ラベル 古書、表現主義彫刻 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 古書、表現主義彫刻 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年2月24日金曜日

戦時下の痕跡本

敗戦の年、昭和20年1月3日に発行された「美術」です。
当時は多くの美術雑誌が廃刊か統合され、この「美術」のみとなります。
表紙の熱帯魚たちも、当時の読者からしたら日本兵が戦っている南洋を思い出させるイメージであったでしょう。


その中に「時評」として、「軍事美術研究会」についての記事があります。
内容は、こういった組織が美術家たちの仕事の土台となり、時局に必要な美術を提供しなければならない...といったことが書かれています。
その年の1月中旬には、この「軍事美術研究会」の講演会が行われる予定があり、その予告記事が載っています。
講演内容は、
1.軍事知識より見たる作戦記録画 -山内一郎大尉
2.構図上より見たる作戦記録画  -柳亮
3.戦争画の名作研究       -森口多里、富永惣一郎、田中一松

この研究会も興味深いですが、それ以上に思うのは、前年から激しくなった米軍の空襲下でもこうした「美術」に勤しむものなのだということです。
その2ヵ月後、3月10日、あの東京大空襲が起きます。


今日紹介するのは、こうした美術雑誌の記事ではありません。
実は、その記事の欄外に読者が落書したろう跡が残っているのを見つけました。
ちょっと読みづらいので、そのちりばめられた文字の近くにピンクで書き直してみましたが、おわかりでしょうか?

←右から左へ

←右から左へ

左から右へ→

左から右へ→

まとめて読めば「ウチデハヒナンジュンビヲススメテヰ(イ)ル ホンドジョウリクニソナエテ」となります。
『家では避難準備を進めている。(米軍の)本土上陸に備えて』ということでしょう。

空襲の下、美術家たちが「美術」に精を出している時、その読者は美術雑誌を手にしつつも、生きるか死ぬかの準備を行っているのですね。

日常の延長上に生死がある。
これが戦争ってものなんですよね。

2017年2月14日火曜日

大正15年 独逸現代美術展覧会 カタログ

大正15(1926)年に行われた独逸現代美術展覧会のカタログを手に入れました。
以前から何度か話題にしていました日本での表現主義受容。
これを知る上では、是非見ておきたかったカタログです。

出品彫刻家(日本語名は原文のまま )
ルドルフ・ベーリング Rudolf Belling

エリザベト・セザール Elisabeth Caesar
ルドウヒ・カウエル Ludwig Cauer
フリツ・クラウス Fritz Claus
ルドウヒ・ダヂヲ Ludwig Dasio 
エルネスト・デ・フィヲリイ Ernest De Fiori
ヘルベルト・ガルベエ HerBert Garbe

ヘルマン・ガイベル Hermann Geibel
ルドウイヒ・キイス Ludwig Gies(メダルを出品)
ヘルマン・ハアン Hermann Hahn
ビリブ・ハルド Philipp Harth
ヲイゲン・ホフマン Engen Hoffmann
ハラルド・イゼンスダイン Harald Isenstein(メダルを出品)

カアル・クナベエ Karl Knappe(メダルを出品)
プリツ・ケレ Fritz Koelle 

ゲチルグ・コルベ  Georg Kolbe

ゲルハルド・マルケ Gerhard Marke
ゲオルグ・ミユラー Georg Mneller
エミー・レデル Emmy Roeder
エドウイン・シヤルフ Edwin Scharff

ケーテ・シヨイリヒ Kaete Scheurich
チエ・エム・シユライネル C.M.Schreiner
レエネ・シンテニス Renee Sintenis

ハンス・デビイヒ Hans Teppich

アルベルト・ウイレー Albert Wille
パウル・ツアイレル Paul Zeiler
ウイリー・チウゲル Willy Znegel

カタログを抜粋
 



★マークのある作家は、1937年の退廃美術展に出品され烙印を押された作家たちです。
作風の違いによって、生の明暗が分かれてしまった悲劇ですね。
この独逸現代美術展覧会が行われた1926年は、ヒトラーの党内独裁権がほぼ確立したハンベルク会議が行われた年です。
このタイミングで無ければ、このように独逸の主要な彫刻家の作品が見られることは無かったでしょう。
ただ気になるのは、この作家の中に当時のドイツで人気のあった彫刻家エルンスト・バルラハの名前が無いことです。
当時、木彫作品の輸送は困難だったからかもしれませんね。
ここで、バルラハの木彫を鑑賞する機会が日本にあったなら、もしかしたら日本彫刻史が変わったかもしれません。

