ラベル 帝国美術展覧会 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 帝国美術展覧会 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年6月2日日曜日

世界美術月報 広報誌

以前、佐藤忠良によるメダルで紹介しました下中弥三郎。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2018/06/blog-post.html
今回紹介するのは、戦前に彼によって創刊された「世界美術月報」の広報誌になります。
冊子とはいっても、当時の著名な美術評論家による記事から美術用語の説明までと、濃厚なつくりになってます。

彫刻関連では、第7号に小原生による「ロダンのデッサン」。
第22号には田邊孝次による「アトリエに於けるブルデル、ベルナール、マイヨールとデスピオの印象」。
第33号に神原泰の「ブランクシイと日本」等の文章が載っています。

その中で面白かったのが、第三十四号(昭和5年)の冊子に記載された小原銀之助による「彫塑のできるまで」です。

小原銀之助とは、戦後に時計の研究を始め、小・中学校や国立科学博物館をはじめ、アメリカ、中国など4ヶ国に計400個を製作、小原式日時計といわれ国際的に評価された人物です。
彼が戦前、この世界美術月報の編集に関わっており、そのういったことでこの文章を載せることになったのでしょう。

その内容ですが、当時の若い無名彫刻家の日常が書かれています。
『×月×日 ×展が三ヶ月後に迫って来た今年は先生のアトリエ(門下生用)で皆と一緒にやる事とした。午後は4人が使っているので午後にした。Kは8尺の男の裸を作っている。女はモデル達が嫌がるので朝の6時から皆の来るまでやっている。』
女性のモデルと男性との時間が重ならないように、彫刻家側が気を使って製作しているのですね。
モデルの話は他にもあって、
『×月×日 日曜の午前だ。宮崎(東京に唯一のモデル屋)に行く。傾いた古屋の暗い部屋に例の如く大勢の女がぎっしりすし詰めになって座っている。雀のお宿の様にお喋りがやかましい。髪の長い洋画の連中が怖い顔をして黙々と盡し乍ら物色している。』『おやじが「ホイお照さん。××さんのアトリエ。午後だよ」等わめき乍ら紙切れを渡している』『開かれているからそれほどには思はないもののまるで女人市だ』
大正あたりのモデル不足から考えれば、時代が変わった感ありますね。
女人市みたいではあるものの、しっかりとしたビジネスになっているようです。
モデル代は一週間で7円50銭。昭和初期の1円は現在の4000円ほどと言われているので、一週間で3万円と言うところでしょうか。

7週間ほどで粘土付けが完了、石こう屋に持ち込んで石膏像にします。
このあたりの工程を丁寧に説明しています。
そして、できた石膏像に着色
『先ず全体漆を塗りその上に銅紛をかける。アンモニア水でそれを腐食する。即ち青銅色の彫像が出来上がった。』
そして、最後に彫刻家の嘆きで〆てます。
『×月×日 出来上がった色に不満はあるが日もないので搬入する。―いつになったら此の石膏像が鋳物屋の手に渡ってブロンズになる事やら。恐らく永久にブロンズにはなるまい。等身大で安くて千円だから。ーそれ所か落選の憂き目を見るかも知れないぞ』
しんどい!

2024年2月12日月曜日

小倉一利 塑像領布会 会員芳名録 安藤照推薦文

彫刻家小倉一利の塑像領布会会員芳名録になります。
10年前、私がコレクションを始めたころに手に入れ、以来とても大切にしているものです。
その頃のブログでも紹介しましたが、今回再度皆さんにお目にかけたく、引っ張り出してきました。

この芳名録は、昭和7年に書かれたようですね。
彫刻家安藤照による趣旨、次に賛助員、小倉一利の言葉と履歴、そして彼の作品絵葉書が貼ってあります。


それによると、小倉一利は昭和2年に東京美術学校彫塑科卒、朝倉塾生を経て塊人社で研究を重ね、昭和2年第八回帝展に入選、その後も入選を続ける新進気鋭の彫刻家であったようです。
彼についての情報はネット上にはほとんどなく、国会図書館でも茨城出身というくらいしか見つかりません。
また、小倉政二というのがどうやら本名のようですね。
調べて分かるのはここまででした。



小倉一利の履歴で面白いのは、塊人社に参加したことですね。
塊人社は反朝倉文夫派で、安藤照や堀江尚志、松田尚之らが参加しています。
ただ、その後は官展を中心に出品しているので、塊人社からは離れたようですけど。
昭和19年までの消息は追いかけられたのですが、以後はわかりませんでした。
終戦まで生き延びられたのでしょうか?

