2013年12月22日日曜日

ザッキンの絵葉書



ザッキンの「第八回」「第九回」「第十五回」二科会に出品された絵画の絵葉書です。
オシップ・アレクセーエヴィチ・ザッキン(Ossip Zadkine)は、藤田嗣治やモディリアーニらモンパルナスの芸術家たちと交流し、藤田を通して戦前より二科会に出品した彫刻家です。

そんなザッキンの絵画が上の絵葉書なわけですが、この絵画を見てわかるように、キュビスムを用いた彫刻を研究しました。

戦前より、このような最新の彫刻を当時の日本に紹介してきたのがザッキンですが、不思議なことに、彼のフォロワーと言うか、彼と思想を同じくする日本の彫刻家が出てこなかったようなのです。
当時の日本の美術評論家からも高い評価を受けていたザッキンなのに、それは何故でしょう?
勿論、戦後において抽象彫刻は、抽象でなければ彫刻ではないというかのように広く日本に定着したわけですが、戦前においては、プロレタリア美術の一部や、構造社や他の団体の作家の一部に隠れるようにして有るだけで、ザッキンの身近であった二科においてさえ、それが目立って為されることが無かったのです。

それとも、ただたんに二科内の政治の問題なのでしょうか?
何かわかりましたら、またここに書きます。

2013年12月15日日曜日

Intermission 「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」

碧南市藤井達吉現代美術館へ「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」を観に行ってきました。
高村光太郎の作品は、いままでにも幾つか観ているのですが、今回初めて観賞する作品もあって、楽しめました。
しかし、僕は高村光太郎の近代彫刻家としての力量は、彼の友人である荻原守衛や中原悌二郎に劣ると考えており、実際彼らの作品と比べると...
そういったわけで、今回の展示で何よりも見たかったのは妻である智恵子の作品でした。
素晴らしかった。
繊細で、モダンで、知的で、儚げで...
それは、彼女の物語を知っているからなのかもしれません。
作品が持つ本来の力ではないのかもしれません。
しかし、それでも、作品を目の前にした感動は僕にとってリアルなものだと言えます。

それと、美術館近くで食した碧南やきそばの店がなかなかにディープで、しかも旨く良かった!!

2013年12月1日日曜日

Intermission Dagobert Peche氏作置物 絵葉書

先日、地元岐阜県の多治見市にありますギャルリももぐさで行われていた、minä perhonenの企画展を見てきました。
かわいいテキスタイルで有名なminä perhonenですが、今日はそんなテキスタイルの話しです。

上記の絵はがきにあります維納市とはオーストリアのウィーンのことですね。
デゴバルト・ペッシュとはDagobert Peche(ダゴベルト・ペッシュ)だと思われます。
ダゴベルト・ペッシュは、ウィーン工房に参加していたディレクターで、数々のデザインやテキスタイルを生み出したデザイナーです。
つる草や葡萄などをあしらった曲線的なデザインを特徴としました。

この絵葉書はそんなデゴバルト・ペッシュの置物らしいですが、どんな構造なのかよくわからないですね。立体なのかレリーフなのか、絵なのか芸術写真なのか?
この当時における前衛的なデザインが、どのように受け入れられたのか、デゴバルト・ペッシュを当時の日本人はどう評価したのか、興味がわきます。

2013年11月24日日曜日

大阪府立中之島図書館 大正11年増築記念のメダル


大阪府立中之島図書館は、1904年(明治37年)に「大阪図書館」として開館しました。
現在、その建築物が重要文化財に指定されています。

一時期、大阪市の橋下徹市長によって、大阪府立中之島図書館を廃止するといった話が出たそうですが、昨今、全面改修を行いリニューアルが決まったそうですね。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASHC2002E_Q3A121C1AC8000/
その結果、このメダルにも刻まれており、現在は閉鎖している正面玄関からの入館が可能になるそうです。

このメダルは、その大阪府立図書館が、大正11年に両翼が増築され、それを記念して作られたもののようです。
二人の女性が一冊の本を読む姿が刻まれています。
この姿、どこかルノアールの影響を感じられます。それでも顔の造形などは岸田劉生の挿絵のようでもあり日本的ですね。
原型は、サインがあるのですがよく読めず、「○や作」となっています。
東京美術学校の第一期生で、大阪彫刻界の重鎮となった黒岩淡哉かもしれません。

