画家黒田頼綱による「海」です。
このことから、戦前の作品と思われます。
真昼間のゴジラを至近距離で見られるだけでもすごいのに、それが海中ですよ。
60年代以降のゴジラがベースとなって人格形成されてからなのかもしれません。
南海に現れるゴジラ、海から来て海に戻るゴジラ、それがゴジラのイメージなんですよね。
そういう意味でも、「ゴジラ-1.0」は素晴らしいゴジラ映画でした。
今日は久しぶりに日名子実三のレリーフです。
このレリーフには、賞の名が入ったプレートが取り付けてあったような跡がありますが、プレート自体無く、どんな賞のための楯だったかはわかりません。現在のこの碑に水彩画で描かれていたような周りの格子はありません。
ただ、台座は当時のままのようです。
また、左下に球状の彫刻がありますが、こちらも現在は無いようです。
コレ何でしょう?
船のブイみたいですから、戦艦の慰霊碑しょうか?
頂上には、球状の上に立つ鳥が。
ヤタガラスでしょう。
そして、「明治二十八年・三十八年戦役記念碑」とあります。
明治28年は日清戦争の終結、下関条約を結んだ年です。
明治38年は日露講和条約が結ばれた年ですね。
この年を記念し、建てられた碑だとわかります。
この記念碑がいつ建てられた物かはわかりませんが、こうして水彩道具を外に持ちだし、写生を行った人物がいたのですね。
西洋で発展したチューブ入りの絵具は、印象派など新しい様式を生み出します。
日本においても、明治期に水彩による戸外制作がブームとなります。
この記念碑は昭和に入ってから描かれたものですが、しっかりと描かれた姿は、明治の戦争を記念するだけでなく、日本水彩画の歴史をも記念した作品になっていると思います。
戦前の日本では、絵画や彫刻など西洋アカデミーによる上からのエリート主義的美術の受容と、児童画や農民美術等の民衆による、民衆のための西洋美術受容の異なる美術受容・教育がなされました。
大正期、その下からの西洋美術受容を進めたのが山本鼎です。
彼は、ロシアから自由画教育や農民美術を学びます。
日本の下からの西洋美術受容を支えたのが、ロシアであり社会主義国家ソ連の美術だったんですよね。
現在、ウクライナに軍事侵攻をするロシア。
私は、そんな国の姿に蓋をせず、観ていきたいと考えています。
そのため、そういった日本に影響を与えたロシアでありソ連の作品を集め、紹介していきたいと思います。まぁ、できる範囲でね。
で、まず今回紹介するのは、ロシアの民芸雑貨、ホフロマ塗りの器です。
この器は、菓子入れですね。
朱で縁とられ、底は金色で塗られています。
裏には「MADE IN USSR」と彫られています。
今日の謎メダルです!
P. LENOIRは、フランスの彫刻家でメダル作家であるピエール・チャールズ・ルノワール(pierre charles lenoir)だと思われます。
https://en.wikipedia.org/wiki/Pierre_Charles_Lenoir
彼は1879年パリ生まれ、1953年に亡くなっています。
このメダルでは、彼によって日本人が描かれているのですね~
ちょっと変ですけど。
1914年に第1次世界大戦が始まります。これに日本も参戦したため、日本赤十字社はロシア、フランス、英国に病院船と救護班を派遣し、傷病者の治療に当たります。
このメダルは、その功績を称えるものだったのでしょう。
横面の「1970」は再作成された年ですね。
日本とフランスの深い繋がりを確認するようなイベントに用いられたのかもしれません。
(万博?)
今、まさにいくつかの国で戦争が行われています。
その地で、こうした医療者たちが必死で働かれています。
頭が下がる思いです。
しかし、そんな彼らへの「顕彰」そのものが無くなる時が来ることを望みます。
画像の作品は、口づけをする男女を描いたもので、石膏作品です。
裏に「昭和十二年一月六日 於作者アトリエ贈典サル 柚月芳氏作 橋本有」と来歴が書かれています。
1937(昭和12)年で、柚月芳は36歳。
脂ののりきっている頃の作品でしょう。
これも、聖書の物語をモチーフとしたものなんでしょうか?
アダムとイブ?
男が天に指を指してるのも意味深です。
陽咸二の燈下抱擁に似てますね。1924(大正13)年の作ですから、10年後の作品ですけど、それでも時代的に”破廉恥”な作品には違いありません。
公には出せない作品故に個人に直接手渡したのかもしれませんね。
紀元二千六百年は昭和15年。
この像の建立が昭和17年ですから、企画が15年だったのか、それとも必要な物資がなくて延期されたのか、どちらでしょうね?
それと、金属提出を免れるために土に埋めたというエピソードがあるのですが、それも変な話で、敗戦まで埋められていたというの事なのでしょうか?
像の正面に2か所、ボルトで留められているのですが、これは取り外した跡?
色々気になりますね!