表現主義作家では、エドウイン・シヤルフ Edwin Scharffの出品があります。
彼の紹介には、『1887年ミュンヘン美術工芸学校及美術学校を卒業し、絵画をも良くし各国に学びて、表現派となり、その派に重きをなす。』とあり、「表現派」という言葉が使われています。
この日本で、彫刻の表現主義に言及した作品を鑑賞できたのは、これが最初だったかもしれません。

また、展示の作品の中には、メダルが複数あります。
メダルが芸術表現の一部とされる欧州にあって、これらも日本への展示品にと選ばれたのでしょう。
ただ、その写真が掲載されてなく、どんな図柄だったのかがわかりません。
もし、その図柄がわかれば、それに影響を受けた日本の作家があったかなど、色々と調べてみたいことも増えるのですが。

それと、このカタログの発行は国民美術協会ですが、編集及び発行は彫刻家の小倉右一郎になっています。
なんでもするなぁ~この人は。
小倉のセレクトだろう写真掲載の作品には、彼の作風とはまったく異なる前衛的な作品が多く含まれており、小倉右一郎の器量の広さを感じさせます。
流石です。
ただ、メダルの写真が無いのは、小倉がメダル作品を商業デザインだと考えていたからかもしれません。
小倉右一郎のメダルって、未だ出会ったことが無いのですよね。

ちなみに、この展覧会に出品された絵画も前衛的なものが多かった。






2016年6月22日水曜日

陽咸二 作 「鷺娘」 絵葉書

陽咸二による東台彫塑会展出品作「鷺娘」の絵葉書です。


東台彫塑会展ですが、第何回と書かれていないことから、一回目だと推測します。
第一回東台彫塑会展は、大正10年に行われています。

大正10年当時、陽咸二は24歳。小倉右一郎門下で、文展に入選した新進気鋭作家として名が出だした頃でしょうか。
東台彫塑会も、小倉右一郎が結成した会であり、その縁での出品でしょう。

作品は「鷺娘」。歌舞伎の演目の一つなのだそうです。
鷺が人間の女となり、踊るのだそうで、『冬景色の舞台面に鷺の精が現れる。その格好は白無垢の振袖に黒の帯、頭には綿帽子を被り傘をさし、鳥の所作などを見せる。』のだとか。

このメーテルみたいな帽子は、綿帽子なのですね。
この像は、石膏でできているのだと思われます。
その石膏の白色を、雪に見立てているわけですね。
お洒落~~~

こういった所謂床の間彫刻は、当時批判の対象でもありました。
しかし、陽咸二の持つ先進性の根っこにはこういった作品があるのだとわかります。
彼は、先進性と古典を彼独自のありかたで調和していたのだと思います。

この作品、現在もどこかに残っているのでしょうか?





2016年1月24日日曜日

鎌倉近代美術館 「その後の円空彫刻展」絵葉書


今月の31日をもって閉館される鎌倉近代美術館(現 神奈川県立近代美術館 鎌倉館)に関する資料は何か無いかと探していたら見つかりました。

1963年5月に鎌倉近代美術館で行われた「その後の円空彫刻展」の絵葉書です。

「その後の...」と付くにはその前があるはずで、1960年に「円空上人彫刻展」が行われています。
それだけでなく、この文言には、1957年に岐阜県立図書館で開催した円空上人彫刻展から始まった円空ブームの「その後」という意味もあるのでしょう。

時は高度成長期、 集団就職で地方から都会へと人が流れていく中で、寒村から発見される円空仏たち。これらは「オラが村のハイカルチャー」として、地方に目を向けるきっかけになり、それゆえにブームとなったのでしょう。

そう、円空仏は、ハイカルチャーとして、モダンな表現主義的な彫刻として橋本平八らに発見されたわけですが、地元の人からしたら、それは土着信仰の対象です。
また、芸術とは、基本的に人工のものを至高とする文化ですが、それに対して円空上人は自然信仰、自然の中に神を見出します。
そういったまったく異なる美のベクトルを持っているの円空仏の魅力であり、橋本平八の魅力です。

先日、映画 『みんなのアムステルダム国立美術館へ』 という アムステルダム国立美術館改装のドタバタを描いたドキュメンタリーを観ました。
そこの日本美術のコレクション(仁王像)になされた日本人坊主による奉納式は、見てて変なんですよ。
日本の古き美を、現代の眼でしか見ることができないという矛盾。そしてそれが歴史であるという現実。その歪みを海外からだと特に強く思うわけです。

