2016年8月28日日曜日

板垣退助銅像撤去の追加情報

コメント頂いた内容をもとに、再度戦前の新聞を確認いたしました。


その結果、岐阜公園内の板垣退助銅像は、昭和19年4月6日に、その撤去のための慰霊祭(脱魂祭)が行われたことがわかりました!

確認した新聞は、昭和19年4月4日の朝日新聞(岐阜版)と4月7日の毎日新聞(岐阜版)。
朝品新聞は、慰霊祭の2日前に、そのお知らせを行っているのですね。
で、ここが面白いのですが、7日の記事では取り扱っていないんです。
毎日新聞では扱っているのに。

朝日新聞の他の銅像の供出をどう伝えているかと言うと、例えば大垣市の「愛馬忠魂像」の献納問題では、三段写真入りで伝えていますし、高山市の「加藤清正公全身像」もかなり大きな写真入での供出の様子を報道しています。
同じく高山の「伊藤氏の胸像」では「兵器となって前線へ」と、これも胸像の写真入、代用に石造りを制作することまで伝えています。

これも高山ですが、軍神廣瀬中佐の母校にある幼年時代の全身像(三十五貫 約131キロ)!と、城山公園内にある胸像(八貫 約30キロ)が出陣。この全身像は、同窓生らがタバコの銀紙を集めて基金に充て、中村清雄によって制作されたとしています。

かなり詳しく記事にしているのですよね。
板垣退助銅像の供出が昭和19年であり、これらの記事が昭和18年であったからというのが理由の一つかもしれません。記事内容の選択に時勢が絡んでいるのかも。

ちなみに、高山の廣瀬中佐幼年時代の全身像の制作者「中村清雄」は、昭和10年に東邦彫塑院展に入選、昭和14年頃からその廣瀬中佐像の制作を始め、昭和19年5月に完成させます。けれど、その2ヵ月後に供出となったのだとか....
サイズ違い、素材違いの像が残り2体あり、ひとつは昭和18年の院展に出品し入選、もう1体は現在も東小学校にあるそうです。

話は戻して、板垣退助銅像の慰霊祭ですが、毎日新聞では関係者を集め行ったとしか書かれていません。どんな規模で行ったのか、関係者とは誰だったのか。
また、後日供出されたとなっていますが、それは何時だったのか。
朝日の7日版で記事にされていないことも含め、まだまだ謎が多いです。

2016年8月24日水曜日

Intermission サツキとメイの家

彫刻とはぜんぜん関係ありませんが、今年の夏休みは愛・地球博記念公園にある「サツキとメイの家」に行って来ました!

で、私の興味はサツキとメイのお父さん、草壁タツオの部屋にあるわけです。
どんな本があるかな~




考古学者のお父さんですが、民俗学的な本が多かった。
仕事の資料は、研究室にあるのかな?

あと、埼玉県史など、埼玉県に関する本が多い、トトロの森がある埼玉からの移築だからかな?

あと、私の所蔵する美術の本も一冊だけ見つけたよ!




壁に掛かった、サツキが描いたと思われるカレンダー
8月1日が火曜日なのは、1950年、1961年、1967年、1972年、1978年....
その内、昭和30年代は、1961(昭和36)年。



千尋が油屋に迷い込んだように、私もこの時代にタイムスリップしてきたようだ。

また、今週からは、蚊帳が立つそうだ。
季節によって模様替えされるそうなので、また行ってみたいな~


2016年8月22日月曜日

畑正吉作 「ハードル」

オリンピックでの連日のメダル獲得。
本当にすごいですね。
特に400mリレーでの銀メダルは、歴史に残る出来事だと思います。

そんな陸上をモデルとした作品「ハードル」。

畑正吉による石膏原型です。
畑は、スポーツを題材に多くの作品やメダルを制作しており、これもそうした作品の一つでしょう。
まさに、ハードルを越えるその一瞬が描かれています。
レリーフでありながら奥行きを感じさせる構成は流石です。

また、この作品が特別なのは、「第三部会」に出品された物だということです。

この「第三部会」ですが、1935(昭和10)年の帝展改組にあたり、野に下った彫刻家有志が集い新設した団体です。
1936年には以下の声明を発します。

『第三部会では七月七日午後丸の内マーブルに会員集合協議の結果、文展不参加に決定、左の如く声明書を発した。 「明治、大正、昭和を通じ我国彫塑界に捲起したる凡ゆる闘争、すべての情実の根源たる松田改組によりて成れる現帝国美術院第三部会員の独占的に鑑審査に携はる文部省美術展覧会には本会会員は招待礼を受けず、純在野団体として我国彫塑界進展に努力せんことをここに声明す。 会員 池田勇八、石川確治、畑正吉、上田直次、小倉右一郎、開発芳光、吉田久継、日名子実三」

1940(昭和15)年に、国風彫塑会と改称される5年間のみあった団体だということもあり、どんな作品が展示されていたのか、私もあまりわかっていません。
絵葉書で、池田勇八の作品を知ったくらい。
その作品の現物が、ここにあるというのは、感動です!

