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2024年4月29日月曜日

乃木将軍銅像と大日本国防婦人会



割烹着姿に白襷、1932年に結成された「大日本国防婦人会」の写真です。
大阪で生まれたこの会ですが、全国に展開します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%98%B2%E5%A9%A6%E4%BA%BA%E4%BC%9A

真ん中に立つ像は、その姿から乃木希典の銅像と思われます。
当時存在した乃木将軍の銅像は、山口県の長谷川栄作による像、香川県の田中雄一による像、愛知県西尾の像、そして江の島の片瀬海岸の像。
この像の姿に似ているのは愛知県西尾の像なのですが、戦時中にコンクリートに変えられ、現在は西尾市の熊野神社に建っています。
https://ameblo.jp/pont-neuf0603/entry-12470632973.html
ただ、この姿の乃木将軍像というのは、二宮金次郎像と並んで量産され全国に建てられていますから、本当に西尾の像なのか。

どちらにせよ、乃木将軍の像の前に並ぶ大日本国防婦人会のご婦人たちというこの写真は、当時の世相を描いてますね。

2024年4月14日日曜日

朝日新聞社MOTO作 メダル


戦前に作成された朝日新聞社の記念メダルになります。
鹿にまたがる天使、天使の腕には松明。
鹿の周りには、花(梅?)が咲き乱れています。

作者はメダル内に「MOTO」とあります。
この銘に該当する彫刻家と言えば、泉二勝磨(もとじ かつま)ですが、どうでしょう?

今まで紹介しました朝日新聞社のメダルを制作した彫刻家といえば、北村西望、日名子実三、陽咸二らと特にこだわってこの作家というものでもないようです。
ただ、大阪朝日と東京朝日で作家の選別に若干と違いはある感じを受けます。
しかし、泉二勝磨作のメダルはコレクションしているメダルの中には無いのですよね。

泉二勝磨については、絵葉書で紹介したことがあります。
泉二勝磨 作「「東郷大将バルチック艦隊を睨む」 絵葉書
この若くして亡くなった作家のメダルであれば、とても貴重でありがたいのですが、いかんせん情報が少ない。
あるとしたら、代々木公園内にある、泉二勝磨が彫刻した「日本航空発始之地記念碑」が朝日新聞社によるもので、ここで朝日新聞との繋がりがあることがわかる程度でしょうか。

次にメダルの図からわかることを探ってみます。
先に書いたように、咲く梅の中で鹿にまたがる天使図です。
鹿に天使というモチーフで思い当たる物語はないんですよね。
あるとしたら、春日大社の建御雷之男神(タケミカヅチ)でしょうか。
でも、これは天使のような子供の姿ではありませんね。

作風としては、レリーフではありますが、立体感は薄いです。
切絵に厚みがあるかんじ。
もし、このメダルが泉二勝磨の作だとしたら、師であるジャン・デュナン(Jean Dunand)の影響かもしれませんね。
彼は漆芸家でこういった薄いレリーフを作ってますから。

あとは材質でしょうか。
このメダルは、アルミ製です。
アルミでできたメダルは 1942年(昭和17)とその翌年の明治神宮国民練成大会に用いられています。
明治神宮競技大会のメダル
1941(昭和16)年に公布された金属類回収令のあたりの年に、こういった素材のメダルが作られています。
このメダルもそのあたりの作なのでしょう。
泉二勝磨が亡くなったのは昭和19年ですから、時代的は合ってるのかも……

どれも決定打に欠けますね。
もう少し、調べてみます。

2024年1月28日日曜日

安永良徳 作「ダナエ」レリーフ再制作?



