上記の絵葉書に描かれた作品も、第十回明治神宮国民体育大会記念として制作された畑正吉のレリーフです。
この大会の種目でしょうか、多様なスポーツの像が、浮彫で描かれています。トラック競技だけでなく、弓道や剣道、ゴルフ、スキーなどもあるようです。
1939(昭和14)年に行われたこの大会以降、軍事的な鍛錬の要素が濃くなっていきます。
畑正吉は、この作品を代表作の一つとして考えていたのか、昭和9年発行の美術指南書「総合美術研究所 7」に一頁使ってこの作品を紹介しています。
その書では、畑はレリーフ制作について書いており、レリーフとは「絵画的と彫刻的と両途の応用が可能であるために、その用いられる範囲は極めて広汎にわたっている。されば、ある意味においては、人口の工作物の殆どすべてに、その技法を及ぼし得るといってもよいのである。」と考えを述べています。
畑正吉は、レリーフ作成技術を用いた硬貨、メダル、賞牌、建築等の発展の功労者であり、彼なくして日本にこういった技術は根付かなかったかもしれません。
ただし、その後スターダムにのし上がった日名子実三と比べると、お硬い印象の仕事で、彼の優れた技術をもってしても、西洋の技法を日本独自の、そして彼自身のものにしたとは言いがたいと思います。
彼は、明治政府が求めた芸術家というアルチザンだったと言えるでしょう。
畑正吉は、明治15年富山県生まれ。明治40年に農商務省海外練習生としてヨーロッパに留学します。
この時、同じく農商務省海外練習生だったのが、高村光太郎です。
二人は同じ日本の彫刻家として、同じスタートラインに立ちますが、後に芸術の自立を求めた高村と、それを技術として用いた畑と、まったくの正反対な芸術観を持つに至ります。
官展を軽蔑した高村と異なり、畑は44年文展に初入選後帝展の初期まで作品を出品、そのレリーフ技術を教え広めるために東京美術学校や東京高等工芸の教授をつとめます。
また、造幣局,賞勲局の嘱託として記念メダルやレリーフなどを制作、このように政府に近い場所で仕事をこなしていた彼は、1935(昭和10)年には、日名子実三と共に国粋色の強い「第三部会」に参加します。
昭和41年死去。享年84。
このレリーフ「スポーツ」は当時の文部省の体育研究所が所蔵したらしいので、現在もまだ持ってるのかもしれませんね。
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