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2024年2月12日月曜日

小倉一利 塑像領布会 会員芳名録 安藤照推薦文

彫刻家小倉一利の塑像領布会会員芳名録になります。
10年前、私がコレクションを始めたころに手に入れ、以来とても大切にしているものです。
その頃のブログでも紹介しましたが、今回再度皆さんにお目にかけたく、引っ張り出してきました。

この芳名録は、昭和7年に書かれたようですね。
彫刻家安藤照による趣旨、次に賛助員、小倉一利の言葉と履歴、そして彼の作品絵葉書が貼ってあります。


それによると、小倉一利は昭和2年に東京美術学校彫塑科卒、朝倉塾生を経て塊人社で研究を重ね、昭和2年第八回帝展に入選、その後も入選を続ける新進気鋭の彫刻家であったようです。
彼についての情報はネット上にはほとんどなく、国会図書館でも茨城出身というくらいしか見つかりません。
また、小倉政二というのがどうやら本名のようですね。
調べて分かるのはここまででした。



小倉一利の履歴で面白いのは、塊人社に参加したことですね。
塊人社は反朝倉文夫派で、安藤照や堀江尚志、松田尚之らが参加しています。
ただ、その後は官展を中心に出品しているので、塊人社からは離れたようですけど。
昭和19年までの消息は追いかけられたのですが、以後はわかりませんでした。
終戦まで生き延びられたのでしょうか?

そして、この芳名録には昭和20年5月、東京大空襲で亡くなった安藤照の直筆文が記されています。


この文章は当時の世相に合わせたものなのでしょうが、興味深いのは「仏教彫刻」という言葉で、日本には西洋に対抗しうる芸術があるという認識。そうしたバックボーンを持ったうえで「彫塑芸術」は黎明の域を脱した新興芸術としてあって、その主流を担おうという希望が書かれている事ですね。
その望みが叶えられず、残念です。


2021年12月27日月曜日

朝倉文夫作「報知賞杯 第三回互選和歌人選部会」メダル

やっと手に入れました!
令和3年、今年最後に紹介するのは、朝倉文夫作、昭和10年の「報知賞杯 第三回互選和歌人選部会」メダルです。

以前、このメダルが手に入る前に「まだ見ぬメダルたち」と題して記事を書きました。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2017/04/blog-post_12.html
ここに書いてありますように、このメダルについて朝倉文夫が文章を残しているのですね。
それを昭和17年発行の彼の書籍「美の成果」に「人麿と芭蕉」としてまとめられています。

「人麿と芭蕉」によると、報知新聞社のメダル制作依頼を同郷の廣田湘水漁郎という人物が朝倉文夫に伝えたそうです。また、報知の学芸誌に載せるため、メダル制作の為の考証や史実を文章にするよう頼まれたそう。

『さうだろうネ、歌の聖の人麿、俳句の聖といへば芭蕉、これを一個のメタルの場面に組み立ててみるか』と朝倉文夫が述べ、制作に入ります。

朝倉文夫は柿本人麻呂の姿について、伝説が多くはっきりしないため、『白鬚をしごいた老人でありたい。さうして服装は布衣や直衣でなくして、後世随身、即ち闕腋袍(けってきのほう)の模範となつたものが、僧侶以外の奈良時代の服装であつたように思はれるのである』と姿を選びます。
芭蕉の姿については旅装束のイメージが強く、それに合わせたようです。
『そうして歌の聖と対坐した構図をとつたのであるが、當時江戸の俳壇には貞徳の古風、宗因の檀林派が共に行われていたが、芭蕉は檀林派の新しさを好んでこの派の人々と多く交友してはいたが、檀林のいたづらに奇警で眞實のないところにあきたらず、遠く萬葉集の自然を魂とし、その時代生活を取り入れたいはゆる正風を創始したのであるから、1個のメタルの中に一千年の隔たりのある二人の聖をかうしたえにしの糸でつないだのであつた』

そうしてできたメダルは、朝倉文夫には珍しい物語的で複数の人物(しかもおっさん)を配した作品になってます。
メダルの円形で切られた構図ともに、そこから感じられる二人の間の空気。
流石朝倉文夫と思わせるメダルです。

2021年3月22日月曜日

下中彌三郎と朝倉文夫のメダルとシンエヴァンゲリオン(ネタばれあり)

よしながふみさんの漫画「きのう何食べた」は読んでいたのですが、完結した漫画「大奥」は未読でしたので、やっと読みました。こういった歴史もの、大河ドラマを読んでいると、私自身が歴史の中の登場人物であればと願った若い頃の想いが蘇ります。
私がこうして古いものに取りつかれているのも、そんな想いが未だあるからでしょうね。

私の欲望、歴史と一つになりたい、大きな物語と一つになりたい、そういう想いは普遍的なものなのかもしれません。
例えば、戦後の新左翼やオウム真理教だってそうでしょう。スターリンや毛沢東、ポルポトもそうであったろうし、ジョンレノンだってそう歌います。
そしてまさに戦時下のナショナリズムがそうでした。
神ながらの国として日本が世界を善意の下で統一する...そんな夢を戦時下のナショナリストは持ちました。

