2020年12月31日木曜日

昭和2年 6月 東京美術学校 校友会月報

 昭和2年6月に発行された東京美術学校校友会月報、第26巻第1号です。


挿絵に森大造、星三郎の卒業制作が載っています。
森大造はわかりますが、星三郎という作家については不勉強で分かりません。
堀江尚志の少女座像(大正13年)によく似た姿で、もしかしたら影響受けているのでしょうか?

こういった冊子を読んでいて面白いのは、当時を生きた人々の姿が生き生きと見えてくる事ですね。
こういうのは作品を見ていても分かりません。

例えば、この年の特待生が記載されています。
塑像部:奥田勝、中島浩、梁川剛一
木彫部:松厚正明、中野四郎

梁川剛一、中野四郎など後に名を成す彫刻家がいますね。
逆にあまり知られていない名もあるのが面白いです。

また、卒業式のスケジュールなど
『3月24日第36回卒業證書授興式を本工大講堂に於いて挙行す。
 例年の如く午前10時新卒業生式場に入り着席、
 鈴川教務主任より式に関する注意あり、
 次で職員、卒業生、来賓の着席せらるるや、正木校長の式辞に始まり、
 各科総代に卒業證書を授興。校長の告別辞、文部大臣訓辞代読、
 卒業生総代(建築科大澤健吉)答辞にて式終わる。
 職員及び新卒業生は本館玄関前にて記念の撮影をなす。』
卒業式って今とほとんど変わってないのね!

そして本年の入学についてですが、入学希望者が851人あり、入学試験の結果180人が選別入学を許可されたとあります。
彫刻選科塑像部は13名、文錫五という後に北朝鮮に渡った作家の名前があります。
彫刻家木彫部は6名、彫刻選科木彫部は4名です。

西洋画科特別学生に、朴魯弘、朴根鎬、李馬銅、李景湊、
何徳來、韓三鉉、吉鎭燮、金慶璡
朝鮮の作家が多いですが、
何徳來は台湾の人のようです。

卒業生動静には木内五郎が陸軍歩兵少尉に任命されたとあります。
https://www.wul.waseda.ac.jp/Libraries/fumi/13/13-02.html

そして、その中でも面白いのこの年の入学試験の内容が書かれている事です。
彫刻科塑像部は、
①塑像 石膏マスク模作
②写生 石膏胸像(木炭画又は鉛筆画)
彫刻科木彫部は、
①木彫又は塑像 木彫は平肉手板模作(桐)
 塑像は厚肉手板(鷲の首)模作
②写生 
石膏胸像(木炭画又は鉛筆画)

また、筆記の試験も。
建築科の試験での英語の例
2.次の文を英訳すべし
1.ロダン(Rodin)はモデルにある姿勢を強るやうなことは決してしなかつたと云うことです。

建築科の試験での数学(平仮名は全部カタカナ表記)
1.甲端より乙端に向へる汽車が3哩を走りし中機関に故障を生じ10分間停車した。
それより早さの1/3を減少したるため定刻より1時間延着したり。
もし故障が出発後2時間にして起こりしならば(停車時間等前と同様)前の場合よりも22’5分丈早く到着したるべし´甲乙両端間の距離を求む。

等々...

他には修学旅行記や弓道、乗馬、山岳スキー部の日誌。
青春ですね。

最後に教授で美術史家大村西崖の銅像建設資金募集趣意が記されています。
この年の3月に亡くなった大村西崖の銅像製作費を募集し、1周忌に構内に建設する予定のようです。
発起人には教授である朝倉文夫、北村西望、建畠大夢、そして海野清や関野聖雲の名前があります。
で、誰が大村西崖の像を制作したかと言えば...結局朝倉文夫なんですよね~~

2020年12月29日火曜日

明治四十四年 貿易製産品共進会 メダル


1911(明治44)年3月16日より60日間、神戸湊川において行われた貿易製産品共進会のメダルです。

この貿易製産品共進会では、画家北野恒富のアルフォンス・ミュシャふうポスターが使用され、洒落た洋風イメージが用いられたようです。
このメダルも同様で、神戸港をバックに女神が立つ姿が描かれています。
右手に持つのはオリーブの木でしょうか?
左手にはケーリュケイオン。
そしてメダルの外側には虹の様な不思議な模様が描かれています。
この模様は北野恒富のポスターにも用いられていることから、イメージの共有があったことが伺われます。

