2022年1月31日月曜日

近代仏教臭彫刻

前回書きました「①西洋的写実と東洋伝統的な様式美の融合」スタイルを、「近代仏教臭彫刻」とでも呼びましょうか。
高村光雲が脱したかった仏像臭を、別のベクトルで作り上げた仏教風像ですね。
先に上げたガンダーラ美術の近代化のようなスタイル、仏教説話を題材としたもの、仏像の彫り方を含めた近代的な解釈、そういったものが特徴と言えます。

代表的な作家として、
佐々木大樹(1889)、羽下修三(1891)、三木宗策(1891)、
長谷川栄作(1894)、澤田政廣(1894)、三国慶一(1899)
このように1890年代の木彫作家が多いように思います。

そして、こういった作品の背景には、当時の近代化された仏教思想があったと考えられます。
伝統仏教ではなく、仏教思想ですね。
仏教を哲学化しようとした井上円了や、煩悶青年の受け皿となった清沢満之、近角常観...
暁烏敏や八紘一宇の田中智學。
こういった近代仏教思想の特徴が、仏教の普遍化でした。更には仏教思想による宗教や国家の統一さえ考えれらていたと言います。
これを本気で行ったのが、田中智學に影響を受け、満州国を生みだした石原莞爾ですね。
または、以前も紹介した血盟団事件を起こした井上日召もそう。

こういったネットワークの中に、先の彫刻家たちがあったのか、興味が湧くところですね。
彼らは、「仏教の普遍化」によって、仏教的なテーマを西洋由来の「彫刻」でつくり上げ、作家の自己表現として昇華できると考えたのでしょう。
(尚、平安時代の神像が仏像の影響によって生まれたように、昭和初期の神道を題材とした作品もまた、「近代仏教臭彫刻」と影響しあって生れたのではないかと、私は考えています。)

さらに、その仏教の普遍化の背景となるのが、世界的な神智学の広がりです。
神智学によって日本の近代仏教は用意されたと言われますが、神智学自体が日本で認識されるのは戦後になってからの鈴木大拙らの働きでした。
しかし、神智学自体は霊性という目に見えないものを重視し、仏像を重要視しなかったようです。
これもまた、戦後の「近代仏教臭彫刻」の衰退と関係があるのかもしれません。

2022年1月24日月曜日

新潟県立近代美術館 講座「羽下修三(大化)とその時代」


新潟県立近代美術館で行われました、講座「羽下修三(大化)とその時代」を受講してきました。
https://kinbi.pref.niigata.lg.jp/tenran/collection-ten/collection-2021-4/

羽下修三は新潟生まれの作家で、官展を中心に活躍しました。私のブログでも数度紹介してます。こちら
また、新潟県立近代美術館のコレクション展では、羽下修三の木彫3点が展示されています。中でも1940年の作、『二千六百年を舞う』が見られるのは嬉しい!

講座「羽下修三(大化)とその時代」では、羽下修三の生涯を追って説明がなされました。
その中で、羽下修三の作品の特徴として、①西洋的写実と東洋伝統的な様式美の融合、②風俗、を示されていました。
②の風俗は、新海竹太郎の「浮世彫刻」からの伝統で、院展にはなく、官展で発展してきた主題です。
①も、東洋をモチーフとした写実的な作品とすれば、その初めはやはり新海竹太郎なのでしょうか?
そして、その東洋をモチーフとした写実に様式美を加えたのは、羽下修三の師匠、関野聖雲なのか?ここはもう少し、調べてみます。
ただ、「①西洋的写実と東洋伝統的な様式美の融合」は、そういった師匠筋の写実を仏像に近づけるといった試み以外に、例えばロダン以降のメストロウィッチのモニュメント志向や、明治後期に流行ったアールヌーボーの発展でもあったのではと思いました。
また、このスタイルは羽下修三のみが行っていたわけではなく、当時の官展系の木彫作家に多く見られます。佐々木大樹や長谷川栄作等の昭和初期に活躍した、中堅どころの作家ですね。