そんなナショナリストの大きな物語への欲望を、自身が持つ同じ欲望を相対化するために研究されているのが歴史学者の中島岳志さんだと思います。
私のブログでも、何度か言及させて頂きました。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2018/06/blog-post_30.html
彼の著書『下中彌三郎 アジア主義から世界連邦運動へ』では、下中彌三郎の一見思想的にバラバラに見える彼の行動が、大きな物語への欲望によって一貫されていることを述べられています。

下のメダルは、下中彌三郎によって創立された出版社「平凡社」が、1934(昭和9)年に制作した平凡社大百科事典完成記念メダルです。




メダルの原型制作は朝倉文夫です。
どうやら現在の平凡社には、朝倉文夫による平凡社の設立者である下中弥三郎像があるそうですね。 
1928年に平凡社は「世界美術全集」を刊行します。
それは彼の『美術は万人の有であるべき』といった思想の下、美術を大衆の手に取り戻そうという階級闘争の一環だったと、中島岳志さんは著書の中で述べています。
そうした想いに朝倉文夫や佐藤忠良も共感したのかもしれません。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2018/06/blog-post.html

大きな物語と一つになりたい。しかし、新左翼もオウムもナショナリスト達も、下中彌三郎もその夢に破れました。
それは、破られるべき夢なのでしょう。
破られた姿をポストモダンと名付けても良いのでしょうが、もっと泥臭い、生活臭のする言葉でなければ合わないような気がします。

その言葉をアニメで表現した映画を最近観ました。
「シンエヴァンゲリオン」です。
世界を一つにする「人類補完計画」に魅入られたのは、劇中の人物だけではありません。
先の中島岳志さんもそうでした。
https://toyokeizai.net/articles/-/299196?page=5

「シンエヴァンゲリオン」では、シンジが大人になることと他者としてのマリ(安野モヨコ)との仲良くなるオマジナイによって、大きな物語への夢は、個々の小さな物語(監督にとっての宇部新川駅へ)へと変わります。
まさに神殺し(フィクションからの決別または融和)ですね。

しかし、私は思います。
何かすがらずに、子を育て、働いていけるほど人は強く生きられるのでしょうか?
誰かと手を取り合えば、それは越えられるのでしょうか?
私はたぶん、弱いです。

2020年12月31日木曜日

昭和2年 6月 東京美術学校 校友会月報

 昭和2年6月に発行された東京美術学校校友会月報、第26巻第1号です。


挿絵に森大造、星三郎の卒業制作が載っています。
森大造はわかりますが、星三郎という作家については不勉強で分かりません。
堀江尚志の少女座像(大正13年)によく似た姿で、もしかしたら影響受けているのでしょうか?

こういった冊子を読んでいて面白いのは、当時を生きた人々の姿が生き生きと見えてくる事ですね。
こういうのは作品を見ていても分かりません。

例えば、この年の特待生が記載されています。
塑像部:奥田勝、中島浩、梁川剛一
木彫部:松厚正明、中野四郎

梁川剛一、中野四郎など後に名を成す彫刻家がいますね。
逆にあまり知られていない名もあるのが面白いです。

また、卒業式のスケジュールなど
『3月24日第36回卒業證書授興式を本工大講堂に於いて挙行す。
 例年の如く午前10時新卒業生式場に入り着席、
 鈴川教務主任より式に関する注意あり、
 次で職員、卒業生、来賓の着席せらるるや、正木校長の式辞に始まり、
 各科総代に卒業證書を授興。校長の告別辞、文部大臣訓辞代読、
 卒業生総代(建築科大澤健吉)答辞にて式終わる。
 職員及び新卒業生は本館玄関前にて記念の撮影をなす。』
卒業式って今とほとんど変わってないのね!

そして本年の入学についてですが、入学希望者が851人あり、入学試験の結果180人が選別入学を許可されたとあります。
彫刻選科塑像部は13名、文錫五という後に北朝鮮に渡った作家の名前があります。
彫刻家木彫部は6名、彫刻選科木彫部は4名です。

西洋画科特別学生に、朴魯弘、朴根鎬、李馬銅、李景湊、
何徳來、韓三鉉、吉鎭燮、金慶璡
朝鮮の作家が多いですが、
何徳來は台湾の人のようです。

卒業生動静には木内五郎が陸軍歩兵少尉に任命されたとあります。
https://www.wul.waseda.ac.jp/Libraries/fumi/13/13-02.html

そして、その中でも面白いのこの年の入学試験の内容が書かれている事です。
彫刻科塑像部は、
①塑像 石膏マスク模作
②写生 石膏胸像(木炭画又は鉛筆画)
彫刻科木彫部は、
①木彫又は塑像 木彫は平肉手板模作(桐)
 塑像は厚肉手板(鷲の首)模作
②写生 
石膏胸像(木炭画又は鉛筆画)

また、筆記の試験も。
建築科の試験での英語の例
2.次の文を英訳すべし
1.ロダン(Rodin)はモデルにある姿勢を強るやうなことは決してしなかつたと云うことです。

建築科の試験での数学(平仮名は全部カタカナ表記)
1.甲端より乙端に向へる汽車が3哩を走りし中機関に故障を生じ10分間停車した。
それより早さの1/3を減少したるため定刻より1時間延着したり。
もし故障が出発後2時間にして起こりしならば(停車時間等前と同様)前の場合よりも22’5分丈早く到着したるべし´甲乙両端間の距離を求む。

等々...

