2017年12月7日木曜日

「豊橋軍人記念碑」神武天皇像

豊橋市の豊橋公園内にある弥健神社には、明治32年に制作された神武天皇像が奉られています。
この像を制作したのは岡崎雪声。
彼は鋳造師として知られ、西郷隆盛像や広瀬中佐像、竹内久一の日蓮上人立像も彼の仕事です。
また、初めて薪を背負った二宮尊徳像を造ったのも岡崎雪声と言われています。
豊橋の前芝小学校には大正13年に日本で始めて小学校に建てられた二宮尊徳像があります。ちょっと不思議な縁ですね。

さて、現在、美術博物館等が建てられている豊橋公園ですが、明治時期から終戦までは歩兵第18連隊の駐屯地でありました。
今でも門や哨舎が残っていて、見ることができます。

そして、この地に建てられたのが、この神武天皇像でした。
ただし、現在と異なり、高台の上にあって人々を見下ろしていました。
画像は、その当時、お土産品として3銭で販売された石版画です。
版元は豊橋の高木定友。
記念碑の高さ、7間5尺5寸(約14m)
像の高さ、8尺5寸(約2.5m)
石垣広敷10間4方とあります。

その姿を豊橋市美術博物館のサイトで見ることができます。

西郷隆盛の像が上野に建てられたのが明治31年、この像はその次の年の制作であり、日本の銅像の最初期の物と言えるでしょう。
そんな像を一目見ようと人が集まり、こうしたお土産が売られたのだと思われます。
版画の図にも、子連れなんかが描かれていますね。

豊橋市美術博物館のサイトにもあるように、この像は、大正5(1916)年に練兵場内の北側に移設され石垣は撤去されます。
その姿がこちら。コレクションの絵葉書から。
どういった事情で移されたのでしょう?
昭和の金属回収令時にも、天皇の姿と言うことで免れたろうこの像が、大正時代に平地に移動され、規模を小さくした理由が気になります。

2017年12月3日日曜日

畑正吉 作 台湾勧業共進会メダル


畑正吉による「台湾勧業共進会」のメダルです。
「台湾勧業共進会」は、大正5年(1916年)に、日清戦争によって清から日本に割譲された台湾の産業の発展と奨励を目的に行われた博覧会です。
教育、学術及び衛生、美術工芸、農芸畜産、林業狩猟、水産、飲食品、鉱業、工業、機械及び機関、土木建築及び交通、原住民と96種類に渡って当時の台湾の産業の展示がなされました。

このメダルの特徴はその図柄にあります。
中心に女神、足元には第一会場本館となった台湾総統府。女神は羽根を背負い、そこから太陽のように照らしています。
手にはカレー...ではなく、古代中国の酒器を抱えているのだと思われます。
ギリシャ、ローマの女神が酒器を抱えているように、畑は台湾のメダルのデザインに、古代中国の酒器を選んだのでしょう。

そして、なにより特徴的なのは、そのシンメトリーな姿です。
アール・デコの影響を感じさせますが、アール・デコは1920年代に花開いたデザイン様式ですので、畑の仕事はそれより速く、大胆にも「台湾勧業共進会」という大舞台にこの最先端の美を用いたのだとわかります。

また、この「台湾勧業共進会」では、付属会場の図書館に日本内地の美術工芸品が、また北白川宮の馬上像(石膏)が展示されていたようです。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssdj/48/1/48_KJ00001647619/_pdf
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00841549&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

北白川宮の馬上像といえば新海竹太郎によって制作され明治36年(1903年)に北の丸に建立された北白川宮能久親王銅像でしょうか?
この像は木彫原型ですので、そこから石膏にしたものを展示したのかもしれません。

他に台湾に渡った作品はどういったものだったのでしょうね?
畑の作品もあったのかもしれませんね。