今日は、犬山市にあります岩田洗心館へ行き、大嶽恵子さんの彫刻(銅像)論を拝聴いたしました。
論旨は、公共の場所における裸婦像における、ジェンダー的視点からの違和感について...とまとめられると思います。
銅像ではないですが、最近ですと、「
東京メトロ「駅乃みちか」スケスケスカート問題」とか、「
三重県志摩市の海女さん「碧志摩(青島)メグ」」問題」なども同じ様な問題意識だと思います。
その内、私としてはまず、「公共の場とは何か」を、ここで考えてみます。
「公共の場」のあり方を考えてみると、以下のようになるでしょう。
1.特定の者の意思によってコントロールされた場
美術館などの建築家によって設計された場所なんかがそうですね。
マクドナルドの店舗だってそうです。
哲学者 中島義道にとっての公共放送みたいなもので、
それが気に入らない人には悪意の場になります
2.異なった他者同士の意思が、すべて存在しうる場
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であるエルサレムなんかがそれだと言えます。
ですが、現実争いは耐えないわけです。
3.誰の意思も介入しない場
靖国神社の代わりに考えられている「国立戦歿者追悼施設」論がそうです。
しかし、それは1の「.特定の者の意思によってコントロールされた場」と同義でしかありません。
4.見たい人が見たいものを見る、見たくない人は見ることの無いフィルタ機能のある場
レンタルビデオ屋の18禁部屋なんかがそうですね。
4.が、理想だと思います。
しかし、銅像などには、TVやネットのように、フィルタをかけるということが物理的に難しい。
だからと言って、1.2.3.にしても良いかと言えば、それはそれでデメリットがあるわけです。
次に「美術(彫刻)」としての問題を考えます
美術は歴史を背負います。
歴史を知らない人にとっては無意味、無駄なものでしかありません。
そして、知っていることと、知っていないこととは、等価値でもあります。
その上で、「美術(彫刻)」史を見ると、近代において彫刻とは「像ヲ作ル術」であり、人体特に女性像を作ること=(イコール)彫刻でありました。
さらに、野外展示、またはそれに準じた場所での展示が欧州的な正当だと考えられています。
室内展示では、わざわざ草木を配置したりするんですね。
つまり、公共の場所で裸の女がドヤっと立っているのが正統的な美術
形態だと考えられたわけです。
だからこそ、戦前から裸婦像問題があるわけですね。
そして、先に書いたように、そんなことは知らない人には知ったことではありません。
最後の問題は男性視点についてです。
大嶽恵子さんがおしゃっていましたが、芸大にて女性を物として見る様に訓練されることが、苦だったとか。
日本の彫刻史は、男性美術史と言っても過言ではありません。
ほぼ男。
私の知っている限りでは、戦前の官展に出品した女性はほんの数人だったのではないかと。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2013/05/blog-post_18.html
佐藤忠良が描く自立した女。母でも少女でもない女を描いていますが、それだって男が描いたモノでしかないわけです。
それを苦と感じる人だっているでしょう。
こういった3点の足かせを得てある、現在の銅像なわけです。
受難の時代だなと思いますよね。
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一つの解決策として、無理だと思いながらも言います。
女性は、男性が描く「女」の性を自身のものと客体化してしまうわけです。
それを止めたらどうでしょう?
男は、どれだけ女性がBL的な漫画を描いても、そこに描かれているモノを男だとは認識しません。
客体化して、自身の性のあり方に影響を与えないのです。
つまり、東京メトロの「駅乃みちか」も、「三重県志摩市の「碧志摩(青島)メグ」も、女だと見るから問題なのです。
あれは、ああいう生物で、女とは別物と考えたらどうでしょう?
銅像に描かれた、男が作る「女」みたいなモノは、実際の女では無いのです!!
どちらかと言えば、ルネサンスの天使みたいなものなんです!!