他には修学旅行記や弓道、乗馬、山岳スキー部の日誌。
青春ですね。

最後に教授で美術史家大村西崖の銅像建設資金募集趣意が記されています。
この年の3月に亡くなった大村西崖の銅像製作費を募集し、1周忌に構内に建設する予定のようです。
発起人には教授である朝倉文夫、北村西望、建畠大夢、そして海野清や関野聖雲の名前があります。
で、誰が大村西崖の像を制作したかと言えば...結局朝倉文夫なんですよね~~

2020年4月16日木曜日

新型コロナと朝倉文夫

1918(大正7)年から始まった日本でのスペイン風邪の大流行では、当時の人口5500万人に対し約2380万人が感染したとされ、死者が38万8,727人と言われています。

その後、1923(大正12)年の関東大震災では、死者・行方不明 10万5千あまり。
昭和5年からの大恐慌、支那事変、そして大東亜戦争と日本人以外も含め多く人が亡くなります...
https://www.stat.go.jp/info/today/115.html

こんな時代を生き残ってこられた方があり、今の私たちがあるのですね。
私たちもどうにかして生き残りましょう...

そのスペイン風邪で亡くなった著名人に、京大の銅像となった折田彦市先生や、画家の村山槐多、劇作家の島村抱月がいます。

島村抱月は、明治40年代に本格的に新劇運動をはじめたのですが、看板女優の松井須磨子と不倫し、これが騒動となって坪内逍遥と決別、須磨子とともに劇団「芸術座」を結成します。
そして、トルストイの小説をもとにした『復活』を舞台化、これが評判になり、プーシキン劇場を含めた各地で興行が行われます。
しかし、前述のとおり1918(大正7)年11月5日、スペイン風邪で病死。
その時、松井須磨子は「「島村先生は亡くなりはしません。どうしても生きています...」と話したそうです。
志村けんさんの追悼番組で語った高木ブーさんみたいですね...

そしてその2ヶ月後、芸術倶楽部の道具部屋で松井須磨子は抱月の後を追って自死します...

この松井須磨子の像を制作した作家がいます。
朝倉文夫です。
彼が、1914(大正3)年の国民美術協会第2回展に出品した『扮したるカチューシャ』は松井須磨子をモデルにしています。
写真で見る松井須磨子は貧弱ですが、この像はボリュームと迫力があり、さすが朝倉文夫といったところでしょうか。
また、亡くなった松井須磨子のデスマスクを、朝倉文夫の指揮の下で弟子の相川善一郎らが作成したと言います。

島村抱月がスペイン風邪で亡くなった時、朝倉文夫が知人にこう語ったとか。
松井(須磨子)さんも後を追って死ねば、出雲阿国のように歴史に名を残すのに

この言葉、今の私たちからすれば残酷です。
ですが、私たちが新型コロナウイルス流行の世界にいるからこそ、そう思えるのかもしれません。
それは、新型コロナウイルス流行後の世界では、ARTの在り方が変わっていくだろうことを示唆しています。

2019年1月1日火曜日

謹賀新年 祝2019 筋肉彫刻!

謹賀新年!
昨年の紅白で、天道よしみの曲に合わせた「筋肉体操」が披露されたわけですが、こちらも負けじと「筋肉彫刻」です!
まずは、朝倉文夫作 第七回帝国美術院展出品「水の猛者」。
第七回帝展は1926(大正15)年。作品タイトルと彫刻の姿から水泳選手の像だと思われます。
競泳初のオリンピック金メダリストの鶴田義行でしょうか?

次は同じく七回帝国美術院展出品「望洋」、作者は横江嘉純。
なんともとりとめの無いタイトルですが、横江嘉純らしい男性美に溢れた彫刻です。

同じ男性の肉体を扱っていても、まったく毛色の違う2点。
朝倉文夫の現実の肉体美を追及する作品と、横江嘉純の理想の究極の肉体美を描こうとする作品。

前述の「筋肉体操」では、この二つのベクトルがせめぎ合い、実際に嘘のつかない筋肉が出来るわけですね。
三島由紀夫は、これらを追い求めて、理想の方が超えて行ったのでしょう。
そう思うと、横江嘉純のこういった男性美の作品は、朝倉文夫以上に危うくて面白いのです。

2018年9月2日日曜日

猫を飼いました。

我家に猫が来ました。名前は風(ふう)です。
ウチのこの子がカワイイ、カワイイと書きたいところですが、このブログはメダルについて語ってるのでメダルと絡めて書いて見たい。
けれど、メダルのモチーフに猫が使われているものはまったく見たことないので語れない!(ライオンならありますが。)
戦争彫刻については尚更で、靖国神社に鳩や馬の像はあっても、猫はありません。

猫は犬と同様に深く人の生活に関わる生き物ですが、メダルや戦争など人の社会的な面にはあまり馴染まない生き物なのでしょうね。
または、人の方が馴染んで欲しくないと考えているのでしょうか?
不思議です。

とは言え、彫刻家が猫を造らなかったわけではありません。
朝倉文夫や木内克、河村目呂二等は大の猫好きです。
下の絵葉書は、朝倉文夫作、第五回文部省美術展覧会出品「餌食む猫」
河村目呂二作、第四回構造社美術展覧会出品「接吻」です。


