸上競技連盟による「第十一回オリムピック後援之章」です。


第11回オリンピックは、1936年に行われたベルリンオリンピックですね。


以前にも書きましたが、この大会の芸術競技には、日名子実三ら、日本の芸術家も参加しております。

そして、このレリーフですが、原型は彫刻家「畑正吉」です。
オリーブの冠を手にした選手たちと、恐ろしいお顔をした仏像。
これは新薬師寺の十二神像の一つ、「伐折羅(バザラ)大将」でしょうか。

日名子の陸上関係のメダルに韋駄天を用いたものはいくつかありますが、伐折羅大将というのが面白いです。
この怒髪の恐ろしい顔を見ていると、当時の国家を背負ったスポーツという側面を考えてしまします。
それにしても、なぜ伐折羅大将なのでしょう?守護神という意味なんでしょうか?

次の東京オリンピックでは、こういった神々に変わって、ゴジラやポケモン、初音ミクなど新しい日本の神々が象徴として登場するような気がしますね。
あぁ、守護神っていうならガメラか?でも護国聖獣キングギドラという可能性も??



2016年8月2日火曜日

天理教 道友社創立50年記念 オブジェ

また変なものを買ってしまった...


これは何かと言うと、天理教、道友社創立の50年記念、陶器のオブジェです。
または、ブックスタンドかも。
陶器というより土人形に近いかもしれません。
釉薬が剥がれそうです。
銘もありますが、よくわかりません。


「道友社」とは、天理教の広報、出版関係を行う事業部だそうです。
「創価学会」もそうですが、近代の新宗教の発展は出版の歴史とともにあります。
出版によって、田舎から都市部まで、広く、早く、多くの情報を供給し、信者を増やすことができるようになります。
今日では、メディアと宗教は切っても切れない関係です。

この「五十年記念」ですが、それは1940(昭和15)年のことのようです。
国会図書館で調べてみると「道友五十年 : 道友社創立五十年記念」という本がありました。
このオブジェは、その年の記念に制作され、配付または販売された物なのでしょう。

また、その像は、天理教での「ひのきしん」の姿を模したものだと思われます。
「ひのきしん」とは、神に対して無私による労働力の提供を言うのだそうです。
そう、この像は、数人でもっこを担いでいる労働者の姿なんですね。
反対側から見ると、それがわかります。


かつて、このような宗教的な共同社会は、世界な傾向としてありました。
まず、米国がそもそも、そういった者たちによって生まれた国です。
その中でもアーミッシュのように、独自の宗教観で生活をしている人もあります。
そして、初期共産主義者もまた、その名が示すようにコミュニティーを形成してきます。
その延長上に中国や北朝鮮があるわけです。

日本では、武者小路実篤の「新しき村」がそうですね。
現在でも「ヤマギシ会」があります。

なにより、こういった宗教の説く、労働そのものが信仰という思想は、プロテスタントによって広まり、それが資本主義を生み、西洋を近代国家に育てます。
日本では、それを模して「二宮金次郎」の思想として教化、国家建設の礎とします。

天理教は、教祖「中山みき」への個人対個人の小さな信仰から、「天理教」という宗教団体へと変化する中で、こういった共同社会宗教化へと大きく移行したのですね。
現在では、天理市という、日本でもユニークな宗教都市となりました。

「中島みゆきは中山みきである!」と言ったのは呉智英さんですが、僕にとっての中山みきは中島みゆき(様)だ!といきなり信仰告白して、この文章を終える...チャンチャン♪




2016年7月31日日曜日

報道ステーションと日曜美術館

夕方の「報道ステーション SUNDAY」では、1940年に行われる予定だった幻のオリンピックの特集でした。
その中で、当時の水泳選手だった方が紹介され、一瞬だけ獲得されたのだろうメダルが映されました。
ほんとに一瞬だったので、全部は確認できませんでしたが、その中に昭和11年に行われた日米中等学校選手権水上競技選手権大会のメダル、日名子実三原型の河童メダルがありました。


残りのメダルが気になります...すごく。
録画しときゃよかった...

