2012年12月23日日曜日

日本の表現主義彫刻

今回は、絵葉書でもメダルでもありません。
僕の研究している日本の表現主義受容について、ちょっと面白い本を見つけたので紹介です。

明治以降の日本の彫刻界では、ロダンの影響を大きく受け、新しい彫塑作家たちが生まれました。
では、独自の歴史を持っていた木彫はどうであったかと言えば、ロダン風の木彫を行なってみたりしつつも、特に日本美術院系の木彫作家たちが、所謂置物彫刻、床の間彫刻、民芸的で風俗的な彫刻の中に近代性を見出し、研究を始めます。
例えば木村五郎が民芸の中にある純粋美術を彫刻化し、橋本平八が円空を発見します。

その時、彼らの思想的な根拠の一つとなったのが、欧州においてロダン以降の新しい彫刻として生まれた表現主義彫刻ではなかったか。
これについては当時の彫刻家たちの言があまりなく、よくわかっていません。
ただ、1925年(大正14年)には『建築写真類聚』として「表現主義の彫刻」という作品集が発行されています。
また、今回手に入れたが写真の一氏義良著「西洋美術の知識」で、この同じく大正14年発行の本にも、ドイツ表現主義の彫刻家であるエルンスト・バルラハが紹介されていました。
 さらに、この「あふむき」という、彫り跡を残す印象的な作品は、内藤伸の「山上」に良く似ています。
ただし、「山上」が大正3年作なので、この本のおよそ10年前に作成されたということになり、直接的な影響はなかったろうとは思います。
では、その10年前に内藤伸はどんな情報を持っていたのか、まだまだ研究が必要のようです。

2012年12月17日月曜日

震災と銅像(その2)

前回と同じく、関東大震災後の万世橋駅前です。
駅前に立つのは広瀬中佐杉野曹長の銅像。
こちらが地震前の画像です。
原型は朝倉文夫の実兄である渡辺長男。
この銅像は震災を乗り越え、米軍の空襲を乗り越え戦後を迎えたのだが、最後は日本人自身の手で取り壊されます。
実はこれら取り壊しの判断に戦後の彫刻家たちの意見が取り入れられています。
 その一団の中に、朝倉文夫がおり、そんな裏事情を描いたこんな本もあります...
たしかに、明治以降の日本では、多く銅像が乱立した。そこには美とは言えないものもあったろう。しかし、それを断じることは傲慢ではないか。
戦争をしたということ、敗戦したということ、この銅像の下で生きてきた人々までも否定してしまうのは傲慢ではないか。
戦後の日本の彫刻史はここから始まったと言えるでしょう。

2012年12月13日木曜日

震災と銅像(その1)


あの東日本大震災から2年近く経とうとしていますが、まだその傷口は開かれたままだと言えるのではないでしょうか。
その歴史を背負って、日本の美術はどうあるべきか、そんなことを最近聞きます。

日本は震災の国です。災害の中で文化を育んできました。
90年程前、1923年(大正12年)には、マグニチュード7.9の首都を直撃した大地震を経験しています。関東大震災です。
この絵葉書は、その直後に上野にあった西郷隆盛像を写したものです。
わかりますでしょうか?西郷さんにベタベタと紙が貼られています。
実はこれらは、尋ね人のチラシです。
震災によって怪我をし搬送された人、火災などから逃げのびた人、そうした家族や友人を探すチラシです。
西郷像という当時の東京のシンボルに、多くの人が寄り集まってきたのです。

こういった用途に用いられる彫刻は、本来の意味で芸術ではないでしょう。
ですが、 これほどまでに愛される、必要とされる美術作品が以降の日本にあったでしょうか?

2012年12月11日火曜日

絵葉書問題続き


結局、小倉右一郎の彫刻寫眞領布會が解散することで、このドタバタに膜を下ろすこととなるが、しかし、問題はこの両者の争いだけに留まらなかった。

1925年12月発行の「アトリエ 2巻2号」には、美術批評家落合忠直が「帝展の彫刻部の暗闘に同情す」題してこの問題を論じている。
「エハガキ屋が二軒対立して、それが作家から一々承諾を得た物を売ることになると、一方の写真屋のみ許した男は朝倉派と見做され、一方の方へ承認した者は旧曠原社派と見做され、ちゃんと党派の色別が出来てしまふのである。」「党派の色別けが出来るとなると、自然それによって党派心から審査の手心が起きて来るのは、人情として止むを得ぬ事なのである。それで朝倉派に写真を承諾しようか、曠原社派へ承諾しようかと云ふことは、入選するかせぬかの分かれ目になり、作家の心の中に恐ろしい不安な影を投げたので、他所から見ると、若い人達の迷ひは気の毒なものであつた。」
つまり、朝倉文夫の設立した美術寫眞はん布會と小倉右一郎のそれのどちらに写真の承認を与えるかによって、どちらの派閥に属するのかといった振り分けが行われるのではいか、帝展への入選が決まるのではないかと、若い彫刻家たちが右往左往することとになったのだ。帝展への入選はまさに人生を変えるものであり、成功の道であり、それが絵葉書によって左右されるような話になってしまった。