画家一條成美によるミュシャの影響を受けた表紙の『明星』が発売されたのは1900(明治33)年。
これ以降、多くの雑誌等のビジュアルデザインにミュシャやアールヌーボーの影響が伺えるようになります。

このメダルもまたミュシャやアールヌーボーの影響を受けていのでしょうが、アールヌーボーらしい装飾性はあまり感じないですね。
装飾は虹の様な模様ぐらいです。
どちらかと言えば、ミュシャの様なキャラクター性の強さを感じさせます。
ミュシャの日本の受容史として、後の少女漫画への影響が語られますが、このメダルの女神像もキャラクターとして描かれているのだと思います。
そのキャラクターの属性を示すためのオリーブの木とケーリュケイオンなのでしょう。

端に「R.N」とサインがあります。
ですが、これに該当する作家が思いつきません。
誰なのでしょうね?

2020年12月21日月曜日

彫刻と天皇制

天皇制とアートについて考える機会があったので、少しここに書いてみようと思います。

戦前の美術史を語る場合、その対象は絵画を中心としたものになります。
例えば所謂ファシズム美術では、戦争画が中心にあり、プロレタリア美術もまた、マヴォのような複合美術も一部にはあるせよ同様です。
「彫刻」をして美術史の中心に語られる事はありません。
そのため、戦前の「天皇制」と美術という題で話がされる場合も、その対象は絵画になります。
ですが、「彫刻」は絵画とは異なる歴史を背負っている…というよりも、作家数も少なく、関わる人間の数も限定される「彫刻」の方がより純化した日本の美術史の姿を見せているのではないか、私はそう考えています。

私は、萩原守衛を代表とする日本近代彫刻史の強い恣意性に疑問を感じています。
「天皇制」を軸に「彫刻」を語ることは、『純化した日本の美術史の姿』を示す材料になるはずです。

では、歴史のおさらいです。
明治維新によって西欧諸国と対等となるための、日本は憲法と資本主義を導入します。
伊藤博文らは憲法と資本主義の根にキリスト教があると学びます。
近代化には前近代的なキリスト教をベースとした思想社会が必要です。日本はキリスト教に代わり、前近代的な「天皇」への信仰をベースとした思想社会によって近代化を行います。

『「天皇」への信仰をベースとした思想社会』がどんなものであったのか、それをわかりやすく示すエピソードが高村光雲の「矮鶏」と「楠木正成像」にあります。
「矮鶏」は光雲が37歳のころの作。この作品が明治天皇(聖上)の目に留まり、宮内省お買い上げとなります。光雲のこの作は伝統的な木彫と西洋的な観察を組み合わせた当世のコンテンポラリーアートでした。
洋装に切り替えた明治天皇は、コンテンポラリーアートをも購入するのです。
次に「楠木正成像」ですが、こちらも天皇へ献納されており、展覧の様子を高村光太郎が記しています。光雲の名誉への興奮が伝わる文書で、高太郎もまたその心を継ぎ、後の戦争詩が生まれます。

明治以前に『「天皇」への信仰をベースとした思想社会』がどれだけ広まっていたのか、朱子学の影響が武士階級以外にどれほど影響を与えていたのか、議論あるところと思いますが、光雲の時代においては、『「天皇」への信仰をベースとした思想社会』がある程度には広まっていたとわかります。
『「天皇」への信仰をベースとした思想社会』によって生まれたのは法だけではありません。このように当時の人々の言葉や生活様式を変革し、人の心まで変えました。
なにより光雲は彫刻家です。彼の意識、美意識をも生み出したと言え、その美意識は息子の光太郎も継いでいます。
そう、私たちの美意識は、『「天皇」への信仰をベース』としています。もちろん、光雲が仏像彫刻を学んだように江戸時代から地続きの美意識ももちろんあるでしょう。しかし、これを抑えておく必要があります。

