2023年12月31日日曜日

黒田頼綱 作 「海」と「ゴジラ-1.0」




画家黒田頼綱による「海」です。
板に油彩。
裏側には「文展無審査 光風会会員 〇〇美術〇〇 陸軍美術協会会員 海洋絵画協会会員」と書かれています。
このことから、戦前の作品と思われます。

黒田頼綱は、1940(昭和15)年に近衛文麿内閣によって、対中政策のために設置された興亜院の委託で北京に、1943(昭和18)年には海軍報道班員としてフィリピン・ジャワなどに従軍しています。
板に描かれていることからも、このころに現地で描かれた作品なのではないでしょうか?


手元に1941(昭和16)年に開催された「第五回 大日本海洋美術展」のカタログがあるのですが、こちらにも海洋絵画協会会員であった黒田頼綱の作品が掲載されています。
この作品「ボートデッキ」も、船内を取材して描かれたのでしょうね。

この年の瀬に、この作品を紹介するわけ……
それは、ただ単純時に当時「海」を描いた「ゴジラ-1.0」について語りたいからでしかありません!
観に行きましたよ!

このゴジラが現れる海、実写部分とCGの組み合わせなんですよね。
真昼間のゴジラを至近距離で見られるだけでもすごいのに、それが海中ですよ。
黒田頼綱も見ただろう、そして描いた当時の日本の海を、こうして現代になって新たなメディアで描かれているわけですね。

ゴジラと言えば、私にとって東京というより海なんですよね。
60年代以降のゴジラがベースとなって人格形成されてからなのかもしれません。
南海に現れるゴジラ、海から来て海に戻るゴジラ、それがゴジラのイメージなんですよね。
そういう意味でも、「ゴジラ-1.0」は素晴らしいゴジラ映画でした。

演技が臭いとか言われてますが、こうして戦時の物を収集している私から言わせれば、この時代の「熱さ」を感じられる演出だったと思うんですよ。
それは浮かれていたとも言えるのかもしれませんが……

「ゴジラ-1.0」では、戦争に生き残った人々が、もう一度彼ら自身の「終戦」に向き合います。それは、戦後処理のやり直したい、あいまいであった日本の私たちに区切りを付けたいという、新しい戦時下となった令和の欲望なのではないでしょうか?
私自身、ここにこうして戦前戦中のメダルの記事を、誰から頼まれているわけでもなく書いているのですけど、これってどこかで「戦後処理のやり直し」って気持ちがあると思うのですよね。そういう意味で「ゴジラ-1.0」にリンクしてしまう部分があったんじゃないかと思います。

この映画は、かつてビートルズが、ブルースリーが、スターウォーズがそうであったように、文化としてのエポックメイキングになり得る作品だと、私は劇場を出るときに思いました。皆さんはいかがでしたでしょうか?

2023年11月23日木曜日

日名子実三 作 カメラを持つ女性像

 今日は久しぶりに日名子実三のレリーフです。

このレリーフには、賞の名が入ったプレートが取り付けてあったような跡がありますが、プレート自体無く、どんな賞のための楯だったかはわかりません。

描かれているのは、カメラを持つ裸婦ですね。
彼がよくモチーフとして扱う日照も描かれています。
裸婦が手に持つのは、蛇腹カメラですね。
私の知識では、このカメラの型式はわかりません。なんでしょうか?

この裸婦ですが、日名子には珍しい、面長の女性です。
彼のお気に入りのモガな女性モデルとは異なる気がします。
1932(昭和7)年作の「第3回国際広告写真展覧会」では、この女性モデルで制作されています。
手に持つカメラは、同型に思えます。
どうでしょうか?
髪型が違うだけ?

1931(昭和6)年大阪朝日新聞主催「全関西写真連盟 撮影競技大会」メダルは、今回のレリーフのモデルと似ています。

こちらのモデルにお願いしたのでしょうか?
でも、この人の体は、本職のバレリーナなのか、引き締まってるし……
さて??