落合忠直は、「僕も朝倉君の人格を非難しようと云ふのではなく、その親分肌の親切気には感心してゐるのだから、批評家としての立場から、もう少し考へて事をしたらどうかと云ふ事を、若い人の苦衷になり代わつてお願ひをして置くのである。」と朝倉文夫に気を使いながらも苦言する。そして、こんなことになったのは何よりも彫刻家が貧乏だからだとしているのが面白い。彫刻家をして「呪われている人達をよと、しみじみ同情を寄せられるのである。」とまとめている。

さらに、この絵葉書写真問題は、彫刻家らのこれまで溜まった帝展への不満が吐き出す契機となる。若手の実力派で帝展彫刻部の委員でもあった齋藤素巌は帝展への出品予定の作品の出品を拒否する。大正14年10月12日の東京朝日新聞にて「彫刻界のごたごたに業を煮やした斉藤氏 一年がかりの苦心の大作「石彫り」の出品を拒否す」「帝展彫刻委員会で押しも押されぬ堅実な地歩を進む齋藤素巌氏は例の東台彫そ会解散後一般彫刻界に引続き起こつたごたごたに對して潔癖一片の性格で忌々しげに眺めてゐたが、遂に最近におけるヱハガキ寫眞問題から続く鑑別会の内情に業をにやし、『そんな雪陰のもひとしい場所へ神聖な作品を並べるに堪へない』とて一年がゝりの苦心製作の大群像『石彫り』を出品せざることに決心するに至つた。」「今後独りで勉強を続ける 近く適当な方法で発表 當の斉藤素巌氏語る」としている。

絵葉書は、楠木正成公の銅像原型で、齋藤素巌によるものです。銅像は、神戸市の湊川公園に設置されています。

2012年11月28日水曜日

「帝展絵葉書で市が板ばさみ」


第6回帝展を間近に控えた大正14年10月7日、東京朝日新聞に「帝展絵葉書で市が板ばさみ」と見出しが出る。

「商人の暴利の暴利の種にされたり、無責任な寫眞にして売られたり、さうした藝術観念に乏しい彫刻寫眞又はエハガキの防止し一方出品作家作家相互の為にとて、昨年帝国彫刻部では監査委員を中心とし、出品者九十数名を會員として彫刻寫眞領布會を組織し彫刻家自身の手でエハガキを売り出し千五百圓からの純益があったが、サテ今年はこの十月二日美術寫眞商下山金一郎氏が美術寫眞はん布會を独立し朝倉文夫、北村西望その他彫刻家五六十氏作品撮影はん布その他一切の件に関する委任状をつけて本田市会議員紹介で市公園課に対し會場出口において販売の許可を申請して来た所が昨年のはん布會代表者小倉右一郎氏は之また昨年の継続事業の意味で同士五十二作家の委任状をつけて本月五日同様許可申請をして来た、市役所でも両方ながら芸術家が賛同して居るので許さないわけにも行かず、下手に許せばお役所がけんかの仲介をするようなことになるかも知れずしきりに研究中である。」

つまり、朝倉文夫らが、前年小倉右一郎らによって組織された絵葉書頒布会の許可なく、勝手に違う販売者を立てたのだ。

同新聞での「共同資金を得るため 小倉氏は語る」として小倉右一郎の主張
 「私達が昨年會を設立した所以は営利商人の暴利と無意味な寫眞を防ぐ一方彫刻家相互の冠婚葬祭をも思ひ共同資金を得たく企てたので三割を買れた作家に呈し合作家の慰労懇親會と同作家全部に對し総出品作百五枚宛の寫眞ハガキを配つてその大部分を買ひ、五十圓を故川崎繁夫氏の弔慰金に呈し、残金百圓足らずは銀行にあずけ今後の同會資金に充てゝ居る、會は解散したのでもなく假令年毎に作家は變つても同會事業はつぶれるわけではない、この際又新しい會が出来たのは致し方ないことしてそれが過つて欲得事業にのみ解襗されることを恐れるばかりである」
と自身の領布会の正当性を語たった。

