前回書きました「①西洋的写実と東洋伝統的な様式美の融合」スタイルを、「近代仏教臭彫刻」とでも呼びましょうか。
高村光雲が脱したかった仏像臭を、別のベクトルで作り上げた仏教風像ですね。
先に上げたガンダーラ美術の近代化のようなスタイル、仏教説話を題材としたもの、仏像の彫り方を含めた近代的な解釈、そういったものが特徴と言えます。
代表的な作家として、
佐々木大樹(1889)、羽下修三(1891)、三木宗策(1891)、
長谷川栄作(1894)、澤田政廣(1894)、三国慶一(1899)
このように1890年代の木彫作家が多いように思います。
そして、こういった作品の背景には、当時の近代化された仏教思想があったと考えられます。
伝統仏教ではなく、仏教思想ですね。
仏教を哲学化しようとした井上円了や、煩悶青年の受け皿となった清沢満之、近角常観...
暁烏敏や八紘一宇の田中智學。
こういった近代仏教思想の特徴が、仏教の普遍化でした。更には仏教思想による宗教や国家の統一さえ考えれらていたと言います。
これを本気で行ったのが、田中智學に影響を受け、満州国を生みだした石原莞爾ですね。
または、以前も紹介した血盟団事件を起こした井上日召もそう。
こういったネットワークの中に、先の彫刻家たちがあったのか、興味が湧くところですね。
彼らは、「仏教の普遍化」によって、仏教的なテーマを西洋由来の「彫刻」でつくり上げ、作家の自己表現として昇華できると考えたのでしょう。
(尚、平安時代の神像が仏像の影響によって生まれたように、昭和初期の神道を題材とした作品もまた、「近代仏教臭彫刻」と影響しあって生れたのではないかと、私は考えています。)
さらに、その仏教の普遍化の背景となるのが、世界的な神智学の広がりです。
神智学によって日本の近代仏教は用意されたと言われますが、神智学自体が日本で認識されるのは戦後になってからの鈴木大拙らの働きでした。
しかし、神智学自体は霊性という目に見えないものを重視し、仏像を重要視しなかったようです。
これもまた、戦後の「近代仏教臭彫刻」の衰退と関係があるのかもしれません。