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2023年3月19日日曜日

皇紀二千六百年記念 皇軍慰問 日本民族小学生作品展覧会 絵葉書


「アンデスの高原」秘露國リマ市    インカ学園六年 比嘉秀男


北米加州 ニユウキヤツスル日本語学校七年 大上戸芳枝
布畦ホノルル市 シユドル学園八年 山本道子


「道」南洋・チャランカノア小学校高一 富山正雄
「風景」ブラヂル・コレゴアズール校七年 橋本重磨


「門」廣島市・幟町小学校 尋六 田村稔
「上海スケッチ」上海・西部日本人小学校 尋五 小竹昭人


「皇紀二千六百年記念 皇軍慰問 日本民族小学生作品展覧会」は日本力行会によって計画され、行われた展覧会のようです。

日本力行会は、1897(明治30)年、島貫兵太夫牧師によって創立。北米、中南米、東南アジア、満州などへ約3万人の移住者を送り出したと言います。
この展覧会では、現地の子供たちの絵を集め、皇紀二千六百年記念として展示したのでしょう。

この絵葉書は、久しぶりに嬉しいコレクションになりました!
今までも児童画の軍事郵便なんかを紹介してきました。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2013/04/intermission.html
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2013/04/intermission_24.html
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2018/04/blog-post.html
今回は、海外の子供たちの絵ですよ。
こういった日本人学校でも児童画教育がなされていたんですね~

お気に入りは、ペルーの「アンデスの高原」
メキシコ壁画運動の作品のようでもあり、アンリ・ルソーの素朴画のようでもあり、どこか諸星大二郎ぽくてイイね。
北川民次よりは全然、良いのではないでしょうか!
どれも作風に国柄が出ているんですよね~

幟町小学校は、
原子爆弾投下により被爆、校舎は全焼しました。
ここが選ばれているのも、なんか不思議。

2020年4月4日土曜日

「森永キャラメル芸術賞」メダル

森永製菓のキャラメルは明治32年より販売、大正2年には「森永ミルクキャラメル」として現在のような形で売られるようになったと言います。
子供たちからの人気を得て、昭和7年には空き箱を加工した工作作品を募集、「キャラメル芸術展覧会」として発表されました。
応募総数は11万6700点、入選作品には賞状や商品が贈られたほか、小学校に対して奨励金が与えられたと言います。
https://www.morinaga.co.jp/museum/history/detail/product/164
昭和12年の第6回募集まで開催されたということですので、昭和7年から12年まで毎年行われたことになります。

今回紹介するのは、そのキャラメル芸術に応募した子供たちに渡された記念メダルです。
第四回ということなので、昭和10年に用いられたものだと思われます。


デフォルメされた裸婦像?が描かれています。
葡萄の上に立っているのかな??
これも神話がモチーフでしょうか。
私には画家青木繁の「わだつみのいろこの宮」のようにも見えますが。


森永製菓は1938(昭和13)年、「キャラメル芸術展覧会」と入れ替わるように日本やドイツ、イタリアの子供たちの絵画を募集した「日独伊親善図画」を始めます。
この展覧会の記念品を作成したのは彫刻家建畠大夢でした。
自身で子供の為の「児童彫塑展覧会」を開催する建畠大夢ですから、こういった事業に大いに関心があったでしょう。

そしてこのメダルを見ると、建畠大夢の作風とこの裸婦像は似てるような気がします。
ただ建畠の銘は「大夢」であり、このメダルの銘とは違うような...
「建畠」の崩しでしょうか...
わかる方がいらっしゃいましたら是非ご教示ください!!

2018年4月29日日曜日

自由学園美術展覧会 絵葉書



自由学園は、大正10年にクリスチャンだった女性思想家の羽仁もと子と羽仁吉一の夫婦によってキリスト教精神(プロテスタント)に基づいた理想教育を実践しようと東京府北豊島郡高田町(現・豊島区)に設立。
現在も、幼稚園から大学まである一貫校として運営されています。「自由学園美術工芸展」として美術の展覧会も行われているようです。

この絵葉書は、戦前に自由学園が行っていた「自由学園美術展覧会」の彫塑作品や絵画です。

実は、自由学園の発足当初からこの学校の美術教育に関わってきたのが、自由画教育の提唱者であった山本鼎です。
そして、彫刻については、木彫を吉田白嶺が、彫塑を山本鼎に推挙された石井鶴三が、大正15年から昭和15年まで教えてきます。
山本鼎との関係も深く、児童自由画協会の会員でもあった石井鶴三は、山本鼎の教育論の彫刻での実践者として適任だったのでしょう。

