2018年9月30日日曜日

戦前のモニュメント考察 ―忠霊塔はなぜ立方体なのか?ー




前回の「歩兵第三連隊戦跡記念碑」を設計した須藤徳久は、どうやら東京美術学校彫刻科卒の人物のようです。帝展に入選までしているのですが、その後はどうなったのでしょう?もしかしたら兵隊として出兵されたのでしょうか?気になります。

このように、当時の忠霊塔を含むモニュメントは、彫刻家の仕事でもあったのですね。
「構造社」の作家や、戦時下の多くの作家たちは、モニュメントにたいし(実現できたかどうかは別として)強く関心を示しました。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2012/11/blog-post_5.html

ここで気になるのは、なぜ当時の忠霊塔が記念碑と同じ形をしているのか?です。
双方共に高く細く聳え立つ立方体であるのはなぜでしょう?

記念碑がそういった形なのはわかります。
当時の海外のモニュメントがそういった形であったため、モニュメントという概念を輸入した当時に於いて、その形も取り入れられたのだと思います。

しかし、忠霊塔は、そういった記念碑とは用途が異なります。
下の図に示すように、納骨室があるなど死者にたいする信仰と結びついた構造物です。
日本の信仰を表す構造物が、なぜ西洋のモニュメントの形態であるのでしょうか?



忠霊塔は、もともとあった忠魂碑の延長上にあると考えられています。
つまり、それ以前からあった石碑の一つなんですね。
石碑を建てる文化は、日本古来の信仰の形としてある巨石信仰の名残だと思われます。
現在でも、奈良の三輪山では、巨石を奉った場所があるそうです。

このような忠魂碑では、形状に於いて記念碑と変わりがありませんでした。
次にこの忠魂碑は、立方体の石の柱に文字を刻んだ慰霊標(記念標)に移り変わります。
慰霊標は、霊標や卒塔婆をより大きくしたものと言えばよいのでしょうか。石碑にあった自然の形状ではなく、より抽象化し、イメージのみで取捨されたモノでした。

ここで、抽象化された形態を持つ西洋のモニュメントと日本の信仰(慰霊標)が重なります。
石碑では、記念碑と忠魂碑が同じものでったため、記念碑(モニュメント)と慰霊標もまた同じものと考えられたと思われます。
さらに、慰霊標は忠霊塔となって、よりモニュメントに近づいたということだと思います。


忠魂碑は古代神道の影響を受け、慰霊標は霊標や卒塔婆など仏教の影響があるようです。
忠霊塔は日名子の「八紘之基柱」が国家神道の影響下で出来たように、神道の影響が強く見られます。
「八紘之基柱」の「柱」とは神道の神を数え方であり、古来から「柱」は依代として用いられてきました。
忠霊塔は、日本の信仰心を表す形状でありながらも西洋のモニュメントと重なるというハイブリットになり、それを当時の日本人は特に違和感なく、忠霊塔=モニュメントを受け入れたわけです。

ここで、不思議に思うことがあります。
忠霊塔は国家によって全国の市町村に建立を求められたわけですが、それはミニ靖国神社として、靖国神社を頂点とするヒエラルキーに収めるためのシンボルとして設置ました。
しかし、その靖国神社のシンボル、参拝対象は「柱」ではありません。
大村益次郎の像はありますが、信仰対象ではありません。参拝者は社殿で参拝するだけです。
仏教に於いても、仏舎利のような塔はありますが、日本では特に信仰対象ではありません。
つまり、神道でも仏教でも塔に対する信仰が強くあるわけではないのですよね。

神道、仏教共に、垂直への信仰上の志向は、あまりないように感じます。神道で天孫降臨や仏教での西方浄土より迎えに来る阿弥陀の信仰等ありますが、実際に空を見上げて祈ることは行いません。

忠霊塔は、そういった体系化された信仰ではなく、墓や位牌などといった市井の信仰の形に沿ったものなのだと思います。
そういった市井の信仰ゆえに、西洋のモニュメントと結びつくことができたのかもしれません。

こう考えた時、忠霊塔は、西洋のモニュメントという「美術」が日本に本地垂迹したモノと言えます。
私たちの信仰という「心」に西洋の美術が馴染んでいったと言うのでしょうか。
忠霊塔は、戦争と言う国家主導によって生まれたモノですが、それでも、日本に於ける「美術」の一つだったのだと思います。

2018年9月24日月曜日

「功烈不朽」歩兵第三連隊戦跡記念碑 須藤徳久設計




須藤徳久設計による歩兵第三連隊戦跡記念碑です。
紀元2591年とありますので、1931(昭和6)年に配布されたものだとわかります。
1931年は満州事変が起こった年ですね。

この年、第三連隊がどういう動きをし、どうして記念碑の作製に至ったのか、よく分かりませんでした。
そして、この記念碑が忠霊塔を模しているわけもです。
この忠霊塔は実際に建てられたのでしょうか?
また、なにより不明なのは、この忠霊塔の設計者である「須藤徳久」という人物です。
この人は、いったいどういった人物なのでしょう?
ネットでは、いくら検索しても見つける事ができませんでした。
市井の建築士なのでしょぅか?
しかし、そういう人物が第三連隊戦跡の設計をするのも疑問です。

このような忠霊塔は、全国津々浦々建てられ、現存するものもあります。
だからこそなのでしょうか。未だに全貌が把握できていないように思えます。
丹下健三のような有名どころではない、当時の無名な建築士の仕事も、当時の状況を知る上で大切なデータではないかと思います。

2018年9月2日日曜日

猫を飼いました。

我家に猫が来ました。名前は風(ふう)です。
ウチのこの子がカワイイ、カワイイと書きたいところですが、このブログはメダルについて語ってるのでメダルと絡めて書いて見たい。
けれど、メダルのモチーフに猫が使われているものはまったく見たことないので語れない!(ライオンならありますが。)
戦争彫刻については尚更で、靖国神社に鳩や馬の像はあっても、猫はありません。

猫は犬と同様に深く人の生活に関わる生き物ですが、メダルや戦争など人の社会的な面にはあまり馴染まない生き物なのでしょうね。
または、人の方が馴染んで欲しくないと考えているのでしょうか?
不思議です。

とは言え、彫刻家が猫を造らなかったわけではありません。
朝倉文夫や木内克、河村目呂二等は大の猫好きです。
下の絵葉書は、朝倉文夫作、第五回文部省美術展覧会出品「餌食む猫」
河村目呂二作、第四回構造社美術展覧会出品「接吻」です。


朝倉文夫は、猫の肉感を、河村目呂二は人との関係性を主題としているようです。
猫を飼って思うのですが、猫の馬や犬の構造的な角のある立体感とは異なる、流動的な肉感は魅了されます。
そして、その柔らかさは、目呂二が女性を通して表しているような穏やかで癒しを感じさせる関係性を生み出すようです。

猫は、星新一の小説にあるように、我家で王様かお妃の様に振舞い、尚且つ実的な利益をまったく与えない生き物でありながらも、その「関係性」をもって人に必要とされているのですね。
不思議な生き物です。