2023年11月19日日曜日

R.COCHET 作 池田大作 メダル


R.COCHETとは、フランスのメダル作家、彫刻家のロベール・コシェ(Robert Cochet) (1903 - 1988) と思われます。
コシェは、1954 年から 1958 年にかけてフランスのモネ・ド・パリ造幣局とボーモン・ル・ロジェ造幣局で鋳造されたコイン等々、多くのメダル、コインののデザインをしています。
コシェは、1954 年にマドリードで開催された万国博覧会で賞状とメダルを授与されました。彼はサロン・デ・アルティスト・フランセの会員に選ばれ、彼のメダルは大英博物館、クライスラー博物館、ハーバード美術館のコレクションで見ることができます。
近現代メダル会の巨匠なんですね。

そんな彼が手掛けた、メダルの一つがこの 「池田大作」をモデルとした創価学会のメダルです。
ベール・コシェは、フランスだけでなく、ラオス、ベトナム、サルジャ、イエメン、コモロ、中央アフリカ諸国、西アフリカ、ボリビア、ギリシャなどで彼の署名入りコインが制作されています。その中で彼が手掛けた日本人像は、どのくらいあるのでしょう?

裏には「TAISEKIJI」と富士をバックにした大石寺の姿が彫られています。
つまり、このメダルは、日蓮正宗から創価学会が離れた1991(平成3)年以前のものなのでしょう。
コシェの亡くなった年が1988年であることからも、彼の晩年の作であろうと想像します。

そんな池田大作氏が15日に亡くなりました。
まさに巨星墜つ。
現在、昭和の新興宗教の信徒数が右肩下がりとなっています。
そんな中、創価学会は池田大作氏を日蓮上人と並ぶカリスマとして神格化していくのか。
または、ジャニーズや宝塚のように昭和のカリスマが解体されていく昨今、次の信仰を模索していくのか……
興味あるところです。

足利公園内 「明治二十八年・三十八年戦役記念碑」水彩画


現在も栃木県足利市の足利公園に建っています「明治二十八年・三十八年戦役記念碑」を水彩で描いたものです。
場所はこちら
サインは「T.HOTTA」そして「1936」と描かれています。
1936(昭和11)年に描かれた作品だと思われます。

現在のこの碑に水彩画で描かれていたような周りの格子はありません。
ただ、台座は当時のままのようです。
また、左下に球状の彫刻がありますが、こちらも現在は無いようです。

コレ何でしょう?
船のブイみたいですから、戦艦の慰霊碑しょうか?

頂上には、球状の上に立つ鳥が。
ヤタガラスでしょう。
そして、「明治二十八年・三十八年戦役記念碑」とあります。
明治28年は日清戦争の終結、下関条約を結んだ年です。
明治38年は日露講和条約が結ばれた年ですね。
この年を記念し、建てられた碑だとわかります。

この記念碑がいつ建てられた物かはわかりませんが、こうして水彩道具を外に持ちだし、写生を行った人物がいたのですね。
西洋で発展したチューブ入りの絵具は、印象派など新しい様式を生み出します。
日本においても、明治期に水彩による戸外制作がブームとなります。
この記念碑は昭和に入ってから描かれたものですが、しっかりと描かれた姿は、明治の戦争を記念するだけでなく、日本水彩画の歴史をも記念した作品になっていると思います。

2023年11月3日金曜日

MADE IN SSAR(ソ連) ホフノマ塗の火の鳥

戦前の日本では、絵画や彫刻など西洋アカデミーによる上からのエリート主義的美術の受容と、児童画や農民美術等の民衆による、民衆のための西洋美術受容の異なる美術受容・教育がなされました。

大正期、その下からの西洋美術受容を進めたのが山本鼎です。
彼は、ロシアから自由画教育や農民美術を学びます。
日本の下からの西洋美術受容を支えたのが、ロシアであり社会主義国家ソ連の美術だったんですよね。

現在、ウクライナに軍事侵攻をするロシア。
私は、そんな国の姿に蓋をせず、観ていきたいと考えています。
そのため、そういった日本に影響を与えたロシアでありソ連の作品を集め、紹介していきたいと思います。まぁ、できる範囲でね。

で、まず今回紹介するのは、ロシアの民芸雑貨、ホフロマ塗りの器です。

現在も作られている木製漆器ですね。
スズと漆を重て塗りし、窯で乾燥させさらに塗ってを繰り返して金色に発色させます。
その歴史はこちらに詳しいです。
https://jp.rbth.com/arts/86854-rosia-no-mingeihin-hofuroma
形状は火の鳥。