安永良徳については数回前に書きましたね。
彼のレリーフ作品です。
この作品の素材は石膏。額と作家名が左から記されていることから、戦後の作だと思われます。
ただし、この作品に似た立体を安永良徳は作っています。
それは、1937(昭和12)年に行われた第拾回構造社展覧会において「ダナエ」と題された立体です。

「ダナエ」はギリシャ神話に出てくる女性で、ゼウスとの間に英雄ペルセウスを生みます。
彼女の父アルゴス王アクリシオスに恐れられ、母子ともに箱に閉じ込められて海に流されますが、無事に漂着します。

この作品は、その場面を描いたものでしょうね。つまり、傍らに寄り添う子がペルセウスなのでしょう。
戦前の構造社で好まれた母子像として、この題材を選び、作品としたのだと考えられます。

その造形は、母子の姿を抽象化し、キャラクターの様になっています。
くの字にまがった体に、あり得ない方に伸びていた腕、「構造社」の名前の通り新しい構造を表現することこそを主題とした作品なのでしょう。
それは、当時の最先端表現でありました。

そのような「ダナエ」を戦後にレリーフ化したのでしょうか?
気になるのは、戦前の「ダナエ」と比べると、このレリーフは鏡像のように反転されている事ですね。
どうしてなのでしょう?
反転した作品を参考にレリーフ化したのでしょうか?
謎です。

2023年10月10日火曜日

柚月芳 作 石膏レリーフ


柚月芳は、1901(明治34)年、富山県朝日町生まれの彫刻家です。
富山県立高岡工芸学校を卒業して上京、小倉右一郎に師事し、東京美術学校彫刻科を出ています。
26歳でキリスト教の洗礼を受けて以来、キリスト教をモチ-フとした作品を制作します。
富山といえば、畑正吉や佐々木大樹等の著名な作家を生んだ地ですね。
この作家もそんな地元を愛した作家のようで、朝日町立ふるさと美術館でその作品を見ることができます。

画像の作品は、口づけをする男女を描いたもので、石膏作品です。
裏に「昭和十二年一月六日 於作者アトリエ贈典サル 柚月芳氏作 橋本有」と来歴が書かれています。
1937(昭和12)年で、柚月芳は36歳。
脂ののりきっている頃の作品でしょう。

これも、聖書の物語をモチーフとしたものなんでしょうか?
アダムとイブ?
男が天に指を指してるのも意味深です。
陽咸二の燈下抱擁に似てますね。1924(大正13)年の作ですから、10年後の作品ですけど、それでも時代的に”破廉恥”な作品には違いありません。
公には出せない作品故に個人に直接手渡したのかもしれませんね。

2023年10月1日日曜日

武石弘三郎ー人物と作品

2か月ぶりです!
今日から再開します。
これからも小さなコレクションの紹介していきます。

ですが今回は、ゆいぽーとで行われている「二葉アーツスクール2023 めだかの学校」のレポートです。『武石弘三郎ー人物と作品』と題し、新潟出身の彫刻家武石弘三郎について、新潟県立近代美術館の学芸員、伊澤朋美さんによる講義がなされました。
ここ「ゆいぽーと」は、妻の出身校である旧二葉中学校が前身で、そこには武石弘三郎による1942(昭和17)年制作の「竹内式部像」が現在も設置してあります。

この像の見学も行いました。





戦前の金属回収も敗戦時の銅像回収も免れ、隠すために土に埋められる等もされたこの像ですが、今はこの暗い木々合間に凛と座られています。
1メートル程しかない小さなサイズですが、威厳を感じまさせますね。

左手には日本書紀。
天皇に「尊王攘夷」を説いた人物であることを、昭和の戦時下で評するための銅像であり、つまりこういうカタチでの「戦争彫刻」と言えます。

その横には「紀元二千六百年 武石弘三郎作」と刻されています。
全国各地で行われた神武天皇即位紀元(皇紀)2600年の祝い行儀の一つとして、この銅像建立があったのだとわかります。

紀元二千六百年は昭和15年。
この像の建立が昭和17年ですから、企画が15年だったのか、それとも必要な物資がなくて延期されたのか、どちらでしょうね?
それと、金属提出を免れるために土に埋めたというエピソードがあるのですが、それも変な話で、敗戦まで埋められていたというの事なのでしょうか?
像の正面に2か所、ボルトで留められているのですが、これは取り外した跡?
色々気になりますね!