そして、この芳名録には昭和20年5月、東京大空襲で亡くなった安藤照の直筆文が記されています。


この文章は当時の世相に合わせたものなのでしょうが、興味深いのは「仏教彫刻」という言葉で、日本には西洋に対抗しうる芸術があるという認識。そうしたバックボーンを持ったうえで「彫塑芸術」は黎明の域を脱した新興芸術としてあって、その主流を担おうという希望が書かれている事ですね。
その望みが叶えられず、残念です。


2021年9月4日土曜日

彫刻家 石川確治より、新潟の樋口正平宛手紙




送り先の樋口正平は新潟の豪農だったようですね。
そして、文化人でもあったのでしょう。
樋口正平で検索すると、太田三郎や小早川清、伊藤晴雨、小堀鞆音、小村大雲といった作家からの樋口正平宛の手紙が出てきます。

この手紙は彫刻家、石川確治によるものです。
時期は大正9年でしょうか。石川確治が帝展を無鑑査になった時期ですね。
正直、何が書いてあるかはわかりません!

2019年1月1日火曜日

謹賀新年 祝2019 筋肉彫刻!

謹賀新年!
昨年の紅白で、天道よしみの曲に合わせた「筋肉体操」が披露されたわけですが、こちらも負けじと「筋肉彫刻」です!
まずは、朝倉文夫作 第七回帝国美術院展出品「水の猛者」。
第七回帝展は1926(大正15)年。作品タイトルと彫刻の姿から水泳選手の像だと思われます。
競泳初のオリンピック金メダリストの鶴田義行でしょうか?

次は同じく七回帝国美術院展出品「望洋」、作者は横江嘉純。
なんともとりとめの無いタイトルですが、横江嘉純らしい男性美に溢れた彫刻です。

同じ男性の肉体を扱っていても、まったく毛色の違う2点。
朝倉文夫の現実の肉体美を追及する作品と、横江嘉純の理想の究極の肉体美を描こうとする作品。

前述の「筋肉体操」では、この二つのベクトルがせめぎ合い、実際に嘘のつかない筋肉が出来るわけですね。
三島由紀夫は、これらを追い求めて、理想の方が超えて行ったのでしょう。
そう思うと、横江嘉純のこういった男性美の作品は、朝倉文夫以上に危うくて面白いのです。

2017年11月5日日曜日

「国民美術」大正13年発行 畑正吉「芸術の時代様式」

国民美術協会発行、美術雑誌「国民美術」大正13年発行 第壱巻 第弐号 通巻第二百四十二号、これに畑正吉が「芸術の時代様式」という文章を寄せています。

この文章は、確か現代の本に再録されていたような。どうだったかな?
ここでもう一度再録するのも面白いのですが、大切なのは畑正吉が何をどう考えていたのかですので、ここは概要にしたものをお伝えし、畑の思想を理解してみたいと思います。
と言っても、私が訳しますので、理解が及ばない部分もあるでしょうが、そこはスミマセン。


芸術の時代様式
 畑正吉 ブログ主(訳)

私たちは、古代の遺物や非欧米文化の製作物や子供の作品を鑑賞すると大いに感銘を受け、共鳴します。
そして、芸術のありがたさを教えられ、真の芸術は時代を超越し永久の生命を持っていると信じるわけです。

ただし、時代は水の様に流れ続け、同じ所にとどまりません。
美術を愛する人は過去の時代の芸術に憧れ、研究し、そこに戻るべきだと論じることもありますが、それはそういった愛好者の個性であって一面の見方に過ぎないと私は思います。

芸術家は、過去の芸術を研究し、これによって大自然の尊さを感受し、自身の作風の一要素とするべきでありますが、それと全く同じに達しようとするのは不可能なのです。

無垢な子供の作品は、ある点で原始時代の素直さを持っていると言いますが、それもある点でしかなく、私たちは煩悩を抱えた現代社会の中で生きていくことしかできません。
しかし、私たちは煩悩のみを抱えて生きているわけではありません。それは、私たちが過去の芸術に触れることで感銘し、共鳴していることでわかります。
もし私たちがただ不純であるならば、芸術は時代を超越して永い生命を保つことはできないでしょう。
私たちは、煩悩(不純)の社会で「真」を持って生きているのです。それを私は「人間芸術的本能」の真情と名付けます。

この真情は有史以来現代に至るまで、そして未来永劫あり続け、さらに螺旋状にあって、始まりあれど終わりはないものです。
純(プユール)であった始まりは、時代の推移によって複雑になり、重なりあってその輪郭ができあがります。
その中で多少の屈折はあっても真情は連綿として変わること無く進むのです。

真情が変わること無く進むのに何故各時代の芸術が多種多様であるか、これを論じるのに私の「工芸芸術の独立」論をもってお答えします。

真の芸術は時代を超越して永久の生命をもち、それゆえ敬意を払われるものです。
しかも、それらの芸術は、その時代の社会意識、時代思潮の影響を受け反映されます。
その両方を統合したものがある時代の様式として現れるのです。