......このスタイルに何かわかりやすい名前を付けられないものでしょうか?
というのも、戦後になるとほとんど試みられなくなっているからです。
戦前の古いスタイルとして、評価もなく忘れられています。
このテーマは結構重要だと思うので、またまとめてみますね。

もしかしたら、このスタイルが廃れた原因の一つに、昭和19年の東京美術学校改組があったのかもしれません。
この時、助教授だった羽下修三も解雇され新潟に戻ってきます。
代わりに院展系の平櫛田中や石井鶴三らが教えることとなり、その結果、先のスタイルは否定されることになったのではないかと想像します。

話は変わり、新潟県立近代美術館のコレクション展では「ドイツ表現主義 ―光と闇の交錯」として、エルンスト・バルラッハらの彫刻や版画が一室に展示されてました。
ここら辺は私の大好物ですので、たしかにドイツ表現主義作品として一級品ではないのかもしれませんが、こうまとめられると楽しいですね~
すっと観ていたかった!



 

2022年1月18日火曜日

都賀田勇馬著 銭屋五兵衛銅像建設秘話




昭和8年11月16日、金沢市金石において都賀田勇馬作「銭屋五兵衛像」の除幕式が行われました。
この冊子は、その当時の状況を戦後になってまとめたもののようです。
この銭屋五兵衛像は、戦前の金属類回収令で供出され、陶製に変えられます。
昭和47年、戦後となって再び銅製に再現されます。発行日等の記述はありませんが、これに合わせてまとめられた冊子と思われます。

この冊子を読んで興味深かった点は、まずこの像の原型に対し、当時からロダンのバルザックとの比較がなされていた事です。銭屋五兵衛像の場合は、ガウンではなく防水合羽を着ているわけですが。

そして、都賀田勇馬は頼まれてこの像を製作したのではなく、自分で銅像建立を企画立案し、事業として資金を集めることまでしていることです。
都賀田勇馬は金沢ゆかりの名士を訪問し、銅像建立の賛同と資金を得るために活動します。
明大の野球部員を金沢に呼び、寄付のための試合を行ってまでしています。(これは失敗に終わったと都賀田勇馬は書いてますが)
クリスト&ジャンヌ=クロードのように、プロジェクトを含めての作家活動なんですよね。
当時も居ただろう芸術至上主義者からしたら、異端だったのではないでしょうか?
さすが、初代ハニベ巌窟院主。

2022年1月12日水曜日

良寛像 補足

前回の記事で良寛像について書きました。
ところで今現在、国内にモニュメントとして建つ良寛像ってどれだけあるのでしょう?