2013年11月10日日曜日

Intermission 「依代プロジェクト」参加中

京都、下鴨神社での 「依代プロジェクト」に参加中です。

下鴨神社の「糺の森」に作品が展示されています。




2013年10月27日日曜日

大島と彫刻家

このところの台風により、伊豆大島は大変なことになっているようです。

大島は、戦前から一大観光地として人気を博し、多くの芸術家が渡って作品を残しています。
Wikiには「和田三造や坂本繁二郎、中川一政、村山槐多らの著名人や芸術家が来島し、島を題材にした作品も残された。また、1928年(昭和3年)に東京との間に日航便が就航し、同年には野口雨情作詞・中山晋平作曲の波浮の港の歌が流行したこともあって観光客が増加した。」とあります。

彼ら芸術家にとって大島は、ゴーギャンにとってのタヒチのように考えていたようです。
人間の根源がそこにあると、当時の芸術家たちは考えたのでしょう。

そんな作家の一人が彫刻家木村五郎(明治32~昭和12)です。
木村五郎は、農民美術運動にも関わる作家で、大島に「あんこ人形」というお土産用の彫刻作品を生み、地元の人たちに制作方法を教え、そして育てました。

下の写真は、そんな木村五郎の大島の風俗を題材にした作品「水汲みの島娘 伊豆大島風俗その三」です。
以前も紹介しましたね。


伊豆大島には、その木村五郎を紹介する記念館もあります。
木村五郎の研究をなされ、私もここから千田敬一著「これは彫刻になっております」―木村五郎の彫刻とその生涯―」を購入させて頂きました。

現在の館の状況かわからず、心配です。

2013年10月20日日曜日

2013年9月29日日曜日

神像の絵葉書 その2

以前、『「天の浮橋御像」大日本神像奉彫會謹作 この「大日本神像奉彫會」が何なのかまったく謎。』と紹介した絵葉書です。

 この作品が何なのか、ようやくわかりました。

平瀬礼太著「彫刻と戦争の近代」によると、1943年6月4日の朝日新聞に、この作品と「大日本神像奉彫會」についての記事が掲載されました。
なんと、会の発起人は佐藤朝山(清蔵)。
仏画や仏像は多数あれど神像は少ないのを遺憾として、門下の越智綱雄、三木貞雄、田坂源治等々と若手彫刻家7名が血盟の上、荒木貞夫(陸軍軍人)、今泉定助(神道思想家)、安達謙蔵(政治家)、大島健一(陸軍軍人、政治家)らを顧問とし、考古学的意見を柴田常恵(考古学者)、神原信一郎に求め、この「大日本神像奉彫會」が誕生します。
そして、写真の 「天の浮橋御像」は、高さ6尺(1.8m)、これを全国に配布する予定だと言います。

実際はどうだったのだろう?
この作品が、現在国内に何点あるのだろうか?

2013年9月28日土曜日

Intermission 「依代プロジェクト」参加のお知らせ

10月から年末までの期間、京都の有名な神社内でアート作品の展示が行われます。
その「依代プロジェクト」に私も参加いたします。

10月14日より、下鴨神社にて 作品を展示いたします。
初の野外展示になります。是非お越しください!





2013年9月1日日曜日

佐藤朝山?? のメダル


以前、「模造メダルたち」 と題して、今で言う「パクリ」のメダルについて書いたことがありましたが、この翼を生やした武神のメダルも、同じく模造メダルだと言えるでしょう。
では、いったい何を模したのか。

このメダルは、昭和11年に大阪桃山中学校のサッカーの試合を記念して制作された様です。
その1年前、1935(昭和10)年には、時の文部大臣であった松田源治による、挙国一致体制強化のための制度の見直し(通称「松田改組」)が行われ、美術界が大荒れとなった年でした。
そんな年の官展(新文展)に出品されたのが下の作品です。

 この木彫の作家は、佐藤朝山(玄々)。
佐藤朝山は、、1888年、福島県生まれの彫刻家で、山崎朝雲に師事しますが、その激しい性格のために袂を分かち、フランスに渡り、木彫家でありながらも彫塑家であるアントワーヌ・ブールデルに師事します。
帰国後は日本美術院で作品を発表し、彫刻家橋本平八の師匠としても知られています。