そう言われると、これらの作品になんとなく石井鶴三臭がするかなぁ~と。

また、石井の発案で、こういった絵葉書が発売されるようになったそうです。彼のおかげで、こうして当時の作品を見ることができるわけですね。感謝。

2018年2月23日金曜日

Intermission 鈴木大拙と式場隆三郎

以前から戦時の仏教思想に興味があって、いつかちゃんと勉強したいと思っているのだけど、どこからはじめたら良いか迷っています。
特に鈴木大拙については、ちゃんと学ばなくちゃと思いつつ....その周辺である山田奨治著「東京ブギウギと鈴木大拙」を読む。
この本は、どちらかと言えば、大拙の息子のアランを軸に語った本です。
ただ、大拙の姿を神格化せずに書いていて、ここから大拙の姿を学び始めれた事は、良かったと思います。

前から興味があって、このブログでも何度か取り上げた式場隆三郎は、アラン挟んで鈴木大拙との親戚になります。アランの三番目の妻が式場の娘なのですね。
そして、柳宗悦を挟んで、師弟でもあります。

こちらがその相関図

式場隆三郎自身が鈴木大拙について書いた文章もいくつかあるようです。

私は、鈴木大拙や式場隆三郎、柳宗悦にアランも含め、彼らが自身の戦争にどういった思いを抱いていたか、とても知りたいと思っています。
彼らがどう考え、どう影響しあったのか。
さらに、民芸や児童画、山下清まで、それらがどのような影響下にあったのか。
そして、現在の私たちにどのように影響を与えているのか?

この「東京ブギウギと鈴木大拙」では、欧米人とのハーフであり、実の子でもなかったアランが戦争にたいしどう感じていたのか、それまでは書かれていません。
しかし、この本のような周辺の研究が当時の歴史全体に光を当てるような気がします。

ちなみに私の浅はかな考えですが、不肖の息子アランを育てたのは、やっぱり僧侶でもない(体験を共にしない)鈴木大拙の禅思想だったような気がします。
そして、戦争との関係は、著者が言うように、禅よりも真宗との関係で見直したほうが良いのではと思いました。

2017年2月3日金曜日

日独伊親善図画 記念品

1937年の日独伊防共協定、そして1940年には日独伊三国同盟が締結されます。
その間の1938年に森永製菓によって募集されたのが「日独伊親善図画」。

以前、いくつかの作品の絵葉書を紹介しました。

これらもまた広義において戦争記録画と呼べるでしょう。

今回紹介しますのは、その受賞者に渡されたのだろう記念楯です。



ブロンズ等ではなく焼物なんですよね。
こんなの子供に渡したら、すぐに割っちゃいそうです。
以前に明治神宮体育大会で、メダルに陶磁器が使われたのを紹介しましたが、これもそういった鉄製品を使用しないためのものかもしれません。

裏面には、「昭和13年」「日独伊親善図画」「森永製菓株式会社」の文字。
表には、男の子と女の子と、その真ん中に仏様が立っています。

こういう記念品に宗教色があるというのが面白いです。
運営者に仏教信仰の強い人が参加していたのでしょうか?

上部に木が立っていることからすると、もしかしらたこれは菩提樹で、そうすると真ん中の仏様は、お釈迦様?
ということは、右側の少女は釈迦に乳粥を渡したスジャータでしょうか。
たしかに、右手をちょっと前に出し、何かを薦めているようにも見えます。
では、左の男の子は誰だろう?

どちらによ、この台座や図柄からは日独伊三国同盟の政治色をまったく感じさせませんね。
裏が無ければ、たんなる仏教の浮彫です。
ますます、この図柄を選んだ人に興味がでてくるなぁ~



そして、底には受賞者の名前が。
この方、ご存命なのかな?