それに対し朝倉文夫は以下のように反論する。
「昨年の會には私も相当骨折りをしたが、設立された実際は芸術寫眞の配布でもなく、體裁のいゝヱハガキ屋に過ぎなかつた、當時から私は不満を持つてゐたが別段申合わせもなく、今年はもう同會は解散したものと思つてゐた、所がこの間下山氏が今年こそ眞に評判のいゝ寫眞を配布するから参加してもらい度いとすゝめられ委任状を渡したまでゝ小倉氏のことは一切知らないでゐたわけ、そんなことに名をひつぱり出されるのさへ不愉快で堪らない」。

 以上の文章を読んだだけでは、手違いと、朝倉文夫の独断によって問題が起きたように思えるが、朝倉文夫が昨年の頒布組合の代表者であり、同じく東台彫塑会を背負ってきた小倉右一郎の立場を知らないことはなかっただろう。
結局、小倉右一郎の彫刻寫眞領布會が解散することで、このドタバタに膜を下ろすこととなるが、しかし、問題はこの両者の争いだけに留まらなかった。
続く...

写真は、僕のコレクションで一番古い絵葉書、1912年(大正元年)第六回文展出品 山崎朝雲作「山育ち」

2012年11月26日月曜日

絵葉書に就いて

今日の主役は、絵葉書そのものです。

日本の絵葉書は、1900年(明治30)から使用が認められます。
1905年、日露戦争の勝利の記念に販売された絵葉書が一大ヒット商品となり、絵葉書ブームが起こります。
街道に絵葉書専門店が建ち、郵便だけでなく、記念品として、お土産として、宣伝用のメディアとして、またはコレクションとして絵葉書が用いられるようになります。

1907年(明治40年) 第1回文部省美術展覧会が開催され、ここで作品を印刷した絵葉書が販売されます。
当時の官展は国の一大行事であり、国民の大きな注目を集めるものでした。一箇月の開催期間に、のべおよそ4万人の入場者があり、販売された絵葉書もこれまた大ヒット商品となります。
ただし、当時は著作権などの概念の無い時代ですから、作者の許可なく勝手に販売されていたようです。
これは貧乏彫刻家にとって、死活問題であり、後に彫刻家同士が組合をつくり販売を始めようとするのですが、ここでまた問題が起こります。この話は次回。

写真の絵葉書は1924年(大正13)第5回帝展の彫刻群。
袋には「▽研究参考として現代無二である! サロン彫刻 名作集」とあり、「≪性≫赤堀信平」「≪快感≫開発芳光」「≪女≫北村」正信」 「≪影≫中谷宕運」「≪踊≫日名子実三「≪陽春≫金子久次郎」」「≪粧ひ≫小倉武生」×2枚 と、合計で8枚のセットとなっています。
すべて裸婦像。当時、こういった彫刻はポルノとしての意味合いもあり、だからこそ 「研究参考として現代無二である!」なんて強調してるんでしょうね。



2012年11月20日火曜日

日名子実三 原型「国民精神作興体育大会参加章」メダル

物語のメダルってことで、猿、雉子、犬をお共に連れた桃太郎さんのメダルです!

昭和13年、幻となった東京オリンピックに代わり行われたが、このメダルが用いられた「「国民精神作興体育大会」 。
そのシンボルとしての桃太郎です。
Wikiには「太平洋戦争の際には桃太郎は軍国主義という思想を背景に、勇敢さの比喩として語られていた。この場合桃太郎は「鬼畜米英」という鬼を成敗する子としてスローガンに利用された。戦時中には孝行・正義・仁如・尚武・明朗などの修身の徳を体現した国民的英雄として...」とあるのだけど、こういうイメージを与えてしまう「桃太郎」という物語が興味深い。

元来、物語というのは意味を持たない。宮沢賢治の「やまなし」のように、純粋な物語であればこそ、意味を持たない。ゆえに、それぞれの語り部を通して、それぞれに伝えられるのが物語。
「桃太郎」もそうであり、よって歴史の中で逆説的に「意味」を与えられ、こういったメダルとして象徴的に扱われることもあるのでしょう。