円空仏は、そういった歪みを特にも持つ「彫刻作品」ですね。

2015年3月29日日曜日

陽咸二 作「第八回全日本中等学校剣道大会」メダル

日名子実三についで紹介の多い陽咸二のメダルです。



この 「第八回全日本中等学校剣道大会」では、古代の武人をモチーフとした図柄となっています。

彼の代表作「サロメ」や「灯下抱擁」などを見ても思うのですが、彼の骨格の無いような作風はどこから来てるのでょう?
陽咸二は、小倉右一郎門下で、かなりしっかりとした技術力があるだけに、これは彼なりの美意識ではないかと思うのですが。

まず、当時の作家たちに多大な影響を与えたクロアチア出身の彫刻家「イヴァン・メシュトロヴィッチ」からの影響も指摘できるでしょう。
ただ私は、このメダルの図形を見て、もう一つ影響を与えたものがあると思っています。
それが、「埴輪」です。


以前、「埴輪の美に就いて」と題して文を書きました。 

高村光太郎の言う「此の明るく清らかな美の感覚」を、その造形性を取り込むことで陽咸二は表現しようとしたのではないでしょうか。
そのため、埴輪にある骨格が無く、丸っこい造形が彼の作風となっているのではないか。

彼の特質である和洋折衷的な感覚は、「イヴァン・メシュトロヴィッチ」と「埴輪」とを結びつけることをも行ったと言えるでしょう。

2015年3月7日土曜日

中牟田三治郎 作「国際水上競技大会」メダル

彫刻家、中牟田三治郎の三回目の紹介です。
以前(ナカムタミチロウ)と紹介したのだけど(サンジロウ)が正しいみたいですね。

具象作品の多い中牟田ですが、これはイメージ化された対象を描いています。
高村豊周は彼の作品にドイツ表現主義の影響を見、「内へ内へと省みさせ考えさせる美である」と賛辞を送っています。
確かに、このメダルにある構成的で完璧主義的な美は、ドイツ表現主義彫刻を代表するエルンスト・バルラハの宗教性に近いものを感じますね。
 
この作品の原型は、1928(昭和3)年に行われた第二回構造社展に出品されています。
現在は福岡県立美術館に所蔵されているようです。
水泳をモチーフにした作品の多い構造社ですが、その中でも優れた作品の一つではないかと思っています。

2014年8月30日土曜日

中牟田三治郎 作「秩父宮殿下台臨記念 京都帝国大学学友会」メダル


中牟田三治郎(ナカムタ ミチロウ)は、戦前、中原悌二郎や橋本平八のように、若くして亡くなった彫刻家の一人です。
彼は、1930(昭和5)年、38才で亡くなりました。
そのため、生前にその力を認められながらも、日本の彫刻史において、殆ど語られることのない作家の一人です。

中牟田三治郎は、1892(明治25)年、福岡生れ、19才で上京し、武石弘三郎に師事します。
1916(大正5)年に東京美術学校彫刻家塑像部に入学、白井雨山に学びます。
1922(大正11)年に京都帝国大学工学部建築学科彫塑実習第1部の講師となります。
1924(大正13年)には帝展に「或る日頃」を出品、1927(昭和2)年に構造社に参加します。

この「秩父宮殿下台臨記念 京都帝国大学学友会」メダルは、京都帝国大学工学部の講師だったことで制作依頼が来たのでしょう。
中牟田三治郎は、昭和4年に「きつね」という作品が秩父宮家に収蔵されています。(現在は宮内庁三の丸尚蔵館が収蔵)
これも、このメダルの縁なのでしょうか。

彼は、ドイツ表現主義に影響を受けたと言います。
このメダルの造形もその影響を感じさせます。
以前こんなことを書きましたが、彼もまた、日本表現主義彫刻のミッシング・リングを繋げる作家なのかもしれません。

そういえば、 三の丸尚蔵館に新館ができるとか。
「きつね」も展示されると嬉しいですね。

2014年8月13日水曜日

Intermission 藤井浩祐の作品展が開催されるそうです。

8月29日~10月19日の間、岡山県井原市田中美術館にて「彫刻家 藤井浩祐の世界」展が開催されるそうです。
藤井浩祐は、1907(明治40)年、東京美術学校彫刻科卒、第一回文展に出品します。
以後も官展に出品を続け、近代日本彫刻史を第一線で見続けた作家です。
官展だけでなく、銅像制作を行い、また日本美術院の同人でもあり、 児童彫塑の展覧会を行うなど、その活動は幅広い。
さらに、下の文鎮やペーパーナイフの様な作品までも多く手がけています。