2015年2月1日日曜日

Intermission 奇書! 浅利篤著「児童画とセックス」



昭和34年発行の浅利篤著「児童画とセックス」です。
この衝撃的な題名の本では、多くの児童画を紹介しながら、そこに現れる病理を解明していきます。
かいつまんで言えば、作者は児童画に現れる「赤」と「緑」は性を象徴する色であると主張しおり、そこに病理が現れるのだと。



心の病をその絵から読み解く心理検査は、ロンブローゾの時代から現代でも行われいることでしょうし、その絵に表れるイメージに何かしらの意味づけすることもあるでしょう。
心が性と深いかかわりを持つというのは、フロイトの言うリビドーといったもののように、あることなのかもしれません。

では、何がこの本を奇書としているかと言えば、そういった病理を児童画と、そして性(セックス)とを結び付けていることです。

それがショッキングに思える理由の一つは、子供と性(セックス)という隠しておきたい事柄を直接的に結び付けている点にあるでしょう。
また、児童画とは、かつて自由画と呼ばれ、「大正期の美術教育運動の中で「児童の個性と創造性の開発をめざして山本鼎(かなえ)によって提唱されたもの」であり、そこには、美に対する理想郷として児童画(自由画)がありました。
この本は、そんな美の理想郷に病理と性(セックス)を持ち込んだからだと言えます。

児童画だけでなく、アール・ブリュットに対しても、社会から離れた美の理想郷としてそれを見る人があるようですが、ここに薄ら汚れた人間が土足で入り込んだ印象をもたらしています。

ですが、よくよく考えてみれば、この社会に繋がりを持たないものなど無く、理想郷などそれこそ夢物語でしかありません。
アール・ブリュットなどのある種の美に対し、特権をもたらしているのは私たちの方なのだと、この本は言っているようにさえ思えます。

「児童画とセックス」 だけでなく、「アール・ブリュットとセックス」だってありえるのですね。

昨今、障害者と性が話題になることがありますが、それは大切なことだと思えます。
ただし、そういったことを視覚化しようとする思いだけでなく、隠してしまこともまた、人間の「美意識」なのであり、美術もまたそれぞれに特権を与えることで加担しているのだという自覚が必要なのだと思います。

2014年8月15日金曜日

Intermission 藤田嗣治画 郵便貯金百億円記念 絵葉書


今日という日にどんな作品を紹介しようかと考えまして、藤田嗣治による「郵便貯金百億円記念」絵葉書にしました。
この絵葉書は、皇紀2602年(1942(昭和17年))に発売されてもののようです。
他に川端龍子によるものもあるようです。

藤田嗣治の絵画というよりイラストですね。
サイズの合わない軍服を仕立て直した服を着た男子が、日の丸に百億と書かれた凧を持ち、富士山と戦闘機をバックに立っています。
一枚の絵に多くの情報を詰め込むのは藤田らしいです。
全体の印象として子供向けの挿絵として描いたように思えます。
ただ、男子をモチーフにした彼の作品というのがあまり記憶に無いためか、どうもしっくりこない感があります。
藤田の作品だと言われないと気づかない。
きっと藤田のどんな作品にも(たとえ戦争画でも)感じる画狂としての彼の特質が無いからかもしれません。

2014年8月13日水曜日

Intermission 藤井浩祐の作品展が開催されるそうです。

8月29日~10月19日の間、岡山県井原市田中美術館にて「彫刻家 藤井浩祐の世界」展が開催されるそうです。
藤井浩祐は、1907(明治40)年、東京美術学校彫刻科卒、第一回文展に出品します。
以後も官展に出品を続け、近代日本彫刻史を第一線で見続けた作家です。
官展だけでなく、銅像制作を行い、また日本美術院の同人でもあり、 児童彫塑の展覧会を行うなど、その活動は幅広い。
さらに、下の文鎮やペーパーナイフの様な作品までも多く手がけています。

藤井浩佑作 毎日新聞社主催 第14回映画コンクール記念品

藤井浩佑作 早稲田大学、大隈重信像の ペーパー ナイフ

作品は多数ありながらも主となるものが戦火で失われたことと、彫刻の啓蒙書である「彫刻を試みる人へ」の執筆などの多彩な仕事ぶりによって、逆に藤井浩佑像というものの焦点が合いにくい作家です。

また、古風というか伝統的というか保守というか、どこか前時代的なイメージを抱かせる作家でもあります。同時代の朝倉文夫や北村西望が、新進気鋭として出発したのに対し、一歩引いているように見えます。
扱う主題は女性像が多いのですが、主体性を持つ女性というより、浮世絵的な男性視点の女性像、柔らかく母性を感じさせる女性を得意とした点も、前近代的に感じさせる要因なのでしょうか。
かと言って国粋というわけでもなく、そのため戦時の時風に乗ることもなく、 たんたんと「藤井浩佑」という作家としての仕事をこなした人物ではないかと考えています。
それは、市井のために、他者の為にある彫刻という、とても優しい作風であり、それが藤井浩佑という作家なのだと思います。