この器は、菓子入れですね。
朱で縁とられ、底は金色で塗られています。
裏には「MADE IN USSR」と彫られています。


また、包み紙が残っており『満州資源開発紹介』『大興股份有限公司』『満洲土産品陳列所』『新京駅前』の文字が読めます。
満州の大興股份有限公司という会社によって販売されていた、お土産品だったようです。
満州でソ連製品を買って、日本に持ち帰った方がいたのでしょう。
戦争末期の混乱時には、そんなこと難しかったでしょうから、昭和の一桁あたりかもしれません。
もしかしたら、この器を参考に日本で新しい作品が生まれたかもしれませんね。

2023年10月22日日曜日

明治37年 清国水師営を描いた絵葉書用の石版


絵葉書の版として作られた石版ですね。
印の様な図には「第三軍 37‐9‐20 水師営」とあり、1904(明治37)年の清国軍の駐屯地を描いたものだと思われます。

版を紙越しに鉛筆で擦って、それを画像反転したのがこちら。
この版で描かれた1904(明治37)年に勃発した日露戦争によって、絵葉書ブームが起きます。
この版の絵葉書も、ご当地の絵葉書として、生の情景を描いた最新ニュースとして物凄い需要があったでしょうね。
ですから、このような多少稚拙な石版でも人気あったと思います。

石版による印刷をリトグラフと言います。水と油の反発作用を利用してインクを乗せていくのですね。材質は石灰石を用います。
けど、どうなんですかね?
この版だけでなく、多色のための別版があったのでしょうか?

また、石板の右端に「乙巳九月十三日 於清国顧家屯 大塚郡六彫刻」とあるので、この石板が制作されたのは、1905(明治38)年だとわかります。
中国の青島市「顧家荘村」において、「大塚郡六」という人物が彫った作品のようです。
「大塚郡六」についてはよくわかりません。

この版を用いた絵葉書が見つかったら、是非声をかけてください!

2023年10月16日月曜日

HOPITAUX JAPONAIS EN FRANCE メダル

今日の謎メダルです!



表には、日本赤十字社。ベッドに横たわる患者と、日本人医師と看護師が描かれています。
彫刻家の銘があり、「P. LENOIR」と記されています。
裏には、フランスと日本の国旗、「1914」、「1918」、「HOPITAUX JAPONAIS EN FRANCE 」とあります。
また横面には、「1970」「bronze」「France」と小さく刻印されてます。

P. LENOIRは、フランスの彫刻家でメダル作家であるピエール・チャールズ・ルノワール(pierre charles lenoir)だと思われます。
https://en.wikipedia.org/wiki/Pierre_Charles_Lenoir
彼は1879年パリ生まれ、1953年に亡くなっています。
このメダルでは、彼によって日本人が描かれているのですね~
ちょっと変ですけど。

1914年に第1次世界大戦が始まります。これに日本も参戦したため、日本赤十字社はロシア、フランス、英国に病院船と救護班を派遣し、傷病者の治療に当たります。
このメダルは、その功績を称えるものだったのでしょう。

横面の「1970」は再作成された年ですね。
日本とフランスの深い繋がりを確認するようなイベントに用いられたのかもしれません。
(万博?)

今、まさにいくつかの国で戦争が行われています。
その地で、こうした医療者たちが必死で働かれています。
頭が下がる思いです。
しかし、そんな彼らへの「顕彰」そのものが無くなる時が来ることを望みます。

2023年10月10日火曜日

柚月芳 作 石膏レリーフ


柚月芳は、1901(明治34)年、富山県朝日町生まれの彫刻家です。
富山県立高岡工芸学校を卒業して上京、小倉右一郎に師事し、東京美術学校彫刻科を出ています。
26歳でキリスト教の洗礼を受けて以来、キリスト教をモチ-フとした作品を制作します。
富山といえば、畑正吉や佐々木大樹等の著名な作家を生んだ地ですね。
この作家もそんな地元を愛した作家のようで、朝日町立ふるさと美術館でその作品を見ることができます。

画像の作品は、口づけをする男女を描いたもので、石膏作品です。
裏に「昭和十二年一月六日 於作者アトリエ贈典サル 柚月芳氏作 橋本有」と来歴が書かれています。
1937(昭和12)年で、柚月芳は36歳。
脂ののりきっている頃の作品でしょう。