これを後世から見て、様々な様式の展開のみに目を奪われ、時には真情さえも見えなくなっているとき、それは(良い意味での)迷いなのです。
人は迷わされ、時には行き詰まり、そのお陰で真情を進みながらもなにか新しい物を産すことができます。
人種、気候、風土によっても異なる特色として現れます。
ギリシャやローマの作品を復興したルネッサンスといえど、それはその当時の複製ではなく、ルネッサンスの芸術として優れているです。

よって私たちはそういった真情を辿れば、すぐにでも原始時代やギリシャ、ローマの他、どんな時代の芸術でも感受することができるのです。

つまり、様式とは真情を包んだ時代思潮の反映なのです。故に私たちは無意識的に時代様式を産み続けていると言えるのです。
しかし、ただ単に古来の作品を複写するもの、開祖の様式を受け継いで行っているもの、これは時代思潮を無視した複写でしかないと言えます。

また、工芸製作の時代様式については、これが実用と装飾とを併用するものであり、その用途にたいし約束ごとがあります。
その約束ごとが人の生活に必要な形式となって永い年月をもって形式として形成されていきます。
そして工芸作品は、その形式の範囲において芸術の自由があり、多様に変化して時代思潮を遷した様式となって現れるのです。
それを形式に囚われた様式だと断じるのは誤りなのです。
そう、真情を隠して時代思潮の衣を被った工芸芸術であれば、永遠の命を保ち、永遠に敬意を払われるものとなるのです。
(おわり)


畑正吉の主張は、工芸もまた、大文字の芸術の一つだと言うことでしょう。
そのために古代美術や児童の作品を持ってきて、芸術の範囲を大きく広く表すところに畑の思想のダイナミズムを感じます。
所謂アールブリュットをも芸術史に含もうとしているのですね。
そのダイナミズムが後半の「工芸芸術の独立」論でややトーンダウンしているように思えます。

それと、実はこの文章の次頁は高村豊周が工芸そのものを評価する文章を載せています。
豊周は、工芸部門が帝展に編入されたことでの工芸界のアレコレを書いているのですが、ことさらそれを他の芸術と比べることはしていません。
それと比べてみると、畑は、工芸を「芸術」に近づけようと考えているとわかります。
つまり、工芸は「芸術」でなはないことが前提なんですね。畑はその橋渡しをしているのです。

そこから、鋳金等の確立した価値体型を持っている豊周と違い、純粋美術と工芸の合の子的なメダル等を仕事としてきた畑正吉の立ち位置が見えてきます。
その場所に一生立った畑の想いを含め、この文章を再度読めば、文中に収まりきらない彼の叫びが聞こえてきます。

2017年9月3日日曜日

catalogue illustré du salon

1910(明治43)年以降に出されたフランスのサロンのカタログです。
1910年と1911年、1920年と1921年が手元にあります。

ジャンル毎に一冊作られた日本の帝展のカタログと比べると簡易に見えますが、そういう簡易版なのでしょうか?
このあたりは詳しくないので、これから勉強して行こうと思っています。
というのも、この下の画像を見ていただければわかるように、フランスのサロンではメダルもしっかり彫刻作品として掲載されているのですよね。



こういった作品に日本の作家が影響されないわけもなく、その繋がり、または断絶がわかれば面白いのではないかと。

断絶と言えば、先に書いたように日本の官展においては、メダルを作品として発表した作家はありません。
明治期の博覧会や、官展以外の展覧会、団体展ではあるのに、官展では頑なに無い。
その元となったフランスのサロンでは発表しているにも関わらず。
これは何故だろう?

このあたりを紐解いていければと考えています。

ちなみに掲載頁の上右の作家はLEON DESCHAMPS。下はP.DANTEL
メダル三点の作家はCharles Pillet。https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Pillet

こちらのサイトでも膨大な資料が掲載されていました!
http://antiquesanastasia.com/art/reference/medailles/medailles_francaises/l%27histoire/index.html
奥深いぃ~!!

Charles Pilletについても書かれていますね。
また、先に書きました畑正吉が模刻した作品も特定できました。
http://antiquesanastasia.com/art/reference/medailles/medailles_francaises/l%27histoire/ovide_yencesse/general_info.html

作家はOvide Yencesse(オヴィド・ヤンセス)。
ありがたいことに、この模刻の元となった作品まで紹介されています。
小さいサイズのメダルなんですね。
畑の模刻は横16cmほどありますから、一回り大きく模刻したことがわかります。(裏に小メダルヨリ拡大とあったとおりでした。)

オヴィド・ヤンセスの元の作品の方がちょっと肉厚に思いますが、ほとんど変りないですね、畑正吉の技術力がわかります。

2016年8月22日月曜日

畑正吉作 「ハードル」

オリンピックでの連日のメダル獲得。
本当にすごいですね。
特に400mリレーでの銀メダルは、歴史に残る出来事だと思います。

そんな陸上をモデルとした作品「ハードル」。

畑正吉による石膏原型です。
畑は、スポーツを題材に多くの作品やメダルを制作しており、これもそうした作品の一つでしょう。
まさに、ハードルを越えるその一瞬が描かれています。
レリーフでありながら奥行きを感じさせる構成は流石です。