上記の作品は、日名子もよく扱う「八咫烏」を題とした木彫で、ブールデルの影響を受け、時代的でモニュメントの性格を強く感じさせます。
当時の木彫家がこういったモダンなモニュメントを制作することが特異であり、また、この作品には、木彫において否定的に扱われていた艶やかな彩色までされていたと言います。
そのため、 「この色彩は一寸彫刻として附加物の感じがして。、もっと純粋に彫刻を感じたい気がしないこともない」と論評されます。
後に佐藤朝山は、日本橋三越にある「天女像」で、その彩色の技を爆発させたような作品を作りますが、その原点と言えるでしょう。
佐藤朝山は木彫という日本の伝統の技法を用いながらも、革新的な独自の芸術を模索した作家だと言えます。

この「八咫烏」は、残念ながら空襲により焼失してしまい、現在ではモノクロの写真が残るのみとなっています。
そのため、いったいどんな彩色だったのかわかりません。

先の大阪桃山中学校のメダルもその角度から見るに、写真などからの模倣ではないかと思います。もし、現物を見て模したのならば、どこかにその彩色も含めた資料が残っているのかもしれませんね。

2013年8月25日日曜日

Intermission 「風立ちぬ」 飛行機絵葉書


宮崎駿監督の最新作「風立ちぬ」では、ゼロ戦を生み出した堀越二郎をモデルにしてますが、その堀越による試作機、九試単座戦闘機を飛ばしたのが各務ヶ原飛行場です。
この九試単戦が243ノットをはじき出したことに、士官たちは「各務ヶ原は空気の密度が小さいのだろう」と疑ったという逸話があるのだそうだ。

そんな各務ヶ原飛行場での練習飛行を撮ったのが、この絵葉書「各務ヶ原航空第一大隊 高等飛行(横辷り)」です。
機体ははっきりわかりませんが、日本初の国産量産機陸軍制式機「乙式一型偵察機」サムルソン2A-2型機ではないかと思われます。
川崎造船飛行機部において300機ほど生産されたという名機ですね。

「風立ちぬ」でのワンシーンのような飛びっぷりですね。

2013年8月16日金曜日

日名子実三 作 「ラジオ体操指導者講習会之章」メダル

直径2.3cm。
原型作成者は、日名子実三です。

ラジオ体操は昭和3年より開始されます。
この頃のものだと思われますが、いつまで使用していたかは不明です。
元々は、アメリカで行われていたラジオ体操から着想を得て、天皇の御大典記念事業の一環として放送を開始したのだそうだ。
ラジオ体操は「健全なる精神は健全なる身体に宿る」の表れの一つでしょうね。

僕の子供の頃は、毎日ラジオ体操があったのだけど、今はそうでもないらしい。
「健全なる精神は健全なる身体に宿る」とまでは思いませんが、でも毎日無いっていうことに残念な気持ちもありますね。
頑張ってハンコ貰ったものなんだけどな。

ただ、この日名子の作品はあまりにも健全な姿すぎて、逆に不自然な感じを受けます。
正しいことを正しそうに言う国家や企業や人の言葉は心地よいけど危険です。
そういう作品を裏表無く制作できたのが日名子の強みだったのかもしれません。

2013年8月14日水曜日

日名子実三 作 「支那事変従軍記章」

敗戦の日が近くなりましたので、今日はこんな話題で。

これは、日本んで一番多く制作された日名子実三原型のメダルだと思います。
この「支那事変従軍記章」は、名前の通り「支那事変(日中戦争)」に関わった軍人及び民間人に、これを顕彰するために制作されたものです。
挙国一致の当時において、戦争に関わらない人などいなかったわけで、その為に数多く制作され、希少価値はまったくないこのメダル。


中央には八咫烏が配されています。
日名子は、現在も使用されているサッカーのJFAのシンボルマークである八咫烏をデザインをした人物でもあり、この八咫烏のモチーフは神武天皇と共に多く使用しています。
 
日名子実三 作 「創立四十周年記念軍人傷痍会」メダル



日名子実三 作 「第13回水上競技会 東京市連合青年団 」メダル

しかし、「支那事変従軍記章」のメダルの八咫烏は、その特徴である三本足ではない。なぜか。
日名子の原型では三本足だったのですが、どうやら軍の関係者からのクレームで二本足に変えられたのだそうです。

不具だと思われたのでしょうか?