これも、聖書の物語をモチーフとしたものなんでしょうか?
アダムとイブ?
男が天に指を指してるのも意味深です。
陽咸二の燈下抱擁に似てますね。1924(大正13)年の作ですから、10年後の作品ですけど、それでも時代的に”破廉恥”な作品には違いありません。
公には出せない作品故に個人に直接手渡したのかもしれませんね。

2023年10月1日日曜日

武石弘三郎ー人物と作品

2か月ぶりです!
今日から再開します。
これからも小さなコレクションの紹介していきます。

ですが今回は、ゆいぽーとで行われている「二葉アーツスクール2023 めだかの学校」のレポートです。『武石弘三郎ー人物と作品』と題し、新潟出身の彫刻家武石弘三郎について、新潟県立近代美術館の学芸員、伊澤朋美さんによる講義がなされました。
ここ「ゆいぽーと」は、妻の出身校である旧二葉中学校が前身で、そこには武石弘三郎による1942(昭和17)年制作の「竹内式部像」が現在も設置してあります。

この像の見学も行いました。





戦前の金属回収も敗戦時の銅像回収も免れ、隠すために土に埋められる等もされたこの像ですが、今はこの暗い木々合間に凛と座られています。
1メートル程しかない小さなサイズですが、威厳を感じまさせますね。

左手には日本書紀。
天皇に「尊王攘夷」を説いた人物であることを、昭和の戦時下で評するための銅像であり、つまりこういうカタチでの「戦争彫刻」と言えます。

その横には「紀元二千六百年 武石弘三郎作」と刻されています。
全国各地で行われた神武天皇即位紀元(皇紀)2600年の祝い行儀の一つとして、この銅像建立があったのだとわかります。

紀元二千六百年は昭和15年。
この像の建立が昭和17年ですから、企画が15年だったのか、それとも必要な物資がなくて延期されたのか、どちらでしょうね?
それと、金属提出を免れるために土に埋めたというエピソードがあるのですが、それも変な話で、敗戦まで埋められていたというの事なのでしょうか?
像の正面に2か所、ボルトで留められているのですが、これは取り外した跡?
色々気になりますね!

あと、私の持つ小さな銅像ですが、やっぱり武石弘三郎じゃないかも!
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2021/03/1918-kt.html

2023年7月24日月曜日

中村直人ーパリを征服した芸術家ー を読む


相場啓介監修「中村直人ーパリを征服した芸術家ー」を読みました。
戦前彫刻を興味としている私からしたら、中村直人といえば、院展の木彫家、または挿絵画家といった印象です。
けれど、そういった印象だけで語るのは良くないよな~
戦後の絵画もしっかりと見ないと~
とも思います。
けど、やっぱり、戦後のあの絵はどうも苦手です。
あぁでも、藤田嗣治から奈良美智の系譜に、彼のイラストのような絵画も入るのかもね。

この本は、中村直人をある程度知ったうえで読まないとなかなか難しくはあります。
嬉しかったのは、愛知県美術館の学芸員平瀬礼太さんの論を一番最初に持って来ている事ですね。
そこに、中村直人の戦争(記録)彫刻から逃げないぞという編集の覚悟を感じます。

中村直人の戦争彫刻には、彼の作風、特徴が著しく染み出ていると思っています。
それは、実は一つ一つの作品を観ただけでは、よくわらない。
それは、他の彫刻家が出来ず、なぜ彼が成せたのかを知ることでわかるのではないでしょうか。

例えば、彼の師である吉田白嶺や平櫛田中、石井鶴三らに無く、中村直人にあるものと言えば「モニュメント」への志向です。
当時の若い彫刻家たち、構造社の作家や官展の作家には、そういった流行りへの志向がありました。中村直人もそうです。
この志向は、パリ帰りの佐藤朝山にはあります。
けれど彼と中村直人との違いがあるとすれば、中村の作品は他者性があり、クライアント(観客)に眼差しを向けているに対し、佐藤朝山は自己に向けているからではないでしょうか。
この自己への眼差しは、天心から続く平櫛田中や石井鶴三、橋本平八ら院展作家の特徴で、もちろん中村もその考えを受け継いではいます。
その眼差しと、他者性とのバランスが見事にマッチした、それが中村直人の強みであっただろうと思います。