2016年8月20日土曜日

板垣退助銅像撤去の情報求む!

戦前、岐阜城下にあった「板垣退助伯遭難記念銅像」。
この畑正吉によって制作された銅像ですが、昭和18年の金属回収令によって撤去されます。

この撤去時の状況を知りたいのですが、一向にわからない。
色々手を尽くし、調べて頂いたりもしたのですが、どうしても。

なぜだ!
当時の関係政治家に配慮し、隠れて行ったのか??
情報求む!!


石川光明の書

書は本当に真贋わからないです。
今回紹介するのは、あの石川光明(伝)の書。



なんて書かれているかわかりませんが(龍?)、カッコイイ。
最初にバッシっと筆を置いて、そこから龍がのたくった様にグググっと一気に引っ張る。
その勢いと構成がカッコイイ。
「大字書」になるのでしょうか。素人目には殆ど抽象、前衛書みたいに見えます。

以前、井上有一中村不折について触れましたが、こういうカッコイイ書が好きで集めたいって思うのですけど、如何せん真贋だけはわからない。
書の世界は本当に怪しいし、怖い。

ただ、これが本物だったら、この時期の作家は凄いねって思います。
何でもできる。教養が桁違い。
石川光明と高村光雲の出会いの話しを聞くと、その人柄も良かったんだろうね。

明治維新のヒーローたちも凄いけど、こういう市井の人達のレベルも高かったんだな。

2016年8月17日水曜日

Intermission 重箱の隅

最近の藤田嗣治展では、作家の戦時中の作品も、他の作品と同様に展示されていますね。
藤田の場合、これがなくちゃ話にならないというのはあるけど、他の作家はどうかな?
今までの彫刻家の作品展や書物ではどういう扱いがされているだろう?

手元にある1983年に行われた辻晋堂展のカタログには、1943年に臨時海軍報道班員になったこと、第二回大東亜戦争美術展に「陸戦隊の進撃」を出品、朝日新聞賞を受賞したこと、しっかり書かれています。

この当時の方が、風当たりが強かったんじゃないかと思っていたので、1980年代の展覧会のカタログに書かれていたことにはちょっとした驚き。

辻晋堂のサイトでも、この事が書かれていますね。
http://www.shindo-tsuji.net/index.php?lang=jp&page=bio
なんだか清い。

じゃあ、朝倉文夫はどうかな?
朝倉彫塑館のカタログを見てみると...
1944(昭和19)年の戦艦献納帝国芸術会員美術展出品、陸軍献納帝国芸術会員美術展出品、戦時特別文部省美術展出品と、これも書かれています。
さすが大将!

あの、平和記念像の作家、北村西望はどうかというと。
手元には、東京都井の頭自然文化園の作品目録しかなく、略歴も短いからなんともいえませんが、1941年に全日本彫塑家連盟の委員長になったこと、飛んで1945年に疎開したことしか書いてないな~
この公園には、「児玉源太郎大将馬像」「山県有朋公騎馬像」「日満鮮」など所蔵されているのですけどね。
特に「日満鮮」は凄い。日本、中国、朝鮮各国の民族衣装を着た三人の少女が並んで笑っている姿です。これは見てみたいな。

さて、あの本郷新はどうでしょう?
1975年の現代彫刻センター発行「本郷新」作品集には『1944(昭和19)年、野間美術賞受賞「援護の手」太平洋戦争次第に激しくなり、制作思うにまかせず、秋より奈良唐招寺にこもり、鑑真和尚の模刻に専念する。』とあります。
「援護の手」は、第一回軍事援護美術展覧会出品作で、これでの賞なのですが、そこは書かれない。
こっちもそう。
http://www.city.ube.yamaguchi.jp/kyouyou/choukoku/library/artist/hongou_shin.html

まぁ、本郷新だしね。しょうがないね。

カタログじゃないのですが、ヒトラーに愛された彫刻家アルノ・ブレーカー著「パリとヒトラーと私」には、彫刻家「イサム・ノグチ」と過ごした日々が書かれています。
彼らは隣同士のアトリエを借ります。色男だったイサム・ノグチの家には米国の女学生が押し寄せたそうだ。
その一人と結婚の約束したため、証人をアルノ・ブレーカーに頼み、彼らは祝杯をあげた。イサム・ノグチがブラックマンデーの煽りを食い帰国する際には、ブロンズの作品をアルノ・ブレーカーに手渡したと言う。