また、この作品が特別なのは、「第三部会」に出品された物だということです。

この「第三部会」ですが、1935(昭和10)年の帝展改組にあたり、野に下った彫刻家有志が集い新設した団体です。
1936年には以下の声明を発します。

『第三部会では七月七日午後丸の内マーブルに会員集合協議の結果、文展不参加に決定、左の如く声明書を発した。 「明治、大正、昭和を通じ我国彫塑界に捲起したる凡ゆる闘争、すべての情実の根源たる松田改組によりて成れる現帝国美術院第三部会員の独占的に鑑審査に携はる文部省美術展覧会には本会会員は招待礼を受けず、純在野団体として我国彫塑界進展に努力せんことをここに声明す。 会員 池田勇八、石川確治、畑正吉、上田直次、小倉右一郎、開発芳光、吉田久継、日名子実三」

1940(昭和15)年に、国風彫塑会と改称される5年間のみあった団体だということもあり、どんな作品が展示されていたのか、私もあまりわかっていません。
絵葉書で、池田勇八の作品を知ったくらい。
その作品の現物が、ここにあるというのは、感動です!

2015年3月15日日曜日

名古屋汎太平洋博美術展 出品作





「名古屋汎太平洋平和博覧会」は、1937年(昭和12年)の3月15日~5月31日まで名古屋市南区熱田前新田(現・港区港明)で行われ、その美術展に出品された作品の一部が上記の絵葉書の作品のようです。
第二次世界大戦前で最後で最大の一大博覧会であり、終了2ヶ月後に日中戦争が勃発しています。

「名古屋汎太平洋平和博覧会」については、こちらで詳しく説明がありました。http://network2010.org/article/147

こんな記事もありました。
http://www.tobunken.go.jp/materials/nenshi/1907.html

これによると、名古屋在住者による委員会の設置を希望したようですが、実際はどうだったのでしょう?
上記の絵葉書での彫刻家、津上昌平は福岡の出身で小倉右一郎門下の作家ですね。
この他にどんな作家がどのように関わったのか、知りたいところです。

愛知での博覧会や大規模な美術展といえば、平成元年(1989)年7月から11月の4ヶ月間行われた「世界デザイン博覧会」や2005年3月から9月まで行われた「愛・地球博」、そして「あいちトリエンナーレ」などがありますね。
こういったお祭りはあまり戦前と変わりませんね。
戦争直前の「平和」の博覧会と現在の「あいちトリエンナーレのテーマ「虹のキャラヴァンサライ 創造する人間の旅 Homo Faber: A Rainbow Caravan」と比べてみて、意味のわからないテーマを掲げる現代の方がある意味健全なのかもしれないな、などと思います。

2015年2月22日日曜日

第二回大東亜戦争美術展覧会出品 「撃滅」 峰考 新田実(共同作品)


第二回大東亜戦争美術展覧会出品は、1943(昭和18)年12/8~から翌年1/9まで行われた展覧会です。
辻晋堂、中村直人、横江嘉純など有力な中堅作家が多数参加しています。

この作品で見ていただきたいのが、二人の作家による共同作品だという点です。
現在でも、コラボレーションとして異種の作家や、またそれぞれの作家の持ち味を生かしての制作という手法はありますが、このようにどの作家がどこまで手を入れたのかわからないような作品はあまり目にすることが無いかと思います。

それを可能にしたのが、この時代性です。

明治以降、例えば皇居の楠木正成像のように、高村光雲以下多数の作家が参加して制作したモニュメントなどがありました。
しかし、 高村光太郎が『人が「緑色の太陽」を画いても僕はこれを非なりと言わないつもりである。』と個性やオリジナリティの価値を高く掲げた後には、芸術の本質がそこにあると考えられるようになりました。
そして戦争の時代、再び「時代のモニュメント」として共同制作による作品に価値が与えられるようになったのです。
個性やオリジナリティを殺してでも、この時代を表すこと、日本の戦争の時代であることの価値を掲げることに主題が変わりました。

また、この時代は、新文展といった官展だけでなく、大東亜戦争美術展覧会や聖戦美術展のような軍部主導の展覧会が数多く行われました。
ここでは、見た目に何が描かれているかわかり易く、戦う兵士への祈りの対象となりえる彫刻への需要が高く、生産性の低い彫刻作品でも数多く必要とされました。
そういった時間の制約もあって、共同制作といった手法による制作の必要があったと言えます。

これを現代の目で見て、芸術ではないと言うのは簡単なのかもしれません。
しかし、これを美術史から外してしまえば、この線上にある日本の美術史が歪んでしまうと思うのです。