ドイツで行われた「退廃芸術展」 はエルンスト・バルラハなどの近代美術を『ロンブローゾのいう「生来的犯罪人」同様、原始からの隔世遺伝的な退廃に冒され、身体的・精神的な異常を抱えていると断言』し、それらをまとめ破棄します。
この考えは日本にも渡り、例えば山下清における式場隆三郎の態度の変化などに見られるような影響を受けることとなります。
日本は「健全なる精神は健全なる身体に宿る」と、そんな「正しい」姿を国是とするようになるわけです。

その結果、日本の本来持つ歴史、三本足を持つ八咫烏の姿が不具だと変えられます。
それは歴史の湾曲、 歴史を重視したはずの当時において本末転倒が起きたわけです。
そして、そのおかしな(2本しかないという意味で不具の)シンボルをメダルにし、そして
「支那事変(日中戦争)」に関わった多くに人に手渡されたのです。

 支那との戦争を「事変」と呼んだように、当時の人たちもそれを「おかしいな」「変だな」と感じることはあったようですが、それを誰も止めることができない、それが「戦争」という日常であり、それを表現するものが、この小さなメダルなのだと思っています。

2013年8月4日日曜日

探してます。

彫刻家 日名子実三が、アトリエ社から「アトリエ叢書 彫刻の第一歩」という本を出したらしい。
そのことを、他のアトリエ社の本に記載されていたのだけど、国会図書館のサイトでも、日本の古本屋サイトでも見つけられない。
情報求む!


2013年7月28日日曜日

堀江尚志 作 「をんな」 絵葉書

1921(大正10)年に行われた第三回帝国美術展出品 堀江尚志の「をんな」です。

堀江尚志は1897年(明治30)年、盛岡市生れ、東京美術学校在学中に帝展にて2年連続特選を受賞します。
上記の作「をんな」も、その特選作の一つです。
卒業後、朝倉文夫の東台彫塑会に入り、後に一緒に塊人社を結成する安藤照らと知り合います。
1925(大正14)年に行われた第六回帝展には、「少女座像」を出品。帝展推薦となりますが、その翌年から結核を煩い、1935(昭和10)年に亡くなります。

昭和10年は多くの彫刻家が亡くなった年であり、この堀江尚志もその一人です。
安藤照の時に書いたように、この作家は舟越保武などの多くの次世代の彫刻家に影響を与えています。
堀江尚志は、日本近代裸婦彫刻の一つの頂点を作り出した作家と言えるのではないでしょうか。

その作風は、京都の弥勒菩薩半跏思惟像のように静寂を尊び、埃及彫刻のようなスケールとシンメトリーの美を持っています。
絵葉書の「をんな」は、シンメトリーでありながらも不自然な格好をさせており、少女座像」への過渡期の作のように思えます。

その少女座像」を堀江尚志は気に入らなかったようで、壊すつもりだったそうです。
そんな彼の作は、生涯の短さもあって残っているものが少ない。
ですので、こういった絵葉書などの写真は、彼の貴重な資料になるだろうと思います。

2013年7月14日日曜日

Intermission 式場隆三郎のサイン

式場隆三郎とは、精神科医で著作家の文化人、民芸運動やゴッホの紹介など広く文化に関わり、特に山下清を世に出したとして有名です。
ですが、今日においての彼の評価は低い。
たしかに、山下清を見出したのは彼ではなかったろうし、どの分野でも傑出した研究や思想があったわけでもなく、また戦後の如何わしいカストリ雑誌等への掲載などあり、どこか山師的なイメージで語られやすい。
山師と言えば、土用の丑の日のプロデュースと言われる平賀源内や、アントニオ猪木対モハメド・アリをコーディネートした康芳夫、AKBの秋元康などがそう言われますが、式場隆三郎もそういった面があったと言えるのでしょう。
式場隆三郎著「ヴァン・ゴッホの耳切事件 」(1957年発行) 
サイン本。1958年なので60才の頃か。

しかし、そんな式場隆三郎だからこそ、語れるものがあるのではないでしょうか。
例えば、ゴッホや山下清をある意味で見世物として世に出した式場ではありますが、そういった美術という「見世物」を肯定したという点で、当時のそして現代の芸術家とそれに関わる人たちが持つ「高尚な美術観」に 一石を投じることができる人物と言えるのかもしれません。
戦後の「高尚な」アメリカ美術一辺倒となった美術界から無視された式場隆三郎ですが、美術ってそうなの?本当はそういうものじゃないの?という疑問を提示できる存在なのではないでしょうか。


また、彼が山下清絡みで批判を受ける事に、耳を落としたゴッホと同様に奇人として山下清を評しながら、戦中にはその自身の意見を黙殺したというのがあります。
戦時下では、国家に役立つものが評価され、ドイツの退廃美術のように、役に立たない美術への批判が高まります。
式場隆三郎は大正期特有のデカダンな美術観を封じ、時流に合せ保身に走ったというのがそれです。
しかし、当時の彼の言動を詳しく見ると、戦時下の式場は障害者にとっての美術の医療的な面を強調しだしたことがわかります。つまり「役に立つ」美術を。