朝倉文夫は、猫の肉感を、河村目呂二は人との関係性を主題としているようです。
猫を飼って思うのですが、猫の馬や犬の構造的な角のある立体感とは異なる、流動的な肉感は魅了されます。
そして、その柔らかさは、目呂二が女性を通して表しているような穏やかで癒しを感じさせる関係性を生み出すようです。

猫は、星新一の小説にあるように、我家で王様かお妃の様に振舞い、尚且つ実的な利益をまったく与えない生き物でありながらも、その「関係性」をもって人に必要とされているのですね。
不思議な生き物です。

2018年2月4日日曜日

大連・星ヶ浦 後藤伯銅像の絵葉書

大連の星ヶ浦公園(現星海公園)にあった後藤新平伯の銅像です。


絵葉書には以下の内容が書かれています。
『星ヶ浦公園の丘上に第一次満鉄総裁たりし後藤新平伯の銅像が其功績を永遠に伝へて屹立している。
この星ヶ浦の公園は満鉄が此地を買収して星ヶ裏ヤマトホテルの前進たる海岸ホテルを建て園内道路其他の設備を行ひ又一般避暑地として別荘や付属建設をなし初めて公園らしい体裁を整へた。』

この銅像の建立は1930(昭和5)年。
1929年に後藤新平が亡くなり、彼の意思に基づき東京美術学校正木校長に依頼され朝倉文夫が制作を行いました。

この朝倉文夫の「後藤新平」像ですが、実は現在も同型の像を見ることが出来ます。
場所は、岩手県奥州市水沢区中上野町にあります水沢公園、岩手生まれの後藤新平を記念し、1978(昭和53)年に建立したものです。

こうして作品が残って見ることができるというのは嬉しいですね。
ただ、絵葉書にある大連にあった銅像はどうなったのでしょう?
なにより大連と言う日本の租借地で、当時の現地の人たちは日本人の業績を記念したこの像をどう見ていたのでしょう?


複数のイデオロギーが焦点をなし、その思いを受ける媒体となる銅像のあり方、問題は、今も昔も変りません。
私たちは今年、そんな銅像たちに違うあり方を見出すことができるでしょうか?

2017年2月18日土曜日

まだ見ぬ股間若衆


股間若衆、所謂日本の「裸体男性像」について、戦前から今日までの作品群を眺めてみると思うことがあります。
それは、「裸体男性像」はモデル的な立ち姿が多く、女性像にあるような髪を梳かす仕草、寝姿等生活の中での状況を描いた作品が少ないということです。
裸体でのスポーツや労働の姿はありますが、この「生活の中」での姿は皆無といっていいのではないでしょうか?
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/11/blog-post_21.html
特に、「正座」像なんて見たことがありません。
もちろん「正座」姿は、着物などの着姿での坐像は多くあります。
けれど裸の男が正座した姿の彫刻を、私はまだお目にかかったことがありません。
正座した時にペニスをどう処理するのか...興味は湧きます。

原因としては、「裸体男性像」自体が少なく、バリエーションも多くないことが挙げられます。
また、裸体での「生活の中」の姿というのは、女性像においても違和感があるものですが、それは西洋的な文脈によって許されており、ただ男性彫刻家が自身の性を描く時の違和感には抗えなかったということもあるでしょう。
さらに、裸の男の風呂上りや寝姿に、(現代ならともかく)当時は需要がなかったこともあるでしょう。


上記の写真は昭和19年の美術雑誌「美術」に掲載されたナチス独逸の展覧会におけるヘルマン・ツェットリッツァの「裸体男性像」です。
これは横たわる姿ですね。こういう姿も見ません。

ナチスの「裸体男性像」と比べてみるとよくわかるのですが、独逸では男性の裸体、特に筋肉に美を見出しているのですよね。
これが日本の「裸体男性像」にはあまりない。
その代わり、上にある朝倉文夫の像や本郷新の「わだつみ像」の様に、若い肉体に美を見るというのはありますね。
三島由紀夫とか薔薇族的な美意識よりも、少年愛、陰間茶屋的なバンコランな美意識であれば、需要があったということでしょうね。

2016年12月12日月曜日

朝倉文夫が受賞した賞状? 続報

SAKO様
ありがとうございます!
お許しをいただきましたので、前々回投稿しました「朝倉文夫が受賞した賞状? 」について、SAKO様から頂きましたコメントをご紹介いたします。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/12/blog-post.html

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『仁禮景範銅像の原型図案募集は、美校卒業生の田中雄一と在校生の朝倉文夫の2人が一等賞を受賞し、賞金は折半となったことが、当時の校友会月報で報じられています(『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』pp.347-348参照)。

アジア歴史資料センターのホームページで「3海将」で検索するすると、当時の三海将銅像関係の公文書がズラッと出てきますが、これらに眼を通すかぎり、やはり、仁禮銅像原型は、田中雄一と朝倉文夫の共作だと判断できます。

例えば、C11081409500「建設報告、及除幕式辞」の件に、〈故仁禮中将ノ銅像原型製作ハ田中雄一朝倉文夫両氏ニ嘱シ…〉とあります。

ただし、C11081409100「銅像原型製作、鋳造、参名考案等の件(3)」に気になる書類があります。明治40年11月付で、田中雄一が一年間志願兵として入営することになったので、仁禮銅像の制作を朝倉に引き継ぐ、作者は連名とする、とあります。

