2020年5月29日金曜日

式場隆三郎の手紙




本日は番外編。
私の小さなコレクションより式場隆三郎の手紙です。
大阪の平瀬俊一宛ての手紙ですが、式場の達筆すぎる字でほとんど読めません!
このようにメダルや絵葉書の他に式場隆三郎に関わるモノを細々とコレクションしています。

式場隆三郎といえば、精神科医で医学博士、詩人で小説家、山下清のプロデューサーにしてゴッホ研究家...
肩書はそれこそ多くありますが、彼を一言で言えば「美の啓蒙家」であったと言えるでしょう。

啓蒙家...今となっては死語となった言葉ですね。教養主義の没落、反知性主義なんて言われる昨今では、式場の啓蒙は暑苦しいだけでしょう。
「美」が多用であり、ゆえに価値があると言うのならば、そもそも啓蒙など必要ないのですし、それを指さし「美」だいう必要はありません。
個々人が「美」だと感じたものをそのまま受け入れれば良いだけで、美術館でわざわざ観賞する類のものではないのでしょう。
それでも強欲な私たちは更なる「美」を目指してアートなんていう醜い怪物を飼いならそうとしています。

その欲の権化こそが式場隆三郎です。

そして現在、広島市現代美術館にて「式場隆三郎:脳室反射鏡」展が行われています。
コロナで開催が延期されていましたが、やっと始まりました。
この時代になぜ式場隆三郎なのか?
それがこの展覧会のキーワードではないかと思っています。
それは何故私が式場隆三郎に惹かれるのかという自問でもあります。
「啓蒙されるべき美」は現代にすでに無く、まさに神の死んだ世界で、式場隆三郎は風車に向かうドン・キホーテに見え、私はそれを無償に(逆説的ですが)美しく思うのです。
そして、この「式場隆三郎:脳室反射鏡」展もまたドン・キホーテなのではないでしょうか?
是非見に行きたいです。

2020年5月28日木曜日

畑正吉 作「徳川義親侯爵」電気鋳造レリーフ


畑正吉による「徳川義親侯爵」のレリーフです。
このレリーフは石膏原型から電気鋳造で制作されたもので、メダルの金型製作に用いられます。
その為、この像が実際のメダルに使用されたかどうかは不明です。
以前に紹介しました「彫刻と工芸の七十年 畑正吉」にも書かれてはいませんでした。
(徳川家正の胸像を制作したことは書かれていましたが)

このメダルに「MARQUIS(侯爵)」とあることから、戦前に制作されたことがわかります。
そして、徳川義親と言えば徳川美術館!
尾張徳川家19代当主の彼は伝来の重宝類を一括寄贈し、それを公開する施設として
1935(昭和10)年に徳川美術館と蓬左文庫を起ち上げます。
もしかしたらこの公開を記念してのメダルだったのかもしれません。


さらに、徳川義親は北海道の木彫り熊のルーツだとされています。
スイスのベルンに寄った徳川義親が同地の熊の木彫りを購入し、北海道二海郡八雲町にある旧尾張藩士たちが入植した農場「徳川農場」に送って、農場で働く農民たちや付近のアイヌに、冬期の収入源として熊の木彫りを生産するよう勧めたことがルーツとされています。
彼は農民美術運動にも関わっていたのですね。

戦後の徳川義親は『侯爵としての社会的権威と尾張徳川家の巨額の資産を失った後の義親の活動は精彩を欠き、華族制度の廃止によって「革新華族」としての思想と行動はその歴史的使命を終えた』と評されるほどになります。
ですが、彼の功績は徳川美術館や蓬左文庫等と「美」と「歴史」を後世に残したことに尽きるのではないかと思います。

もしこのメダルが世に出ていないものであるなら、是非徳川美術館でメダル化して頂きたいものです!!

2020年5月21日木曜日

日名子実三 作「上野先生像」





日名子実三による「上野先生像」です。
上野先生??誰でしょう?
日名子に関わりある人物だとしたら、地元大分の偉人でしょうか?
または東京で日名子が先生と呼ぶような人物でしょうか?
例えば昭和19年に東京美術学校長になった美術史家「上野直昭」はどうでしょう?
でもちょっと顔が違うよう...

2020年5月14日木曜日

地方の彫刻界

昭和初期、東京中心であった「彫刻」が、人材の流動や書籍や流通発展に伴い地方に広がっていきます。
ここに紹介した絵葉書はそういった地方の展覧会に出品された作品です。



山口県室積町の新田商店発行で発行された「鯉洋画壇展覧会絵葉書」は、山口県の早長八幡宮で神官を勤めていた大楽桃白により開催された展覧会のようです。
作者の重光明楽についてはよくわかりませんが、門井耕雲は高名な仏師です。

門井耕雲は、1927(昭和2)年に名古屋コーチンの販売業「さんわ」の創始者である伊藤和四五郎より当時世界最大級の木造観音、「東山観音」像制作を委託されます。
日暹寺(現日泰寺)東側にアトリエを建て、五年の歳月の後一木造りの木造を完成。
木彫でありながら、高さが三丈三尺(約10メートル)あったとされます。
https://www.sanwa-grp.co.jp/other/archivement

この像は、中支那派遣軍司令官を退役した松井石根により、所謂「南京大虐」後の同地の毘盧寺に「日華親善」の為に送られ、祀られます。
http://www.nittyu-aichi.jp/news/110416-214514.html
さらに戦後、文革により「東山観音」は焼失したと言うことです。

絵葉書の「S嬢の像」は仏師門井耕雲の珍しいモデルを用いた具象像と言えるでしょう。
展覧会の時代は不明ですが、仏師として身を成す前の比較的若い時代の作品かもしれません。

次は「郷土芸術野菊社」の「第三回展覧会絵はがき」です。
展覧会の開催場所、「杉山周山」「阪部節山」ともに詳細不明です。
「阪部節山」の「小児頭像」も「或女の顔」は大理石でしょうか?
こちらも仏師の実験作のように見えますね。
どうなんでしょうか?

それにしても「鯉」だの「野菊」だのと地方色を出そうとして、卑屈になっていないでしょうか??