これを保身に走ったと言えば、そうけかもしれません。
しかし、その2つの面は、現代の所謂アール・ブリュットの、そして美術そのものが持つものだとも言えるのではないでしょうか。
つまり、「高尚」でありながら、「見世物」であり、「奇人として」評価されながら、「医療として」評価される美術の ありようであり、それを体現する者が式場隆三郎だったと言えます。

2013年7月5日金曜日

Intermission 岡本太郎のサイン


 1964年に西武百貨店で行われた岡本太郎展のカタログです。
購入者の記入があり、展覧会最終日に、このカタログを購入したようです。

 

その裏表紙にサインが!

このカタログは、最近行った古書市の百円均一の中から見つけ出したものです。
岡本太郎のサインとしてはラフに書かれており、本物かどうかわかりませんが、もし本物だとしたら嬉しいな。
こういうのが出てくるから古書市巡りがやめられません!!

岡本太郎は、滞仏中に民俗学を学び、帰国後、東北や沖縄、縄文土器などを彼にとっての民俗学的視点から語り評価しています。
日本の民俗学と言えば柳田國男が有名ですが、彼と岡本太郎との違いは、柳田國男が神の目線、つまり第三者の視点で日本を語っているのに対し、岡本太郎は、その当事者として、または当事者を模して語っていたことではないでしょうか。
それは柳田國男は研究者であったのに対し、岡本太郎は芸術家であり、その思想や言葉そのものが彼の芸術であり、彼の血や肉だと考えられるからです。彼が語る東北や沖縄、縄文の姿は、彼の芸術の一部だからです。
しかし、柳田國男が、その研究対象に自己を同化させなかった、またはすることができなかったことからわかるように、その民族(コミュニティ)からすれば、当事者であればあるほど自身を神の視点から語ることなどできません。民俗学とは、戦中のドイツや日本がそうであったように、当事者の語りでは歪みを生む危険があります。
では、岡本太郎は神の視点を持った当事者であったのか?そういう矛盾は可能だったのでしょうか?
私は、先に書いたように岡本太郎は当事者を模していただけで、どこまでも異邦人だったのではないかと考えます。
フランスから帰り、軍隊に入ってまでも、彼はどこかこの「日本」に馴染めなかったのではないかと思います。
ゆえに異邦人である岡本太郎の語り口は、丸山真男が日本を語るときのような切羽詰った感がない。
理想論であり、だからこそわかり易く、メッセージが届き易いのではないでしょうか。
彼の言う対極主義というのは、日本人であり、日本を語りながらもながら「日本」人でない自身の芸術観を語ったものではないかと思います。
それは蝙蝠のようであり、半妖怪のネズミ男みたいなもので、悪く言えば中途半端...それが岡本太郎芸術ではないかと思っています。

2013年6月29日土曜日

Intermission 未来派美術協会習作展覧会 絵葉書


未来派美術協会習作展覧会出品 鈴木年作 「室内」の絵葉書です。

未来派美術協会とは→

Wikiには、リーダー格であった普門暁にたいして、こう書かれてますね。
「普門の作品は、未来派系統の、動きや光を視覚的に表現したような絵画作品を主たるものとしており、未来派系統の彫刻の制作も行った。ただ、特に初期の段階では、見様見真似のようなもので、未来派の理論についての十分な理解があったかについては大きな疑問がある。」

さて、この絵葉書を見てみると、イタリア未来派というより、キュビズムやコラージュに見えますね。

2013年6月22日土曜日

泉二勝磨 作「「東郷大将バルチック艦隊を睨む」 絵葉書


「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」
 この東郷大将とは、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎のことであり、当時において、日本のヒーローの一人でした。

作者である泉二勝磨は、面白い経歴の持ち主です。
明治38年に生まれ、昭和4年に東京美術学校を卒業し、フランスに留学、ジャン・デュナンに師事し、中世絵画、彫刻を研究します。
その師ジャン・デュナンは、工芸家であり漆作家と知られています。フランス汽船「ノルマンディー」の装飾には泉二勝磨と共に従事しました。