あと、私の持つ小さな銅像ですが、やっぱり武石弘三郎じゃないかも!
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2021/03/1918-kt.html

2023年5月22日月曜日

東京美術学校角力部記念賞 盃



東京美術学校角力部記念賞です。
わかり辛いですが、盃の底には「烏兎(うと)」が描かれています。
太陽の中に烏(からす)、月の中に兎(うさぎ)がいるという中国の伝説があり、「金烏玉兎(きんうぎょくと)」と言います。
これを略して「烏兎」です。
中心には「大正泰平」とあります。

側面には、「東京美術学校角力部記念賞」と、よく見えないのですが「1916年」と刻まれています。

東京美術学校の百年史には、1914(大正3)年に相撲部が発足したとあるので、その2年後の賞のようです。
他にも『石井鶴三の学生時代(明治38~43年)に相撲が非常に強くて、美校が学生相撲の雄となった。学生相撲大会の会場は両国の国技館で、応援団の奇想天外の有名な応援がなされた』とあります。
この歌と言うのが『相撲にゃ負けてもケガさえなけりゃ、晩に私が負けてやる』と踊りながら唄うのだそうで、『あんな歌を唄っちゃいかんと大村西崖生徒監から相撲部の応援部が大目玉』を食らったとか。

この牌、ものすごく手作り感のある作りで、学生たちが自身のために制作したのかもしれませんね。
若々しく蒼い魅力があります。

2023年1月29日日曜日

皇紀弐千六百年 長谷川塊記作 菅公銅像建設記念メダル


長谷川塊記は、1898(明治31)年鳥取生まれ、朝倉文夫に師事し、東京美術学校彫塑別科卒。官展の他、東台彫塑展や朝倉塾展、塊人社展に作品を出しています。

このメダルは、皇紀弐千六百年、1938(昭和13)年に埼玉県東吾野小学校に建立された、長谷川塊記作菅原道真公銅像の記念品と思われます。
菅原道真公の銅像は現在も東吾野公民館の廟の中に建ってます。

メダルの背面に「塊記」の銘があり、このメダルも長谷川塊記の作品とわかります。
このメダルを見て思うのは、かなり簡易な造形なんですね。
たしかに菅原道真公の銅像もそれほど細部に拘った作にはみえません。
ただ、神の姿を描くということで、ある程度形状に自制があったのかもしれません。
父親が仏師であったことも影響しているのかも。

彼の作品は鳥取県立博物館で観ることができます。
これら作品からも、長谷川塊記は師の朝倉文夫よりも身体を理想的な姿に描くスタイルだったと言えそうです。
それもそういった仏師の出であった事、仏像や神像という身体を理想化した造形の影響があったのでしょう。
戦後の人物彫刻は、人体のリアリティーよりも理想化に進みます。
長谷川塊記はその間の作家であり、そういった理想化に影響を与えたのが、日本の仏像や神像であったと言えるのかも。

2023年1月2日月曜日

光照法主御除隊記念







光照法主御除隊記念、龍の記念碑です。
作者は銘に「TATU」とありますが、思い当たる彫刻家はありません。

光照法主は、浄土真宗本願寺派第23世宗主、大谷光照。
母親の姉が大正天皇皇后で、昭和天皇の従兄弟にあたる方です。
彼が昭和12年1月に除隊となった記念の品がこの作品であったようです。

wikiには
『青年法主光照は、昭和の戦時下の教団(浄土真宗本願寺派)を指導した。1933年(昭和8年)には声明集の改定に取り組むなどする一方で、1941年(昭和16年)に宗制を改定、従来神祇不拝を旨としていた宗風を放棄し、「王法為本ノ宗風ヲ顕揚ス是レ立教開宗ノ本源ナリ」と宣言。国家神道と結びついた「戦時教学」を推進した。

