2018年6月30日土曜日

煩悶青年のテロと彫刻家

このところ政治学者、中島岳志さんの著書をいくつか読ませて頂いています。
彼の言う、明治後期に自身の存在に悩む煩悶青年たちが、日蓮や親鸞の思想を通して、国体論に身を投じ、超国家というユートピアを目指す為、二・二六事件等のテロを起こすに至った...と言う歴史観には、深く考えさせられました。

このモデルは、当時の若い彫刻家たち、特に日名子実三を代表するような、戦時に於いて超国家主義に傾倒した作家たちの説明にも使用できるのではと思ったからです。
彼等もまた、その時代を生きる煩悶青年たちではなかったのか。
そして、テロを起こした井上日召らが日蓮の思想(宗派の信仰ではない)を信仰したように、彫刻家たちは「芸術」を信仰し、その美で彩られたユートピアを現前化しなければと考えたのではないでしょうか?

そこで、大正5年から二・二六事件が起きた昭和11年までの期間でその対比を行ってみました。


社会 親鸞主義関連 日蓮主義関連 彫刻史
1916
(大正5年)



齋藤素巌、帰国
1918 第一次世界大戦後の不況、米騒動 三井甲之が長詩「祖国礼拝」を発表
日名子実三が東京美術学校を卒業
1919
蓑田胸喜が三井甲之のグループに合流 北一輝「国家改造案原理大綱」を発表
北一輝、大川周明らが「猶存社」を結成
第一回帝展
1920

石原莞爾、宮沢賢治が「国柱会」に入会
1921 朝日平吾による安田善次郎暗殺事件 原敬暗殺事件
朝倉文夫、北村西望らが東京美術学校の教授に就任
1923 関東大震災


1924 第1回明治神宮競技大会開催。1943年(昭和18年)の14回大会まで行われる。


1925 普通選挙法、治安維持法制定 三井、蓑田らが「原理日本」を創刊、帝大教授批判を展開

1926
(大正15年/
昭和元年)


宮沢賢治「農民芸術概論綱要」を起稿 日名子実三ら「構造社」を組織
1930
この頃から暁烏敏が皇道と真宗信仰の一体化を説く

1931 満州事変
石原莞爾ら関東軍司令部による満州事変
1932

血盟団事件
1933
滝川事件

1935
天皇機関説事件
国体明微運動

松田改組
日名子実三や畑正吉らによって「第三部会」組織
1936 二・二六事件
北一輝らと若手将校による二・二六事件 改組第一回帝展

第一次世界大戦後の大不況の時代に日名子は東京美術学校を卒業し、関東大震災後の国粋的な風潮が強まる中で「構造社」が組織されます。
テロリストや一部の軍人たちが日本による宗教的な世界統一を夢見、満州事変や血盟団事件、二・二六事件が起こされ、そんな思想に足並みを揃えるかのように、美術界を大政翼賛会化させた松田改組が行われます。
その中で、日名子や畑正吉らは「第三部会」を立ち上げます。

上の年表の比較では、彫刻家達の心の動きまでは分かりません。
けれど、彼らが、というよりも当時の多くの若者たちが、テロリストと同じような煩悶を持っていたのではないでしょうか。

私がこの時代の彫刻家に惹かれるのは、ここに原因があるのかもしれません。
もっと、深く考えてみたいと思います。

ちなみに、わたくし最近、井上日召に顔が似てる気がしています。
どうですかね?

2018年6月13日水曜日

皇太子殿下海外御巡遊記念章 の絵葉書

皇太子殿下(後の昭和天皇)が1921(大正10)年に行った欧州への御巡遊を記念して造られたメダルの販促絵葉書です。
販売元は尚美堂寳飾店で、明治33年創業より現在まで続く老舗の宝飾店ですね。