藤井浩佑作 毎日新聞社主催 第14回映画コンクール記念品

藤井浩佑作 早稲田大学、大隈重信像の ペーパー ナイフ

作品は多数ありながらも主となるものが戦火で失われたことと、彫刻の啓蒙書である「彫刻を試みる人へ」の執筆などの多彩な仕事ぶりによって、逆に藤井浩佑像というものの焦点が合いにくい作家です。

また、古風というか伝統的というか保守というか、どこか前時代的なイメージを抱かせる作家でもあります。同時代の朝倉文夫や北村西望が、新進気鋭として出発したのに対し、一歩引いているように見えます。
扱う主題は女性像が多いのですが、主体性を持つ女性というより、浮世絵的な男性視点の女性像、柔らかく母性を感じさせる女性を得意とした点も、前近代的に感じさせる要因なのでしょうか。
かと言って国粋というわけでもなく、そのため戦時の時風に乗ることもなく、 たんたんと「藤井浩佑」という作家としての仕事をこなした人物ではないかと考えています。
それは、市井のために、他者の為にある彫刻という、とても優しい作風であり、それが藤井浩佑という作家なのだと思います。

今回の展覧会では、そんな藤井浩佑を日本美術史に位置づけるようなものとなるのではと期待しています。

2014年7月6日日曜日

Intermission 明治大正/異端の科学 奇なるものへの挑戦

岐阜県博物館へ「明治大正/異端の科学 奇なるものへの挑戦」を観てきました。
チラシにもありますが、千里眼、念写、霊術、変態心理、メスメリズム...生命主義、ヒステリー、心理学、神秘主義...と、明治、大正時代に日本の近代化の影に表にとノイズのように現れた物事の数々をまとめ展示した、ものすごいマニアック且つ、僕としては大好物な展覧会でした。

この展示でも言われていたのですが、当時、こういったオカルトは教養の一部でした。
知識人にとっては、否定肯定関わらず、知識として共有していました。

現在、私達が当たり前の文化だと認識している日本の文学や科学や美術や音楽などは、この混迷の時代にオカルトと結ばれ、そしてそこからの派生としてあります。
しかし、日本近代文学史や美術史では、こういったオカルトは語られることはありません。

例えば、この展覧会でもデスマスク が展示されていた岡田虎二郎
彼の提唱した岡田式静座法は、修身によって心身を強健とするといったものでしたが、それを支持した新宿中村屋の相馬黒光らによって、多くの美術家にも信仰者がいました。
このデスマスクを作成した北村正信 もそうだったでしょうし、中村屋と親交があった中原悌二郎もそうでした。
中原悌二郎の彫刻作品のいくつかは、その思想下のものだと言えます。
彼は岡田虎二郎死後もその教えを守って薬を飲まず、結果自身の命も縮めることになりました。

ゴッホについて多くの著作を持つ式場隆三郎もまた、こういったオカルトを教養とし、自身も半分足を突っ込んでいただろうと思います。
よって、彼の見出した山下清や日本のアール・ブリュットなども、こういったオカルトを起源の一つにするものと言えるのではないでしょうか。

こういったものを正史として扱おうとするこの展覧会は、大変意義のあるものではないかと思います。
ただ、明治期からの日本近代宗教史、特に新興宗教について(一部、大本教についてはありましたが)を一緒に並べるととができれば、よりこの歴史に立体感がでるのではないでしょうか。
そしてオウム真理教までもその軸に入れることができれば...

2014年7月5日土曜日

広島高等師範学校・広島高等工業学校・広島高校 弁論部 「ロダン」風メダル


このメダルの裏側には、「広島高師(広島高等師範学校)、広島高工(広島高等工業学校)、広島高校 弁論部 1925年」とあります。
弁論部にロダンの「考える人」とは、なかなかな組み合わせですね。

荻原守衛がロダンの「考える人」に出会って、彫刻家への転身を決めたのが、1904(明治37)年。
高村光太郎が雑誌から「考える人」を見つけ出したのが、同年1904(明治37)年。
日本にロダンの作品を広く知らしめた『白樺 ロダン号』が発行されたのが、1910年(明治43)年。
高村光太郎による「ロダンの言葉」発行が、1916(大正5)年。
そして、1920(大正9)年には、、院展洋画部主催の「フランス現代美術展」に、日本で初めて「考える人」が展示されます。

つまり、1925(大正14)年に造られたこのメダルは、日本に「考える人」が展示されて5年後のものだということですね。
この頃には、 白樺や高村光太郎によって、ロダンの「考える人」は広く知られる作品となっていたのでしょう。特に師範学校の弁論部といった知識人の間では常識だったかもしれません。

でも悲しいかな、なんとも貧弱な「考える人」になってしまってますね!