それと、今日の日曜美術館では、現在国立民族博物館で行われている「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」が紹介されていました。
シーボルトのコレクションいついては、以前このブログでも紹介しましたね。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/07/blog-post.html

ブログで書きました勾玉や埴輪が展示されているのかわかりませんが、どうなんでしょう?
日本の民間信仰には興味があったようで、「蛇身弁財天像」が展示されているようです。
私も、こういった日本の蛇神像には以前から興味があります!

「あんとく様! お許しを!!」


2016年7月22日金曜日

仏印現代美術展覧会 覚書

1943(昭和18)年に行われた仏印現代美術展覧会。
当時、日本占領下のフランス領インドシナ。現在のベトナム、ラオス、カンボジアあたりですね。

この展覧会にあたっての新聞記事を読んだので、そのメモです。

この展覧会の一昨年に「仏印巡回現代日本画展覧会」が、「大東亜情報局」が後援、フランス大使館協賛、国際文化復興会主催で開かれています。
この「仏印現代美術展覧会」は、どういった後ろ盾があったのかは、この新聞記事ではわかりませんでしたが、仏印作家の絵画、彫刻、工芸が120点あまり日本で展示されます。

記事には、この地域の作家にはフランス系と支那系があり、その交流によって文化が成り立っているとあります。

展示作家には、「アングベルティ」、「フアン・タイ」、「ルオン・スアン・ニー」、「グエン・ヴァン・ホアイ」、「ト・ゴツク・ワン」、「チャン・ヴァン・ハ」、「グエン・ワン・チュオツク」、「グエン・ヴァン・テイ」、「グエン・ワン・ヒニユ」、「ヂェップ・エム・チャウ」等。

フランス系と支那系文化の混合作品として、「ヂェップ・エム・チャウ」の「少女」、「ナムソン」の「安南の少女」、「グエン・ヴァン・サン」の「トンキンのお針女」、「グエン・ヴァンシェン」の「浜辺の魚商」を上げています。

彫刻では、フランス系の「ジョン・シエール」の「ラオス人」、「パリック」の「鹿」、後はビエンホア美術学校の生徒の作品が良かったとか。


★以下、調べたもの-------------------------------------------------------------★

ビエンホア(Bien Hoa)美術学校は、現在もベトナムにあるようです。

ビエンホアという町は陶器生産で知られます。
この地に、1903年にはビエンホア職業教育学校設立され、1913年にビエンホア美術工芸学校となります。

美術学校の作品を検索するとこの二つが
http://www.sothebys.com/en/auctions/ecatalogue/lot.271.html/2015/modern-contemporary-southeast-asian-art-hk0565
http://www.jansantiques.com/Lot/jac2110.php

確かに面白い。
海外作品は、文脈がわからないので興味が沸きます。
中国の古代彫刻と西洋美術が混ざったような作風ですね。

画家はベトナム系が多いです。
それには、1925(大正14)年にハノイで設立されたインドシナ美術学校の影響があるようです。

昭和18年という戦火の下、たしかに軍部の影響があり、プロパガンダとして利用されたのでしょうが、こういったアジアの国々との交流展が戦時になって初めてなされているわけです。
この昭和18年には、ルオン・スアン・ニーら3人が日本に訪れています。
こうして、他のアジアの現代美術作家との交流が始まったのですね。

2016年7月21日木曜日

女優「川上貞奴」縁の貞照寺に残る胸像

川上貞奴は、明治時代の女優です。
その貞奴が私財で建立した寺院、「貞照寺(てい しょうじ)」が岐阜県各務原市にあります。
今日はこちらに行ってみました。

寺の周りには、貞奴の生涯を描いた浮彫がはめ込まれています。
彫刻師は、金子光清。




その中でも良かったのが、志州島にて怪獣「海驢(あしか)」に襲われるの図。
確かに海獣(かいじゅう)だけどね。








 このお不動さんの両側に立つが、貞奴と福澤桃介でしょう。


彫刻師「金子光清」は何代目なのかまではわかりませんでしたが、本堂は1933(昭和8)年に建てられたとのことですので、その時期の人だと思われます。
東京の柴又帝釈天にも、同じ「金子光清」の作品があります。
「金子光清」は東京の人なので、わざわざ頼んだのでしょうね。

