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2023年11月23日木曜日

日名子実三 作 カメラを持つ女性像

 今日は久しぶりに日名子実三のレリーフです。

このレリーフには、賞の名が入ったプレートが取り付けてあったような跡がありますが、プレート自体無く、どんな賞のための楯だったかはわかりません。

描かれているのは、カメラを持つ裸婦ですね。
彼がよくモチーフとして扱う日照も描かれています。
裸婦が手に持つのは、蛇腹カメラですね。
私の知識では、このカメラの型式はわかりません。なんでしょうか?

この裸婦ですが、日名子には珍しい、面長の女性です。
彼のお気に入りのモガな女性モデルとは異なる気がします。
1932(昭和7)年作の「第3回国際広告写真展覧会」では、この女性モデルで制作されています。
手に持つカメラは、同型に思えます。
どうでしょうか?
髪型が違うだけ?

1931(昭和6)年大阪朝日新聞主催「全関西写真連盟 撮影競技大会」メダルは、今回のレリーフのモデルと似ています。

こちらのモデルにお願いしたのでしょうか?
でも、この人の体は、本職のバレリーナなのか、引き締まってるし……
さて??

2023年6月12日月曜日

日名子実三 作 昭和2年 汎太平洋水上競技大会・国際水上競技大会 メダル



久しぶりに日名子実三のメダルです!
昭和2年に、報知新聞社が米濠の選手をまねき、東京で汎太平洋水上競技大会を、大阪で国際水上競技大会を同時期に開催します。

メダルの表面にはプールから飛び出た掌の上に立つ選手、裏面にはトビウオです。
日名子は、水上競技のメダルにトビウオのモチーフを多く使います。
表のこのデザインは、なかなかシュールで良いですね!
本郷新の「援護の子」のように、指に抱かれるモチーフって、当時でも無いわけではないですが、こうプールからニョッキっと出してるってのは見たことがないですね。

マジンガーかまたはターミネーター2のラストとか、岡本太郎の手の椅子?
釈迦の掌??
こういう遊びを日名子は時々やりますね。
このシュールさを支えているのが、腕を広げた選手のシンメトリーを外して描いたリアルさです。
この日名子の力量ゆえの写実が、笑えるデザインに重みを与えているのだと思います。

2021年11月15日月曜日

日名子実三 作 昭和5年 第12回関東学生陸上競技対抗選手権大会 メダル



日名子実三作、昭和5年 「第12回関東学生陸上競技対抗選手権大会」メダルです。
久しぶりの日名子の作品です。
まだまだ知らない作品があるものなんですね。

弓を引く神武天皇像でしょうか?
後輪と弓の形をメダルの円形に沿わせ、弓を引く肉体による直線で構成された日名子らしいデザインになってます。
弓を引く像といえば、ブールデルの『弓をひくヘラクレス』や平櫛田中の『活人箭』などが有名です。そういった作品を参照しつつ、日名子らしく浮彫でまとめられた秀作だと思います。

コロナが流行りだしてから、ぐっとメダルの収集量が減りました。
経済活動の縮小だけでなく、人の動き自体が減り、こういうニッチで需要の無い物の世に出てくる機会も減ってしまったのだと思います。
メダルやレリーフを展覧会などでお見せする機会も減りました。
それでも、こうした彫刻世界に興味ある方にあるだろうと、こうして記事を書き続けます。
もし、どこかで展示してみたいという方ありましたら、どうぞご連絡下さい。
nakakakatsu@gmail.com

2021年5月31日月曜日

日名子実三 原型「島儀七翁之像」メダル




1918(大正7)年、日名子が東京美術学校を卒業した年の作品です。
広田肇一著「日名子実三の世界」には、このメダルが最古のものだと書かれています。
日名子のメダルを集め初めてかれこれ8年くらい。ようやくこれが手に入ったのかと感無量ですね~

「島儀七翁之像」とあることから、日名子による胸像制作の記念品としてのメダルではなかったかと推測します。
島儀七がどういった人物かは不明です。
造形は、立体感を感じるしっかりとした浮彫ですね。
さすが主席卒業者と言ったところでしょうか。