2014年3月8日土曜日

ロダン作 「或る小さき影」「ロダン夫人」絵葉書


この作品は現在、大原美術館に所蔵されており、もう一点「ゴロツキの首」を含め、これら3点が白樺美術館より永久寄託された作品です。
実は、この3点が、日本に始めてもたらされたロダン作品なのです。
そして、これら作品の最初の所有者が有島生馬、志賀直哉武者小路実篤ら、白樺派の同人たちでした。
彼らは、1910年(明治43)11月の『白樺 ロダン号』にて、「ロダン第七十回誕生紀念号」とし、ロダンの特集を組みます。
この雑誌発行前に、特集号へのコメント等を求めてロダンへ手紙を出します。
その返事の中に日本の浮世絵と交換にロダンが作品を送るとあり、そのやり取りの結果、送られてきたのが、この3点なんです。
この作品が日本に送られてきた時の狂騒は、これもまた「白樺」にて柳宗悦が書いています。

「ロダンの彫刻が日本に来る-この夢のような想像がただただ現実となってきたのです。なんだかこの世の中がどうかしているような気がしました。それ以来いつ荷上げになるかとそればかり気にかかりました。」

 また、彼らは、1912年(明治45)2月、バーナード・リーチのエッチングとともに、この3点の作品の展示を行います。
この展覧会で始めてロダン作品の実物を目にした中原悌二郎は、こう書いています。

「(「ロダン夫人」像を)見て居るうちに、最早是は銅の塊ではない、生々しい一個の首である、沈痛なヒステリックな近代女性の靈そのものである.」と。

僕の所有する絵葉書は、戦前のものには違いないと思うのですが、どういった経緯で発売されたかまではわかりません。
もしかしたら白樺美術館を建てるための資金集めに販売したのかも?
「或る小さき影」が後ろ姿なのは、当局の何かしらがあったのかな?
それにしても、残り1点「ゴロツキの首」が欲しいですね~

2014年2月23日日曜日

Intermission 書票 ソノ壱

書票(蔵書票)は「本の見返し部分に貼って、その本の持ち主を明らかにするための小紙片。より国際的にはエクスリブリス(Exlibris、「だれそれの蔵書から」という意味のラテン語)と呼ばれる。」もので、今で言うコピー商品ではない、オリジナルを示す為のサインです。

凝ったデザインのものもあり、今ではコレクションアイテムにもなっています。

今日は、そんな書票の内、高村光太郎の本より、手元にあった「続ロダンの言葉」と「美について」から紹介します。

 

まずは、 「続ロダンの言葉」の書票です。
実は、光太郎の書票って、そんなに凝ってない。
まぁ、可愛くはありますけどね。
 

次は、 「美について」の書票です。
前よりは少し進化。
図案はシダの様ですが、なんだろう?
ワラビ?
調べてみたら、昭和13年、高村光太郎によるコゴミ(クサソテツ)について書かれた文があるようだ。

こごみの味
『ワラビのようだがワラビよりも歯ぎれよく、ぜんまいのようだがぜんまいよりもしゃっきりしている。ただの煮つけではあるが、その色青磁の雨過天青という鮮やかさにまがい、山野の香り箸にただよい、舌ざわり強く、しかも滑かで、噛めばしゃりりといさぎよい。分厚なお小皿に無雑作に盛られたのを黄塗りの長い竹箸でつまみながら、「これは何ですか」ときくと「コゴミ」だという。「コゴミって何ですか」ときくと「山にあるワラビみてえなもの」だという。私は懐から植物図鑑を出して引く。「クサソテツ」の事と分った。あの範谷の湿地を埋める獰猛な「クサソテツ」の芽がこんな微妙な高雅な前菜ものとなる事を知り、西国の落武者の隠れ里であったというこの藤原の村の娘の面だちに今でも残るゆかしい余薫と共に、今日まだ忘れ難い記憶となっている。』

これかな??