具体的に木彫の姿で言えば、吉田白嶺や石井鶴三らは、農民美術でも用いられる、形を大きく面(プラン)で切り取った塊(マッス)こそ、彫刻の芯と考えていました。
中村直人はそういった塊に「イメージ」を付与したと言えます。
手数を減らして面で彫られた農民の姿に、

農民の「イメージ」があると考えたのではないでしょうか。
つまり農民の「情報」ですね。
彫刻は、他者に「情報」を伝達させるツールだと考えたわけです。
1942年の「楠正成」像を見れば、彼がその造形によって「情報」を伝えようとしていることがわかります。
また、第一回大東亜戦争美術展覧会に出品された「ハワイ海軍特別攻撃隊九勇士」として9体の像を制作しています。
9体で「情報」を伝えるという考えは、吉田白嶺や平櫛田中、石井鶴三らには無いでしょうね。
そういう手法が時局と合い、戦時下の彼の作品があったと考えています。

現在、目黒区では「中村直人 モニュメンタル/オリエンタル 1950年代パリ、画家として名を馳せた❝彫刻家❞」展が9月3日まで行われています。
https://mmat.jp/exhibition/archive/2023/20230715-406.html

見に行きたい!!

2023年7月23日日曜日

斎藤素巌 安永良徳 作 2600年「第十六回日本レントゲン学会長 岩井孝義君」為記念楯





1938(昭和13)年に第十六回日本レントゲン学会長となった岩井孝義を記念して、皇紀2600年、1940(昭和15)年に制作された楯ですね。

岩井孝義は、1894(明治27)年生まれ。
京都帝国大学を卒業し、大正12年京都帝国大学助教授となり、レントゲン部勤務。
レントゲン医学研究のため昭和2〜5年ドイツ、フランス、アメリカに留学。
その後、京大教授となります。

真ん中のヴィルヘルム・レントゲンを描いたのは斎藤素巌。
Soganと銘があります。
「2600」とその隣に「Yasunaga」とあります。
これは安永良徳でしょう。
彼は全体の構成とデザインを担当したのでしょうね。
つまり、このレリーフは構造社の作家による合作です。
構造社の作家はこういった合作を頻繁に行いました。

安永良徳のこの構成ですが、X線の放射の様でもあり、構成主義的でもありイイですね。
斎藤素巌の肖像も流石です。
ただ、この二つの方向がちょっと合わない様な気がしますけどね!

2023年7月17日月曜日

千葉県中等学校体育協会 体育大会参加記念 メダル





1933(昭和8)年と1937(昭和12)年の千葉県中等学校体育協会主催「体育大会参加記念」メダルです。
こちらも銘の無いメダルですが、モダンなデザインが秀逸です。
国内の作家のものなのか、海外のデザインの流用なのかもわかりません。
ただ、国内の市井のメダル業者の作ではなさそうです。

8年のメダルは、前衛的です。
もし、これがメダルでなく、作品としての彫刻であれば、作家の名は彫刻史に残されていたかもしれません。

12年のメダルは、アールヌーボーですね。
とても美しいメダルですが、こんなの当時の若い男子が手に取ったら鼻血でそう!

2023年7月10日月曜日

畑正吉 作「東宮殿下御成婚記念」レリーフ

現人神であった昭和初期の昭和天皇の像というのは、実は少ないのです。
ただし、皇太子時代の像というのは、いくつかあります。
このレリーフは、1924(大正13)年に良子様との御成婚を記念して制作されたレリーフです。
造幣局から、このモチーフでメダルも制作されています。

作家は、彫刻家畑正吉です。
周りにあしらった菊の美しい彫り姿は、まさに畑正吉の作だと言えます。
菊ではありますが、海外の王室の紋章に用いられるバラやアザミの様に扱われています。
正に和洋折衷。
当時の殿下らしい、お姿だと思います。

また畑正吉は、現上皇様のご結婚記念メダルも制作してますので、2代のお姿を描かれた彫刻家なんですね。

戦前サイパン「群島開拓の功労 松江春次氏銅像」絵葉書







松江春次は、大正11年サイパンに南洋興発を設立。13年には砂糖生産量を74500トンとし、パラオ、トラック両島からフィリピン、ニューギニアにわたる地域に関連会社20社をもつ大コンツェルンに成長させた人物です。
そんな彼は、「砂糖王(シュガーキング)」と呼ばれます。

また彼は、サイパン島や他の島々に、工員のための映画館・理髪店・演劇場・酒場など様々な娯楽施設を建設したそうです。
これらの絵葉書に移された写真は、そういった町の姿です。

 1934(昭和9)年8月に、社長在籍中に銅像が建立されます。
場所は彩帆(サイパン)神社前。
それが、この絵葉書にある銅像ですね。
この像は、戦後まで残り、現在も砂糖王公園のシンボルとして建っています。
現状の姿をネットで検索すると、前身に弾痕が残っているようです。
そうした歴史を背負う姿こそが、パブリックな「彫刻」のあるべき姿ではないか......などと考えてしまいます。

銅像の作者はわかりませんでした。
日本から運んだのでしょうか?