2012年11月19日月曜日

陽咸二 原型「国際広告写真展覧会」メダル



陽咸二の亡くなる5ヶ月前、昭和10年4月に行われた東京朝日新聞社主催「国際広告写真展覧会」のメダルです。
陽咸二らしい、遊び心溢れた造形で、お伽噺のような物語を感じさせるレリーフになっています。
日名子のメダルと比べると、同時代にあっても、その作風の違いがわかるかと思います。
陽咸二の方が足取りが軽いんですよね。おちゃらけてると言うか。御洒落と言うか。
日名子や素巌と同じく西洋の彫刻に影響を受けながらも、陽咸二的と言うしかない独自の世界があるんですね。
このレリーフは、原型が東京国立近代美術館に所存されています。
一度、このメダルと並べて見てみたいです。


2012年11月18日日曜日

Intermission

今日は、ちょっと休憩して彫刻ではなく、戦前の写真とその絵葉書を紹介します。


日名子の広告写真展 のメダルで紹介したように、大正から昭和初期にかけて、写真が記録だけでなく、表現の媒体、アートとして認識されだします。
この絵はがきたちも、公募で賞を得た作品でしょう。
3枚とも、子供を写したものです。いつの時代も子供は、良きモデルだったんでしょうね。

2012年11月11日日曜日

日名子実三 原型「日独対抗陸上競技メダル」 

 1929年(昭和4)に、後に同盟国となるドイツと行われた陸上競技大会のメダルです。
原型は日名子実三。 
天岩戸のワンシーンである、アメノタヂカラオによって岩戸が開けられる姿が描かれています。
アメノタヂカラオは、腕力・筋力を象徴する神であり、スポーツのことだけでなく、ここには日本の「力」の誇示といった意図をがあるようにも思えます。

さて、 近代の中で「神」の御影を描くにあたり、古来の日本の技法でなく、この像にみられるような西洋的な技法を用いられるようになります。
より直接的で肉体的な姿によって、日本の「神」が描かれます。
絵画で言えば、原田直次郎の「騎龍観音」や中村不折の描く「神」像、岸田劉生の「麗子像」なんかも、こういった和洋折衷の「神」の御影だと言えるでしょう。
そういった神話の世界が、西洋的な方法で表現されることに違和を感じるのですが、当時はどうだったのでしょう?この違和感そのままに「新しさ」または「モダン」として受け入れられたのかもしれません。だからこそ、日名子の描く「神」像に需要があったのだと思います。
ただし、絵画による「神」像の技法は、「戦争画」として完成されますが、彫刻においては、このまま戦後を迎え消えていくことになります。

2012年11月8日木曜日

神像の絵葉書

前回紹介しました明治神宮大会のメダルの原型師、畑正吉と日名子実三との違いは何か。
一つは年齢、畑正吉は明治15年生れ、日名子実三は明治26年生れでおよそ10年の差があります。
そして、その作風を見れば、畑正吉が日本の古典的な彫刻法を受け継いでいるのに比べ、日名子は西洋風の彫塑法。
何より違うのが、畑正吉がモンタージュ的なイメージを描いているのに対し、日名子実三が今で言うキャラクターを描いている点にあると言えます。
では、どんなキャラクターを描いているかと言えば、それは日本古来の「神」の御影。

明治政府によって「神道」は国教となります。廃仏毀釈が起こり、佛像などが破壊されます。
日本の神々は元来、キリスト教などのように固定されたイメージの姿を持ちません。薬師寺の「仲津姫命」などありますが、佛像に比べれば遥かに少ない。しかし、明治以降、民衆の間で神像への需要が高まり、制作されるようになります。
彫刻家たちは、その西洋からの技法を用いて、より人体に近い「神像」を制作するようになります。
有名のは、竹内久一 (1857-1916)が明治23年に制作した3メートル弱もある木彫の「神武天皇像」です。
他にも多くの近代「神像」があるはずなのですが、美術史で語られることは皆無です。
現代の宗教からかけ離れた美術観もその理由の一つでしょう。また、戦争によって「神道」アレルギーもあるでしょうし、作品そのものが戦争によって失ったというのも理由でしょう。

 このブログでは、そんな近代「神像」も少しづつですが紹介していきますが、とにかく情報が少ないのが悩みです。

 「天の浮橋御像」大日本神像奉彫會謹作
 この「大日本神像奉彫會」が何なのかまったく謎。

出雲大社什物稻田姫の神像



2012年11月6日火曜日

明治神宮競技大会のメダル

高嶋航著「帝国日本とスポーツ」を読み終わる。
 「帝国内の明治神宮大会と帝国外の極東大会の系譜をたどり、帝国内外のスポーツを結集して大東亜会議に連動して催された第一四回明治神宮国民錬成大会の実態を明らかにし、近代国家に翻弄されたスポーツの歴史をふりかえる。 」と紹介されるこの本は、 戦時下の日本をスポーツを通して立体的に浮かび上がれせます。
こんな凄い本を読むのは久しぶりです!