最初から共作でスタートしたのか、一人で担当していた田中から朝倉へ引き継がれたのか、もう少し史料を読みこむ必要がありますが、仕上げに至るまでの制作後半は、ほとんど朝倉が一人で行なったとみてよさそうです。

なお、田中雄一は戦前はそこそこ活動していた彫刻家です。
『人物と其勢力』という人名事典に略歴が載っています(299コマ)。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946316

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仁禮景範銅像は、田中雄一と朝倉文夫の共作だったようです。
また、制作に関しては朝倉文夫が担ったと言えそうです。

アジア歴史資料センターのホームページは以下
https://www.jacar.go.jp/

早速私も読んでみました!
その中の『銅像原型図案募集及賞金設定等
『応募者は粘土、油土、石膏、木彫等の模型を以って形容姿勢等を示すべし』とありますね。
やっぱり立体図での応募だったのですね。

それと、川村大将像の次席に畑正吉の名前があります。この時彼は24、5歳のはず。
表彰式には出席したのかな?

さて、ここで重要なのは、『銅像の図様は全身立体像のこと』とあることと、『顔面及び頭部には精密の工を要せず。別に写真によりて正確なる顔面または胸像模型を添うべし』
と、全身像と3海将本人に似せた胸像模型の2つを要求していることです。
そして、仁禮中将像の1等に、胸像の部で田中雄一、全身(立像)の部で朝倉文夫の名前があげられています。

 私のコレクションを見てみると…

『…其胸像第一等の選に當りたるを以て…』とあります。
つまりこれは、胸像部門における田中雄一に渡された賞状(のコピー)だと言えるでしょう。

全体の構成では朝倉文夫が、顔などの細部を田中雄一が担当する予定だったのかもしれませんね。
けれど、田中雄一が一年間志願兵として入営することとなったので、朝倉文夫が顔も含め制作したということかも。

それにつけても、朝倉文夫の回顧録に、この銅像の話題が出ても田中雄一の名前は一切出てこない。不思議だ?
朝倉文夫のプライドか、それとも制作の途中で田中雄一と何かあったのか…




2016年12月5日月曜日

朝倉文夫が受賞した賞状?

私にとってはお宝ですが、他人にとってはど-でもいいもの。
今日は、そんなものを紹介します。


ファイルに入ったまま撮影しましたので、画像が悪くてスミマセン。
この賞状は、明治39年の海軍中将「仁禮景範」子爵のための銅像図案審査によって1等に与えられたものです。
金150円を受け取ったとありますが、それは現在の金額でおよそ150万円くらいだとか...
大金だ!

その海軍中将「仁禮景範」子爵ですが、明治33年に亡くなっています。
死後、東郷も含めた薩摩藩有志の手によって銅像設立がなされたのでしょう。
賞状には「西郷、川村 仁禮 三将銅像設立」とあるので、仁禮銅像と同じ海軍省に設置された西郷従道、川村純義も同時に公募されていたとわかります。
この銅像達は、全て昭和18年の金属回収令によって回収され、現在はありません。



上は、そんな仁禮銅像の絵葉書です。
絵葉書には、明治42年5月除幕、1丈2尺とあります。
図案が決定してから、3年ほどもかかっているんですね。

さて、問題は、その受賞者「田中雄一」ですが、史実では、「仁禮景範」銅像の作者はあの朝倉文夫ということになっています。
どういうことでしょう?
朝倉文夫の回顧録には、彼が美術学校3年生で23歳の頃、石川光明に誘われ、この公募に出したとあります。
つまり、学生で公募に出す資格の無かった朝倉が、「田中雄一」の名前で応募したのでしょうか?
昭和初期に発行された銅像写真集「偉人の俤」には、仁禮銅像の作者として二人の名前が列記されています。

この入賞によって、朝倉文夫の名前が一躍世に出ることになります。
除幕式では東郷平八郎らが居並び、朝倉は山本権兵衛にシャンパンを注いでもらったとか。

ちなみに西郷従道と川村純義は朝倉の先輩、本山白雲が制作しています。
当時の白雲は、銅像作製では第一等の人物であったわけで、そこに食い込んだ朝倉は、やはり早熟の天才だったのでしょうね。

こういった、楽しいことを色々想像させる賞状ですが、東郷の印がないことからも、実際は写しじゃないかなと考えています。
それはそれで、なぜ写しが出回ったのか?とか、オリジナルはどこにあるのか?などなど、妄想が膨らみます。

2014年8月13日水曜日

Intermission 藤井浩祐の作品展が開催されるそうです。

8月29日~10月19日の間、岡山県井原市田中美術館にて「彫刻家 藤井浩祐の世界」展が開催されるそうです。
藤井浩祐は、1907(明治40)年、東京美術学校彫刻科卒、第一回文展に出品します。
以後も官展に出品を続け、近代日本彫刻史を第一線で見続けた作家です。
官展だけでなく、銅像制作を行い、また日本美術院の同人でもあり、 児童彫塑の展覧会を行うなど、その活動は幅広い。
さらに、下の文鎮やペーパーナイフの様な作品までも多く手がけています。