泉二勝磨は、ドイツによるフランス侵攻から逃れるため帰国、後に二科展に出品します。
当時の二科会は在野の団体であるがゆえか、官展よりもナショナリズム寄りの傾向があり、この作品もそういったものだったのでしょう。
二科展にて「国土を譲る」等の彫刻を出品した渡辺義知らは、戦後となり、そのために二科会を去ることとなります。
1942(昭和17)年には、そういったナショナリズム的傾向を強く押し出した彫刻家団体「造営彫塑人会」に参加。高村光太郎、清水多嘉示、中村直人らによって結成された団体でした。

その前年、1941(昭和16)年に行われた第二十八回二科美術展覧会に(未完)として出品されたこの作品ですが、人物よりも、その手にした刀の造形の美しさに作家の個性を感じますね。

彼は戦争末期の昭和19年に40歳で亡くなります。日名子や陽咸二、橋本平八等々、戦争末期に若くして亡くなった彫刻家は本当に多いです。

2013年6月10日月曜日

Intermission  戦時下の痕跡本 太田三郎著 「スケッチの描き方」


太田三郎は、 愛知県生まれの画家で、洋画は黒田清輝、日本画は寺崎広業に師事。挿絵をよくし、矢田挿雲著「太閤記」や 正木不如丘集「ゆがめた顔」などがある。スケッチや挿絵に関した著書も多数執筆。
この「スケッチの描き方」もそういった技法書のひとつで、昭和2年に崇文堂より発行されています。
僕の手にしてる本は、その14版で、 昭和17年に発行。
このロングセラーのわけは、下の画像にあるように、軍事に用いられたからかもしれません。



この「陸軍予科士官学校」の文字は、裏表紙と、見返しに書かれたものです。
見返しには他に軍の許可證が張られています。
この本が陸軍予科士官学校にいた58期の生徒のものだったということなのでしょう。


中には、こんな等身を描いた落書きも。

陸軍予科士官学校とは、市ヶ谷台にあった士官候補者となる生徒が学ぶ日本軍の教育機関でした。
この本も、彼らの余暇のためというわけでなく、軍利用、偵察や観察目的に用いられたのでしょう。
従軍画家として多くの美術家が動員された先の戦争でしたが、こういった技術もまた軍によって用いられたということなのでしょう。

58期は戦争末期にあたります。この持ち主はどうなったのでしょうか。
この陸軍予科士官学校の映像がありますのでここに...

2013年6月9日日曜日

平和記念東京博覧会 絵葉書


「平和記念東京博覧会」は、第一次世界大戦終戦を記念し、1922(大正11)年、東京府主催で行われた博覧会です。
4ヶ月間の開催期間の中、1100万人の動員があったそうです。
この博覧会には、 日本の高い技術を展示する「蚕糸館」や「電気館」、そして朝鮮や台湾の文化を展示した各館が、当時の新進建築家によって建てられました。
会場の装飾を手がけたのが彫刻家の新海竹太郎らで、上の絵葉書にあるような噴水も、彼らによって制作されます。
この噴水の頂上にある子供の像「童子群像」は国方林三、ペリカン(?)の像「水禽」は堀進二の作です。

こういった博覧会は、彫刻家の名の上げどころであり、屋外だけでなく、屋内の展示場にも、数多くの彫刻作品が展示されます。
 

  
手元に当時のカタログがあるので作家を抜粋してみます。
石井確治「舞」「蓮歩」、小倉右一郎「実り」「平和來」、清水三重三「唄」、長田満也「芽生」、中村清人「池水」、清水彦太郎「浴後」、中村翫古「踊」、高村光雲「蘇東坡」、内藤伸「和琴」「六道将軍」、朝倉文夫「狛犬」「本山氏の像」、後藤清一「摩登伽」、赤堀新平「秘曲」、 堀江尚志「夫人の坐像」、齋藤素巌「早春」「疲れた人」、安藤照「習作」、陽咸二「無」、吉田三郎「牧夫」「l心」、中野桂樹「海のささやき」、木村五郎「旋れる桃太郎」、松田尚之「習作」、日名子実三「工房の女」、佐々木大樹「猫」「話」、荻島安二「M子」「鏡」etc... 