今回は、この本でも紹介されてました明治神宮競技大会の参加メダルを紹介します。
1924年(大正13)に明治神宮競技大会として始まった当時日本最大のスポーツの祭典は、「明治神宮体育大会」「明治神宮国民体育大会」「明治神宮国民練成大会」と名を変えながら、1943年(昭和18)まで行われます。どうして名前が変えられたのかは、上記の本をごお読みください。

このメダルの原型は、メダル彫刻の第一人者である畑正吉や「構造社」の日名子実三、齋藤素巌らが行なっています。

 
1924年(大正13)第1回 明治神宮競技大会

左:1925年(大正14)第2回 明治神宮競技大会
右:1929年(昭和4)第5回 明治神宮体育大会 (原型/畑正吉)

左:1931年(昭和6年)第6回 明治神宮体育大会(原型/齋藤素巌)
右:1933年(昭和8)第7回 明治神宮体育大会(原型/日名子実三)



 1937年(昭和12)第9回 明治神宮体育大会(原型/進藤武松)


 左:1939年(昭和14)第10回 明治神宮国民体育大会(原型/日名子実三)
右:1940年(昭和15)第11回 明治神宮国民体育大会 (原型/日名子実三)



 左:1941年(昭和16)第12回 明治神宮国民体育大会(原型/日名子実三)
右:1942年(昭和17)第13回 明治神宮国民練成大会(原型/日名子実三)

 1943年(昭和18)第14回 明治神宮国民練成大会(原型/日名子実三)


 「帝国日本とスポーツ」でも書かれてましたが、メダルの素材がどんどんしょぼくなっていくんですね。銅から、合金、陶となって最後はアルミです。1942年の第13回メダルは素材がわからないくらい錆びてしまっています。このメダルで錆の出てないものは今のところ見たことがありません。

面白いのは、畑正吉の真面目な作から、日名子への流れです。昭和の頭には他の「構造社」の作家も参加していますが、最後は日名子の独占の仕事となります。当時の日名子の人気と力を感じます。

個人的に好きなのは、1933年(昭和8)第7回、日名子実三原型のメダルです。蹲踞する神は「野見宿禰」です。相撲の神であり、埴輪の創始者と言われています。

2012年11月5日月曜日

戦前のモニュメントについて

 明治維新後、欧米の文化に倣い、日本に「銅像」が建てられます。しかし、それは銅で作られた佛像のようなもので、特定の人物などを拝することを目的とし、所謂モニュメント、記念碑的なものではありませんでした。

そこで、建築物と彫刻との融合としての「モニュメント」を研究したのが、齋藤素巌や日名子実三率いる「構造社」でした。
日名子は、「帝都復興審議会」の復興計画の一つである1934年(大正13年)に開催された「帝都復興草案展」の「大震災火災記念営造物草案懸賞規定」という懸賞競技に「死の塔」と「文化炎上碑」を出品します。それらは人体(裸婦像)と建築物とが有機的に組み合わさった構造体で、「構造社」の標榜する「彫刻の実際化」を示すモニュメントでした。
斉藤素巌は『日本の彫刻家達は、構成や総合が嫌ひなのか、その技術に堪へ得ないのか、少しもモニュメンタルな方面へ動かうとしない。今年の試みが成功であるか、失敗であるかしらないが、こうした研究を等閑に附してゐた方が間違っていることは確かである。』と「モニュメント」の時代であることを宣言します。

「構造社」だけでなく、日名子実三が移った「国風彫塑会」において日名子は「八紘之基柱」に「航空表忠魂」「上海陸戦隊表忠塔」を発表、同じ構造社であった濱田三郎は「詩人の碑」、池田優八は「軍用動物記念塔」を発表します。
森大造、中野四郎、村井辰夫、長沼孝三らの「九元社」や、「新制作派協会彫刻部」が新設された「国画会彫刻部」もまた共同制作によるモニュメントの研究し、発表を行います。
本郷新は「彫刻家の課題」と題し、建築と彫刻は『不可分の構造的総和として一元化しなければ』ならないと言い、彫刻の建築的役割の有用性を説きます。若い彫刻家たちにとって「モニュメント」とは、新時代の彫刻として情熱を傾けることのできる表現媒体であったのでしょう。