裏側が何もデザインされていません。そこまでの技術の無い業者に頼んだのか、または予算が無かったのか。

サインは英文字でJ.Hinagoと筆記体で書かれています。
後のデザイン化された文字ではなく、彫刻に刻む正当に合わせたという感じがしますね。
そう思うと、なんだか当時の日名子の若々しい気負いまで見えてきそうです。

2021年2月8日月曜日

日名子実三作 構造社第三回展覧会出品「嫉妬」

1929(昭和4)年に行われた構造社第三回展覧会出品作「嫉妬」です。
かなり面白い作品です。
当時の官展なんかではまったく見ることのできない、見世物とか神社仏閣なんかの世界です。
教会にあるガーゴイルに影響を受けたのでしょうか?

というのも、この年の初めに日名子は欧州留学から戻ります。
この作品は留学中の作品なのかもしれません。
日名子は第三回展覧会に、20数点の作品を出品し、その中に「虚栄」「誘惑」という総合試作がありました。
しかし、この「嫉妬」は目録には載っていません。
そこにはどんな意図があったのか。興味ありますね。

2021年1月4日月曜日

日名子実三 作「第18回東京箱根間大学専門学校駅伝競走」参加賞メダル


昭和12年に行われた「第18回東京箱根間大学専門学校駅伝競走」参加賞メダルです。
かなり前ですが、第19回のバックルを紹介しましたが、同じ日名子のデザインのメダルですね。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2014/01/19.html

ただ、バックルにはない背面のデザインがなされています。
中央に鈴?でしょうか、円に沿って10人の走者が配置されています。
これは、10区を表しているのでしょう。
つまり1つのチーム全員が描かれ、タスキを繋いでいる図なんですね。
このメダルを受け取った選手は、チームの一人一人を思い出した事でしょうね。

2020年6月24日水曜日

日名子実三作 大友宗麟公銅像除幕式記念 メダル




昭和12年に大分新聞社主催による大友宗麟公銅像の除幕式記念が行われました。
銅像の作者は日名子実三。
このメダルはその除幕式を記念して制作されたものです。

建立地は大分県大分市勢家町 神宮寺浦公園。
銅像の台座には『銅像を建設し以て遺徳を顕彰すると共に永く郷党発奮の源泉たらしめん事を期す』と刻まれています。
しかし、この大友宗麟公銅像は大東亜戦争中の金属回収令によって台座のみとなります。
ただ現在は、彫刻家長谷秀雄によって再建され同地で拝むことができるようです。

戦時中は多くの銅像が回収されました。
戦後も同様に戦争に関連した銅像は取り壊され捨てられます。
そして現代もまた銅像はうち捨てられています。




以前も「銅像受難の現代」と題して書きました。
銅像という人の形を模したモニュメントは、常に破壊され、捨てられる運命なのでしょうか?

確かに諸行は無常であり、常に『遺徳を顕彰する』ことも『共に永く郷党発奮の源泉たらしめん事』も難しいのでしょう。
もしかしたら銅像とは壊されるまでが一つのセット。
失う事も含めて「銅像建立」と言うのではないか。
そんなことを思います。

建立者のどんな想いも、時代の中で解釈が変わり、新たな想いの対象として破壊される。
または良い意味でも悪い意味でも忘れ去れ、不要となる。
それが「銅像」なのではないか。
鳥の糞だらけで誰もが誰かわからない銅像。
人身御供のように倒され、燃やされ、引きずり回され、挙句に海に投げ捨てられる銅像。
人を模した銅像は、建立時と同じように捨てられる姿も一つの祭事なのです。
今でも想いを背負った人形を川に流す祭事がありますが、銅像もまたそういった呪をもったモノなのではないか。
そして、そこに銅像が銅像たる所以、役割があるのではないかと思うのです。

ですから、どんどん世にある銅像を倒してしまえば良いのでしょう。
台座さえも失って、そこに何があったか忘れて行けば良いのでしょう。
猿の惑星の自由の女神像のように、まるで山や川がただそこにあるように。
私のような好事家がちょっと思い出す...それくらいでちょうど良いのでは。

2020年6月19日金曜日

大正14年発行 彫刻雑誌「ハニベ」創刊号 その2

この雑誌を読みたいとのご希望がありましたので「ハニベ」創刊号の前頁を載せます。
画像で申し訳ないのです。写真も写りが悪くてすみません。
うまく曲げられなかった頁は別撮りしています。
読めますでしょうか??



