2014年12月31日水曜日

陽咸二 作「日米国際陸上競技大会」記念章メダル


今年最後に紹介するメダルは、陽咸二作「日米国際陸上競技大会」記念章です。

縦3.8cm×横2.3cm、「The International dual athletic meet U.S.A. VS Nippon Tokyo-Osaka」及び「2594」の記述あり。

皇紀2594年は西暦1934(昭和9)年、この年に東京では神宮外苑競技場で、「日米国際陸上競技大会」が行われました。
1941年の真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が始まる7年前に行われた日米両国の親善陸上競技大会。
陽咸二による、両国が硬く結ばれた姿の像は、その後の悲劇への皮肉のようですね。

彼の作品に「燈火抱擁像」という男女が溶け合ったような像がありますが、このメダルも似た手法で、人体をデフォルメ化しています。
その「燈火抱擁像」のイメージが強いのか、このメダルの像が、なんだかホモホモしく感じませんか?



第拾回構造社展出品「壮者」
遺作展となった第10回構造社展の出品作です。
エジプト風というか、ガンダーラ的というか、不思議な魅力を感じるこの彫刻ですが、「壮者(壮年の人。働き盛りの人)」というわりには、破棄や雄雄しさを感じさせない。
どこか柔らかく、女性的で、これもまたホモホモしい。
なんか「さぶ」系といういうより、「BL」っぽいんですよね。

まぁ、本気のBL好きからしたら、どう見えるのかわかりませんが、陽咸二の作品ってそう見えるんですよね。

というわけで、今年の最後はこんなネタで締めます。

2014年11月24日月曜日

陽咸二 作 紀元二千六百年奉祝美術展覧会出品 メダルの絵葉書


陽咸二によるメダルの原型です。
絵葉書の裏側には、紀元二千六百年奉祝美術展覧会とあります。

「紀元二千六百年奉祝美術展覧会」は、1940(昭和15)年に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った展覧会であり、官展として行われました。

ただ、陽咸二は、昭和10年に亡くなっているので、この展覧会には自身で出品しているわけではないでしょう。
この展覧会の委員を勤めた齋藤素巌の推薦なのかもしれません。

戦前、陽咸二の亡くなった後に出品された展覧会は、1937(昭和14)年に行われた「明治・大正・昭和三聖代名作美術展」と構造社美術展くらいだと思っていたので、この絵葉書は発見でした。

また、このメダル原型は、バーレット連盟推薦賞メダルとして使用されているようです。
図柄は、何か神話がモチーフになっているようなのですが、なんだろう?

2014年10月13日月曜日

Intermission 岡山―大阪へ行ってきました。

岡山は市原市、井原市立田中美術館へ「ジャパニーズ・ヴィーナス―彫刻家・藤井浩祐の世界」展に行ってきました。

以前、藤井浩祐について当時の作家陣の中では保守的に感じると書きましたが、今回、彼の作品をまとめて見ることができ、若干違う印象を持ちました。

それは、「私の方が彼の作品をスタンダードだと見ている。」ということでした。

この時代の彫刻家の仕事とは、西洋からの輸入された彫塑という文化をどう日本に根付かせるかという全く新しい取組みです。
であるならば、当時において彫塑のスタンダードなどないはずなのに、私は彼の作品をそう見てしまう。
それは、現在、つまり後世からの視点からそう見えるのでしょう。
つまり、 日本彫塑史において、藤井浩祐の作品は常にその中心、王道であったのだと言うことなのだと気づきました。
朝倉文夫や北村西望のようなはみ出す個性を求めず、新海竹太郎らの「浮世彫刻」などを試みながらも、ただまっすぐ、現在から眺められる日本彫塑史の真ん中を「彫刻」とは何かを求めながら走ってきた作家なのではないか、そう考え直しました。

いや、それにしても見ごたえのある展覧会でした。
一日中居られそうでしたね。
ちょっとした興味から探索し始めた日本近代彫刻でしたが、実際この時代の作品が心底好きになっていたのだと確認させられました。

次は、東京の小平市平櫛田中彫刻美術へ巡回するそうです。

それと、この市原町も素敵な場所でした。
JRから井原鉄道に乗り込み、神話の時代の名前のような駅をいくつか越えたところにありまして、山と水と、水辺の植物、そして水鳥が多く見られる場所でした。
地元岐阜の切り立った崖を流れる川のとはちょっと違う生態系に感じましたね。

そんなゆったりとした気分のまま、大阪へ。
げっ、いまだに歩きタバコの人がいるんだね大阪。
気を取り直して今回の目的は「天神さんの古本まつり」。
台風のために一日短縮された古書まつりでしたが、そのためにまだまだ大量の百均本がどっさりありました。ヤッター。