 社会においては、昭和初期、同盟国独逸ではヒットラーの司令の下に、ベルリンの街に巨大なモニュメントが建ち並びます。日本もまた「役立つ美術」「目的を持つ美術」といったプロパガンダに用いられる戦時下の美術として、「モニュメント」と言う彫刻家の新しい仕事に注目が集められるのでした。

陸軍美術展(昭和19年3/8~4/5) パンフレットより

 圓鍔勝二(会員)    大東亜建設碑(香港)縮尺1/500

笠置季男(会員)    ブキ・テマ戦跡記念碑(部分)縮尺1/10

古賀忠雄(会員)    ジャカルタ(大東亜建設記念碑)

中川爲延    大東亜建設碑(新京)(縮尺1/100)

 長沼孝三(会員)    聖戦記念碑(ラバウル)(縮尺1/40)

2012年11月2日金曜日

日名子実三 作「八紘之基柱」絵葉書




 

前回の「護国亀鑑」盾が世に出た1939年(昭和14)、日名子が同時期に血肉を注いで制作していたのがこの「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」です。
翌年の1940年は紀元二千六百年。その為の奉祝事業として宮崎県にある宮崎神宮に「八紘一宇の精神を体現した日本一の塔」を建てることが決まり、それに名乗りを上げたのが大分県出身の日名子実三でした。
14年3月に日名子は原型を完成させ、同年5月より起工。国内だけでなく、遠くは朝鮮や上海からも石垣のための石が送られ、述べ6万人の奉仕者が参加。同年11月に竣工となりました。
日名子によれば「楯と御幣の形を併せ、しかも葦牙(あしかび)の如萌え騰る感じ」を表したこの塔は、高さ37メートル、中央に「八紘一宇」の文字、四方に信楽焼の神像が配されています。




 四方の神像
「工人トシテ權現セルモノ」とあり、技術者を示している、「和御魂(にぎみたま)」像。
「武人トシテ權現セルモノ」とあり、剣と盾を持つ 「荒御魂(あらみたま)」像。
「漁人トシテ權現セルモノ」とあり、恵比寿神のような「奇御魂(くしみたま)」像。
日名子自身の娘をモデルとしたとされる「幸御魂(さちみたま)」の母子像。









内部にある日本建国を表現したレリーフ。「大国主命国土奉還」「天孫降臨」「鵜戸の産屋」「橿原の御即位式」「明治大帝御東遷」最後は「紀元二千六百年」を表したレリーフで終わる。この「紀元二千六百年」レリーフは戦争の時代と神、国土と歴史を1枚で表した作品だと思います。

この塔は戦後、「平和の塔」という左翼からしたらまったく反対の意味の名前が与えられ、「八紘一宇」の文字と武人の象徴であった荒御魂(あらみたま)像が撤去されます。後に修復、復元され、現在は宮崎県の観光名所となっています。

こういった塔、いわゆるモニュメントは、戦時下の彫刻家たちにとって新しい試みとして研究され、いくつかの美術展覧会で発表されました。ただ、戦時下にこのような大規模な事業がそうそう出来るわけでもなく、忠霊塔のような建築物と比べると現実に制作されたモニュメントは少ない。しかし、ここで研究されたモニュメントの思想が、戦後の彫刻界に影響を与えたことは確かだろうと思います。
そんな戦時下のモニュメントについて次回は書きたいと思います。

2012年11月1日木曜日

日名子実三 原型「護国亀鑑」盾


今日は、日名子実三原型のレリーフの中でも、特につまらない作品を紹介します。
この「護国亀鑑」盾は、戦時中、一家族から二人以上の戦死者を出した家庭に国から贈られたものです。
神戸大学のアーカイブに当時の新聞記事がありました。→こちら
「亀鑑」 とは『行動や判断の基準となるもの。手本。模範。』といった意味で、国家に殉じた人たちを指すのでしょう。
こんなの貰ってどうなるものかとも思いますが、賜って救われる人もいたでしょうし、 複雑です。

描かれているのは靖国神社です。この面白みのないモチーフは、日名子実三の作品の中でも異例で、左端にはこの作品以外で見たことのない落款があります。
依頼主である国家から、モチーフに対して注文もあったでしょうが、それにしてもつまらない。
もしかしたら、死者の為に贈られるこのレリーフの制作が、日名子の手に負えなかったんじゃないかとさえ思います。

現在の靖国神社の遊就館には日名子の彫刻がありますので、興味のある方は是非。

ちなみに、レリーフと一緒に朝香総裁宮殿下の表彰状が贈れれましたが、その朝香宮家の本邸は、現在東京都庭園美術館になっています。
「舟越桂 夏の邸宅」展の時に行ってきましたが、素晴らしい場所ですね。