2013年3月31日日曜日

木村五郎作 「水汲みの島娘 伊豆大島風俗その三」 絵葉書


木村五郎は、1899(明治32)年、東京生まれの彫刻家。
日本美術院の石井鶴三らに指導を受けながら、独自の彫刻観を生み出します。
それが、この絵葉書に見られる土産物人形のような彫刻。

木村五郎は、まさにこのような木彫を、農閑期の農民たちの仕事として全国の農村に広める活動を行います。
こういった活動を「農民美術運動」と言い、画家山本鼎によって始められたこの運動に木村五郎は興味を持ち、昭和2年頃から、石井鶴三の協力によって関わります。
特に大島の農民美術発展には、大いに関わることとなります。

こうした農民美術の工芸品を、当時の芸術観では、純粋美術とは見なされなません。
しかし、木村五郎は、そんな作品を「美術」として提示します。 

それは、評論家や構造社の齋藤素巌や日名子実三らによって批判されます。
例えば、評論家の外山卵三郎氏にして、「...その制作態度に同感することはできない。それは即興的な写生であり、絵画的であって、漫彫(漫画に対して)と言う感じが不満である。私達はこの作品を見て、彫刻的な何物も感じることが出来ずお土産物を作るような態度に不快を禁じ得ない。」とされます。
しかし、それでも彼は自身の芸術観を揺るがすことはありませんでした。

彼は言います。
「私の彫刻は、私自身の修行とします。然しそこに、何にか運動意識が含まれているとすれば、それは彫刻の原始的精神への立て直しにあると思います。」

彼の言う「原始的精神」とは何か。
それは、民俗学的な意味での日本人を含む人間の「原始」、古代あったと思われる精神を指すのでしょう。
また、ピカソがアフリカ美術に惹かれたように、ゴーギャンがタヒチに渡ったように、木村五郎にとって、大島や日本の地方各地があり、そこに住む農民や現地人が持つ(と考えられた)純粋な精神を指すのでしょう。
そして、日本美術院の新海竹太郎が行なった「浮世彫刻」という、今生きている人々の風俗を題材にしながらも、それを彫刻として成り立たせるという思想から、アンディーウォーホルがキャンベルスープを題材にしたように、今生きる農民たちの姿を彫刻の題材としたのでしょう。

それは、現代でいう、アール・ブリュットであり、ポップアートだったと言えます。
ただ問題は、そう言った思想が啓蒙されていない中で、農民美術や浮世彫刻と同時進行で行われたことにあり、その結果、当時の人々にうまく伝わらない作品になってします。

同期の彫刻家、橋本平八は木村五郎の個展にたいし、鑑賞者は鑑賞者の持つ技量を超えることはない、そのために木村五郎作品の「微妙なる自己の趣味にかなえる美学を試みる作品なるが故に」理解されないだろうといったことを言っています。

そんな木村五郎は、1935年、37歳の若さで(謎の)急逝。同年、同期の彫刻家であった橋本平八と牧雅雄も亡くなっています。
木村五郎は、現代の視点から、もう一度見直すべき作家ではないかと思います。

2013年3月12日火曜日

Intermission 岡本一平と地元の文化

現在、みのかも文化の森で「岡本一平展 -世態人情を描く-」展が行われています。
この展覧会の企画の一つ、この地域の岡本一平ゆかりの地をまわるバスツアーに参加してきました。

岡本一平は、昭和20年に岐阜県加茂郡西白川村(現加茂郡白川町)に疎開します。
そして、地元の人たちとの関わりの中で文化活動を行ないます。


そんな活動の一つが、「漫俳」です。
 「漫俳」とは、俳句や川柳や狂歌をベースに、新しい詩をと一平によって考え出されたものなのですが、定義は難しそうです。
上の石碑は三川地区で行われていた一平の句会、漫風句会の記念碑です。

昭和23年、こちらに来て、たった3年あまりで岡本一平は亡くなります。
しかし、彼の「漫俳」文化は、現在もその句会の参加していた方々の尽力により、行われているそうです。

岡本一平が火葬された火葬場跡地付近

 岡本太郎もかの子について書いた瀬戸内寂聴も、僕の地元を寂しい田舎のように言っていますが(まぁ、そんなですが)、古くより中山道の宿のあったこの地は、決して文化不毛の地ではありませんでした。
そんな地元文化や文化人の紹介を下記にいくつか... 