特に、親鸞の著作に皇室不敬の箇所があるとして該当部分を削除するよう命じたり(聖典削除問題)、門信徒に戦争協力を促す消息(声明)を発して戦時体制を後押しした。戦時中に発布された消息(聖典とされている宗祖親鸞の撰述に準じるとされていた)では、天皇のため命を捧げよと説いている。』
とあります。

戦時日本仏教界の具体的な戦争協力については、こちらに詳しい
https://news.yahoo.co.jp/byline/ukaihidenori/20220720-00304333


思想史的な流れは、かなり難しく、暁烏敏とか考えれば考えるほど沼にはまっていく......


2022年6月5日日曜日

北村西望 作 朝日新聞社健康児童賞牌


昭和5年の端午の節句、朝日新聞社主催の「健康児童賞」のレリーフです。
サイン等はありません。ただ翌年も同じ顕彰が行われ、そのメダルを北村西望が制作しています。
こちらが昭和6年のメダルです。
どちらも「桃太郎」をモチーフにしています。
作品の作風からして、昭和5年の賞牌も北村西望によるものと思われます。
面白いのは、この昭和5年の賞牌は鏡面になっているのですね。
凸凹もおなじく逆転しています。
メダルの制作過程で、石膏原型から電気鋳造で凹型をつくりますが、それとは素材が異なる気がします。
なんなのでしょう?
とりあえず、画像操作で反転してみました。


これで文字が読めますね。
更に、諧調を反転すれば、原型の姿が拝めます。

こんな感じだったのでしょうね。

それにしても「桃太郎」というのは、なんて北村西望に合うのでしょう。
勝手なイメージなのですが、どちらも「邪気の無い正義感」を感じるのですよ。
皆さんはどうですか?

さて、最後に戦前の「桃太郎」と現代の「桃太郎」の映像を紹介します。
端午の節句とは元服、つまり成人を祝うお祭りでした。
そのイメージに使われる「桃太郎」とは、子供の姿でありながら、あるべき「成人」像、つまり大人の見本であったはずです。
現代の私たちは「桃太郎」によって、どんな大人像を子供に与えようとしているのでしょう?








2022年5月29日日曜日

佐世保市 村山義信銅像 建設寄附募集趣意書

 かつて佐世保の八幡神社境内にありました村山義信銅像。


戦前の銅像カタログ「偉人の梯」によれば、大正13年に建立、鋳造者は「桑野元次郎」。
高さ9尺、幅8尺6寸。工費に7400円
そして、建設者は「忠臣村山銅像建設会」となってます。

今回、その「忠臣村山銅像建設会」の建設寄附募集趣意書を手に入れましたので、紹介です。


銅像として建てられたのは、村山家の6代目、村山四郎義信です。
彼ら村山家は建武、延元、正平の時代に南朝の為、忠節を尽くした家柄として知られ、大正5年に特旨を以て正五位を追贈されたそうです。
この資料から贈位も契機となって、銅像建立の計画が立ち上がったことが読み取れます。
越後の村山家が、なぜ佐世保で銅像になるのかについては、こちらのブログで話されてます。
http://purapurasanwa.livedoor.blog/archives/20154828.html
『(越後の)頸城地域の地頭だった七代目 村山弥治郎隆義は歴戦し息子達と共に戦没。 しかし村山一族そのものは生き残り、謙信の父の頃は筒石城城主。景勝の頃は共に会津→米沢へ。鉄砲指南役になり明治期には砲台設置の関係で佐世保へ。』との事です。