イサム・ノグチがパリ、デドゥーヴル通りのアルノ・ブレーカーの隣に引っ越してきたのは1928(昭和3)年です。パリでの彼は最初年上のフランス人女性アート・ディーラーと付き合っていたが、その後ニューヨークから若い恋人がやってきて、しばらく一緒に過ごしていた。女性が妊娠した結果、イサム・ノグチが中絶を強い、その処置が悪く、女性が生死にかかわる状態になったのだそうだ。

これは、イサム・ノグチ伝であるドナウ昌代著「イサム・ノグチ 宿命の越境者」に書かれていたことなのですが、ここにあるニューヨークから来た恋人というのが、アルノ・ブレーカーが結婚の証人になった女性だと思われます。
まぁ、偽装結婚の片棒を担がされたわけね。

で、この本には、アルノ・ブレーカーには何も触れていませんね。
女性問題の為か、アルノ・ブレーカーの問題の為かはわかりませんが。
アルノ・ブレーカーはパリでの日々として記しているのに寂しいね。

とまぁ、戦時の出来事を、彫刻家に関する書物がどう書いてきたか、重箱の隅をつつくように見てみました。

2016年8月7日日曜日

畑正吉 原型 第十一回オリムピック後援之章

今日から始まりましたリオ・オリンピック!
開会式見ていましたが、やっぱり楽しいですね。
次の東京はどうなるか、気になるところです。

3Dプロジェクション映像で、無人在来線爆弾を夜空に上げるとかどうでしょう?

さて、今回の画像は、日本陸上競技連盟による「第十一回オリムピック後援之章」です。


第11回オリンピックは、1936年に行われたベルリンオリンピックですね。


以前にも書きましたが、この大会の芸術競技には、日名子実三ら、日本の芸術家も参加しております。

そして、このレリーフですが、原型は彫刻家「畑正吉」です。
オリーブの冠を手にした選手たちと、恐ろしいお顔をした仏像。
これは新薬師寺の十二神像の一つ、「伐折羅(バザラ)大将」でしょうか。

日名子の陸上関係のメダルに韋駄天を用いたものはいくつかありますが、伐折羅大将というのが面白いです。
この怒髪の恐ろしい顔を見ていると、当時の国家を背負ったスポーツという側面を考えてしまします。
それにしても、なぜ伐折羅大将なのでしょう?守護神という意味なんでしょうか?

次の東京オリンピックでは、こういった神々に変わって、ゴジラやポケモン、初音ミクなど新しい日本の神々が象徴として登場するような気がしますね。
あぁ、守護神っていうならガメラか?でも護国聖獣キングギドラという可能性も??



2016年8月2日火曜日

天理教 道友社創立50年記念 オブジェ

また変なものを買ってしまった...


これは何かと言うと、天理教、道友社創立の50年記念、陶器のオブジェです。
または、ブックスタンドかも。
陶器というより土人形に近いかもしれません。
釉薬が剥がれそうです。
銘もありますが、よくわかりません。


「道友社」とは、天理教の広報、出版関係を行う事業部だそうです。
「創価学会」もそうですが、近代の新宗教の発展は出版の歴史とともにあります。
出版によって、田舎から都市部まで、広く、早く、多くの情報を供給し、信者を増やすことができるようになります。
今日では、メディアと宗教は切っても切れない関係です。

この「五十年記念」ですが、それは1940(昭和15)年のことのようです。
国会図書館で調べてみると「道友五十年 : 道友社創立五十年記念」という本がありました。
このオブジェは、その年の記念に制作され、配付または販売された物なのでしょう。

また、その像は、天理教での「ひのきしん」の姿を模したものだと思われます。
「ひのきしん」とは、神に対して無私による労働力の提供を言うのだそうです。
そう、この像は、数人でもっこを担いでいる労働者の姿なんですね。
反対側から見ると、それがわかります。


かつて、このような宗教的な共同社会は、世界な傾向としてありました。
まず、米国がそもそも、そういった者たちによって生まれた国です。
その中でもアーミッシュのように、独自の宗教観で生活をしている人もあります。
そして、初期共産主義者もまた、その名が示すようにコミュニティーを形成してきます。
その延長上に中国や北朝鮮があるわけです。

日本では、武者小路実篤の「新しき村」がそうですね。
現在でも「ヤマギシ会」があります。

なにより、こういった宗教の説く、労働そのものが信仰という思想は、プロテスタントによって広まり、それが資本主義を生み、西洋を近代国家に育てます。
日本では、それを模して「二宮金次郎」の思想として教化、国家建設の礎とします。

天理教は、教祖「中山みき」への個人対個人の小さな信仰から、「天理教」という宗教団体へと変化する中で、こういった共同社会宗教化へと大きく移行したのですね。
現在では、天理市という、日本でもユニークな宗教都市となりました。

「中島みゆきは中山みきである!」と言ったのは呉智英さんですが、僕にとっての中山みきは中島みゆき(様)だ!といきなり信仰告白して、この文章を終える...チャンチャン♪