2015年4月25日土曜日

高村光雲 米原雲海 善光寺絵葉書

今回も時事ネタ...なのかな。

只今、信州善光寺を中心に、全国の善光寺で本尊如来像の御開帳が行われています。
その信州善光寺には、大正8年、原型を高村光雲が行い、米原雲海によって作成され納められた仁王像、三面大黒天、三寳荒神像が奉られています。




残念ながら大黒天の絵葉書がありませんが、これらは当時の参拝記念土産として発売されたものではないかと思われます。
また、写真を見るに高村光雲の原型を絵葉書にしたのではないかと思うのですが、どうでしょう。

「観光」という文化が日本に定着しだした大正期、古くから「遠くとも一度は詣れ善光寺」と言われた善光寺参りもより身近となったのでしょう。
「帝室技芸員」「文展審査官」というのが全国的に知られた権威であったということもわかります。

来月GWに長野に訪れる予定はあるのですが、きっと人だかりで、車も停めれないんじゃないかと臆しています。どうしよう。

2015年4月18日土曜日

パラオと土方久功

先日、陛下がパラオを訪問されましたね。
この時、戦時中のパラオがどんな状況だったかを、色んなメディアで放送されていました。

 ペリリューの戦い

パラオは第一次世界大戦後に日本の委任統治領となり、1922年に南洋庁がコロール島に設置されて内南洋の行政の中心となります。

戦前、そんなパラオを愛し、日本とパラオとの橋渡しをした彫刻家がいます。
それが、土方久功です。

土方久功は、1919(大正8)年に、東京美術学校彫塑科に入学、1929(昭和4)年にパラオに渡り、公学校の図工教員として彫刻を教えながら、同地の民俗学意的な調査を行います。
その後、南洋庁に勤務し、病で帰国するまで南洋の地で過ごします。

そんな土方久功の作品は、南洋の地の民芸的木彫のような野性味溢れる作品で、高村光太郎の目に止まり、広く紹介されるようになります。

終戦間近、昭和 19年には岐阜県可児市に疎開し、しばらく過ごします。
この可児市は私の地元でもあり、 そういったこともあって土方久功に興味を持ったというのもあります。

いつか手に入れたいと思っていた土方久功の作品が、思っていたよりも早く紹介できることとなりました!


 土方久功 作 「一番小さな顔」です。1952年頃の作品なので、戦後のものですね。

顔が半分欠けていて、多分一度作ったもの指で押しつぶしたのではいかと思われます。
そういった欠けが、埴輪のような古物の雰囲気を持たせますね。

戦前のものでは、彼の作品を絵葉書にしたものがあります。




この絵葉書は南洋群島文化協会が発行したものです。
 「日本のゴーギャン」と呼ばれた土方久功ですが、これらの絵を見ると、まぁしょうがない面もありますね。

親日国であるパラオですが、こういった人たちの個々の支えによって現在があるのですよね。

2015年4月16日木曜日

牧雅雄 画 軍鶏図



昭和6年に描かれた牧雅雄による軍鶏の図です。
牧雅雄は日本美術院の彫刻家で、昭和10年に48歳で亡くなっています。

昭和10年は、堀江尚志や藤川勇造、木村五郎、陽咸二、そして橋本平八と近代彫刻史に名を残す作家たちが若くして亡くなった年です。

手元に昭和11年のアトリエ第十三巻、第二号があるのですが、ここにその前年に亡くなった牧雅雄と橋本平八の追悼文が載っています。
筆者は 石井鶴三に喜多武四郎、福田正夫、新海竹蔵です。

牧雅雄は、はじめ彫塑を行っていましたが、後に木彫を始めます。
この石井鶴三の追悼文にこうあります。
「いつのまにどうして木彫の技法を覚えたのか。まだ其技法には未熟なところがあったが、牧君のような人が木彫をやるのならば、将来は必ず面白いものがあろうと楽しみにしていたのだが。」

この軍鶏図も、木彫制作と同時期のものだろうと思います。
たしかにめちゃくちゃ上手いとは言えない画ではありますね。
 

同郷の詩人福田正夫は追悼文に詩を寄せています。
「牧の道は一つしかなかったようだ。どこまでも、恐らく永久に未完成の道-彼は完全ではなくて、途上の人だ」

現代では、橋本平八の名前を知っている人はいるでしょうけど、牧雅雄を知っているという人は少ないでしょう。
彼は日本の彫刻史に深く名を刻むこともできませんでした。
途上の人がその旅を終えてしまえば、後は忘れ去られるだけですね。

でも、こうやって誰かが時々思い出せば、縁(えにし)は続き繋がると思うのですよね。 

2015年4月12日日曜日

Intermission 式場隆三郎

 椹木野衣 著「アウトサイダー・アート入門」に、恩師である三頭谷鷹史 著「 宿命の画天使たち 山下清・沼祐一・他」が紹介されていました。
その影響でしょうか、実はその山下清をプロデュースした式場隆三郎の著書をコレクションしています。