まずは、岐阜出身の彫刻家、加納鉄哉について。
加納鉄哉は、1825年生れ。現在美濃加茂市にある正眼寺で修行をしています。
その後、細工物を学んで、国内勧業博覧会への出品。
フェノロサや岡倉天心らと知り合い、行動を共にするようになります。
天心の勧めで東京美術学校の教授となるが、すぐに辞職。
加納鉄哉は、彫刻家というよりも誇り高き職人であったと言えるでしょう。

加納鉄哉書簡

次は、最近注目度が高い、吉田初三郎について。
初三郎は絵地図師とでも言うのでしょうか、一風変わった鳥瞰図を描きます。
関東大震災があった1923年から1936(昭和11)年ごろまでを犬山で仕事をしています。
僕も彼の作品が欲しいです!

そして、岐阜市鶯谷の浄土寺には、ロダンのモデルを行なった花子の墓があります。
花子が欧州から岐阜に戻っていた昭和2年には、高村光太郎が会いに行っています。

地元であるのに知られていない所謂「岐阜事件」。「板垣死すとも自由は死せず」」のアレですが、 その場所には現在板垣退助の銅像が建っています。
けど、この銅像は初めに建てられたものと形が違うんですね。
金属回収令のために提出され、再建されたもののようです。
下の写真がかつての板垣退助像



最後に、可児市土田に疎開していた彫刻家、土方久功について。
土方久功は、パラオ諸島やヤップ島を調査、研究を行い、そして南方を思わせる彫刻作品を制作します。
高村光太郎らに見出された土方彫刻は、官展などとは異なる独特の立ち位置にあったといえます。
彼は、1944(昭和19)年に、岐阜県可児郡土田村(現在の同県可児市土田)に疎開します。
その頃のことを文章で残しているのですが、余り良いイメージを持てなかったようです。
隣町には岡本一平がいたのですが、交流があったのかは不明。
岐阜にいた頃の土方久功の情報が見つかりましたら、また報告します。

土方久功著 パラオの神話伝説 1942年発行
土方久功の1958年 年賀状

2013年3月6日水曜日

濱田三郎に就て

濱田三郎 原型「有馬研究所満十年記念」メダル 1936(昭和11)年
裏側には齋藤素巌原型の研究所の図

濱田三郎 原型「第七回全国中等学校籠球選手権大会」メダル 1930(昭和5)年

不明

濱田三郎は1892(明治25)年12月生まれ。東京美術学校を卒業。大正15年帝展に初入選し、その後、齋藤素巌らの構造社に参加、会員となる。
また、日名子と共に国風彫塑会に参加、聖戦美術展などいくつかの戦争美術展に出品する。
戦後しばらくは在野で活動するが、齋藤素巌に誘われ日展に出品、1939年には「楽人」が菊華賞を受賞する。

彼の第一回構造社展における評価は、高村豊周にして、「濱田三郎氏は新人で、あまり名を知られていないようではあるが、今度の出品が示す通り驚くべき才能の人である。」「自然の中に伏在する幾何学的必然を洞察する氏の叡智からの組み立てである。これは、日本ではユニイクの美で、突如として出現した新惑星の輝きを示すものである。」と評された。

マイヨールやユーゴスラヴビアの彫刻家のメストロウィッチの影響を受けた濱田三郎は、抽象彫刻への過渡期の作家と言えるでしょう。
それゆえ、日本彫刻史上に名が出ることは少ないですが、こういった作家無くして戦後の彫刻史も無いことは確かだろうと思います。

彼の原型製作したメダルもユニイクで、僕のコレクションの目玉の一つです。

1973(昭和48)年11月死去。


このレリーフは、濱田のサインであるS.Hと刻まれてますが、
濱田の作であるかどうかは不明です、どうでしょうか??

2013年2月23日土曜日

安永良徳 原型レリーフ「裸婦坐像」


以前、「シベリア抑留彫刻家に就て。 」として紹介しました安永良徳によるレリーフです。
これはそれほど古い作ではないだろうと思います。
福岡県立美術館のシンボルとして、現在も建っている安永良徳作裸婦座像」と同じモチーフですね。
福岡県立美術館の前身である福岡県文化会館は、1964年(昭和39)に施工されていますが、この像はいつ建ったのでしょう? 同時期に記念品として作られたレリーフなのかもしれません。
鳥が描かれているので、野外のイメージを持って制作されたものには違いないでしょうけれど。

戦前の構造社時代の安永は、こういった抽象的な作品をいくつか制作しているのですが、途中から具象に変わります。
ピカソに倣ったのか、それとも技術が上がって具象をこなしてみたくなったのかわかりませんが、 戦後も具象一本槍だったというわけではないようです。

この裸婦像はなんだかクリオネみたいですね。
ということは、この鳥は捕食される直前なんでしょうか!