その山の中から森口多里著「近代美術十二講」(大正13年11版)。
ダダや未来派など新興美術を紹介する本で、ブランクーシやザッキン、アーキペンコについても書かれています。
この本は既に持っているのだけど、読み返してみたら独逸表現主義の芸術家としてデゴバルト・ペッシュが紹介されてましたね。以前この作家について書いた時は思い出せなかった。
それと、何故か昭和30年の大阪市立汎愛高等学校の文化祭プログラムが挟まっていました。

後、 「近代美術十二講」にも言及されていた映画「カリガリ博士」について同じく言及していた美術手帳(1980年)の「回想の20年代」。プロレタリア美術について書かれています。

その一味の神原泰著「ピカソ」(大正14年)、その流れを組んでるのかどうか知りませんが吉本隆明著「高村光太郎」(昭和48年)とあと何冊か...


「カリガリ博士」もYouTubeで観れるんだね、凄い時代だね。

それと、この古書市と古本屋を廻って絵葉書を漁る。

○米原雲海 「松風」 (文部省第九回美術展)
○齋藤素巌 「日は昇る」 (紀元二千六百年奉祝美術展)
○日名子実三 「踊」 (第五回帝国美術院展覧会)
○水谷鉄也 「秀作」 「国際美術協会第二回内国美術展覧会」



水谷鉄也は、「大阪府立中之島図書館 大正11年増築記念のメダル 」でご指摘いただいた作家ですね。高村光太郎と同期のようです。

他にも面白いモノを探し出しましたが、それはおいおい...

2014年9月20日土曜日

齋藤素巌 原型 「第6回日米対抗水上競技大会」メダル


「日米対抗水上競技大会」は戦前から行われていた水泳大会です。
以前、この第一回大会のメダル(日名子実三作)を紹介しました。

終戦後、 1950(昭和25)年にこの競技大会が、第3回日米対抗水上競技大会として再興されます。
そして、1955(昭和30)年には、第4回日米対抗水上競技大会が、1959(昭和34)年には第5回日米対抗水上競技大会が行われました。

このメダルは、1963(昭和38)年に行われた「第6回日米対抗水上競技大会」のものです。

ただし、この齋藤素巌による図柄は、これ以前の大会にも用いられているようです。
それが戦前かどうかは不明です。
彼は昭和49年に84才で亡くなっていることから、 その10年前のこの大会のために、かつての作品の使用の許可をしたのかもしれませんね。

それにしても、このシュールな図柄に用いられてい魚はなんでしょう?
齋藤素巌は、このハゼのような古代魚のような魚を好んでモチーフにしていたようですね。

2014年9月6日土曜日

日名子実三 作「第11回関東大学専門学校選手権競技大会」メダル


久しぶりに日名子実三によるメダルの紹介です。
「第11回関東大学専門学校選手権競技大会」メダルです。
 第11回大会は昭和8年に行われました。
また、この図柄は、第10回大会でも使用されているようです。

この円盤投げというモチーフは、古代ローマの作品が残されており、大英博物館の円盤投げ(ディスコボロス)が有名です。
日名子もこれを意識しなかったわけはないでしょう。
競技大会のいくつかある種目から円盤投げを選んだのは、そういった思いもあったからなのでしょうね。
そのためなのか、ギリシャ、ローマの彫刻が見上げる作品であるのと反対に、この日名子の円盤投げが見下げる構図になっています。
その結果、当時の競技会場であった明治神宮外苑競技場において、円盤投げの選手を観客の視点で見るような図になっており、よりリアリティーを感じる構図になっています。

当時の彫刻家が作品を制作する場合、モデルを用いていました。
このメダルを制作した時も、日名子はモデルを用いていたと考えられます。
しかし、このような俯瞰した視点にするために、日名子はどんな方法をとったのでしょうか。 
もしかして高座で制作したのか、このデザイン(構図)のために高座からデッサンを行なったのか。
それとも報道写真なんかを参考にしたのか。それとも...

2014年8月30日土曜日

中牟田三治郎 作「秩父宮殿下台臨記念 京都帝国大学学友会」メダル


中牟田三治郎(ナカムタ ミチロウ)は、戦前、中原悌二郎や橋本平八のように、若くして亡くなった彫刻家の一人です。
彼は、1930(昭和5)年、38才で亡くなりました。
そのため、生前にその力を認められながらも、日本の彫刻史において、殆ど語られることのない作家の一人です。

中牟田三治郎は、1892(明治25)年、福岡生れ、19才で上京し、武石弘三郎に師事します。
1916(大正5)年に東京美術学校彫刻家塑像部に入学、白井雨山に学びます。
1922(大正11)年に京都帝国大学工学部建築学科彫塑実習第1部の講師となります。
1924(大正13年)には帝展に「或る日頃」を出品、1927(昭和2)年に構造社に参加します。