こういった、「土地」と「血筋」の関係から、村山家特定の人物の銅像とせず、「忠臣村山氏銅像」を建てるといった趣意になったのでしょう。
これが「村山義信」の銅像を建てるとなれば、彼の活躍した越後でない佐世保に建てる意味が薄まりますからね。
皇居前に建てられた楠木正成像と同様の偉人像を建てたい当時の佐世保の人々が「村上氏」とすることで建立を可能にしたわけです。
もし、これがもう少し時代を下っていれば、「村上氏」というイメージを表したモニュメントを制作していたのでしょう。
しかし、大正のこの頃は、銅像と言えばまだ一個の人物を描くものだという考えであった為、「村山義信銅像」となってしまったのでしょうね。

2021年12月6日月曜日

新潟白山公園昭忠碑


新潟白山公園昭忠碑は、明治40年に除幕式がなされた114年前の銅像です。
現在も、白山神社境内に建っています。

詳しくは、藤井素彦さんによるこちらの論文にあります。
意匠は東京美術学校教授・島田佳矣、鋳造は岡崎雪聲です。
114年前の除幕式当日は、「市内ハ各戸国旗ヲ掲ゲ球燈ヲ点シテ敬意ヲ表シ午前ハ市川市山両派芸妓連ノ練リ込ミ等アリ」と、慰霊というよりドンチャン祭りだったようですね。

新潟の軍人慰霊碑として建てられたこの像は、球体化した日本地図の上に立つ神武天皇像と金鵄と、まるでショッカーのマークのよう。



地球儀には金箔された地があります。
画像では見えませんが、南樺太と千島列島、北海道から九州、日清戦争で得た台湾、遼東半島、そして朝鮮がそうなっているようです。
その地の上に神武天皇像が立っているのですね…

この金箔がいつなされたのか?
朝鮮併合前なのか、後なのか?
先の藤井さんの論文では、併合以前説に疑問を呈してます。
もしかしたら、併合後に金箔を追加したというのはどうでしょう?
どちらにせよ、この状態で残っているのが知れ渡ると面倒な問題になりそう…

2021年11月15日月曜日

日名子実三 作 昭和5年 第12回関東学生陸上競技対抗選手権大会 メダル



日名子実三作、昭和5年 「第12回関東学生陸上競技対抗選手権大会」メダルです。
久しぶりの日名子の作品です。
まだまだ知らない作品があるものなんですね。

弓を引く神武天皇像でしょうか?
後輪と弓の形をメダルの円形に沿わせ、弓を引く肉体による直線で構成された日名子らしいデザインになってます。
弓を引く像といえば、ブールデルの『弓をひくヘラクレス』や平櫛田中の『活人箭』などが有名です。そういった作品を参照しつつ、日名子らしく浮彫でまとめられた秀作だと思います。

コロナが流行りだしてから、ぐっとメダルの収集量が減りました。
経済活動の縮小だけでなく、人の動き自体が減り、こういうニッチで需要の無い物の世に出てくる機会も減ってしまったのだと思います。
メダルやレリーフを展覧会などでお見せする機会も減りました。
それでも、こうした彫刻世界に興味ある方にあるだろうと、こうして記事を書き続けます。
もし、どこかで展示してみたいという方ありましたら、どうぞご連絡下さい。
nakakakatsu@gmail.com

2021年6月17日木曜日

雨田禎之?「第25回明治大学陸上大運動会」メダル





1932(昭和7)年に行われた「第25回明治大学陸上大運動会」のメダルです。
雨田禎之作との事ですが、サインがよくわからないですね~

雨田光平(禎之)は、1911(明治44)年に東京美術学校の彫塑部彫刻科へ入学。
卒業後に渡米し、ここでハープを学び始め、さらにフランスへ渡り、日名子実三と出会います。
帰国後に構造社に参加し、彫刻家として活動します。

彼の2番目の妻は、我楽多宗開祖三田平凡寺の次女です。
その我楽多宗を紹介する展覧会が、今年の初めに多摩美で行われていました。
https://www2.tamabi.ac.jp/iaa/garakutashu_iaa_exhibition/

この展覧会を、夏目漱石と三田平凡寺の孫にあたる夏目房之介氏が紹介されていましたね。
雨田光平と三田平凡寺、そして雨田の義理の甥である夏目房之介氏の関係はこんな感じです。

