その結果、岐阜公園内の板垣退助銅像は、昭和19年4月6日に、その撤去のための慰霊祭(脱魂祭)が行われたことがわかりました!
確認した新聞は、昭和19年4月4日の朝日新聞(岐阜版)と4月7日の毎日新聞(岐阜版)。
朝品新聞は、慰霊祭の2日前に、そのお知らせを行っているのですね。
で、ここが面白いのですが、7日の記事では取り扱っていないんです。
毎日新聞では扱っているのに。
朝日新聞の他の銅像の供出をどう伝えているかと言うと、例えば大垣市の「愛馬忠魂像」の献納問題では、三段写真入りで伝えていますし、高山市の「加藤清正公全身像」もかなり大きな写真入での供出の様子を報道しています。
同じく高山の「伊藤氏の胸像」では「兵器となって前線へ」と、これも胸像の写真入、代用に石造りを制作することまで伝えています。
これも高山ですが、軍神廣瀬中佐の母校にある幼年時代の全身像(三十五貫 約131キロ)!と、城山公園内にある胸像(八貫 約30キロ)が出陣。この全身像は、同窓生らがタバコの銀紙を集めて基金に充て、中村清雄によって制作されたとしています。
かなり詳しく記事にしているのですよね。
板垣退助銅像の供出が昭和19年であり、これらの記事が昭和18年であったからというのが理由の一つかもしれません。記事内容の選択に時勢が絡んでいるのかも。
ちなみに、高山の廣瀬中佐幼年時代の全身像の制作者「中村清雄」は、昭和10年に東邦彫塑院展に入選、昭和14年頃からその廣瀬中佐像の制作を始め、昭和19年5月に完成させます。けれど、その2ヵ月後に供出となったのだとか....
サイズ違い、素材違いの像が残り2体あり、ひとつは昭和18年の院展に出品し入選、もう1体は現在も東小学校にあるそうです。
話は戻して、板垣退助銅像の慰霊祭ですが、毎日新聞では関係者を集め行ったとしか書かれていません。どんな規模で行ったのか、関係者とは誰だったのか。
また、後日供出されたとなっていますが、それは何時だったのか。
朝日の7日版で記事にされていないことも含め、まだまだ謎が多いです。