2012年10月30日火曜日

日名子実三 原型「学士會ゴルフクラブ 内務次官賞」盾

昭和11年(1936年)11月1日に行われた学士会ゴルフクラブの記念盾です。
原型は、日名子実三。ゴルフバックを背負った人物が描かれたレリーフです。
日名子実三は水泳、ラグビー、バスケットボール、スキー等々、数多くのスポーツをモチーフとしています。日名子の描くスポーツ選手は、どこか優雅で、女性的で、精神主義の汗臭さが無い。最先端カルチャーとしての「スポーツ」が描かれていると言えるでしょう。そこが当時の人々に受け入れられた理由だったのかもしれません。
日名子自身もスポーツ選手との交流を持ち、水泳選手の高石勝男選手や、オリンピックで日本人初の金メダリストとなった織田幹雄選手の像なども制作しています。
このレリーフにも紳士のスポーツとしてのゴルフ、凛とした人物像です。
このモチーフを用いて立体もあるようで、広田肇一著「日名子実三の世界」で紹介されています。 

ちなみに、寄贈した湯沢三千男 はこんな人。

2012年10月29日月曜日

第二回帝国美術展覧会出品 貝塚七郎作「女」 絵葉書


貝塚七郎については、まったくデータが揃っていません!どんな彫刻家だったかもわかりません。
なのに、この絵葉書を紹介するわけは、この作品の魅力、このモチーフが魅力的だからです。 このふとましい股!豊かな体躯!、柔らかなオーラ!、そして貧弱な乳。デブ専ってわけじゃないですが、素敵じゃないですか。その形状から古代の土偶のようで、崇高な感じさえ受けます。

こういった裸婦を描く作家にコロンビアの作家フェルナンド・ボテロがいますが、彼は1939年生まれ。この作品が発表された第二回帝国美術展が1920年(大正9) ですから、ボテロに先んじてこんな作家が日本にいたわけです。
この時代の彫刻家は、日本人をモデルにしつつも、西洋の美意識に合わせるかのように、等身や頭の大きさなどを変え、デフォルメされています。この「女」も同じくデフォルメがなされているのだと思うのですが、その方向が当時の美意識とは一線を越え、作家の欲望が投射された結果、現代的な作品になっています。マーク・クインの新作だって言われたら信じるかも。

2012年10月28日日曜日

日名子実三 原型「聖戦二周年記念剣道野戦大会」メダル

明治維新後の日本は、世界の一流国を目指すべく、スポーツにおいても官民あげて取り組みました。 そんなスポーツに対し、トロフィーやメダルなどを制作し、芸術面で関わったのが日名子ら「構造社」の作家たちでした。日名子実三の仕事で有名なものに、サッカーのJFAのシンボルマークである八咫烏があります。
しかし、昭和に入り時局は戦争の影響が濃くなっていき、外来のスポーツもその空気の乗って変わっていきます。用語の日本語化やスポーツ大会の規模の縮小、変わって体操競技の規模拡大などが行われます。国粋意識が高まるにつれ、武道もまたより時局に合ったものをと考えられ、そんな中で剣道は銃剣術など訓練としての競技を行うようになります。
これに沿って美術家たちも、そういったメダル等を依頼され作成するようになり、特に日名子実三はスポーツだけでなく、軍に関わる勲章や記章などを多く制作します。
高崎航著「帝国日本とスポーツ 」では、日名子は芸術の面でスポーツと戦争とを結びつけたと評します。

 このメダルの大会は、昭和14年に報知新聞社主催で行われたようです。「聖戦」とは昭和12年に始まった支那事変を指します。
野戦大会とは、銃剣術も含めた野外での剣道大会を示すのだと考えられます。
メダルに描かれた兵士は、刀を持つ人体と言う難しい主題であり、しかもそれを円形のレリーフにしているものだから、若干無理のある体勢です。しかしその結果、迫力ある動きをした人体像になっています。また背景のシルエットの群像によって、戦場の緊迫感が表現されていると言えるでしょう。

日本の戦争画は、1970年にアメリカから、無期限貸与という形で日本に返還され、現在東京国立近代美術館 で時々展示がなされます。研究も多くなされるようになり、関連本も出版され、目に付くようになりました。
しかし、戦争美術は絵画だけでありません。彫刻家もまたこの時代を生き抜いていました。そうして制作されたこのメダルのような小さな戦争美術を、このブログでいくつか紹介できればと考えています。