それと、この「近代的文化整然たるサイパン島の本通り」絵葉書には、道脇に像が建っています。

サイパンの人をモデルとした像でしょうか? 
『近代的文化整然たる』街のありようとして、西洋の様なパブリックアートを必要とし、このように建てられたのかもしれません。
この像も作者は誰でしょう?
気になります!

2023年7月3日月曜日

独逸の彫刻家 Paul Scheurle(ポール・シューエル)「ガイア」絵葉書



1941年、ドイツで開催された「大ドイツ芸術展」。
そこに展示された作品で、彫刻家「Paul Scheurle」による「ガイア」です。
ナチスお抱えの彫刻家、アルノ・ブレーカーは巨大男性像で有名ですが、「Paul Scheurle(ポール・シューエル)」は女性像を多く制作していたようです。

この像のように、ヒットラー好みに理想化されたアーリア人「女性」は、産む性として大地や農作地のイメージと結び付けられます。
その均整とれたスタイルは、ナチスの「正しさ」の象徴するものであったのでしょう。

大地の神、豊穣の女神を想像したとき、例えばオーストリアで発見された土偶「ヴィレンドルフのヴィーナス」のような豊満な女性を想像するのではないでしょうか?
日本人なら、「まんが日本昔ばなし」で椀にペタペタとご飯をよそうお母ちゃんのような。
この「ガイヤ」に見られる女性像ではないでしょう。

ヒットラーの愛したアドルフ・ツィーグラー の「四大元素」の女性像も、筋肉質な労働者、近代的な女性像です。
この女性像が豊穣と結びつくのですね。

この豊穣は近代的な農業生産、または工業生産、大量生産を意味しているのかもしれません。
つまり、豊穣=近代的な生産→近代的な女性像 となるのでしょう。
その結果、「ヴィレンドルフのヴィーナス」が、ポール・シューエルの「ガイア」になるわけですね。

良い悪いは別として、近代化によって肥大化した戦争は、働き生産する女性を生みだしました。
これはドイツだけでなく、アメリカや日本もそうです。
日本では「銃後」と言われますね。

戦争が生みだした近代的な女性像は、それまであった男性に従属し、裸体を魅せる女性の彫刻とは異なるベクトルを生みだした、と私は思っています。
例えば、朝倉文夫や藤井浩祐の女性像と、日名子や清水多嘉示とは、その視線、ベクトルが異なる。
そして、佐藤忠良らに繋がるわけですね。
多様化、多様化と叫ばれる昨今、ここから日本の彫刻はどこに向かったと言えるのでしょうか?



2023年6月19日月曜日

新海竹太郎作 前愛知醫専校・院長熊谷幸之輔氏壽像 銅像除幕式絵葉書





熊谷幸之輔( 1857-1923)は、1881(明治14)年に、愛知医学校の後藤新平校長から一等教諭として名古屋に呼ばれ、その後、愛知医学校や愛知県立医学専門学校などの校長を33年間にわたって務めた人物です。

この銅像除幕式は、1918(大正7)年。
熊谷幸之輔は60才。彼の業績を称え、愛知県立医学専門学校に建立されます。
(本人自身が写っている写真がありますね)
現在は、その胸像のみ、名古屋大学の医学部に安置されています。
それにしても、自分自身の銅像の建立ってどういった気持になるのでしょうね!

作者は新海竹太郎です。
東京文化財研究所には、彼の残した熊谷幸之輔像のガラス乾板があります。
https://www.tobunken.go.jp/materials/sinkai/27991.html
材質はブロンズ、高さは5尺(1.5M)。
銅像に合わせて作られた台座が、かなりお洒落ですね~
これが残っていないのは、本当にモッタイナイ。