「木芽会(もくがかい)」は、1921(大正10)年に、東京美術学校同級生であった清水三重三や笹野恵三、後藤清一らによって結成された彫刻家グループです。
同年、日本橋高島屋にて第一回展が行われます。
上記の資料は、その第四回展のパンフレットです。
1932(昭和7)年4月に日本橋白木屋にて行われました。
参加作家は、清水三重三、笹野恵三、後藤清一、羽下修三 秦紹世、林良三、長田満(也?)、高須俊彦、飛田朝二(次?)郎。
昭和7年は、清水三重三や後藤清一の参加していました構造社が解散し、新構造社となるゴタゴタした年です。
皆39歳前後で、彫刻家としての仕事に油が乗っていた頃の展覧会だったと思います。
「木芽会」は、昭和9年の第五回までは続けられたようですが、その後はわかりません。
戦時の中で立ち消えていったのでしょうか。
同窓生のこういったグループ展が、10年以上続けられるって凄いことです。
立場やしがらみ等あってなかなか集まることができなくなるものですが、よっぽど気の合う作家仲間だったんでしょうね。
特に後藤清一を構造社に誘ったのは、清水三重三であったわけで、その絆は深かったのでしょう。(誘われなかったら後藤は坊主になるつもりだったとか。)
この銅像は、清水三重三の作品です。
昭和17年に制作されたもののようですが、モデルは不明。
構造社解散後の清水は、挿絵の仕事と共に多くの銅像を制作したそうです。
ただ、彼の作品は東京大空襲によってその多くを失ったということです。
戦前の作品をこうして見られるのは嬉しいですね。
2017年2月12日日曜日
2016年7月31日日曜日
報道ステーションと日曜美術館
夕方の「報道ステーション SUNDAY」では、1940年に行われる予定だった幻のオリンピックの特集でした。
その中で、当時の水泳選手だった方が紹介され、一瞬だけ獲得されたのだろうメダルが映されました。
ほんとに一瞬だったので、全部は確認できませんでしたが、その中に昭和11年に行われた日米中等学校選手権水上競技選手権大会のメダル、日名子実三原型の河童メダルがありました。
残りのメダルが気になります...すごく。
録画しときゃよかった...
それと、今日の日曜美術館では、現在国立民族博物館で行われている「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」が紹介されていました。
シーボルトのコレクションいついては、以前このブログでも紹介しましたね。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/07/blog-post.html
ブログで書きました勾玉や埴輪が展示されているのかわかりませんが、どうなんでしょう?
日本の民間信仰には興味があったようで、「蛇身弁財天像」が展示されているようです。
私も、こういった日本の蛇神像には以前から興味があります!
その中で、当時の水泳選手だった方が紹介され、一瞬だけ獲得されたのだろうメダルが映されました。
ほんとに一瞬だったので、全部は確認できませんでしたが、その中に昭和11年に行われた日米中等学校選手権水上競技選手権大会のメダル、日名子実三原型の河童メダルがありました。
残りのメダルが気になります...すごく。
録画しときゃよかった...
それと、今日の日曜美術館では、現在国立民族博物館で行われている「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」が紹介されていました。
シーボルトのコレクションいついては、以前このブログでも紹介しましたね。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/07/blog-post.html
ブログで書きました勾玉や埴輪が展示されているのかわかりませんが、どうなんでしょう?
日本の民間信仰には興味があったようで、「蛇身弁財天像」が展示されているようです。
私も、こういった日本の蛇神像には以前から興味があります!
「あんとく様! お許しを!!」
2015年3月29日日曜日
陽咸二 作「第八回全日本中等学校剣道大会」メダル
日名子実三についで紹介の多い陽咸二のメダルです。
この 「第八回全日本中等学校剣道大会」では、古代の武人をモチーフとした図柄となっています。
彼の代表作「サロメ」や「灯下抱擁」などを見ても思うのですが、彼の骨格の無いような作風はどこから来てるのでょう?