2013年2月14日木曜日

安藤照に就て


前回、安藤照についてちょっとだけ触れましたので、今回は彼について書こうと思います。
東京に住んでいる人であれば、彼の彫刻を一度は目にしたことがあるかと思います。
あの渋谷のハチ公像がそれです。ただ、あれは戦時中に金属回収され、安藤照の息子によって再建されたものですが。
では、なぜその時彼自身が制作しなかったのか。
なぜなら安藤照が、その戦争末期、1945年(昭和20年)5月に行われたアメリカ軍による空襲、東京大空襲によって 亡くなっていたからです。
米軍の首都への空襲は、1945年(昭和20年)の3月、4月、5月とにわたり5回行われ、8万人の民間人が犠牲になり、また多くの文化財が灰と化します。
現在、当時の戦争彫刻の多くを見ることのできないのは、この時、失われたからです。
また、4月の空襲では高村光太郎と智恵子の思いである自宅が焼かれ、数少ない作品や資料が失われています。
戦争によって、人命だけでなく、文化もまた大きな犠牲を強いられました。

上の画像は、僕の所有している安藤照の直筆です。
彼が主催した彫刻団体「塊人社」の一人、小倉一利の塑像領布會、會員芳名録になります。
安藤の彫刻観が書かれており、彼の数少ない資料の一つではないでしょうか。

安藤照は、1892年(明治25年)、鹿児島生れ、東京美術学校へ入学中に帝展入選を果たし、新人の登竜門であった官展の若きエリートであったと言えます。
同じくエリートの中のエリートであった朝倉文夫に師事し、彼の朝倉彫塑会に参加します。
しかし、1928年(昭和3年)、官展の審査選考の問題のゴタゴタがあり、その大きくなりすぎた朝倉の影響力から逃れ、新たに「塊人社」を結成します。

彼と同時期に朝倉の下にいた齋藤素巌や日名子実三が、同じく彼から離れて「構造社」を立ち上げたように、「塊人社」も新しい彫刻のあり方を目指したのでしょうが、如何せん資料が少なく、まだわからないことが多い。参加メンバーに堀江尚志がおり、彼の作風からして安藤照からも良い影響を受けあったのではないかと想像できます。
僕は、朝倉文夫→安藤照↔堀江尚志→舟越保武→詩的な抽象彫刻と、現在も繋がる彫刻の流れの一源流が安藤ではなかったかと考えています。また何かわかりましたらこのブログで紹介しますね。

 一番上の絵葉書の画像は、鹿児島県人であった安藤照による西郷隆盛像です。
これは現在も鹿児島に立っております。この像についてはWikiに詳しく書かれています。

2013年2月11日月曜日

彫刻家と挿絵に就て

石井鶴三筆 「踊り子」

明治以降、出版の技術の向上と市井の人々の趣味の変化に伴い、江戸から続く挿絵文化に飽き足らなくなった市民は、新しい挿絵画家を求めた。
西洋美術を会得した美術家にその矢が向けられたが、洋画家たちは画業の片手間に行う挿絵の仕事を潔しとしなかった。
その隙間産業に目をつけたのが、西洋的な技術を学び身に付けていた彫刻家たちであった。
 挿絵画家としても有名な彫刻家に、戸張孤雁石井鶴三清水三重三河村目呂二梁川剛一等々があります。


清水三重三直筆原画

その彫刻家の中の一人、石井鶴三の所謂「挿絵事件」とは、中里介山の小説『大菩薩峠』での鶴三の挿絵に人気があり、、その中から『石井鶴三挿絵集第一巻』を出版しようとするが、原作者に断りを得ず、金もよこさず何をするんだと、中里介山に訴訟を起こされた事件を言う。
結果、鶴三の勝訴となって、そのおかげで、挿絵そのものが芸術作品だと認識されるにいたった。
ここから近代挿絵の時代が始まるとは言うのですが、何故、洋画家が不純だと避けた挿絵仕事を彫刻家は請けたのか。
その一つの理由に、当時の(現在も)彫刻家たちが貧乏だったというのがあるのだろうと思います。
売れない、金のない彫刻家たちは、中原悌二郎にしても橋本平八や木村五郎にしても、早死にするわけです。評論家落合忠直に「呪われている人達をよ」と言われるわけです。
ゆえに、手っ取り早く金になる挿絵を請けた。
 そういう面もあったろうと思います。
でも、それでも「呪われた」彫刻家たちは、得た金を注ぎ込んで彫刻をしてしまうのですね。