今回の展覧会では、そんな藤井浩佑を日本美術史に位置づけるようなものとなるのではと期待しています。

2014年7月6日日曜日

Intermission 明治大正/異端の科学 奇なるものへの挑戦

岐阜県博物館へ「明治大正/異端の科学 奇なるものへの挑戦」を観てきました。
チラシにもありますが、千里眼、念写、霊術、変態心理、メスメリズム...生命主義、ヒステリー、心理学、神秘主義...と、明治、大正時代に日本の近代化の影に表にとノイズのように現れた物事の数々をまとめ展示した、ものすごいマニアック且つ、僕としては大好物な展覧会でした。

この展示でも言われていたのですが、当時、こういったオカルトは教養の一部でした。
知識人にとっては、否定肯定関わらず、知識として共有していました。

現在、私達が当たり前の文化だと認識している日本の文学や科学や美術や音楽などは、この混迷の時代にオカルトと結ばれ、そしてそこからの派生としてあります。
しかし、日本近代文学史や美術史では、こういったオカルトは語られることはありません。

例えば、この展覧会でもデスマスク が展示されていた岡田虎二郎
彼の提唱した岡田式静座法は、修身によって心身を強健とするといったものでしたが、それを支持した新宿中村屋の相馬黒光らによって、多くの美術家にも信仰者がいました。
このデスマスクを作成した北村正信 もそうだったでしょうし、中村屋と親交があった中原悌二郎もそうでした。
中原悌二郎の彫刻作品のいくつかは、その思想下のものだと言えます。
彼は岡田虎二郎死後もその教えを守って薬を飲まず、結果自身の命も縮めることになりました。

ゴッホについて多くの著作を持つ式場隆三郎もまた、こういったオカルトを教養とし、自身も半分足を突っ込んでいただろうと思います。
よって、彼の見出した山下清や日本のアール・ブリュットなども、こういったオカルトを起源の一つにするものと言えるのではないでしょうか。

こういったものを正史として扱おうとするこの展覧会は、大変意義のあるものではないかと思います。
ただ、明治期からの日本近代宗教史、特に新興宗教について(一部、大本教についてはありましたが)を一緒に並べるととができれば、よりこの歴史に立体感がでるのではないでしょうか。
そしてオウム真理教までもその軸に入れることができれば...

2014年5月22日木曜日

Intermission 軍事郵便




これらの絵は、戦時下で用いられた軍事郵便に描かれています。
当時、この絵を描いた子供らは、誰に送るつもりだったのかな?

2014年4月13日日曜日

Intermission 西田秀雄著 「日本美術と児童画」


この本は、昭和19年12月という、戦争末期に発売されたものです。

前半は、著者自身の児童画教育法を述べています。
そこからは、自由で豊かな児童画を目指す、著者の子供たちへの優しい視点を感じます。
『芭蕉の「子に飽くと申す人には花もなし」の句は児童画を真に楽しい気持ちで見ることのできる人こそ、芸術を愛し得る人であると解してよいであろう』とまで述べています。

後半は、日本美術と児童画との関わりについて述べています。
そして、その当時の美術作品として、あの藤田嗣治の「アッツ島玉砕」について、書かれています。

その一部を抜粋
『この絵を見てどんな気持ちがするか。」と言ったところ、「この兵隊さんの仇討をしてやるぞ。」「日本の兵隊さんがこう言う風にして死んでいく。くやしいくやしい、早く大きくなってこの兵隊さんの代わりに戦争しに行くんだ。」子供の心のどん底からほとばし出る悲痛な言葉に、昭和の子供の真の姿を強く感じた。』

作者は授業として藤田の「アッツ島玉砕」を鑑賞させたようです。
その結果、子供たちはケレン味のない教科書通りの素直な対応をしています。
この子達が、後の針生一郎(彼は当時この絵を見て違う印象を持ったようですが)や吉本隆明になるのだろうな。

2014年3月1日土曜日

Intermission 北原白秋と戦争

詩人北原白秋が地元の日本ライン下りを体験し、文章を残していることを知りました。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000106/files/4639_15645.html
日本ライン下りは、残念なことに現在は運営されてません。
ライオン岩も駱駝岩も、木曽川に沿って走る車道から見ることができるだけです。