陽咸二は、小倉右一郎門下で、かなりしっかりとした技術力があるだけに、これは彼なりの美意識ではないかと思うのですが。
まず、当時の作家たちに多大な影響を与えたクロアチア出身の彫刻家「イヴァン・メシュトロヴィッチ」からの影響も指摘できるでしょう。
ただ私は、このメダルの図形を見て、もう一つ影響を与えたものがあると思っています。
それが、「埴輪」です。
以前、「埴輪の美に就いて」と題して文を書きました。
高村光太郎の言う「此の明るく清らかな美の感覚」を、その造形性を取り込むことで陽咸二は表現しようとしたのではないでしょうか。
そのため、埴輪にある骨格が無く、丸っこい造形が彼の作風となっているのではないか。
彼の特質である和洋折衷的な感覚は、「イヴァン・メシュトロヴィッチ」と「埴輪」とを結びつけることをも行ったと言えるでしょう。
この 「第八回全日本中等学校剣道大会」では、古代の武人をモチーフとした図柄となっています。
彼の代表作「サロメ」や「灯下抱擁」などを見ても思うのですが、彼の骨格の無いような作風はどこから来てるのでょう?
陽咸二は、小倉右一郎門下で、かなりしっかりとした技術力があるだけに、これは彼なりの美意識ではないかと思うのですが。
まず、当時の作家たちに多大な影響を与えたクロアチア出身の彫刻家「イヴァン・メシュトロヴィッチ」からの影響も指摘できるでしょう。
ただ私は、このメダルの図形を見て、もう一つ影響を与えたものがあると思っています。
それが、「埴輪」です。
以前、「埴輪の美に就いて」と題して文を書きました。
高村光太郎の言う「此の明るく清らかな美の感覚」を、その造形性を取り込むことで陽咸二は表現しようとしたのではないでしょうか。
そのため、埴輪にある骨格が無く、丸っこい造形が彼の作風となっているのではないか。
彼の特質である和洋折衷的な感覚は、「イヴァン・メシュトロヴィッチ」と「埴輪」とを結びつけることをも行ったと言えるでしょう。
2014年1月1日水曜日
謹賀新年
賀正
今年もコレクションを充実させていきます!
画像は、日名子実三 作 「紀元二千六百年(昭和15年)奉祝全日本軍用保護馬継走大騎乗」メダルです。
モチーフには埴輪の軍馬。
昨今、縄文土器は日本人の精神を表すものだとか言われていますね。
縄文人と現代の我々とを繋げるものがあるのかどうか疑わしいのにも関わらず。
この時代、それと同じように古墳時代の埴輪が扱われていました。
国へ殉じる姿や、自己犠牲精神などをそこから見出し、これを美と見ます。
美が政治的なものから逃れられないのは現在と同じですね。
今年もコレクションを充実させていきます!
画像は、日名子実三 作 「紀元二千六百年(昭和15年)奉祝全日本軍用保護馬継走大騎乗」メダルです。
モチーフには埴輪の軍馬。
昨今、縄文土器は日本人の精神を表すものだとか言われていますね。
縄文人と現代の我々とを繋げるものがあるのかどうか疑わしいのにも関わらず。
この時代、それと同じように古墳時代の埴輪が扱われていました。
国へ殉じる姿や、自己犠牲精神などをそこから見出し、これを美と見ます。
美が政治的なものから逃れられないのは現在と同じですね。
2013年6月9日日曜日
平和記念東京博覧会 絵葉書
「平和記念東京博覧会」は、第一次世界大戦終戦を記念し、1922(大正11)年、東京府主催で行われた博覧会です。
4ヶ月間の開催期間の中、1100万人の動員があったそうです。
この博覧会には、 日本の高い技術を展示する「蚕糸館」や「電気館」、そして朝鮮や台湾の文化を展示した各館が、当時の新進建築家によって建てられました。
会場の装飾を手がけたのが彫刻家の新海竹太郎らで、上の絵葉書にあるような噴水も、彼らによって制作されます。
この噴水の頂上にある子供の像「童子群像」は国方林三、ペリカン(?)の像「水禽」は堀進二の作です。
こういった博覧会は、彫刻家の名の上げどころであり、屋外だけでなく、屋内の展示場にも、数多くの彫刻作品が展示されます。
手元に当時のカタログがあるので作家を抜粋してみます。
石井確治「舞」「蓮歩」、小倉右一郎「実り」「平和來」、清水三重三「唄」、長田満也「芽生」、中村清人「池水」、清水彦太郎「浴後」、中村翫古「踊」、高村光雲「蘇東坡」、内藤伸「和琴」「六道将軍」、朝倉文夫「狛犬」「本山氏の像」、後藤清一「摩登伽」、赤堀新平「秘曲」、 堀江尚志「夫人の坐像」、齋藤素巌「早春」「疲れた人」、安藤照「習作」、陽咸二「無」、吉田三郎「牧夫」「l心」、中野桂樹「海のささやき」、木村五郎「旋れる桃太郎」、松田尚之「習作」、日名子実三「工房の女」、佐々木大樹「猫」「話」、荻島安二「M子」「鏡」etc...
