2013年7月28日日曜日

堀江尚志 作 「をんな」 絵葉書

1921(大正10)年に行われた第三回帝国美術展出品 堀江尚志の「をんな」です。

堀江尚志は1897年(明治30)年、盛岡市生れ、東京美術学校在学中に帝展にて2年連続特選を受賞します。
上記の作「をんな」も、その特選作の一つです。
卒業後、朝倉文夫の東台彫塑会に入り、後に一緒に塊人社を結成する安藤照らと知り合います。
1925(大正14)年に行われた第六回帝展には、「少女座像」を出品。帝展推薦となりますが、その翌年から結核を煩い、1935(昭和10)年に亡くなります。

昭和10年は多くの彫刻家が亡くなった年であり、この堀江尚志もその一人です。
安藤照の時に書いたように、この作家は舟越保武などの多くの次世代の彫刻家に影響を与えています。
堀江尚志は、日本近代裸婦彫刻の一つの頂点を作り出した作家と言えるのではないでしょうか。

その作風は、京都の弥勒菩薩半跏思惟像のように静寂を尊び、埃及彫刻のようなスケールとシンメトリーの美を持っています。
絵葉書の「をんな」は、シンメトリーでありながらも不自然な格好をさせており、少女座像」への過渡期の作のように思えます。

その少女座像」を堀江尚志は気に入らなかったようで、壊すつもりだったそうです。
そんな彼の作は、生涯の短さもあって残っているものが少ない。
ですので、こういった絵葉書などの写真は、彼の貴重な資料になるだろうと思います。

2013年7月14日日曜日

Intermission 式場隆三郎のサイン

式場隆三郎とは、精神科医で著作家の文化人、民芸運動やゴッホの紹介など広く文化に関わり、特に山下清を世に出したとして有名です。
ですが、今日においての彼の評価は低い。
たしかに、山下清を見出したのは彼ではなかったろうし、どの分野でも傑出した研究や思想があったわけでもなく、また戦後の如何わしいカストリ雑誌等への掲載などあり、どこか山師的なイメージで語られやすい。
山師と言えば、土用の丑の日のプロデュースと言われる平賀源内や、アントニオ猪木対モハメド・アリをコーディネートした康芳夫、AKBの秋元康などがそう言われますが、式場隆三郎もそういった面があったと言えるのでしょう。
式場隆三郎著「ヴァン・ゴッホの耳切事件 」(1957年発行) 
サイン本。1958年なので60才の頃か。

しかし、そんな式場隆三郎だからこそ、語れるものがあるのではないでしょうか。
例えば、ゴッホや山下清をある意味で見世物として世に出した式場ではありますが、そういった美術という「見世物」を肯定したという点で、当時のそして現代の芸術家とそれに関わる人たちが持つ「高尚な美術観」に 一石を投じることができる人物と言えるのかもしれません。
戦後の「高尚な」アメリカ美術一辺倒となった美術界から無視された式場隆三郎ですが、美術ってそうなの?本当はそういうものじゃないの?という疑問を提示できる存在なのではないでしょうか。


また、彼が山下清絡みで批判を受ける事に、耳を落としたゴッホと同様に奇人として山下清を評しながら、戦中にはその自身の意見を黙殺したというのがあります。
戦時下では、国家に役立つものが評価され、ドイツの退廃美術のように、役に立たない美術への批判が高まります。
式場隆三郎は大正期特有のデカダンな美術観を封じ、時流に合せ保身に走ったというのがそれです。
しかし、当時の彼の言動を詳しく見ると、戦時下の式場は障害者にとっての美術の医療的な面を強調しだしたことがわかります。つまり「役に立つ」美術を。

これを保身に走ったと言えば、そうけかもしれません。
しかし、その2つの面は、現代の所謂アール・ブリュットの、そして美術そのものが持つものだとも言えるのではないでしょうか。
つまり、「高尚」でありながら、「見世物」であり、「奇人として」評価されながら、「医療として」評価される美術の ありようであり、それを体現する者が式場隆三郎だったと言えます。

2013年7月5日金曜日

Intermission 岡本太郎のサイン


 1964年に西武百貨店で行われた岡本太郎展のカタログです。
購入者の記入があり、展覧会最終日に、このカタログを購入したようです。

 

その裏表紙にサインが!

このカタログは、最近行った古書市の百円均一の中から見つけ出したものです。
岡本太郎のサインとしてはラフに書かれており、本物かどうかわかりませんが、もし本物だとしたら嬉しいな。
こういうのが出てくるから古書市巡りがやめられません!!

岡本太郎は、滞仏中に民俗学を学び、帰国後、東北や沖縄、縄文土器などを彼にとっての民俗学的視点から語り評価しています。
日本の民俗学と言えば柳田國男が有名ですが、彼と岡本太郎との違いは、柳田國男が神の目線、つまり第三者の視点で日本を語っているのに対し、岡本太郎は、その当事者として、または当事者を模して語っていたことではないでしょうか。
それは柳田國男は研究者であったのに対し、岡本太郎は芸術家であり、その思想や言葉そのものが彼の芸術であり、彼の血や肉だと考えられるからです。彼が語る東北や沖縄、縄文の姿は、彼の芸術の一部だからです。
しかし、柳田國男が、その研究対象に自己を同化させなかった、またはすることができなかったことからわかるように、その民族(コミュニティ)からすれば、当事者であればあるほど自身を神の視点から語ることなどできません。民俗学とは、戦中のドイツや日本がそうであったように、当事者の語りでは歪みを生む危険があります。
では、岡本太郎は神の視点を持った当事者であったのか?そういう矛盾は可能だったのでしょうか?
私は、先に書いたように岡本太郎は当事者を模していただけで、どこまでも異邦人だったのではないかと考えます。
フランスから帰り、軍隊に入ってまでも、彼はどこかこの「日本」に馴染めなかったのではないかと思います。
ゆえに異邦人である岡本太郎の語り口は、丸山真男が日本を語るときのような切羽詰った感がない。
理想論であり、だからこそわかり易く、メッセージが届き易いのではないでしょうか。
彼の言う対極主義というのは、日本人であり、日本を語りながらもながら「日本」人でない自身の芸術観を語ったものではないかと思います。
それは蝙蝠のようであり、半妖怪のネズミ男みたいなもので、悪く言えば中途半端...それが岡本太郎芸術ではないかと思っています。