2013年6月29日土曜日

Intermission 未来派美術協会習作展覧会 絵葉書


未来派美術協会習作展覧会出品 鈴木年作 「室内」の絵葉書です。

未来派美術協会とは→

Wikiには、リーダー格であった普門暁にたいして、こう書かれてますね。
「普門の作品は、未来派系統の、動きや光を視覚的に表現したような絵画作品を主たるものとしており、未来派系統の彫刻の制作も行った。ただ、特に初期の段階では、見様見真似のようなもので、未来派の理論についての十分な理解があったかについては大きな疑問がある。」

さて、この絵葉書を見てみると、イタリア未来派というより、キュビズムやコラージュに見えますね。

2013年6月22日土曜日

泉二勝磨 作「「東郷大将バルチック艦隊を睨む」 絵葉書


「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」
 この東郷大将とは、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎のことであり、当時において、日本のヒーローの一人でした。

作者である泉二勝磨は、面白い経歴の持ち主です。
明治38年に生まれ、昭和4年に東京美術学校を卒業し、フランスに留学、ジャン・デュナンに師事し、中世絵画、彫刻を研究します。
その師ジャン・デュナンは、工芸家であり漆作家と知られています。フランス汽船「ノルマンディー」の装飾には泉二勝磨と共に従事しました。

泉二勝磨は、ドイツによるフランス侵攻から逃れるため帰国、後に二科展に出品します。
当時の二科会は在野の団体であるがゆえか、官展よりもナショナリズム寄りの傾向があり、この作品もそういったものだったのでしょう。
二科展にて「国土を譲る」等の彫刻を出品した渡辺義知らは、戦後となり、そのために二科会を去ることとなります。
1942(昭和17)年には、そういったナショナリズム的傾向を強く押し出した彫刻家団体「造営彫塑人会」に参加。高村光太郎、清水多嘉示、中村直人らによって結成された団体でした。

その前年、1941(昭和16)年に行われた第二十八回二科美術展覧会に(未完)として出品されたこの作品ですが、人物よりも、その手にした刀の造形の美しさに作家の個性を感じますね。

彼は戦争末期の昭和19年に40歳で亡くなります。日名子や陽咸二、橋本平八等々、戦争末期に若くして亡くなった彫刻家は本当に多いです。

2013年6月10日月曜日

Intermission  戦時下の痕跡本 太田三郎著 「スケッチの描き方」


太田三郎は、 愛知県生まれの画家で、洋画は黒田清輝、日本画は寺崎広業に師事。挿絵をよくし、矢田挿雲著「太閤記」や 正木不如丘集「ゆがめた顔」などがある。スケッチや挿絵に関した著書も多数執筆。
この「スケッチの描き方」もそういった技法書のひとつで、昭和2年に崇文堂より発行されています。
僕の手にしてる本は、その14版で、 昭和17年に発行。
このロングセラーのわけは、下の画像にあるように、軍事に用いられたからかもしれません。



この「陸軍予科士官学校」の文字は、裏表紙と、見返しに書かれたものです。
見返しには他に軍の許可證が張られています。
この本が陸軍予科士官学校にいた58期の生徒のものだったということなのでしょう。


中には、こんな等身を描いた落書きも。

陸軍予科士官学校とは、市ヶ谷台にあった士官候補者となる生徒が学ぶ日本軍の教育機関でした。
この本も、彼らの余暇のためというわけでなく、軍利用、偵察や観察目的に用いられたのでしょう。
従軍画家として多くの美術家が動員された先の戦争でしたが、こういった技術もまた軍によって用いられたということなのでしょう。

58期は戦争末期にあたります。この持ち主はどうなったのでしょうか。
この陸軍予科士官学校の映像がありますのでここに...