2012年10月27日土曜日

陽咸二 原型「第十六回全国中等学校優勝野球大会」バックル


全国中等学校優勝野球大会とは、現在の全国高等学校野球選手権大会にあたる大会です。
第十六回大会は、1930年(昭和5)に行われました。
当時、この大会のメダルやバックルは彫刻家たちによって制作され、日名子実三や齋藤素巌、朝倉文夫らによるものがあります。
このバックルの原型は陽咸二です。明治31年生まれの陽は、小倉右一郎に師事し、帝展では特選を取るまでとなります。そして、日名子実三や齋藤素巌らの「構造社」に加わり、メダルなどの制作を行います。
帝展時代には、制作した裸婦彫刻が風俗上の問題として取り上げられて話題の作家となり、
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=106800
また現代では抽象彫刻の先駆けとして紹介されます。
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=68465&isHighlight=true&pageId=4
しかし、その制作する雑器の類は、日名子実三や齋藤素巌がレリーフとして成立しているのに比べ、伝統的というか、漫画的というか、どこか俗っぽい作風です。
このバックルもバットやグローブを手にした野球をする阿修羅像がクモの巣のようなグランドを背にするという、漫画な作り。
当時の彫刻界をどこか斜に構えた感じが、この彫刻家の魅力の一つになっているのでしょう。
陽咸二は、このバックルが球児に渡された5年後、1935年に38才の若さで亡くなります。
1935年は、日本の彫刻にとって大きな損失の年であり、その年、堀江尚志(38才)、藤川勇造(53才)、木村五郎(37才)、牧雅雄(48才)、橋本平八(39才)ら若き彫刻家たちが亡くなっています。(括弧内は享年)彼らが終戦を生き抜いていたら...日本彫刻史はまた違ったものになっていたかもしれません。

2012年10月25日木曜日

齋藤素巌 原型、「紀元二千六百年奉祝東亜競技大会 東京大会」メダル


齋藤素巌は前回紹介した日名子実三と共に、1926(大正15)年、彫刻家の在野の団体である「構造社」を立ち上げるなど、戦前から戦後にかけて活躍した彫刻家です。
この構造社は、「彫刻の実際化」を標榜し、彫刻作品だけでなく、このようなメダルや建築など実社会に近い作品を制作します。

「紀元二千六百年」は昭和15年のことであり、この年は神武天皇即位2600年を祝い、多くの行事が行われます。同年には東京オリンピックが開催される予定でしたが、日中戦争が始まった為に 流れてしまい、その代わりとなったのがこの「東亜競技大会」でした。

このメダルの特徴は、奥へと重ねられた人体像であり、そこにはユーゴスラヴビアの彫刻家、メストロウィッチの影響があります。メストロウィッチは、ロダン以後の彫刻家として当時の日本の彫刻界に受け入れられ、中でも「構造社」の若き作家たちの作品には、その影響が強く出ています。

メストロウィッチのレリーフ(「メストロウィッチの彫刻集」より

もう一つ、このメダルの重ねられた六躰の人体像からいえることは、その大会の趣意を描いているということです。
http://bunzo.jp/archives/entry/000884.html 
西洋のオリンピックに代わるアジアの競技大会。この東亜競技大会には日本、満洲国、新生中華民国、比律賓(フィリピン)、布哇(ハワイ)、蒙古が参加しました。つまり、この六躰の人体像はこれら参加六国を指してるのだと思います。そのアジアの国々が同じ一点を指す...そんな政治性を感じさせるレリーフです。

2012年10月24日水曜日

日名子実三原型メダル「第3回国際広告写真展覧会」

日名子実三原型の「第3回国際広告写真展覧会」メダルです。
日名子実三は、 大正から昭和初期に活躍した彫刻家。終戦の年である1945年に亡くなります。戦時下の日本を代表する彫刻家だったと言え、当時のメダルや記念碑等を多く手がけました。宮崎県にある「八紘之基柱」も彼の作です。

この「第3回国際広告写真展覧会」は1932年(昭和7)に行われました。
昭和初期において写真は新しいメディアであり、その普及の為、このような展覧会が行われたのでしょう。
このメダルの特徴は、表面のカメラを手にした裸婦。日中戦争の直前でありますが、この頃はまだ、このような裸婦像をモチーフにできたようです。しかし以降扱いが難しくなり、日名子自身も用いなくなります。
日名子実三はこのモデルを好んで用いたようで、他にもこのモデルの彫刻がいくつかあります。