カタログ掲載された作品数でも76点。
官展系、日本美術院系、朝倉派、その後の構造社の作家等々と、多くの作家の思惑を超えて集められたことがわかります。
無いのは地方の作家くらいでしょうか。

カタログにカラーで掲載されたのは、すべて着色の木彫。
白いだけの塑像に花がなかったからかもしれませんが、これら木彫を見ると日本の伝統を感じさせる小品であり、国内というより外国向けの意識があったのかもしれません。

それと、数をそろえるためか、習作レベルの作品が目立ちます。
同年には第4回帝展もあったわけで、時間が限られていた作家もあったのでしょう。

それでもとにかく当時の国内最大級の彫刻の展示だったわけです。

齋藤素巌はこういった取組みにたいし、新聞紙上で『まだ工房から解放されていない彫刻家たちに対して、博覧会が新しい練習の場を提供している』と述べている。ただし『断片的な塑像を陳列しているに過ぎない事は、まだまだという物足りない感じを起こさせる』と苦言も忘れない。

 この博覧会が終えた翌年、1923(大正12)年の9月1日に関東大震災が起きます。
この震災は、この博覧会に参加した多くの彫刻家にとっても、日本の美術界にとっても転機となりました。

2013年6月2日日曜日

日名子実三作 水泳関連メダル

もうすぐプール開きってことで、日名子実三の水泳関連のメダルを紹介。

戦前、水泳は、日本のお家芸と言われていました。
世界新記録をいくつも出し、1932年のロサンゼルス五輪、1936年のベルリン五輪と日本人選手は多くのメダルを獲得します。
国内でもその人気は高く、例えば現在の千駄ヶ谷コートには、かつて明治神宮水泳場があり、ここで明治神宮国民体育大会や、国際的な水泳大会が開かれています。


左のメダルは1932(昭和7)年に開催された 「日本選手権水上競技大会」の参加メダルです。
雄々しい日本人の選手が描かれれおり、明治以降の課題であった彫刻家が「日本人男性」を美しく描くこと、それが可能となったことを示しています。
この大会の会場は、明治神宮水泳場で、 「日本選手権水上競技大会」は東京オリンピックまで、この会場を使用していたそうです。

右は、1931(昭和6)年の「第一回日米対抗水上競技大会」。
日本人と米国の選手が交互に描かれているのですが、同じ背の高さで合わせてあるところに日本人の自負心が感じられますね。裏には飛魚が描かれてます。戦後、古橋廣之進選手が「フジヤマのトビウオ」と呼ばれたことを思い出します。


そして、1929(昭和4)年の「第三回早慶対抗水上競技大会」
日名子実三は、この早慶戦のメダルや、日本選手権水上競技大会のメダルを幾つか作成しています。
それだけでなく、他の多くのスポーツ、ラグビーやゴルフ、バスケット等々、それらはまた追追紹介します。

2013年5月26日日曜日

陽咸二 作「降誕の釈迦」絵葉書


今までにも何度か紹介しました、陽咸二の作の絵葉書です。

以前の紹介一覧

「降誕の釈迦」は、1929(昭和4)年に行われた構造社展に出品された作品です。
この釈迦像は、彼の作品の代表作として考えられており、数年前に見つかって、現在宇都宮美術館に収蔵されています。
釈迦と言えば、この像に見られるように、「天上天下唯我独尊」と、この世で唯一の解脱者として、ある意味で自身の孤独を宣言し、親も捨て、子も捨て出家されます。
そんな釈迦が、キリストの母子像のように、母である摩耶に抱かれた姿というのは面白いですね。
インドやそれに影響を受けた日蓮宗系では、摩耶信仰があるそうですが、これらは遠く西洋文化の影響を受けているのではないでしょうか。
古代キリスト教もまた、インドの文化に影響を受けていることを考えると、より面白いですね。

まぁ、そういったことを陽咸二が考えていたかどうかはわかりませんが、ただ、彼の代表作である「サロメ」から見て取れるように、西洋の文化に深く傾倒していたことは確かなようです。
この母子像もまた、アールヌーボーの影響を指摘されています。


 それと、僕の所蔵の陽咸二のメダルを一つ紹介。
 常盤生命保険会社に使われた「馬上勇士メダル」で、3×2.5cm。
これも原型は宇都宮美術館蔵。
西洋ファンタジーを感じさせるデザインですね。

日本の近代彫刻は、「像ヲ作ル術」から始まり、朝倉文夫や荻原守衛などの影響を受けつつ、またロダンやブールデルなど、その時々の西洋彫刻に強く感化されつつ進歩していきました。
そして、 この陽咸二の時代になると、そういったものを取捨選択し、(程度もあれ)独自の彫刻を生み出せるようになったと言えるでしょう。
 陽咸二はそういった変換点の作家だと言えます。
しかし、その後の戦争の時代によって、より戻しというか、もう一度「日本の彫刻」とは何かを問われることになるのですねどね。
そういった時代に早世の陽咸二が無かったことは残念です。

