2020年2月17日月曜日

小倉右一郎と瀧野川彫塑研究所

彫刻家小倉右一郎の昭和14年、寒中見舞いの絵葉書です。
東京市外瀧野川区上中里、現在の東京都北区にあった瀧野川彫塑研究所の写真が使われていおり、当時の若い彫刻家達の制作する姿を垣間見る事ができます。

小倉右一郎と第二回瀧野川彫塑試作展覧会出品「大楠公」

この瀧野川彫塑研究所の写真に写る作家は誰でしょうか?
小倉右一郎の弟子と言えば、以前昭和7年の残暑見舞い絵葉書の時に紹介しました。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2013/04/blog-post_14.html
この中の誰かかな?

同じ瀧野川区の田端には、文士や芸術家の住んだ所謂「田端文士村」がありました。
そこでは、東京美術学校へ通う下宿生が住み、また菊池寛、芥川龍之介や室生犀星ら文学を志す作家たちが暮らしました。
(室生犀星は、彫刻家吉田三郎にこの地を紹介されます。)

彫刻家では、先の吉田三郎の他、石井鶴三、吉田白嶺、北村四海、斎藤素巌、國方林三、池田勇八、建畠覚造も住んでいました。
北村西望、赤堀信平も瀧野川区
また各務クリスタルの創業地も瀧野川ですね。

こういった狭い地域の物語で日本美術史といった大きな「歴史」が語られることに違和感を感じつつ、けれど、そこに住み生きた人たちによってなされるのが「歴史」ってものなんだろうなとも思います。(うまく書けなくてすみません...)
あと、彫刻家同士って仲が悪そうだけど、結構ご近所同士だったんですね。

2020年2月9日日曜日

濱田三郎作 昭和9年「水上競技日本選手権大会」メダル



「水上競技日本選手権大会」は、大正14年から現代まで続く水上競技大会で、昭和9(1934)年の第10回大会にはアメリカの選手も参加しました。

メダルには『二等 片山兼吉 800米リレー』と刻まれています。
彼が800メートルリレーで出場し、入賞した時に手渡されたのがこのメダルのようですね。
彼は1932年のロス五輪の代表入りしています。残念ながら出場はできませんでしたが、戦前の「水泳ニッポン」において活躍した選手だったと思われます。

同じく刻まれた『9:25.0』はタイムですね。
この大会の1位は9分15秒でした。
そして、前述のロス五輪では8分58秒4で日本チームが金メダルを取ります。
現在の800メートルリレーの日本記録は、2009年に行われた第13回世界水泳選手権での7分02秒26だそうです。
ロス五輪から2分近くも短縮しているのですね。

さて、このメダル原型は構造社の作家の中でも構成主義的な作品を制作した濱田三郎です。
メダルの中心辺りに直線を水面に見立てて配置し、飛び込む姿を直角を用いて表し、幾何学的な構成を行っています。

濱田三郎メダル(コレクションより)
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2013/03/blog-post_6.html

このような前衛表現の初期の作家に村山知義がいます。彼が『コンストルクチオン』を発表したのが大正14(1925)年。
http://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=4912
高村豊周の『挿花のための構成』が翌年の1926年。
そうやって見れば、この濱田三郎のメダルは10年遅れの表現だと言えます。
そのうえ、構成を主としたために、彫刻としてのボリュームに欠けてもいます。
ですが、当時に於いてこのような前衛表現をメダルに用いた作家はいたでしょうか?

私は海外のメダル史に詳しいわけではありませんが、欧米のメダルはその歴史があるからこそ、前衛表現が現れ辛かったのではないかと考えています。
イヴァン・メシュトロヴィッチ以降のメダル表現で、構成主義や幾何学的抽象をメダルに込めた海外の作家はどれほどあったのか。
(フランスはなお更、ドイツのバウハウスはメダルを古い表現媒体として見ている様だし、その次はナチ的な表現の古典回帰。どうもソ連のメダルにありそうだけど...)
もしかしたら、当時に於いて日本のメダル表現は最先端では無かったのか...そんなことを考えています。

もし、当時の海外のメダルの表現で私の考えを覆すような作品があれば、是非教えて下さい!!

2020年2月2日日曜日

小山秀民 刻 東洋大学学友会「学祖井上円了博士」メダル





現東洋大学を設立した「井上円了」は、哲学者であり、明治期の仏教復興の運動化であり、かつ妖怪の研究者として知られます。
現在は、妖怪博士として語られる機会が多いですね。
このメダルは、東洋大学の学友会が昭和8年度の卒業生に贈ったものの様です。

そして、原型を制作したのは「小山秀民」。
彼はARTとしての彫刻家ではなく、市井の彫刻師です。
小山秀民は、日本帝国徽章商会創業時に鈴木梅吉の依頼を受け、民間で始めて原型を用いたメダルを作成した職人で、メダル原型彫刻民業の祖と言われています。

以前、「小山秀民」からの彫刻師の系譜を紹介しました。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2018/08/blog-post.html

日本帝国徽章商会と鈴木梅吉
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2019/07/blog-post_6.html

銘の横に「昭和癸酉年春」とあり、癸酉が昭和8年にあたることから、この肖像はこの年に製作されたものだと言えるでしょう。
山田盛三郎(著)「徽章と徽章業の歴史」には『明治10年数え年11才で彫金家池戸秀民に弟子入りした。』とのことから明治元年生まれと考えられ、昭和8(1933)年では65歳頃。
つまりこのメダルは小山秀民の晩年の作品だと言えます。

そこで気になるのは、このメダルに「小山秀民」の名が彫ってあることです。
私が知っている範囲では、この市井の彫刻師の名が彫ってあるメダルはこれのみです。
晩年の彼は、自分の作品を銘と共に残したかったのかもしれません。

小山秀民がメダル原型彫刻民業の祖であれば、井上円了は東洋大学の祖であり、近代仏教の祖です。
妖怪博士としての彼より、私はこちらがより現代に影響を与えているのではないかと思っています。影響というより、その流れの源流に立っていた人であったと言ったほうが良いかもしれませんが。

廃仏毀釈でダメージを受けた仏教を、仏教の外、在家の立場から、西洋の言葉を持ってハイブリットとして蘇らせることが井上円了の目指したものでした。
葬式仏教でない、社会に役立つ仏教...その流れは後に仏教の戦争協力、八紘一宇へと繋がります。
そしてハイブリットの信仰は、幾つもの宗教をまぜこぜにしたような新興宗教を生み出し、あのオウム真理教をも生んだ土壌になっているのではないか...
最近、そんなことを考えます。

妖怪ブームと言われて久しい昨今、井上円了について考えることは、私たちの現在の信仰、もっと簡単に言えば私達が何を信じているのか...を考えることと同義ではないでしょうか?