この「秩父宮殿下台臨記念 京都帝国大学学友会」メダルは、京都帝国大学工学部の講師だったことで制作依頼が来たのでしょう。
中牟田三治郎は、昭和4年に「きつね」という作品が秩父宮家に収蔵されています。(現在は宮内庁三の丸尚蔵館が収蔵)
これも、このメダルの縁なのでしょうか。

彼は、ドイツ表現主義に影響を受けたと言います。
このメダルの造形もその影響を感じさせます。
以前こんなことを書きましたが、彼もまた、日本表現主義彫刻のミッシング・リングを繋げる作家なのかもしれません。

そういえば、 三の丸尚蔵館に新館ができるとか。
「きつね」も展示されると嬉しいですね。

2014年8月13日水曜日

Intermission 藤井浩祐の作品展が開催されるそうです。

8月29日~10月19日の間、岡山県井原市田中美術館にて「彫刻家 藤井浩祐の世界」展が開催されるそうです。
藤井浩祐は、1907(明治40)年、東京美術学校彫刻科卒、第一回文展に出品します。
以後も官展に出品を続け、近代日本彫刻史を第一線で見続けた作家です。
官展だけでなく、銅像制作を行い、また日本美術院の同人でもあり、 児童彫塑の展覧会を行うなど、その活動は幅広い。
さらに、下の文鎮やペーパーナイフの様な作品までも多く手がけています。

藤井浩佑作 毎日新聞社主催 第14回映画コンクール記念品

藤井浩佑作 早稲田大学、大隈重信像の ペーパー ナイフ

作品は多数ありながらも主となるものが戦火で失われたことと、彫刻の啓蒙書である「彫刻を試みる人へ」の執筆などの多彩な仕事ぶりによって、逆に藤井浩佑像というものの焦点が合いにくい作家です。

また、古風というか伝統的というか保守というか、どこか前時代的なイメージを抱かせる作家でもあります。同時代の朝倉文夫や北村西望が、新進気鋭として出発したのに対し、一歩引いているように見えます。
扱う主題は女性像が多いのですが、主体性を持つ女性というより、浮世絵的な男性視点の女性像、柔らかく母性を感じさせる女性を得意とした点も、前近代的に感じさせる要因なのでしょうか。
かと言って国粋というわけでもなく、そのため戦時の時風に乗ることもなく、 たんたんと「藤井浩佑」という作家としての仕事をこなした人物ではないかと考えています。
それは、市井のために、他者の為にある彫刻という、とても優しい作風であり、それが藤井浩佑という作家なのだと思います。

今回の展覧会では、そんな藤井浩佑を日本美術史に位置づけるようなものとなるのではと期待しています。

2014年8月10日日曜日

北村西望作 「平和祈念像」

この1955(昭和30年)に制作された 「平和祈念像」 は、北村西望氏によるものです。
前回「戦後の銅像に就いて」として、この像についての氏のコメント「「神の愛と仏の慈悲を象徴し、垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は救った命 を表し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている。」 を書きました。
今回は、この作品の図像的な意味を考えてみたいと思います。

この作品は、一種の信仰対象になっているように思えます。
特定の宗教関連の作品でもない、仏像でもキリスト像でもない、一つの美術家の作品が信仰対象になるというのはなかなかないことでしょう。
それを成せたことが北村西望という作家の力なんでしょう。

その理由は、彼の作風にあると思います。
まず、その作品がどこの誰かわからない抽象化された像であることがその一つ。
戦前の彫刻は、基本的にモデルを用い、その姿を写すことをその仕事としました。
同期の朝倉文夫の作品を見るとわかりますが、 どこの誰ソレをモデルとしたのか必ずわかる作風が一般的でした。
その中で北村西望は、ロダン的な彫刻の解釈から人間の身体を抽象化することを、自身の作風とします。
その結果、「平和祈念像」が、誰かを特定しないことにより、古来からの仏像のように、より信仰の対象となりやすくなったと考えられます。
それは北村西望でなければできなかった仕事なのでしょう。

次に、その抽象化がどうなされたのか、そのベクトルの向きについて考えます。
彼は「「神の愛と仏の慈悲を象徴し」と自身でコメントしているように、その抽象化のあり方に宗教的な意味合いを求めたことは確かでしょう。
「平和祈念像」の顔は、キリスト像のように長髪で、仏像のように半眼です。
ここだけ見れば、男か女かわかりません。それは、性別が無いとされる(男でも女でもある)観音菩薩も同様です。
この像は、日本の伝統的な観音像の一つのバリエーションと言えるのではないでしょうか。
北村西望は、意図的かどうかわかりませんが、この「平和祈念像」を伝統的な観音像として制作したのではないでしょうか。
その為に、この筋肉質な身体であっても、どこか女性的な印象を受けるのです。

