このブログの対象は、戦前のメダルにおける彫刻家の仕事です。
けれど、当時のメダル作製の多くは民間の徽章業者によってなされていました。
そこでは、彫刻家の変わりに図案屋と彫刻師によって原型が作製されました。
美術界とは異なる彫刻の世界があったわけですね。
民間徽章業者の始めは、明治18年に設立された鈴木梅吉の日本帝国徽章商会と言われています。
千代田区には、「徽章業発祥の地」として彼の記念碑が建っています。
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/752/Default.aspx
その頃の彫刻師は、江戸時代からの彫金師の流れを汲んでいました。
山田盛三郎(著)「徽章と徽章業の歴史」では、日本帝国徽章商会の彫刻師「小山秀民」よりの系譜が書かれています。
彼らは、彫刻家と交わりがないわけではなく、構造社に出品している者もいました。
しかし、多くは職人として「芸術」とは距離を置きつつ、彫刻家たちと競い合い制作していたようです。
彼らにとって、彫刻家とはどういう存在だったのでしょうね?
官展に入選するような作家は、ある程度敬意を表されていたでしょうし、きっと「先生」なんて呼ばれていたでしょう。
彼ら彫刻師は、そんな「先生」を立てつつ、裏では「あんな奴らは、先生、先生とおだてられちゃいるが、まったくメダルのことはわかっちゃいねぇ」なんて言ってたのかもしれません。
彫刻家の作った原型に駄目だしをして、勝手に手直しすることもあったのかも。
前述しました「徽章と徽章業の歴史」では、戦前からの徽章の歴史を詳しく述べており、彫刻師についても同様なのですが、業界とちょっと離れたところにあったろう彫刻家たちについてはあまり触れていません。
畑正吉が紹介されますが、実際どうやって彫刻家と関わっていたのかは、書かれていません。
まだまだメダルの歴史は霧の中ですね。
下の画像は、昭和に入り徽章業者の増える中で、差別化を図ろうと行われたカタログ販売の冊子です。
それぞれのカタログの図柄を見ると、業者間に差別化できるものがあったようには思えません。
際立った個性は無いといいますか、徽章に突飛な図柄を必要としなかったのでしょう。
どちらかと言えば、安定した納品とか、製品の精度とかを問題にしていたように思います。
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