 式場隆三郎 著「ヴァン・ゴッホの耳切事件」サイン本

式場隆三郎という精神科医は、山下清だけでなく、ゴッホについての啓蒙書を多く著し、また「アウトサイダー・アート入門」にもありましたが、二笑亭の紹介などをしたりしています。
いわゆるプロデューサーみたいなものですね。

私の蔵書をちょっとのぞくと、「戦争と脳」「炎と色」「ゴッホの素描」「山下清作品集」「宿命の藝術」「ロートレック」「四十からの無病生活」「ファン・ホッホの生涯と精神病」etc...と彼自身の書いた本が本棚に並んでいます。
そんな多くの著作を世に出した式場隆三郎ですが、実は彼について論じた本というのは無いのですよね。

私は、山下清や二笑亭よりも「式場隆三郎」という人物が面白いと思うのですよ。

セックス・ピストルズも好きだけどマルコム・マクラーレンの方に惹かれます。
平賀源内とか、「モハメド・アリ vs アントニオ猪木戦」をプロデュースした康芳夫とか、こういった山師は魅力的だと感じるのですよね。
どこかで秋元康が麻雀する映像を見たのだけど、なかなか背中が煤けてて面白かった。

「式場隆三郎」もそういう傑出したプロデューサー(山師)の匂いを感じるのです。

彼は、精神科医として高村光太郎の妻智恵子の診察を行うといった医療活動を行いつつ、柳宗悦やバーナード・リーチなどの知識人と交流を持ち、山下清などのいわゆるアール・ブリュットに関わり、ゴッホの研究と啓蒙を行うという表の側面と、戦後のカストリ雑誌における性教育と称したエロ本に著述をするといった裏(?)の面を持っています。

こういう縦横無尽の姿が魅力なんです。


現代でも「脳」と付ければなんでも学術的(のように)語ってしまう茂木健○郎という人がいますが、「式場隆三郎」も精神科医という肩書きで、どんなものでも語りえてしまう。
その結果、山下清を「あぁ、あのタンクトップ着たおじさんね」 と誰もがイメージできる現状を生み出してしまっている。
それは良い面、悪い面あるだろうけど、そのダイナミズムは面白い。

後は、彼についてまとめた本か、展示なんかがあればな~(希望)。

2015年4月4日土曜日

Intermission 未来派第二回美術展覧会 絵葉書




1921(大正10)年に行われた 「未来派第二回美術展覧会」の絵葉書です。
上記の二枚は、その年に来日し、名古屋にて木下秀(一郎)と未来派の講演会を行ったロシア未来派の画家ダヴィド・ブルリュークの作品と、その木下秀(一郎)の作品。

未来派という、当時の最先端の思想でありながら、それがジャポニズム的なのが面白いですね。 
特に木下の作品からは、この思想を日本人として自らに取り込もうとする意気込みを感じます。


尾形亀之助の「朝の色感」
尾形は後に前衛美術団体マヴォにも参加する詩人。
絵画も作成しており、この作品も木下秀(一郎)に誘われ出品したらしい。


 とにかく日本の「未来派」は評判が悪い。
その理由は、当時情報の少ない中で、作家たちがよくわからずに制作を行っていたことによります。

簡単に言えば、「未来派ってなんだか先端ぽくてカッコイイな!」というノリで、黒人ファッションが似合いもしないのに ダブダブな服を着てキャップを斜めに被って「悪い奴はダイタイトモダチ」みたいに粋がっているめんどくさい若者たちの作品でしかないと思われているからです。

だけど、そういうめんどくさい若者の一人だった私からしたら、愛しい作品だななんて思うわけで、その後のある程度評価のあるマヴォやアクションなんかより興味を持っているわけです。


だからといって、こういう作品を紹介して啓蒙しようというつもりもありません。
最近、椹木野衣著「アウトサイダー・アート入門」を読んだのだけど、どうしてこの世代は啓蒙的なんだろう、特にローカルチャー の評価みたいなことを、その消費者が望んでもいないのに行いたがるのだろう。
 「アウトサイダー・アート」も「後美術」も、そう名づけ評価を行う政治性がすでに時代に合わない気がします。美術のフロンティアなんて今時言えるのは凄いけど。

同時に佐谷眞木人著「民俗学・台湾・国際連盟 柳田國男と新渡戸稲造」を読んで、自身の政治性に敏感だった柳田國男であれば、そんな啓蒙主義の終焉、彼の「民俗学」という言葉の役割の終焉にも敏感であったのかもしれないと思いました。

 まぁ、私にしても美術のフロンティアなんて、過去の作家の夢の中にしかないなんて思っているからこんなブログをやってるわけで、そんな終わった夢から覚めないのは同じなのですけどね。