2013年5月18日土曜日

女性の彫刻家

戦前日本の彫刻界と言えば、東京中心であり、そして男性中心の世界でした。
西欧においては、女性彫刻家は少なからずおり、あのロダンの弟子、カミーユ・クローデルが有名です。
カミーユ・クローデルと言えば、Zガンダムのカミーユ・ビダンのモデルであり、名前とその性格を模されています。 彼女は、師であるロダンとの関係で苦しみ「大きな星が点いたり消えたりしている。ははは」という状態となります。

映画 「カミーユ・クローデル」はそんな彼女の美しく、そして悲しい物語を描き出した傑作です。

ちなみに、彼女を精神的に経済的に援助していた弟のポール・クローデルは、1921(大正10)年から1927(昭和2)年、フランス駐日大使として、日本に来ています。
その縁で、彼女の作品が戦前の日本に渡ったかどうかは、未確認。

では、戦前の日本に目を向けてみると、先に書いたように、男性中心の世界ではありましたが、女性の彫刻家が皆無だったわけではありません。
ただし、大正デモクラシーなどの中で活躍した女性たち、文筆家や活動家と比べれば、少ないと感じます。

例えば、彫刻家木内克の妻となった旧姓作田照子は、朝倉文夫の下で彫刻を学び、第十二回文展に「不具者」を出品しています。


また、上記の絵葉書の作品は、十三回帝展出品作の「座セル少女」で、久原涛子の作。
久原涛子は、1929(昭和4)年に23才で北村西望に師事。
その後、官展に出品を続け、戦後は北村西望の「長崎平和祈念像」に助手の一人として参加するほどとなります。
彼女の裸婦像は、やはり男性のそれとはちょっと異なりますね。視線が違う。 ポーズも自然で、どこか生々しい感じを受けますね。それだけに、裸であることに違和感さえ感じます。

彼女ら女性の彫刻家たちは、日本近代彫刻史の中であまり表に出てきません。
彫刻にたいする評価や論説の数そのものが、絵画以下であり、なおかつ、彼女らを評価できるフェミニズム的言説においても当時の女性たちから、そして現在もなされていないからだろうと思います。
現在のルイーズ・ブルジョワやキキ・スミスのように、こういった日本近代彫刻創成期の女性彫刻家にもスポットがあたるようになると良いですね。 

2013年5月12日日曜日

宮島久七 作「妓」 陶のレリーフ


宮島久七による陶で作られたレリーフです。
宮島久七は、彫刻家として出発し、戦後あたりからはデザインの仕事を主にしたようです。
このレリーフは、いつ頃の作なのかはっきりわかりませんが、額の様子からは戦後のものに思います。
玄関に置いて飾っている作品で、気に入っている一点です。

戦前の彼は、若手の彫刻家としては活躍の場が多く、オリンピツク芸術競技への出品や朝鮮昭和五年国勢調査記念章、高校野球の記念メダルなど、朝倉文夫や日名子実三、畑正吉らと肩を並べて仕事をしています。
その当時から、「デザイン」としての彫刻に焦点を当てた仕事をしており、そこが他の彫刻家と異なった所なのでしょう。

下の図は、1939(昭和14)年に行われた第一回聖戦美術展の出品作です。
レリーフの形状が凸凹反転しており、不思議な視覚効果によるデザイン性が見られます。
プロパガンダの要素が強いこういった展覧会でも、このような面白い仕事が評価されてたのですね。


戦後となり、「生活デザイン」を標榜し、その仕事に特化した彼の姿は、彫刻の社会化を目指しながら、立ち位置が不安定なままだった構造社などの作家に比べ、先見の明があったと言えるのかもしれません。

2013年5月11日土曜日

Intermission 猿まわしの木彫

  
戦前の作品ではありませんが、今回は自分のコレクションを少し紹介します。

これは、私の机の手元に置いてある猿回しの木彫です。肩に猿、左手に太鼓を持っています。
猿回しは、江戸時代に多く見られましたが、戦後昭和30年頃にはするものがいなくなります。
その後、昭和50年頃に再復興され、現在に至ります。

猿回しは、もともと神事であり、厄を去るといった意味を持つそうで、私もあやかって側に置いているわけです。
愛らしく、なかなか良く出来た作品だと思っています。
銘は紅雲?よく読めません。
農民美術としてはよくできすぎているし、仏師の作でもないような気がします。
もしかしたら井波彫刻家である山口紅雲氏の作かもしれません。