2014年11月29日土曜日

高村光太郎 作「高村光雲先生」像 絵葉書


どうもこの高村光太郎というめんどくさい人物は、写真によって自作が介されることを好んでなかったような気がします。
昭和9年に発行された「総合美術研究」という本では、光太郎が自作を説明紹介しているのですが、「S君の胸像」に「細かい技巧については、やはり寫眞では説明のしやうがありません」と言い「黄瀛先生の首」では「面の関係などは寫眞では説明しかねますから述べません」と言わなくてもいいことを言う。
まぁ、それが光太郎という人物なのだろうけれど。

昭和20年の空襲によるアトリエの火災で、多くの作品を焼失した光太郎でしたが、いくつかの作品は写真に撮って残していたようです。
だけど、展覧会などの出品拒否していた彼の作品が絵葉書として世に出ることは少なかったでしょう。

この絵葉書にある「高村光雲先生」像は、昭和10年、高村光太郎が53歳の時、父光雲の一周忌記念として制作された作品です。
現在、東京芸大にその銅像が建てられ残っていますね。
この絵葉書がどうして発行されたのかわかりませんが。その記念の一部だったのでしょうか?

この作品について、光太郎自身がこう語っています。
「父の胸像はその後一二度小さなのを作った事があり、死後更に決定版的に一つ作った。
これは昭和十年の一周忌に作り上げた。
今上野の美術学校の前庭に立って いる。
この肖像には私の中にあるゴチック的精神と従ってゴチック的表現とがともかくも存在すると思っている。
肩や胸部を大きく作らなかったのは鋳造費用の都合からの事であり、彫刻上の意味からではない。
亡父の事を人はよく容貌魁偉というが、どちらかというと派手で、大きくて、厚肉で、俗な分子が相当あり、なかなか扱いにくい首である。
私は父の中にある一ばん精神的なものを表現する事につとめたつもりである。」

ゴシック的な派手で俗な見かけの中にある高村光雲の精神性を表したというのだ。
それはわかるのだけど、だいたい息子が父親の像を造るっていうのに一抹の気持ち悪さを感じます。
父親と息子の関係というのは、ある程度の距離があるものだと思うのだけど、光太郎は嫌だ嫌だと言いつつ父親から離れられない。
たしか、フランス留学時代に不安定な心の拠として父の像を造ったりしていたはずだ。
おかしいよね、ソレ。

2014年11月24日月曜日

陽咸二 作 紀元二千六百年奉祝美術展覧会出品 メダルの絵葉書


陽咸二によるメダルの原型です。
絵葉書の裏側には、紀元二千六百年奉祝美術展覧会とあります。

「紀元二千六百年奉祝美術展覧会」は、1940(昭和15)年に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った展覧会であり、官展として行われました。

ただ、陽咸二は、昭和10年に亡くなっているので、この展覧会には自身で出品しているわけではないでしょう。
この展覧会の委員を勤めた齋藤素巌の推薦なのかもしれません。

戦前、陽咸二の亡くなった後に出品された展覧会は、1937(昭和14)年に行われた「明治・大正・昭和三聖代名作美術展」と構造社美術展くらいだと思っていたので、この絵葉書は発見でした。

また、このメダル原型は、バーレット連盟推薦賞メダルとして使用されているようです。
図柄は、何か神話がモチーフになっているようなのですが、なんだろう?

2014年11月23日日曜日

構造社 絵葉書

今日は、地元の骨董市に行ってきまして、かなりの出物に出会う。
下の絵葉書はその一部で、 構造社の絵葉書が第2回展覧会から第14回までを含め60枚ほど手に入りました。
このブログで、少しづつ紹介していく予定です。  



まずは、第4回構造社美術展覧会出品、中牟田三治郎作「きつね」。
以前、 中牟田三治郎の略歴については紹介しましたね。
略歴を読まれた方はお気づきでしょうが、1930(昭和5)年に行われたこの展覧会時には中牟田三治は亡くなっています。
第4回構造社美術展覧会は、中牟田三治郎の遺作展でもあり、彼の作品43点が特別展示されます。
この「きつね」も前年の第3回展で秩父宮家に買上げとなりましたが、借りられたのか、特別に再展示となったようです。
そのため、この絵葉書でも作家名に「故」と記入されています。
現在、この作品は宮内庁の収蔵となっています。



この作品も第4回構造社美術展覧会出品、河村目呂二作「接吻」。
河村目呂二は地元岐阜出身の彫刻家...というより彫刻も行う趣味人で、猫を愛し、この作品も猫を抱く女性像です。
この作家については、かなり面白い人物でもあり、こうやってまとめて紹介するのはもったいないので、どこかで詳しく紹介したいと思います。


そして、以前から何度も紹介しています陽咸二の作品です。
第2回構造社美術展覧会出品、「コンポジション」。
この作品は「立てひざの女」と呼ばれ、現在そのブロンズが東御市梅野記念絵画館にあるようです。
この展示時は石膏のようなので、後にブロンズにしたのでしょう。

その他、中村清人や石躍祐寿治、丁字夢人、後藤泰彦などなど。

2014年11月9日日曜日

作者不明のメダル


このメダルの裏面には「1929(年) 東京写真専門学校 春季競技会」とあります。
東京写真専門学校とは、現東京工芸大学です。
この「東京写真専門学校」の名称は1926年(大正15年 昭和元年)~1944年(昭和19年)まで用いられたとのことですので、メダルの使用時期と合致します。

この「東京写真専門学校」は小西写真専門学校として設立したそうです。
「小西」とは、当時の小西六写真工業、現コニカミノルタを指し、6代目社長杉浦六右衛門によって創設されたことを意味します。
東京工芸大学は、写真という当時の最新メディアを学ぶ学校としてスタートしたんですね。

以前、同じく小西六(現コニカ)のメダルとして、荻島安二による作品を紹介しました。
今回紹介したメダルには「RYOTAROW」と銘がありますが、この作者が誰なのかわかっていません。
荻島安二ばりのモダンな女性像なのですが、いったい誰の作でしょう?
彫刻家というより画家的な感性を感じますが...
わかり次第、また紹介したいと思います。