とりあえず、新潟です。
①「良寛さん遊ぼ」中央区西大畑町5191 西大畑公園
https://ryoukan.anjintei.jp/r-1510310-4111.html
②「新潟の良寛」新潟市中央区古町通6-968-1
https://ryoukan.anjintei.jp/r-1510310-0311.html
③「天上大風」新潟市西区五十嵐2の町8050新潟大学教育学部構内
https://ryoukan.anjintei.jp/r-1510710-1011.html
④「良寛坐像」新潟市中央区万代5-6-1 宮浦中学校 校庭
https://ryoukan.anjintei.jp/r-1510310-2011.html
⑤「親交をあたためる 有願さんと良寛さん」新潟県南区新飯田1136近傍 円通庵
https://ryoukan.anjintei.jp/r-1510610-1311.html
⑥「良寛禅師像」新潟県燕市国上1407 (真言宗豊山派)雲高山国上寺境内
https://ryoukan.anjintei.jp/r-1521320-1121.html
⑦「良寛禅師像」〒955-0804 新潟県三条市如法寺404海蔵院境内
⑧「良寛禅師像」新潟県三条市元町1−6三条市立図書館
⑨新潟県燕市国上5866−1 道の駅 国上
https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/nagaoka_kikaku/1356812241195.html
⑩「良寛さん」茂木弘次作 新潟県燕市国上 国上健康の森公園
⑪「良寛さま」
茂木弘次作 新潟県燕市上諏訪9−9 分水良寛史料館
https://tsubame-kankou.jp/seeing/bunsuiryokan/
⑫「良寛さんと毬」
茂木弘次作 新潟県燕市国上1405−15 国上山良寛の里
https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/nagaoka_kikaku/1356812240778.html
滝川美一作 新潟県長岡市島崎4709 隆泉寺
https://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/rekishi/jinjya/ryusenji.html
⑭「良寛と貞心尼の対面坐像」その他、新潟県長岡市島崎3938 良寛の里美術館
https://niigata-kankou.or.jp/spot/5831
「良寬と子供」新潟県長岡市小島谷3545−1 長岡市立和島小学校
https://ryoukan.anjintei.jp/r-1520231-9012.html
⑯新潟県三島郡出雲崎町石井町57 良寛堂
https://niigata-kankou.or.jp/spot/7529
 新潟県三島郡出雲崎町石井町 良寛と夕日の丘公園
https://niigata-kankou.or.jp/spot/7523
⑱「良寛さま」新潟県三島郡出雲崎町住吉町551 浄厳寺・出雲崎保育園前
https://ryoukan.anjintei.jp/r-1540513-3010.html
新潟県三島郡出雲崎町尼瀬132良寬逸話出雲崎油絵館
http://www.sone0727.server-shared.com/

まだまだありそうですが、しんどいので止めます...

この量を見ると、一昔前ならどこにでもあった二宮金次郎像みたいですね。
二宮金次郎は、勤労、勤勉という
近代資本主義イデオロギーの姿を描いたもので、それは、国家による上から与えられたイデオロギーですね。

しかし、良寛イデオロギーは、それに対するアンチであって、反体制なんですよね。面白いです。

良寛像の多い、新潟市、三条、燕は新潟県第2区、それと長岡等の新潟県第5区あたりは、反体制気質が強いのでしょうか?
けど、三条、長岡は田中角栄の選挙区でもあるし、どうなんでしょうね?

2022年1月3日月曜日

平櫛田中作「良寛来」ネガ

 東京芸大所蔵の平櫛田中作「良寛来」の写真ネガです。
http://jmapps.ne.jp/geidai/det.html?data_id=7156
いつ撮られた写真なのかわかりませんが、貸出前の記録でしょうか?


平櫛田中の「良寛来」は昭和5年の第2回聖徳太子奉賛美術展出品作です。
良寛がどこかへ訪れる姿を描いたもののようですね。
平櫛田中はこの作品以外にもいくつか良寛の姿を描いています。
https://twitter.com/denchu_bot/status/893970163057401856

平櫛田中だけでなく、多くの彫刻家が良寛の姿を彫っています。
橋本平八 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/242490
中野五一 https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/210258

戦前の彫刻家の、良寛を描こうとするモチベーションは何だろう?
良寛への想いの在り方が現在とは異なるのではないか、彫刻家にとって特に強い意味があったのではと考えています。

良寛を高く評価し、それを広報した人物として、夏目漱石が上げられると思います。
彼の「則天去私」を体現する姿として、良寛を評価しました。
詩人で「大愚良寛」を著した相馬御風や、書家の会津八一も、良寛を世に広めた人物でしょう。
また、北川フラムの父親の北川省一もまた、良寛研究を行います。
こういった人の手で「良寛」のイメージが作られていったのですね。

先に漱石の「則天去私」を体現する姿としての良寛と書きましたが、まさに良寛のイメージは無垢、無私です。
仏教では、本来無垢である心に塵が溜まり、心を曇らせていると考えます。
その塵を払うのが修行であり、本来の無垢の姿こそが仏です。
私は「彫刻家にとって特に強い意味」とは、ここにあるのではないかと考えます。
木を彫り、像を立てていきながら、本来の姿を探していくこと、そうして生まれた作品とその思想が「無垢」を良しとし、無垢である良寛と結びついたのではないでしょうか。