カタログ掲載された作品数でも76点。
官展系、日本美術院系、朝倉派、その後の構造社の作家等々と、多くの作家の思惑を超えて集められたことがわかります。
無いのは地方の作家くらいでしょうか。
カタログにカラーで掲載されたのは、すべて着色の木彫。
白いだけの塑像に花がなかったからかもしれませんが、これら木彫を見ると日本の伝統を感じさせる小品であり、国内というより外国向けの意識があったのかもしれません。
それと、数をそろえるためか、習作レベルの作品が目立ちます。
同年には第4回帝展もあったわけで、時間が限られていた作家もあったのでしょう。
それでもとにかく当時の国内最大級の彫刻の展示だったわけです。
齋藤素巌はこういった取組みにたいし、新聞紙上で『まだ工房から解放されていない彫刻家たちに対して、博覧会が新しい練習の場を提供している』と述べている。ただし『断片的な塑像を陳列しているに過ぎない事は、まだまだという物足りない感じを起こさせる』と苦言も忘れない。
この博覧会が終えた翌年、1923(大正12)年の9月1日に関東大震災が起きます。
この震災は、この博覧会に参加した多くの彫刻家にとっても、日本の美術界にとっても転機となりました。
2013年2月17日日曜日
朝鮮に渡った近代彫刻たちに就て
平櫛田中作「平安老母」 李王家美術館蔵
日本から盗み出された仏像の所有を巡って、韓国世論には様々な意見があるようで、 これには近代の根本をなす「所有」と「国家(国民)」という思想の問題や国民感情もあいまって、なかなかやっかいな問題のようです。
「韓国併合」や当時の朝鮮と日本との文化的交流を政治的にどう判断するかは、各人で色々あるでしょうが、ただし、当時において相互的な「交流」 だったと考える者がいたことは確かです。
況んや純粋無垢を信条とした美術家たちをや。
東京美術学校では朝鮮出身者が学んでいたし、 1922年からは日本の官展を模した朝鮮美術展覧会が行われます。(ただし、この鮮展では彫刻の部が無いのですが)
また、美術品は朝鮮から内地に渡っただけでなく、内地から朝鮮に渡った美術品もあり、李垠(英親王)が収集した官展出品作からのコレクションが李王家美術館に所蔵されます。
この所蔵品は現在、韓国国立中央博物館にあり、その日本室に展示されています。
所蔵されている日本近代西洋画の所蔵数が40点らしいのですが、これはやはり少ない気がしますがどうでしょう。彫刻については何点渡ったのでしょう。
以前紹介した構造社の後藤清一の作品が一点、現在その韓国国立中央博物館で確認できるようです。
上で紹介した絵葉書、平櫛田中作「平安老母」もまた李王家美術館蔵に所蔵されたもののようです。現在も所有されているのかはわかりません。
この 「平安老母」は2躰あり、片方は田中美術館にあります。これらは、服の絵柄などが少し異なります。
また、下の絵葉書は、「徳壽宮陳列日本美術品絵葉書」として、北村正信の大理石彫刻「凝視」が含まれています。
この作品は、1929年(昭和4年) 第10回帝展出品作です。これもまた、李王家所蔵のものでしょうか。
こういった韓国所蔵の美術品は、最近になって発表、展示されるようになったそうですね。前述の仏像だけでなく、このような近代彫刻作品の研究も是非進めていただきたいものです。
2013年2月1日金曜日
埴輪の美に就いて
岡本太郎が縄文の美を語ってから昨今、縄文土器の美術的な価値について誰も否定する者はないでしょう。昨年行われたミホミュージアムでの「土偶・コスモス」展でも素晴らしい縄文土器を観賞することができました。大英博物館で行われた「火炎土器展」も好評だったようです。
しかし、それに比べて埴輪というのは、あまり美術館で観賞する機会はありません。それを美術として見ることは少ないと言えるでしょう。
しかし、戦前の日本では、埴輪の美を語り、その美を啓蒙していた時代がありました。
なぜ、現代ではその美を語ることがなくなってしまったのか、美が永遠のものでなく時代によって左右されるものだとしても、その理由は何なのか。
高村光太郎は埴輪についてこう語る。