藤井浩佑作 毎日新聞社主催 第14回映画コンクール記念品

藤井浩佑作 早稲田大学、大隈重信像の ペーパー ナイフ

作品は多数ありながらも主となるものが戦火で失われたことと、彫刻の啓蒙書である「彫刻を試みる人へ」の執筆などの多彩な仕事ぶりによって、逆に藤井浩佑像というものの焦点が合いにくい作家です。

また、古風というか伝統的というか保守というか、どこか前時代的なイメージを抱かせる作家でもあります。同時代の朝倉文夫や北村西望が、新進気鋭として出発したのに対し、一歩引いているように見えます。
扱う主題は女性像が多いのですが、主体性を持つ女性というより、浮世絵的な男性視点の女性像、柔らかく母性を感じさせる女性を得意とした点も、前近代的に感じさせる要因なのでしょうか。
かと言って国粋というわけでもなく、そのため戦時の時風に乗ることもなく、 たんたんと「藤井浩佑」という作家としての仕事をこなした人物ではないかと考えています。
それは、市井のために、他者の為にある彫刻という、とても優しい作風であり、それが藤井浩佑という作家なのだと思います。

今回の展覧会では、そんな藤井浩佑を日本美術史に位置づけるようなものとなるのではと期待しています。

2014年8月10日日曜日

北村西望作 「平和祈念像」

この1955(昭和30年)に制作された 「平和祈念像」 は、北村西望氏によるものです。
前回「戦後の銅像に就いて」として、この像についての氏のコメント「「神の愛と仏の慈悲を象徴し、垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は救った命 を表し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている。」 を書きました。
今回は、この作品の図像的な意味を考えてみたいと思います。

この作品は、一種の信仰対象になっているように思えます。
特定の宗教関連の作品でもない、仏像でもキリスト像でもない、一つの美術家の作品が信仰対象になるというのはなかなかないことでしょう。
それを成せたことが北村西望という作家の力なんでしょう。

その理由は、彼の作風にあると思います。
まず、その作品がどこの誰かわからない抽象化された像であることがその一つ。
戦前の彫刻は、基本的にモデルを用い、その姿を写すことをその仕事としました。
同期の朝倉文夫の作品を見るとわかりますが、 どこの誰ソレをモデルとしたのか必ずわかる作風が一般的でした。
その中で北村西望は、ロダン的な彫刻の解釈から人間の身体を抽象化することを、自身の作風とします。
その結果、「平和祈念像」が、誰かを特定しないことにより、古来からの仏像のように、より信仰の対象となりやすくなったと考えられます。
それは北村西望でなければできなかった仕事なのでしょう。

次に、その抽象化がどうなされたのか、そのベクトルの向きについて考えます。
彼は「「神の愛と仏の慈悲を象徴し」と自身でコメントしているように、その抽象化のあり方に宗教的な意味合いを求めたことは確かでしょう。
「平和祈念像」の顔は、キリスト像のように長髪で、仏像のように半眼です。
ここだけ見れば、男か女かわかりません。それは、性別が無いとされる(男でも女でもある)観音菩薩も同様です。
この像は、日本の伝統的な観音像の一つのバリエーションと言えるのではないでしょうか。
北村西望は、意図的かどうかわかりませんが、この「平和祈念像」を伝統的な観音像として制作したのではないでしょうか。
その為に、この筋肉質な身体であっても、どこか女性的な印象を受けるのです。

仏像のように抽象化された身体を持つ、観音像のバリエーションの一つである「平和祈念像」ですが、そうは言っても、この像は伝統的かと言われればそうだとは言えません。
日本人にとって彫刻という仕事が明治以降の近代の産物であり、北村西望の仕事が近代の産物である以上、この像もまた同様です。
それ以前からの断絶があり、仏像や観音像といった伝統から、歴史からの断絶を示します。
それが、原爆前後という歴史の断絶、区切りを示すことに繋がり、この作品に向かう者にとって意味を成すのではないでしょうか。
但し、前回書いたように、その断絶を示す手法が戦前中に養われたものだということに違和感は残りますが。

2014年8月3日日曜日

朝倉文夫作 「國香會賞」レリーフ



朝倉文夫という彫刻家はとにかく多趣味な人で、このレリーフにある「國香會」とは、朝倉文夫が昭和8年に立ち上げた全国愛蘭家団体です。
この団体は、戦時中に一時中断され、戦後再開したそうなのですが、このレリーフは、その当時のものでしょう。作品自体は何時制作されたかはわかりませんが。

さすがと言いますか、この蘭の構図が絶妙ですね。
蘭というと高価な花、贈与品としての人工的な花というイメージがありますが、こうした会の発足当時は、もっと純粋に美しい花として愛されていたのではないでしょうかね。

朝倉文夫が出世し、権威となっっていった姿と、この蘭の有り様が重なって見えます。

2014年6月15日日曜日

九州沖縄八県連合美術展 絵葉書

下の老人の作品は、日名子実三作「廃墟」。この作品は、 1920(大正9)年の第二回帝展に入選した作品で、翌年の1921年、第14回九州沖縄八県連合共進会に出品されました。


つまり、九州沖縄八県連合美術展とは、九州沖縄八県連合共進会という博覧会のの美術部門であるようです。この展覧会には、九州と沖縄の作家、洋画、日本画、彫刻家を一堂に会して行われたようですね。

この「廃墟」ですが、師朝倉文夫の「墓守」と比べると、より西欧的でキリスト教的な物語を感じさせる姿ですね。くどいというか、バター風味?
しかし、そこが日名子実三の持ち味なんですよね。
こういった作風が日本の古典と結びついて、後の日名子の作品らとなるのでしょう。
この作品は、現在大分大学学術情報拠点(図書館)に展示されています。

上は、渡辺長男の乃木将軍像。
こちらのサイトで、当時の展示風景画が見られます。
ところで、弟である朝倉文夫は、この展覧会に出品しているのかな?