また、この池の前に立つ観音像は、地元の作家浅野祥雲の作と言われているものです。

貞奴の霊廟前にも立派な観音様が立たれていたのですが、そちらはなんだか畏れ多くて写真が撮れませんでした。
百済観音に似たお姿の観音様で、たぶん戦前の物だと思われます。

普通、墓は日当たりを良くするためだとか言う理由で、南を向いています。
しかし、この貞奴の霊廟は鬼門である北東を向いているのです。
それは、貞奴と福澤桃介が尽力を注いで行った事業である大井ダムを臨んでいるからなのだそうです。
今でも、気にかけているのですね。
そういう理由の為なのか、なんだか気後れしてしまいました。

貞奴は、1900(明治33)年、パリで行われていた万国博覧会を訪れ、それを観たロダンが彼女の彫刻を作りたいと申し出たが、断わったそうです。
それで、ロダンは1906(明治39)年に花子をモデルに作品を作ります。
ですが、貞奴の像は、他のフランスの彫刻家に制作されます。
それが、この貞照寺に残る「音二郎像」と「貞奴像」です。
今回の目的は、この像を見ることでした。(写真は不許可でした。残念)

1900(明治33)年に制作されたこの像の作者は、レオポルド・ベルンスタン
ニコライ2世、エミール・ゾラなどヨーロッパの各界名士の肖像彫刻を多く制作したベルンスタンは、パリ・グレヴァン美術館の専属彫刻家として蝋人形の原型づくりに携わり、この貞奴の像も蝋人形の原型からブロンズにしたものだそうです。
この作品のモデルのために、貞奴は時間が取れなかったのか、またはモデルに懲りたのかしたので、ロダンの依頼を断ったのでしょう。

その蝋人形が、現存しているのかわかりません。
あれば見てみたいですね。
日本の美術館で展示したら面白いと思うのですけどね。
安本亀八の作品と並べてみたりとか。

ベルンスタンを調べてみたら、こんな作品がありました。
これはまさに貞奴!?

2016年7月20日水曜日

Intermission 横山潤之助 奈良さんセレクトで展示中

これまでも紹介してきました横山潤之助の追加情報です。

横山潤之助の代表作「裸婦」が、国立近代美術館で行われています。「近代風景~人と景色、そのまにまに~ 奈良美智がえらぶMOMATコレクション」展で展示されているそうです。

奈良さんの「裸婦」へのコメントがサイトに記載されています。
http://www.momat.go.jp/am/exhibition/nara_selection2016/#section1-2

この大正15年に描かれた「裸婦」は、横山潤之助が惚れて口説いて、後に結婚するモデル「相田イヨ」を描いたものです。
しかし、イヨとの息子と、そしてイヨも、理想郷を求めて渡った満州にて連れ立つように亡くなります。

彼が徐々にオカシクなっていくのも致し方ないのかもしれません。

2016年7月17日日曜日

「赤城」機関長 反保慶文宛 佐久間大尉銅像

若狭湾を見下ろす佐久間大尉銅像は、1914(大正3)年に沼田寅次郎によって制作され建てられます。


で、この絵葉書ですが、反保慶文宛となっています。
「反保慶文」は、あの空母「赤城」の機関長であった人物でしょうか?

「16/5」と書かれていますが、これが昭和16年5月であるなら、真珠湾攻撃に参加した1941年12月8日の半年前になりますね。
この時期の赤城は、第1航空艦隊旗艦として任に付いた頃です。

送り先は満州のようです。
送り主は「満州は陸上だと思ったら...」と書き出しています。
ですが、それ以降は何て書いてあるかわからない!
「...奥羽の田舎から....活動を...」ってあぁもう、不勉強でもうしわけない。
わかる方、どうかご教授下さい!!

何よりその送り主もわからない...(最上川 某先生?)

それにしても、もしこれが「赤城」の機関長に送る絵葉書であるとしてら、佐久間勉の像の選択は粋ですね。
彼は海軍にとっては特別な人物だったでしょう。
それが、満州に向けて若狭湾から見送っているというわけです。