2020年5月21日木曜日

日名子実三 作「上野先生像」





日名子実三による「上野先生像」です。
上野先生??誰でしょう?
日名子に関わりある人物だとしたら、地元大分の偉人でしょうか?
または東京で日名子が先生と呼ぶような人物でしょうか?
例えば昭和19年に東京美術学校長になった美術史家「上野直昭」はどうでしょう?
でもちょっと顔が違うよう...

2020年4月2日木曜日

日名子実三 作「全関西写真連盟 撮影競技大会」メダル



日名子実三による、昭和6(1931)年大阪朝日新聞主催「全関西写真連盟 撮影競技大会」メダルです。

パルテノンをバックに花と重なりながら踊る女性像が描かれています。
裸婦像のメダルというのは、日名子といえど実は珍しい。
写真芸術に対する賞メダルとして、このような姿を選んだのでしょう。

そうして選ばれたこの女性は誰でしょうか?
バックのパルテノンからギリシャ神話ではないかと推測します。
描かれた花はユリ?それともアヤメ?
アヤメを模した紋章フルール・ド・リスは芸術の象徴でもありますね。
であるとすれば、この女性はアヤメを聖花とする女神イーリスでしょうか?
パルテノン上空にある半円はイーリスが虹の女神であることを表しているのかもしれません。

ではなぜ女神イーリスがバレエのように踊っているのでしょう?
この女性はとても肉感的で、象徴され定型化される「女神」を描いているように思えません。
日名子実三は、実際のダンサーをモデルにこの女性を描いたのかも。
ん....よくわかりません!

女神についての考察はとりあえずここまでにして、次はこのメダルを用いた「全関西写真連盟 撮影競技大会」についてです。

明治後半から昭和初期にかけて、文芸や美術(文人画や水彩、または自由画など)等のアマチュアによる表現文化が発展します。
写真もまた同様で、1925(大正14)年には、朝日新聞社の力添えによって樺太・朝鮮・台湾までを含む約420の写真団体の連合機関として全関西写真連盟が設立します。
後に全関東写真連盟ができ、この年に両者を統合した日本写真連盟が設立されます。

全関西写真連盟は設立の翌年より展覧会を行っており、この「撮影競技大会」はその中でも撮影者が特定の日時に集まって撮影会を行う競技大会として行われたと考えられます。

関西の写真界についてはコチラに詳しく紹介されていました。
撮影競技大会についてはわかりませんでしたが、とても奥行きのある文化が関西の地で発展していたようです。

こういった地方の個別の文化が大東亜戦争によってフラット(一律化)になります。
戦時下のアマチュア文化については、大塚英志著『大政翼賛会のメディアミックス 「翼賛一家」と参加するファシズム』でも詳しく書かれています。
翼賛体制によって文化が一律化されるんですね。
地方個別の文化が統一されたメディアで均され、一色となるわけです。
そう考えると、東京で活躍する彫刻家である日名子をこのメダルの製作者に選んだのは、そういった時代の表れだったのかもしれません。

それでも、地方という実際の距離を伴う不自由は、それゆえに異なる文化を作ってきます。
東京至上主義であった日本の彫刻史ですが、地方の異なる彫刻文化があるはずです。
最近はそのような文化に興味を持っています。

2019年8月12日月曜日

日名子実三 原型 昭和14年 第25回 全国中等学校優勝野球大会 メダル



「全国中等学校優勝野球大会」は現在の全国高等学校野球選手権大会の前身となる大会です。そのメダル制作には、日名子の他に斉藤素巌や朝倉文夫ら多くの彫刻家が関わっています。
上記のメダルは広島の予選大会のもの。
予選からこんな立派なメダルを手にしていたんですね。

そして、レプリカですが全国大会のメダルも紹介します。

昭和14年の第25回の優勝校は、 和歌山の海草中等学校。
現在の和歌山県立向陽高等学校です。
海草中等学校は翌年の26回大会と二連覇し、その原動力となったのが25回の準決勝と決勝でノーヒットノーランを達成した嶋清一選手でした。
彼は学徒出陣によって海軍に応召され、24歳で戦死します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E6%B8%85%E4%B8%80