仏像のように抽象化された身体を持つ、観音像のバリエーションの一つである「平和祈念像」ですが、そうは言っても、この像は伝統的かと言われればそうだとは言えません。
日本人にとって彫刻という仕事が明治以降の近代の産物であり、北村西望の仕事が近代の産物である以上、この像もまた同様です。
それ以前からの断絶があり、仏像や観音像といった伝統から、歴史からの断絶を示します。
それが、原爆前後という歴史の断絶、区切りを示すことに繋がり、この作品に向かう者にとって意味を成すのではないでしょうか。
但し、前回書いたように、その断絶を示す手法が戦前中に養われたものだということに違和感は残りますが。

2014年8月3日日曜日

朝倉文夫作 「國香會賞」レリーフ



朝倉文夫という彫刻家はとにかく多趣味な人で、このレリーフにある「國香會」とは、朝倉文夫が昭和8年に立ち上げた全国愛蘭家団体です。
この団体は、戦時中に一時中断され、戦後再開したそうなのですが、このレリーフは、その当時のものでしょう。作品自体は何時制作されたかはわかりませんが。

さすがと言いますか、この蘭の構図が絶妙ですね。
蘭というと高価な花、贈与品としての人工的な花というイメージがありますが、こうした会の発足当時は、もっと純粋に美しい花として愛されていたのではないでしょうかね。

朝倉文夫が出世し、権威となっっていった姿と、この蘭の有り様が重なって見えます。

2014年6月15日日曜日

九州沖縄八県連合美術展 絵葉書

下の老人の作品は、日名子実三作「廃墟」。この作品は、 1920(大正9)年の第二回帝展に入選した作品で、翌年の1921年、第14回九州沖縄八県連合共進会に出品されました。


つまり、九州沖縄八県連合美術展とは、九州沖縄八県連合共進会という博覧会のの美術部門であるようです。この展覧会には、九州と沖縄の作家、洋画、日本画、彫刻家を一堂に会して行われたようですね。

この「廃墟」ですが、師朝倉文夫の「墓守」と比べると、より西欧的でキリスト教的な物語を感じさせる姿ですね。くどいというか、バター風味?
しかし、そこが日名子実三の持ち味なんですよね。
こういった作風が日本の古典と結びついて、後の日名子の作品らとなるのでしょう。
この作品は、現在大分大学学術情報拠点(図書館)に展示されています。

上は、渡辺長男の乃木将軍像。
こちらのサイトで、当時の展示風景画が見られます。
ところで、弟である朝倉文夫は、この展覧会に出品しているのかな?




この博覧会、九州というより「沖縄」を含めた「日本」という国家を自覚させるという意義があったのかなと思います。
地方作家の展示というだけでは収まらない政治性があったのではないかと。
官展に地元の作家が入選すると、地元の街に日の丸が立った時代ですからね。
中央集権の為に美術があった時代なんでしょうね。
現在でも、地方の美術なんてことが言われます、美というのは常にヒエラルキーを背負っているものである以上、どこか頂点へと集権されてしまうのは致し方ないものなのでしょう。

2014年5月10日土曜日

Ottil.o Pecci 作 「生命の泉」 絵葉書


絵葉書には「ペシー氏」とありますが、Ottil.o Pecci(オッティリオ・ペッチ)が作家の名前だと思います。

この「ペシー氏」について、詳しいことを書かれたサイトがありました。
早稲田大学リポジトリ、論文等をネット上に公開するサイトのようです。
→こちら

これに書かれた「ペシー氏」の略歴をまとめてみます。
1897年イタリアのペルージャ生れ。
同地の美術学校で彫刻を学び、その仕事は、パリ、ロンドン、ニューヨークでも好評を博す。
パリで東洋美術の大学教授をし、1916(大正5)年、第一次世界大戦の戦乱を避けて高峰譲吉の息子エブレン夫妻と共に来日。
8年の滞在中に、幾つかの銅像を制作、展覧会を行い、そして日本女性オクムラ・ウラと結婚をする。
帰国後、1954(昭和29)年、死去。

絵葉書の作品は、1921(大正10)年に行われた第3回帝展の出品作ですので、来日してから5年後の作品ですね。
この彫刻家は大理石を用いた仕事を行なっていたようです。
また、政界財界に知人があり、早稲田の大隈重信胸像などの銅像をいくつか制作したようです。

この論文にもかかれてますが、彼が当時の日本の彫刻家たちとどう関わりをもったのか不明です。
来日したイタリアの彫刻家と言えば、1882年(明治15年)まで工部美術学校で彫刻指導したラグーザが有名ですが、彼のように日本の彫刻史に名前の出ることのない「ペシー氏」は、どう日本の彫刻史に影響を与えたのでしょう?
もしかしたら、当時の日本の彫刻家にとって、彼の作はすでに古典だったのかもしれません。

 彼が帰国後、パリに滞在していたとして、第二次世界大戦時、そのパリに攻め込んだドイツと同盟を結んでいた日本に対し、どういった感情を抱いていたか気になります。