まずは、絵葉書に書かれた内容を記述します。

造幣局製 皇太子殿下海外御巡遊記念章
本章意匠は東京美術学校作製 御肖像は宮内省下賜 艦姿は海軍省より交付されたる写真により謹刻さる
第壱種記念牌 直径二寸サック付
 九百五十位銀製 金八円七拾銭
 青銅製 金壱円弐拾銭
  右箱代及送料 三箇以内同一 {内地 金参拾五銭 植民地 金六拾弐銭}
第弐種記念章 直径八分サック付
 九百位金製 金拾九円五拾銭
  右箱代及送料 四箇以内同一 {内地 金参拾五銭 植民地 金六拾弐銭}
 九百五十位銀製 金八拾銭
  右箱代及送料 十箇以内同一 {内地 金弐拾八銭 植民地 金五拾五銭}
  右箱代及送料 三十箇以内同一 {内地 金参拾五銭 植民地 金六拾弐銭}
申込 直接御来店予約御申込の方は毎日自午前八時至午後六時迄(日曜休業)願上候
郵便申込は尚美堂記念章係宛 各品名を明記し其代價に送費を加へ為替又は振替を以て前金にて御申込相成度候
発送 本品は九月一日以降造幣局より御廻付次第御申込順により書留にて御送付可申上候
申込取扱元 大阪市東区淀屋橋南詰 尚美堂寳飾店 振替口座大阪四二六番


この絵葉書ですが、表の消印より大正10年の8月頃に送られたことがわかります。
丁度、発送一ヶ月前になるのでしょう。

また、上記の文章から、造幣局製のメダルが一般の店に卸されて販売されていた事がわかります。
そして、大き目のメダルを「記念牌」、小さいメダルを「記念章」と分けていたこと、内地と共に植民地まで通販網があったこともわかります。

「本章意匠は東京美術学校作製」とありますが、これは誰の作でしょうか?
大正初期より東京美術学校で教えていたのは水谷鉄也や畑正吉です。
その後、大正10年の5月に教授陣が一新し、朝倉文夫や北村西望が起用されます。
朝倉文夫らにしては発売ギリギリ過ぎることから、造幣局の技術顧問であった畑正吉の作なのかもしれません。
たしかに畑正吉らしさのある像ではありますが、もしかしたら西郷像のように学生を含めて合同制作したとも考えられます。
後に天皇となる人物の像ですからね、作家個人の制作物にするのは重すぎたのかもしれませんね。

2018年6月11日月曜日

佐藤忠良作「下中弥三郎」メダル

1968年の平凡社「世界大百科事典販売コンクール」のメダルです。

下中弥三郎をモチーフに描かれたこのメダルの作者は、「CHU」のサインから、佐藤忠良だと思われます。
しかし何故、佐藤忠良が下中弥三郎を描くことになったのでしょう?

佐藤忠良と言えば端正な女性像で有名ですが、おっさんの像もないわけではありません。
王貞治の像やメダルなんかもありますね。
http://www.asahi.com/culture/gallery_e/view_photo_feat.html?culture_topics-pg/TKY201101120322.jpg

とは言え、相手は下中弥三郎です。
彼は、平凡社の創業者であり、教員組合(日本教員組合啓明会)の創始者、また労働運動や農民運動の指導者...そして愛国者にして国家社会主義者だったと言われます。
戦後は世界連邦運動に関わるなど、右と左を思いっきり振りぬく姿は、そこらのネットウヨ・サヨとは違う巨大なスケールを持った人物です。

下中弥三郎の本質は「平凡社」の名前からは遠く、皇国日本による世界の統一と平和を求めた夢想家だったと言えます。
ジョン・レノンのように世界中の人々の幸福を語る彼は、世界中の人々が異なる正しさの中で生きている事が想像できず、自身の正しさを理解しない人々を拒絶しました。
しかし、ヒトラーやポル・ポトのように独裁者にもなれなかった彼は、ユートピアの夢の中でしか生きれなかった人だったのでしょう。

そんな下中弥三郎と佐藤忠良はどこで繋がったのでしょう?
戦後、シベリア帰りの佐藤忠良は、本郷新と共に多分に政治的な彫刻家でした。
一時期は共産党員でもあり、平和活動などを行っていた佐藤忠良は、世界連邦運動に邁進していた下中弥三郎をリスペクトする機会があったのかもしれません。