この北原白秋の文中にある「五色の日本ライン鳥瞰図」とは、吉田初三郎のものだと思われます。
吉田初三郎は、文化人でもあった実業家上遠野富之助の招きで犬山に来ますが、北原白秋も同様に招かれたのかもしれません。

このブログでは、戦争と芸術家の関わりについて紹介しているのですが、北原白秋もまた、芸術による戦争翼賛を行なったことで知られます。
それについて書かれた本、中野敏男著『詩歌と戦争―白秋と民衆、総力戦への「道」』を読みました。
あの戦争は、「軍部の独裁」といった簡単な理由で行われたものではないのだと、この本からそう読み取りました。
民衆がそれを欲し、芸術がそれに言葉を与え、政治はそれに沿ったのだと。
北原白秋ら芸術家らは、国家による唱歌教育に反発し、子供のための童謡を生み出します。
そんな童謡は、日本人の内的な美(郷愁観)を詠います。
つまり、彼らの反体制的活動は、国家に与えられる上からの愛国ではなく、自発的な(自由主義的な)美意識としての愛国を子供たちに根付かせます。
そして、それが民衆の望みでだったのだと。

反体制は、反戦争ではなく、国家以上に積極的な戦争翼賛になりえるという歴史の教訓ですね。

これは詩歌だけでなく、たとえば児童画教育もそうだったと言えると思います。
国家主導の児童画教育もあったのですが、現場の教育者による反発もあったようで、たとえ戦時下であっても、かなり自由な教育が行われていたようです。
そんな自由な教育として「戦時下の児童画」があります。
自発的な(自由主義的な)美意識としての愛国教育ですね。


しかし、こうした姿は「国家に押さえつけられた戦時下の悲惨な日本」というイメージからズレるからかあまり語られません。
当時の大人たちがあえての「愛国」であったのに対し、子供たちは自発的な「愛国」を植え付けられていた故に、戦後それをひっくり返されたことによる傷が「戦時下の悲惨な日本」というイメージを持たざるを得なかった理由ではないかと思います。

この『詩歌と戦争―白秋と民衆、総力戦への「道」』は、そんなイメージで隠されたリアルな戦時下の民衆を描いた本ですね。
 同じように、当時のリアルな姿を描いたケネス・ルオフ 著「紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム」もあります。
こちらは未読なので、読んでみたいです。

2013年7月14日日曜日

Intermission 式場隆三郎のサイン

式場隆三郎とは、精神科医で著作家の文化人、民芸運動やゴッホの紹介など広く文化に関わり、特に山下清を世に出したとして有名です。
ですが、今日においての彼の評価は低い。
たしかに、山下清を見出したのは彼ではなかったろうし、どの分野でも傑出した研究や思想があったわけでもなく、また戦後の如何わしいカストリ雑誌等への掲載などあり、どこか山師的なイメージで語られやすい。
山師と言えば、土用の丑の日のプロデュースと言われる平賀源内や、アントニオ猪木対モハメド・アリをコーディネートした康芳夫、AKBの秋元康などがそう言われますが、式場隆三郎もそういった面があったと言えるのでしょう。
式場隆三郎著「ヴァン・ゴッホの耳切事件 」(1957年発行) 
サイン本。1958年なので60才の頃か。

しかし、そんな式場隆三郎だからこそ、語れるものがあるのではないでしょうか。
例えば、ゴッホや山下清をある意味で見世物として世に出した式場ではありますが、そういった美術という「見世物」を肯定したという点で、当時のそして現代の芸術家とそれに関わる人たちが持つ「高尚な美術観」に 一石を投じることができる人物と言えるのかもしれません。
戦後の「高尚な」アメリカ美術一辺倒となった美術界から無視された式場隆三郎ですが、美術ってそうなの?本当はそういうものじゃないの?という疑問を提示できる存在なのではないでしょうか。


また、彼が山下清絡みで批判を受ける事に、耳を落としたゴッホと同様に奇人として山下清を評しながら、戦中にはその自身の意見を黙殺したというのがあります。
戦時下では、国家に役立つものが評価され、ドイツの退廃美術のように、役に立たない美術への批判が高まります。
式場隆三郎は大正期特有のデカダンな美術観を封じ、時流に合せ保身に走ったというのがそれです。
しかし、当時の彼の言動を詳しく見ると、戦時下の式場は障害者にとっての美術の医療的な面を強調しだしたことがわかります。つまり「役に立つ」美術を。