この博覧会、九州というより「沖縄」を含めた「日本」という国家を自覚させるという意義があったのかなと思います。
地方作家の展示というだけでは収まらない政治性があったのではないかと。
官展に地元の作家が入選すると、地元の街に日の丸が立った時代ですからね。
中央集権の為に美術があった時代なんでしょうね。
現在でも、地方の美術なんてことが言われます、美というのは常にヒエラルキーを背負っているものである以上、どこか頂点へと集権されてしまうのは致し方ないものなのでしょう。

2014年1月18日土曜日

北村西望 作 児玉源太郎の銅像 絵葉書


児玉源太郎は、日露戦争で活躍された満州軍総参謀長です。
上記絵葉書の銅像は、1938年(昭和13年)に制作され、その満洲、新京の児玉の銘を冠した児玉公園内に設置されます。
終戦時のこの銅像の様子を、満州で第二航空軍に配属されていた佐藤友治さんの著書「朝が来て知る捕虜の命: シベリア抑留生活千余日」に書かれています。
それによると、非日派の手によって、この像の首が切り落とされていたそうです。

この銅像の制作したのは、彫刻家北村西望です。
あの長崎の平和記念像の作者ですね。

この時期の西望は、多くの騎馬像を依頼され制作しています。
その作風は、彼独自のあのゴツゴツした派手な表層はなされず、流れるようなラインの自然な姿を像にしています。
それにしても、同じ彫刻家の作品が、一方で平和の記念とされ、一方でレーニン像やフセイン像のように圧政の象徴として扱われる。皮肉ですね。

ちなみに、同じ日本の統治下にあった台湾には、新海竹太郎作の児玉源太郎像があり、現在国立台湾博物館が所蔵しているそうです。

 


2013年7月28日日曜日

堀江尚志 作 「をんな」 絵葉書

1921(大正10)年に行われた第三回帝国美術展出品 堀江尚志の「をんな」です。

堀江尚志は1897年(明治30)年、盛岡市生れ、東京美術学校在学中に帝展にて2年連続特選を受賞します。
上記の作「をんな」も、その特選作の一つです。
卒業後、朝倉文夫の東台彫塑会に入り、後に一緒に塊人社を結成する安藤照らと知り合います。
1925(大正14)年に行われた第六回帝展には、「少女座像」を出品。帝展推薦となりますが、その翌年から結核を煩い、1935(昭和10)年に亡くなります。

昭和10年は多くの彫刻家が亡くなった年であり、この堀江尚志もその一人です。
安藤照の時に書いたように、この作家は舟越保武などの多くの次世代の彫刻家に影響を与えています。
堀江尚志は、日本近代裸婦彫刻の一つの頂点を作り出した作家と言えるのではないでしょうか。

その作風は、京都の弥勒菩薩半跏思惟像のように静寂を尊び、埃及彫刻のようなスケールとシンメトリーの美を持っています。
絵葉書の「をんな」は、シンメトリーでありながらも不自然な格好をさせており、少女座像」への過渡期の作のように思えます。

その少女座像」を堀江尚志は気に入らなかったようで、壊すつもりだったそうです。
そんな彼の作は、生涯の短さもあって残っているものが少ない。
ですので、こういった絵葉書などの写真は、彼の貴重な資料になるだろうと思います。

2013年6月9日日曜日

平和記念東京博覧会 絵葉書


「平和記念東京博覧会」は、第一次世界大戦終戦を記念し、1922(大正11)年、東京府主催で行われた博覧会です。
4ヶ月間の開催期間の中、1100万人の動員があったそうです。
この博覧会には、 日本の高い技術を展示する「蚕糸館」や「電気館」、そして朝鮮や台湾の文化を展示した各館が、当時の新進建築家によって建てられました。
会場の装飾を手がけたのが彫刻家の新海竹太郎らで、上の絵葉書にあるような噴水も、彼らによって制作されます。
この噴水の頂上にある子供の像「童子群像」は国方林三、ペリカン(?)の像「水禽」は堀進二の作です。

こういった博覧会は、彫刻家の名の上げどころであり、屋外だけでなく、屋内の展示場にも、数多くの彫刻作品が展示されます。
 

  
手元に当時のカタログがあるので作家を抜粋してみます。
石井確治「舞」「蓮歩」、小倉右一郎「実り」「平和來」、清水三重三「唄」、長田満也「芽生」、中村清人「池水」、清水彦太郎「浴後」、中村翫古「踊」、高村光雲「蘇東坡」、内藤伸「和琴」「六道将軍」、朝倉文夫「狛犬」「本山氏の像」、後藤清一「摩登伽」、赤堀新平「秘曲」、 堀江尚志「夫人の坐像」、齋藤素巌「早春」「疲れた人」、安藤照「習作」、陽咸二「無」、吉田三郎「牧夫」「l心」、中野桂樹「海のささやき」、木村五郎「旋れる桃太郎」、松田尚之「習作」、日名子実三「工房の女」、佐々木大樹「猫」「話」、荻島安二「M子」「鏡」etc... 