『これはわれわれの持つ文化に直接つながる美の源泉の一つ であって、同じ出土品でも所謂縄文式の土偶や土面のような、異種を感じさせるものではない。
縄文式のものの持つ形式的に繁縟な、暗い、陰鬱な表現とはまるで違って、われわれの祖先が作った埴輪の人物はすべて明るく、簡素質樸であり、直接自然から汲み取った美への満足があり、いかにも清らかである。
そこには野蛮蒙昧な民族によく見かける怪奇異様への崇拝がない。所謂グロテスクの不健康な惑溺がない。
天真らんまんな、大づかみの美が、日常性の健康さを以て表現されている。此の清らかさは上代の禊の 行事と相通ずる日本美の源泉の一つのあらわれであって、これがわれわれ民族の審美と倫理との上に他民族に見られない強力な枢軸を成して、綿々として古今の 歴史と風俗とを貫いて生きている。
此の明るく清らかな美の感覚はやがて人類一般にもあまねく感得せられねばならないものであり、日本が未来に於て世界に与 え世界に加え得る美の大源泉の一特質である。
...美の健康性がここに 在る。』
埴輪の美の特徴を「明るく」「直接自然から汲み取った美」「天真らんまんな」「日常性の健康さ」だと言い、「暗い」「陰鬱な」「怪奇異様」「グロテスク」ではないと言っている。
そんな「暗い」「グロテスク」であるために同じように否定された美意識を知っている。ヒトラー政権下のドイツにおいて否定されたカンディンスキーやクレー、エルンスト・バルラハらの作品、退廃美術にあてられた言説だ。そして、「明るく」「日常性の健康さ」を持つ美がナチスドイツの美意識だとされた。
つまり、埴輪の美とは戦時下の美であった。高村光太郎は「此の明るく清らかな美の感覚はやがて人類一般にもあまねく感得せられねばならないものであり、日本が未来に於て世界に与 え世界に加え得る美の大源泉の一特質である。」と埴輪の美意識、つまり日本の美意識の大東亜共栄圏、またそれ以上の広がりを語っているのだ。
日名子実三が明治神宮体育大会メダルでモチーフに用いた「野見宿禰」と言う相撲の神は、埴輪の創始者とも言われ、埴輪も手にした姿を用いたメダルをも日名子は制作しています。
同じく日名子の「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」の四方に配置された信楽焼の像も、埴輪のイメージだと言えるでしょう。
そして、直上の画像は、昭和12年の官展「戦時特別美術展」に出品された後藤清一の作品です。
このように、 この時代に於いてこそ、埴輪の美は強く印象付けられたのだった。
兵士や軍馬の形状をし、権力者に殉教する埴輪は、戦争の時代に肯定されるものだったのでしょう。
よって、戦後はそんな時代的な美だったからこそ、否定されたという面があるのではないだろうか。
岡本太郎や滝口修造らによる共著「現代人の眼 : 伝統美術の批判」では、そういった 「明るく」「直接自然から汲み取った美」「天真らんまんな」「日常性の健康さ」ゆえに埴輪の持つ薄暗さによって埴輪の美を否定します。
しかし、こういった時代的なものだけだと本当に言えるだろうか。
ロダンは埃及の彫刻を自身の源流とし、ロダンに影響を受けた荻原守衛は日本の仏像、中でも飛鳥時代の仏像に強く感化されました。高村光太郎はロダンや萩原にとっての埃及彫刻や飛鳥仏のようにプリミティブな美として埴輪を見ていたのではないだろうか。
そうして見れば、埴輪にも現代に通じる美があるのではないか、まだその美を語り尽くせてはいないのではないか、そんなことを思います。
上でも紹介した後藤清一の「第一回軍事援護美術展覧会」 出品作「櫻花」です。後藤は近代的な彫刻方法とは異なりモデルを用いず、仏像のように作品を制作したと言う。
この表現主義的な像もまたそういった作品であり、このデフォルメされた少女を見ると、ちょっと極端かもしれませんが、現代の美少女フィギュアにも通じるものがあるのではないかと思うのです。
日本の美少女フィギュアが「明るく」「天真らんまんな」「日常性の健康さ」でありながらも薄暗さを持つように、そこに埴輪の伝統は息づいていないだろうか。
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