2013年5月26日日曜日

陽咸二 作「降誕の釈迦」絵葉書


今までにも何度か紹介しました、陽咸二の作の絵葉書です。

以前の紹介一覧

「降誕の釈迦」は、1929(昭和4)年に行われた構造社展に出品された作品です。
この釈迦像は、彼の作品の代表作として考えられており、数年前に見つかって、現在宇都宮美術館に収蔵されています。
釈迦と言えば、この像に見られるように、「天上天下唯我独尊」と、この世で唯一の解脱者として、ある意味で自身の孤独を宣言し、親も捨て、子も捨て出家されます。
そんな釈迦が、キリストの母子像のように、母である摩耶に抱かれた姿というのは面白いですね。
インドやそれに影響を受けた日蓮宗系では、摩耶信仰があるそうですが、これらは遠く西洋文化の影響を受けているのではないでしょうか。
古代キリスト教もまた、インドの文化に影響を受けていることを考えると、より面白いですね。

まぁ、そういったことを陽咸二が考えていたかどうかはわかりませんが、ただ、彼の代表作である「サロメ」から見て取れるように、西洋の文化に深く傾倒していたことは確かなようです。
この母子像もまた、アールヌーボーの影響を指摘されています。


 それと、僕の所蔵の陽咸二のメダルを一つ紹介。
 常盤生命保険会社に使われた「馬上勇士メダル」で、3×2.5cm。
これも原型は宇都宮美術館蔵。
西洋ファンタジーを感じさせるデザインですね。

日本の近代彫刻は、「像ヲ作ル術」から始まり、朝倉文夫や荻原守衛などの影響を受けつつ、またロダンやブールデルなど、その時々の西洋彫刻に強く感化されつつ進歩していきました。
そして、 この陽咸二の時代になると、そういったものを取捨選択し、(程度もあれ)独自の彫刻を生み出せるようになったと言えるでしょう。
 陽咸二はそういった変換点の作家だと言えます。
しかし、その後の戦争の時代によって、より戻しというか、もう一度「日本の彫刻」とは何かを問われることになるのですねどね。
そういった時代に早世の陽咸二が無かったことは残念です。

2013年5月18日土曜日

女性の彫刻家

戦前日本の彫刻界と言えば、東京中心であり、そして男性中心の世界でした。
西欧においては、女性彫刻家は少なからずおり、あのロダンの弟子、カミーユ・クローデルが有名です。
カミーユ・クローデルと言えば、Zガンダムのカミーユ・ビダンのモデルであり、名前とその性格を模されています。 彼女は、師であるロダンとの関係で苦しみ「大きな星が点いたり消えたりしている。ははは」という状態となります。

映画 「カミーユ・クローデル」はそんな彼女の美しく、そして悲しい物語を描き出した傑作です。

ちなみに、彼女を精神的に経済的に援助していた弟のポール・クローデルは、1921(大正10)年から1927(昭和2)年、フランス駐日大使として、日本に来ています。
その縁で、彼女の作品が戦前の日本に渡ったかどうかは、未確認。

では、戦前の日本に目を向けてみると、先に書いたように、男性中心の世界ではありましたが、女性の彫刻家が皆無だったわけではありません。
ただし、大正デモクラシーなどの中で活躍した女性たち、文筆家や活動家と比べれば、少ないと感じます。

例えば、彫刻家木内克の妻となった旧姓作田照子は、朝倉文夫の下で彫刻を学び、第十二回文展に「不具者」を出品しています。


また、上記の絵葉書の作品は、十三回帝展出品作の「座セル少女」で、久原涛子の作。
久原涛子は、1929(昭和4)年に23才で北村西望に師事。
その後、官展に出品を続け、戦後は北村西望の「長崎平和祈念像」に助手の一人として参加するほどとなります。
彼女の裸婦像は、やはり男性のそれとはちょっと異なりますね。視線が違う。 ポーズも自然で、どこか生々しい感じを受けますね。それだけに、裸であることに違和感さえ感じます。

彼女ら女性の彫刻家たちは、日本近代彫刻史の中であまり表に出てきません。
彫刻にたいする評価や論説の数そのものが、絵画以下であり、なおかつ、彼女らを評価できるフェミニズム的言説においても当時の女性たちから、そして現在もなされていないからだろうと思います。
現在のルイーズ・ブルジョワやキキ・スミスのように、こういった日本近代彫刻創成期の女性彫刻家にもスポットがあたるようになると良いですね。 

2013年5月12日日曜日

宮島久七 作「妓」 陶のレリーフ


宮島久七による陶で作られたレリーフです。
宮島久七は、彫刻家として出発し、戦後あたりからはデザインの仕事を主にしたようです。
このレリーフは、いつ頃の作なのかはっきりわかりませんが、額の様子からは戦後のものに思います。
玄関に置いて飾っている作品で、気に入っている一点です。

戦前の彼は、若手の彫刻家としては活躍の場が多く、オリンピツク芸術競技への出品や朝鮮昭和五年国勢調査記念章、高校野球の記念メダルなど、朝倉文夫や日名子実三、畑正吉らと肩を並べて仕事をしています。
その当時から、「デザイン」としての彫刻に焦点を当てた仕事をしており、そこが他の彫刻家と異なった所なのでしょう。

下の図は、1939(昭和14)年に行われた第一回聖戦美術展の出品作です。
レリーフの形状が凸凹反転しており、不思議な視覚効果によるデザイン性が見られます。
プロパガンダの要素が強いこういった展覧会でも、このような面白い仕事が評価されてたのですね。


戦後となり、「生活デザイン」を標榜し、その仕事に特化した彼の姿は、彫刻の社会化を目指しながら、立ち位置が不安定なままだった構造社などの作家に比べ、先見の明があったと言えるのかもしれません。

2013年5月11日土曜日

Intermission 猿まわしの木彫

  
戦前の作品ではありませんが、今回は自分のコレクションを少し紹介します。

これは、私の机の手元に置いてある猿回しの木彫です。肩に猿、左手に太鼓を持っています。
猿回しは、江戸時代に多く見られましたが、戦後昭和30年頃にはするものがいなくなります。
その後、昭和50年頃に再復興され、現在に至ります。

猿回しは、もともと神事であり、厄を去るといった意味を持つそうで、私もあやかって側に置いているわけです。
愛らしく、なかなか良く出来た作品だと思っています。
銘は紅雲?よく読めません。
農民美術としてはよくできすぎているし、仏師の作でもないような気がします。
もしかしたら井波彫刻家である山口紅雲氏の作かもしれません。