2013年4月21日日曜日

Intermission 戦中の児童画

山本鼎により大正頃から広まった児童画の教育は、戦中も時局の影響を受けながらも行われていました。
下の絵葉書はこういった時代の児童画です。



  

上の4枚は、軍事郵便に用いられた児童画です。
軍事郵便とは、国外などに派兵された軍人宛にその家族から、または軍人から家族に送られる葉書などで、その為か銃後(国内の家族)の姿を描いた作品が多い。

次は、日独伊親善図画の絵葉書。
日独伊親善図画とは、森永製菓が主催した同盟三国(日本、ドイツ、イタリア)間で行われた児童画の交流事業で、昭和14年には、東京府美術館で展覧会が開催されています。 
 






2013年4月14日日曜日

小倉右一郎 絵葉書


小倉右一郎は1881(明治14)年生まれ。東京美術学校卒業後、大正5年のに「闇路の人々」が特選となるなど官展に出品し、高く評価されます。
以前紹介しました絵葉書問題で書いたように、近代彫刻の指導的な立場としても活躍されます。
数多くの銅像を制作、官展の作品評などで多くメディアにも登場します。

しかし、今日の近代美術史に彼の名前を見ることはあまりありません。
彼の同期だった朝倉文夫や藤井浩佑らの影に隠れてしまっている印象です。

上記の絵葉書は小倉右一郎作、第七回帝国美術院展覧会出品「蜜」。
上野公園内にある国際子ども図書館前、小泉八雲記念碑にこの作品が使われていますが、どれくらいの人が小倉作だと知っているのでしょう?

しかし、「栄光なき天才たち」ではないですが、彼の日本近代彫刻に与えた影響は大きかったと言えるではないでしょうか。
その理由の一つは、後進の育成です。
教育においては、あの朝倉文夫より勝っていたように思えます。
滝野川彫塑研究所等で彼に指導を受けた彫刻家は、「陽咸二」「中野四郎」「松木庄吉」「津上昌平」「山畑阿利一」など。
朝倉文夫や北村西望、建畠大夢のように母校東京美術学校で教鞭を取れなかった小倉ではありましたが、彼の教育力は確かなものだったと言えるでしょう。
戦後、小倉右一郎は、高松工芸高校長に就任、その教育力を発揮します。

また、東京都横綱町にある関東大震災の災害を偲んで建てられた、小倉右一郎作の震災遭難児童弔魂像は、戦時の金属回収令により撤去されましたが、昭和36年に弟子の津上昌平と山畑阿利一によって再建されています。
こういったことからも、小倉の人徳を感じます。


小倉右一郎の作品には、児童が多い。そこにも彼の教育への思いを感じることができます。
こういった児童の像というのは、この時代以降もそれほど多くの彫刻家が手がけているわけではありません。
戦前後も裸婦や雄々しい男性像に需要があり、子供の像といえば二宮金次郎像くらいなものです。
特に今日では、このような裸の像はほぼ不可能なモチーフだと言えるでしょう。
戦争彫刻のように、ここにも消えた彫刻(のモチーフ)があるわけです。

一番上の絵葉書は、昭和7年の小倉右一郎による残暑見舞い葉書です。
制作中の作品は弘法大師空海像で、現在、故郷香川県の満濃町神野寺にその銅像が建てられています。

2013年4月9日火曜日

児島善三郎 作「胸像」絵葉書


画家、児島善三郎によって制作された胸像です。
児島善三郎は、こういった彫塑も試みているんですね。
すごく上手いわけじゃないけど、このモガな像は、どこか愛嬌あって嫌いじゃないです。

彼が影響を受けたフランス・フォーヴィスムは、ドイツで起きていた表現主義運動に関心を持たなかったそうです。
この彫刻は、フォーヴィスムにある強い作家の心情を描くことが出来ているとは言えません。
もし、彼が表現主義を少しでも志向していたならば、この彫刻も違ったものになっていたかもしれませんね。

この作品が出品された第16回二科展は1929(昭和4)年。
児島善三郎がフランス留学から帰って、2回目に二科展出品作のようです。

絵葉書の上部に児島善三郎のサインがあります。
さすがおフランス帰り。オシャレざんす!

2013年4月7日日曜日

畑正吉 作「スポーツ」絵葉書


以前、明治神宮体育大会のメダルと、その原型作家の一人である畑正吉を紹介しました。
上記の絵葉書に描かれた作品も、第十回明治神宮国民体育大会記念として制作された畑正吉のレリーフです。
この大会の種目でしょうか、多様なスポーツの像が、浮彫で描かれています。トラック競技だけでなく、弓道や剣道、ゴルフ、スキーなどもあるようです。
1939(昭和14)年に行われたこの大会以降、軍事的な鍛錬の要素が濃くなっていきます。

畑正吉は、この作品を代表作の一つとして考えていたのか、昭和9年発行の美術指南書「総合美術研究所 7」に一頁使ってこの作品を紹介しています。
その書では、畑はレリーフ制作について書いており、レリーフとは「絵画的と彫刻的と両途の応用が可能であるために、その用いられる範囲は極めて広汎にわたっている。されば、ある意味においては、人口の工作物の殆どすべてに、その技法を及ぼし得るといってもよいのである。」と考えを述べています。

畑正吉は、レリーフ作成技術を用いた硬貨、メダル、賞牌、建築等の発展の功労者であり、彼なくして日本にこういった技術は根付かなかったかもしれません。
ただし、その後スターダムにのし上がった日名子実三と比べると、お硬い印象の仕事で、彼の優れた技術をもってしても、西洋の技法を日本独自の、そして彼自身のものにしたとは言いがたいと思います。
彼は、明治政府が求めた芸術家というアルチザンだったと言えるでしょう。

畑正吉は、明治15年富山県生まれ。明治40年に農商務省海外練習生としてヨーロッパに留学します。
この時、同じく農商務省海外練習生だったのが、高村光太郎です。
二人は同じ日本の彫刻家として、同じスタートラインに立ちますが、後に芸術の自立を求めた高村と、それを技術として用いた畑と、まったくの正反対な芸術観を持つに至ります。
官展を軽蔑した高村と異なり、畑は44年文展に初入選後帝展の初期まで作品を出品、そのレリーフ技術を教え広めるために東京美術学校や東京高等工芸の教授をつとめます。
また、造幣局,賞勲局の嘱託として記念メダルやレリーフなどを制作、このように政府に近い場所で仕事をこなしていた彼は、1935(昭和10)年には、日名子実三と共に国粋色の強い「第三部会」に参加します。

昭和41年死去。享年84。

このレリーフ「スポーツ」は当時の文部省の体育研究所が所蔵したらしいので、現在もまだ持ってるのかもしれませんね。