この本は、中村直人をある程度知ったうえで読まないとなかなか難しくはあります。
嬉しかったのは、愛知県美術館の学芸員平瀬礼太さんの論を一番最初に持って来ている事ですね。
そこに、中村直人の戦争(記録)彫刻から逃げないぞという編集の覚悟を感じます。
中村直人の戦争彫刻には、彼の作風、特徴が著しく染み出ていると思っています。
それは、実は一つ一つの作品を観ただけでは、よくわらない。
それは、他の彫刻家が出来ず、なぜ彼が成せたのかを知ることでわかるのではないでしょうか。
例えば、彼の師である吉田白嶺や平櫛田中、石井鶴三らに無く、中村直人にあるものと言えば「モニュメント」への志向です。
当時の若い彫刻家たち、構造社の作家や官展の作家には、そういった流行りへの志向がありました。中村直人もそうです。
この志向は、パリ帰りの佐藤朝山にはあります。
けれど彼と中村直人との違いがあるとすれば、中村の作品は他者性があり、クライアント(観客)に眼差しを向けているに対し、佐藤朝山は自己に向けているからではないでしょうか。
この自己への眼差しは、天心から続く平櫛田中や石井鶴三、橋本平八ら院展作家の特徴で、もちろん中村もその考えを受け継いではいます。
その眼差しと、他者性とのバランスが見事にマッチした、それが中村直人の強みであっただろうと思います。
具体的に木彫の姿で言えば、吉田白嶺や石井鶴三らは、農民美術でも用いられる、形を大きく面(プラン)で切り取った塊(マッス)こそ、彫刻の芯と考えていました。
中村直人はそういった塊に「イメージ」を付与したと言えます。
手数を減らして面で彫られた農民の姿に、
また彼は、サイパン島や他の島々に、工員のための映画館・理髪店・演劇場・酒場など様々な娯楽施設を建設したそうです。
これらの絵葉書に移された写真は、そういった町の姿です。
1934(昭和9)年8月に、社長在籍中に銅像が建立されます。
場所は彩帆(サイパン)神社前。
それが、この絵葉書にある銅像ですね。
この像は、戦後まで残り、現在も砂糖王公園のシンボルとして建っています。
現状の姿をネットで検索すると、前身に弾痕が残っているようです。
そうした歴史を背負う姿こそが、パブリックな「彫刻」のあるべき姿ではないか......などと考えてしまいます。
銅像の作者はわかりませんでした。
日本から運んだのでしょうか?
それと、この「近代的文化整然たるサイパン島の本通り」絵葉書には、道脇に像が建っています。
サイパンの人をモデルとした像でしょうか?
『近代的文化整然たる』街のありようとして、西洋の様なパブリックアートを必要とし、このように建てられたのかもしれません。この像も作者は誰でしょう?気になります!
この像のように、ヒットラー好みに理想化されたアーリア人「女性」は、産む性として大地や農作地のイメージと結び付けられます。
その均整とれたスタイルは、ナチスの「正しさ」の象徴するものであったのでしょう。
大地の神、豊穣の女神を想像したとき、例えばオーストリアで発見された土偶「ヴィレンドルフのヴィーナス」のような豊満な女性を想像するのではないでしょうか?
日本人なら、「まんが日本昔ばなし」で椀にペタペタとご飯をよそうお母ちゃんのような。
この「ガイヤ」に見られる女性像ではないでしょう。
ヒットラーの愛したアドルフ・ツィーグラー の「四大元素」の女性像も、筋肉質な労働者、近代的な女性像です。
この女性像が豊穣と結びつくのですね。
この豊穣は近代的な農業生産、または工業生産、大量生産を意味しているのかもしれません。
つまり、豊穣=近代的な生産→近代的な女性像 となるのでしょう。
その結果、「ヴィレンドルフのヴィーナス」が、ポール・シューエルの「ガイア」になるわけですね。
良い悪いは別として、近代化によって肥大化した戦争は、働き生産する女性を生みだしました。
これはドイツだけでなく、アメリカや日本もそうです。
日本では「銃後」と言われますね。
戦争が生みだした近代的な女性像は、それまであった男性に従属し、裸体を魅せる女性の彫刻とは異なるベクトルを生みだした、と私は思っています。
例えば、朝倉文夫や藤井浩祐の女性像と、日名子や清水多嘉示とは、その視線、ベクトルが異なる。
そして、佐藤忠良らに繋がるわけですね。
多様化、多様化と叫ばれる昨今、ここから日本の彫刻はどこに向かったと言えるのでしょうか?
この銅像除幕式は、1918(大正7)年。
熊谷幸之輔は60才。彼の業績を称え、愛知県立医学専門学校に建立されます。
(本人自身が写っている写真がありますね)
現在は、その胸像のみ、名古屋大学の医学部に安置されています。
それにしても、自分自身の銅像の建立ってどういった気持になるのでしょうね!
作者は新海竹太郎です。
東京文化財研究所には、彼の残した熊谷幸之輔像のガラス乾板があります。
https://www.tobunken.go.jp/materials/sinkai/27991.html
材質はブロンズ、高さは5尺(1.5M)。
銅像に合わせて作られた台座が、かなりお洒落ですね~
これが残っていないのは、本当にモッタイナイ。