カタログ掲載された作品数でも76点。
官展系、日本美術院系、朝倉派、その後の構造社の作家等々と、多くの作家の思惑を超えて集められたことがわかります。
無いのは地方の作家くらいでしょうか。

カタログにカラーで掲載されたのは、すべて着色の木彫。
白いだけの塑像に花がなかったからかもしれませんが、これら木彫を見ると日本の伝統を感じさせる小品であり、国内というより外国向けの意識があったのかもしれません。

それと、数をそろえるためか、習作レベルの作品が目立ちます。
同年には第4回帝展もあったわけで、時間が限られていた作家もあったのでしょう。

それでもとにかく当時の国内最大級の彫刻の展示だったわけです。

齋藤素巌はこういった取組みにたいし、新聞紙上で『まだ工房から解放されていない彫刻家たちに対して、博覧会が新しい練習の場を提供している』と述べている。ただし『断片的な塑像を陳列しているに過ぎない事は、まだまだという物足りない感じを起こさせる』と苦言も忘れない。

 この博覧会が終えた翌年、1923(大正12)年の9月1日に関東大震災が起きます。
この震災は、この博覧会に参加した多くの彫刻家にとっても、日本の美術界にとっても転機となりました。

2013年5月18日土曜日

女性の彫刻家

戦前日本の彫刻界と言えば、東京中心であり、そして男性中心の世界でした。
西欧においては、女性彫刻家は少なからずおり、あのロダンの弟子、カミーユ・クローデルが有名です。
カミーユ・クローデルと言えば、Zガンダムのカミーユ・ビダンのモデルであり、名前とその性格を模されています。 彼女は、師であるロダンとの関係で苦しみ「大きな星が点いたり消えたりしている。ははは」という状態となります。

映画 「カミーユ・クローデル」はそんな彼女の美しく、そして悲しい物語を描き出した傑作です。

ちなみに、彼女を精神的に経済的に援助していた弟のポール・クローデルは、1921(大正10)年から1927(昭和2)年、フランス駐日大使として、日本に来ています。
その縁で、彼女の作品が戦前の日本に渡ったかどうかは、未確認。

では、戦前の日本に目を向けてみると、先に書いたように、男性中心の世界ではありましたが、女性の彫刻家が皆無だったわけではありません。
ただし、大正デモクラシーなどの中で活躍した女性たち、文筆家や活動家と比べれば、少ないと感じます。

例えば、彫刻家木内克の妻となった旧姓作田照子は、朝倉文夫の下で彫刻を学び、第十二回文展に「不具者」を出品しています。


また、上記の絵葉書の作品は、十三回帝展出品作の「座セル少女」で、久原涛子の作。
久原涛子は、1929(昭和4)年に23才で北村西望に師事。
その後、官展に出品を続け、戦後は北村西望の「長崎平和祈念像」に助手の一人として参加するほどとなります。
彼女の裸婦像は、やはり男性のそれとはちょっと異なりますね。視線が違う。 ポーズも自然で、どこか生々しい感じを受けますね。それだけに、裸であることに違和感さえ感じます。

彼女ら女性の彫刻家たちは、日本近代彫刻史の中であまり表に出てきません。
彫刻にたいする評価や論説の数そのものが、絵画以下であり、なおかつ、彼女らを評価できるフェミニズム的言説においても当時の女性たちから、そして現在もなされていないからだろうと思います。
現在のルイーズ・ブルジョワやキキ・スミスのように、こういった日本近代彫刻創成期の女性彫刻家にもスポットがあたるようになると良いですね。 

2013年5月12日日曜日

宮島久七 作「妓」 陶のレリーフ


宮島久七による陶で作られたレリーフです。
宮島久七は、彫刻家として出発し、戦後あたりからはデザインの仕事を主にしたようです。
このレリーフは、いつ頃の作なのかはっきりわかりませんが、額の様子からは戦後のものに思います。
玄関に置いて飾っている作品で、気に入っている一点です。

戦前の彼は、若手の彫刻家としては活躍の場が多く、オリンピツク芸術競技への出品や朝鮮昭和五年国勢調査記念章、高校野球の記念メダルなど、朝倉文夫や日名子実三、畑正吉らと肩を並べて仕事をしています。
その当時から、「デザイン」としての彫刻に焦点を当てた仕事をしており、そこが他の彫刻家と異なった所なのでしょう。

下の図は、1939(昭和14)年に行われた第一回聖戦美術展の出品作です。
レリーフの形状が凸凹反転しており、不思議な視覚効果によるデザイン性が見られます。
プロパガンダの要素が強いこういった展覧会でも、このような面白い仕事が評価されてたのですね。


戦後となり、「生活デザイン」を標榜し、その仕事に特化した彼の姿は、彫刻の社会化を目指しながら、立ち位置が不安定なままだった構造社などの作家に比べ、先見の明があったと言えるのかもしれません。