これを保身に走ったと言えば、そうけかもしれません。
しかし、その2つの面は、現代の所謂アール・ブリュットの、そして美術そのものが持つものだとも言えるのではないでしょうか。
つまり、「高尚」でありながら、「見世物」であり、「奇人として」評価されながら、「医療として」評価される美術の ありようであり、それを体現する者が式場隆三郎だったと言えます。

2013年4月21日日曜日

Intermission 戦中の児童画

山本鼎により大正頃から広まった児童画の教育は、戦中も時局の影響を受けながらも行われていました。
下の絵葉書はこういった時代の児童画です。



  

上の4枚は、軍事郵便に用いられた児童画です。
軍事郵便とは、国外などに派兵された軍人宛にその家族から、または軍人から家族に送られる葉書などで、その為か銃後(国内の家族)の姿を描いた作品が多い。

次は、日独伊親善図画の絵葉書。
日独伊親善図画とは、森永製菓が主催した同盟三国(日本、ドイツ、イタリア)間で行われた児童画の交流事業で、昭和14年には、東京府美術館で展覧会が開催されています。 
 






2013年3月10日日曜日

彫刻の「教育」に就て その2

前回は、彫刻家になるための教育史についてざっと書きましたが、今回は児童教育における彫刻ついてです。

近代児童教育における彫刻を用いた教育は、「手工科」として、明治19年に高等小学校へ、ついで尋常小学校にも随意科目として設置されたことから始まります。
大正15年の小学校令改正によって、手工科が必修となり、教育にしめる彫刻の役割が大きくなります。ここで求められた教育効果は、技術としての手工だけでなく、情操教育としての面も強調されています。
そういった情操教育としての美術教育のあり方を提唱したのが、山本鼎の自由画運動で、彫刻を用いた教育もそんな大正デモクラシーの流れの中で生まれ育ったようです。

では、山本がどういった教育効果を志向していたかについて、手元に大正15年発行の「アルス婦人講座」があるので、そこに書かれた山本鼎の自由画教育講座「家庭と美術教育」という文章を抜粋してみます。
 山本は言います「子供達が好んで絵を描く、それは実に優しい良い遊びだ。」「極く自然に彼らの『見る生活』が開展する。」「子供の眼は技術的行楽のうちに自然に成長し、やがて美を識り出す。」
山本にとって「美」意識の教育の目的とは、「その結果として国民全体、いや人類全体が、美に対する徳性を有つに至る事」 だと言います。
この「美」意識信仰は、あのマルクス信仰のように、皆が念じれば幸せになれるというような、イデオロギーとして熟されたものだとは言えないところもありましたが、当時の教育にたいするカウンターとして大きな意義があったろうと思います。

そのような自由画運動ですが、彫刻における提唱者の一人が横井曹一です。彼は、大正13年に、「児童芸術 粘土彫塑と木彫」という本を出版しています。

そういった流れの中で、彫刻家たちもその技術と思想を児童教育に注ぎ込みはじまめす。
大正12年には、すでに東京美術学校の教授であった建畠大夢や北村西望ら児童彫塑展覧会を開いています。
それを記事にした読売新聞の婦人欄では「子供が眼に観て感じたままの表現」として、西望の談を掲載「例えば鶏を作った場合にそれがたとえ形が整っていなくとも、鳴くところを感じて作った口を開いたものであれば、それで立派に認めてやるというようにする。ようするに技工などを問題にしてはならぬ」と、山本鼎ほど徹底されてはいませんが、児童の表現意識優位の教育法を推奨しています。

また、同年、藤井浩祐によって三越で、同じく児童彫塑の展覧会が行われています。
面白いのは、ここで展示した作品を売って生徒に還元しているってことです。

昭和16年発行 児童用美術の教科書「エノホン」より

現役の彫刻家たちは、彫刻(彫塑)という新しい分野を育てるために、そして彼らの思想を伝えるために児童教育に積極的に関わろうとしたようです。
先に書きました「民族の身体に就て。」にある近代人としての自我を描くことを児童教育に求めます。
もしかしたら、児童教育の方が、彫刻家たちのそれより成功していたのかもしれませんね。

このような彫刻を用いた児童教育は、戦後も必要とされ、行われますが、そこはまた機会あれば語ることにします。

2013年1月9日水曜日

2013年

謹賀新年


今年も、良いメダルや絵葉書の収集ができると良いな~
画像は、戦中使われた軍事郵便に描かれた児童画。可愛いね。