        雨田光平(禎之)
         |
三田平凡寺―――次女 伊登
        末女 嘉米子
         |―――――夏目房之介
夏目漱石 ―――長男 純一

さて、メダルに話を戻します。
このメダルが雨田光平のものとすれば、1932(昭和7)年は帰国して3年後、若き彫刻家として活躍していた時期です。
翌年には帝展彫刻部門無審査となります。

描かれたのは、剣を握り二人の男を組み伏す荒神の姿です。
円形に三人(柱?)入れて、さらに動きもあって、この造形の上手さは流石ですね。
ただ、いつもの通り、この神話がなんなのかわかりません。
まったく勉強不足で申し訳ない!

2021年6月7日月曜日

斎藤素巌作「帝都復興記念碑」レリーフ




大正12(1923)年に起きた関東大震災からの帝都復興事業を記念して、昭和5(1930)年に帝都復興祭が行われます。
このレリーフの背面に「帝都復興記念碑」とあり、これを記念して製作されたものだと思われます。
かなりの薄い浮彫なので、実際はもっと大きなレリーフ状の記念碑として製作され、その縮小版なのかもしれません。

三連祭壇の形状からわかるように、斎藤素巌はこのレリーフを宗教画として描いたと考えられます。
その為、復興からの再生が描かれているのだと思うのですが…そのストーリーがよくわかりません。
右側は震災難民しょうか。左には彼らに寄り添う豊穣の女神(災害から実りをもたらした大宜都比売神?)が描かれているように思います。
では、中心の三人の男は何を示しているのでしょう?
真ん中の男は斎藤素巌による第六回明治神宮体育大会メダルと同じような構図ですね。
左に鍬を持つ男が描かれていることから、復興を成し遂げた労働者の姿ではないかと思います。
(そこに女性の姿がないのは現代のフェミニズム的に問題ですね…)
当時の人たちであればこの物語が読み解けるのでしょうか?

2021年2月15日月曜日

海野美盛作 明治天皇御尊影

先月11日は、建国記念日でした。紀元節であり神武天皇の即位日ですね。
来週の23日は天皇誕生日となります。
というわけで、何か関係するものをと思い、海野美盛による明治天皇御尊影を紹介します。

明治天皇の姿と言えば、キヨッソーネの肖像画が有名ですが、この横顔は晩年の写真をもとにしたレリーフです。
また、サイズから廉価版考えられますが、それでも明治天皇という神の姿を描いたものとして大切に扱うように窘められています。
『本御尊影は金工界の泰斗東京美術学校教授正六位海野美盛先生苦心の謹作にして吾等国民の一日も忘る可からざる偉大なる神に候
本会は士道の啓発精神修養の資に供せんか爲め一般希望者に限り頒布するものにして畏れ多くも尊厳なる明治天皇陛下の恩英姿を拝し得らるるものなれば充分敬意を以て之に対せらるるは勿論苟も粗略の御取扱無之様御注意なされ度爲念特に一言する如斯に候也
謹作頒布所 明治神宮記念会謹白』



当時の人々の昭和初期に天皇に対する畏怖や敬意とは、明治天皇への想いを受け継ぐ形でなされます。
では、どのように明治天皇への敬意が生れたのかと問われれば、当時の政府の政策や教育の様な、上から与えられた権威への畏怖だけでなく、下から、民衆側から敬意を必要とされたからなのではないでしょうか?
つまり明治維新という価値観がひっくり返ったアノミーから立ち直るために明治天皇というアイドルにすがったのだと思います。
この明治天皇のレリーフは、そういったアイドルのポスターの様なものです。
上記の文章は、画鋲で壁に貼るのに、四隅に穴を開けるなと、運営側から注意されるみたいな話ですね。

そして、アノミーから立ち直るためのアイドルへの信仰の力が、後の戦争をも引き起こしたのだと言えます。