2013年6月9日日曜日

平和記念東京博覧会 絵葉書


「平和記念東京博覧会」は、第一次世界大戦終戦を記念し、1922(大正11)年、東京府主催で行われた博覧会です。
4ヶ月間の開催期間の中、1100万人の動員があったそうです。
この博覧会には、 日本の高い技術を展示する「蚕糸館」や「電気館」、そして朝鮮や台湾の文化を展示した各館が、当時の新進建築家によって建てられました。
会場の装飾を手がけたのが彫刻家の新海竹太郎らで、上の絵葉書にあるような噴水も、彼らによって制作されます。
この噴水の頂上にある子供の像「童子群像」は国方林三、ペリカン(?)の像「水禽」は堀進二の作です。

こういった博覧会は、彫刻家の名の上げどころであり、屋外だけでなく、屋内の展示場にも、数多くの彫刻作品が展示されます。
 

  
手元に当時のカタログがあるので作家を抜粋してみます。
石井確治「舞」「蓮歩」、小倉右一郎「実り」「平和來」、清水三重三「唄」、長田満也「芽生」、中村清人「池水」、清水彦太郎「浴後」、中村翫古「踊」、高村光雲「蘇東坡」、内藤伸「和琴」「六道将軍」、朝倉文夫「狛犬」「本山氏の像」、後藤清一「摩登伽」、赤堀新平「秘曲」、 堀江尚志「夫人の坐像」、齋藤素巌「早春」「疲れた人」、安藤照「習作」、陽咸二「無」、吉田三郎「牧夫」「l心」、中野桂樹「海のささやき」、木村五郎「旋れる桃太郎」、松田尚之「習作」、日名子実三「工房の女」、佐々木大樹「猫」「話」、荻島安二「M子」「鏡」etc... 

カタログ掲載された作品数でも76点。
官展系、日本美術院系、朝倉派、その後の構造社の作家等々と、多くの作家の思惑を超えて集められたことがわかります。
無いのは地方の作家くらいでしょうか。

カタログにカラーで掲載されたのは、すべて着色の木彫。
白いだけの塑像に花がなかったからかもしれませんが、これら木彫を見ると日本の伝統を感じさせる小品であり、国内というより外国向けの意識があったのかもしれません。

それと、数をそろえるためか、習作レベルの作品が目立ちます。
同年には第4回帝展もあったわけで、時間が限られていた作家もあったのでしょう。

それでもとにかく当時の国内最大級の彫刻の展示だったわけです。

齋藤素巌はこういった取組みにたいし、新聞紙上で『まだ工房から解放されていない彫刻家たちに対して、博覧会が新しい練習の場を提供している』と述べている。ただし『断片的な塑像を陳列しているに過ぎない事は、まだまだという物足りない感じを起こさせる』と苦言も忘れない。

 この博覧会が終えた翌年、1923(大正12)年の9月1日に関東大震災が起きます。
この震災は、この博覧会に参加した多くの彫刻家にとっても、日本の美術界にとっても転機となりました。

2013年6月2日日曜日

日名子実三作 水泳関連メダル

もうすぐプール開きってことで、日名子実三の水泳関連のメダルを紹介。

戦前、水泳は、日本のお家芸と言われていました。
世界新記録をいくつも出し、1932年のロサンゼルス五輪、1936年のベルリン五輪と日本人選手は多くのメダルを獲得します。
国内でもその人気は高く、例えば現在の千駄ヶ谷コートには、かつて明治神宮水泳場があり、ここで明治神宮国民体育大会や、国際的な水泳大会が開かれています。


左のメダルは1932(昭和7)年に開催された 「日本選手権水上競技大会」の参加メダルです。
雄々しい日本人の選手が描かれれおり、明治以降の課題であった彫刻家が「日本人男性」を美しく描くこと、それが可能となったことを示しています。
この大会の会場は、明治神宮水泳場で、 「日本選手権水上競技大会」は東京オリンピックまで、この会場を使用していたそうです。

右は、1931(昭和6)年の「第一回日米対抗水上競技大会」。
日本人と米国の選手が交互に描かれているのですが、同じ背の高さで合わせてあるところに日本人の自負心が感じられますね。裏には飛魚が描かれてます。戦後、古橋廣之進選手が「フジヤマのトビウオ」と呼ばれたことを思い出します。


そして、1929(昭和4)年の「第三回早慶対抗水上競技大会」
日名子実三は、この早慶戦のメダルや、日本選手権水上競技大会のメダルを幾つか作成しています。
それだけでなく、他の多くのスポーツ、ラグビーやゴルフ、バスケット等々、それらはまた追追紹介します。