次にその美意識に絡めとられた時代についてです。
『「天皇」への信仰をベースとした思想社会』を生んだ伊藤博文らにとって、この信仰はネタ、つまり虚構だという意識はあったでしょう。それが昭和初期の天皇機関説事件のころにはベタに信仰する人々が影響力を持つようになります。
「八紘一宇」または天皇を中心とした世界統一を本気で考える人があり、それを支える人がいました。その中で彫刻はファシズム美術、戦争彫刻へと進んでいきます。

戦争画は戦時のプロパガンダとして用いられ、国内に運ばれ多くの動員を呼ぶ展覧会が開かれます。持ち運びが容易ではない彫刻は写真パネルの展示がなされるくらいしかありません。そこで彫刻家が行ったのは、一つは現地へ行って彫刻を作ることでした。
造営彫塑人会や軍需生産美術推進隊などの作家の合同制作によるモニュメントが造られます。この一つの作品を合同で作るという個人主義的を超克しようとする思想は、プロレタリア美術へと受け継がれ、戦後へ影響を与えます。

もう一つ、彫刻家が行った仕事は、市井の中で彫刻を生かす事でした。
関東大震災後の廃墟が立ち並ぶ中でバラック装飾社の若者たちはバラックにペイントし、アートの社会化を目指します。
それに参加した日名子実三らは彫刻団体「構造社」を立ち上げ「彫刻の実際化」を標榜し、メダルや雑貨等へ彫刻技術を用いり、作品として仕上げようと試みます。
そこでは、大量生産の肯定があり、後のポップアートにみられるモチーフの反復などが見られます。

これら彫刻家の仕事は、当時の空気の中で行われた戦争プロパガンダです。
しかし、現在につながる豊かな美の歴史でもあります。
戦争画が、その一時期の歴史の迷いのように語られることがありますが、彫刻を含め全体を見れば、やはり私たちの歴史とのつながりを理解することができます。
ただ漫画やアニメ、デザインなどに比べればこの地続きの美術の歴史の検証はなされていないのではと思います。

欧米のコンテンポラリーアートが結局キリスト教から抜け出せない、または抜け出す必要を感じていないローカルなものであるように、日本の美術もまた天皇制から抜け出せない、または抜け出す必要を感じていないローカルなものです。
しかも、私たちの美意識が天皇制によって生まれたのにも関わらず、まるでそこから自立できたかのように振舞っている現代の日本の美術。その結果が今なのだと思います。
もしかしたら、光雲の作品が宮内省に買われたように、日本の
コンテンポラリーアートが買われる状況が生まれてやっと、私たちの歴史が地続きになり、そこからの自立の道もできるのかもしれません。

というわけで、陛下には村上隆の彫刻を買ってもらいたいのです。

2020年12月16日水曜日

林教授在職二十五年記念祝賀会 絵葉書







東京帝国大学医学部薬物学教室の教授であった林春雄の銅像や肖像画を写した絵葉書です。

彼の在職二十五周年を記念し制作された肖像郡で、作家は建畠大夢、藤島武二と和田三造。
この顔ぶれから、東京美術学校への依頼だったと思います。
現在、この銅像は東京大学に保存されているようです。
サイトでは、作者不詳となっていましたが、建畠大夢の作だったんですね。

面白いのは、絵葉書に祝賀会の予定表とこの作品依頼の収支が付随していることです。

収入:10076円
支出:10076円

内訳
 目録    :3000円
 油絵肖像  :3000円
 銅像    :2000円
 記念品   :500円
 絵端(葉)書:250円
 印刷費   :250円
 郵便    :250円
 広告費   :400円
 宴会補助費 :300円
 雑費    :176円

(肖像画が2種あるのですが、この内訳はどうなっているのでしょう?)

建畠大夢の銅像製作費は2000円。
当時の大卒初任給が75円程、平均年収が700円程でしたので、かなり高額な物であったことがわかります。
鋳造費を引いて、いくら作家に入ったのでしょう。
半分くらいかな?
絵葉書三枚もフルカラーなこともあって結構な金額。
さすが帝国大学医学部!!