嶋清一もこのメダルを手にしたのでしょう。

彼をモデルに描かれたのがアニメ「巨人の星」第125話「ズックのボール」です。
星飛雄馬の父一徹が戦場で出会ったのが嶋清一でした。




一徹は戦死した嶋清一からズック製のボールを受取ります。
そのボールを負傷した腕で投げたことが、大リーグボール2号を生むヒントになったというお話しです。
それにしても昔のアニメは壮絶ですね。

アニメでなく現実には、2008年に嶋清一に対して野球殿堂特別表彰が決定、その年の8月15日(終戦の日)、第90回全国高等学校野球選手権記念大会第14日目第一試合開始前に表彰式が行われたそうです。

もうすぐ8月15日ですね。

2019年8月5日月曜日

大塚英志著『大政翼賛会のメディアミックス 「翼賛一家」と参加するファシズム』を読む

大塚英志氏の著書は幾つか読んできたつもりですが、今回は痺れた。
面白い!
彼が80年代に始めて行ったと考えていたメディアミックス戦略や、昨今のオタク的消費者⇔表現者のあり方が、先の大戦の中で、国家主導ですでに行われてきたことを明らかにした本です。

よく考えてみればあたりまえ、戦前と現在は繋がっていて、大戦下のメディア体験あってこそ現在の私たちの「表現」や「消費」のスタイルがあります。
しかし、例えば漫画であれば、トキワ荘史観とでも言うような聖なる手塚治虫を出発点とした漫画史観を持つ私たちは、戦前との繋がりを見ることはありません。

そこで、大塚英志氏は、彼が「奇跡の九コマ」と呼ぶ手塚治虫の試作「勝利の日まで」でさえも、近衛文麿による翼賛体制によって製作された映画やアニメ、漫画の体験あってこそ生まれたのだと言います。
つまり、戦争目的の表現によって「手塚治虫」ができたのだと。

大塚英志氏のこのような議論を、私もこのブログで細々とですが行ってきたと思っています。
戦後史観の中で、見えなくされた戦前のリアリティーを知り、メダルと言う現在はほぼ無くなった戦時下のメディアを通して、過去が現在にどう繋がっているのかを考えたい。

現在行われている愛知トリエンナーレで、「表現の不自由展。その後」が取り止めとなり問題になっています。
これはこれで議論しなければならない事が多々ありますが、私がここで思うのは、戦後の左派的な「表現」ばかりが取り止めになったのどうだのと問題になるのに、戦前の八紘一宇、アジア主義だったり民族主義だったりする「表現」は、そもそもキュレーションされず、展示する機会もなく、議論されることも無かったということ言う事です。
(戦争画を「美術」として展示することはままありますが...)

その功罪は、先の大塚英志氏の議論で分かるように大きいと思っています。
戦前のあり方をどう評価するかは別の話で、まず「表現の自由」の下で公然と見えるようにしなければなりません。

というわけで、今回は「紀元二千六百年 海軍省 特別観艦式記念」レリーフです。


「八紘一宇の塔」もとい「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」が描かれた日名子実三の作品ですね。

1940(昭和15)年に横浜で行われた「紀元二千六百年特別観艦式」についてWikiには『聯合艦隊の艦艇98隻(596,000トン)による特別観艦式と、航空機527機(海軍航空隊及び観艦式参列艦船搭載機)による空中分列式(編隊飛行)が執り行われた。翌1941年(昭和16年)の大東亜戦争(太平洋戦争)開戦に伴い、以降の観艦式は行われなかったため、帝国海軍最後の観艦式である。』と書かれています。

大規模なイベントであり、このレリーフも大量に制作されたのでしょう。アルミ製になっています。

面白いのは、この観艦式が行われたのが昭和15年の10月、八紘之基柱が完成したのは同年の11月なんですね。
完成前でありながら、この「八紘一宇の塔」のイメージを利用しようとしているわけです。艦隊をモチーフにするよりも、このイメージを優先させているのですね。