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2023年11月19日日曜日

足利公園内 「明治二十八年・三十八年戦役記念碑」水彩画


現在も栃木県足利市の足利公園に建っています「明治二十八年・三十八年戦役記念碑」を水彩で描いたものです。
場所はこちら
サインは「T.HOTTA」そして「1936」と描かれています。
1936(昭和11)年に描かれた作品だと思われます。

現在のこの碑に水彩画で描かれていたような周りの格子はありません。
ただ、台座は当時のままのようです。
また、左下に球状の彫刻がありますが、こちらも現在は無いようです。

コレ何でしょう?
船のブイみたいですから、戦艦の慰霊碑しょうか?

頂上には、球状の上に立つ鳥が。
ヤタガラスでしょう。
そして、「明治二十八年・三十八年戦役記念碑」とあります。
明治28年は日清戦争の終結、下関条約を結んだ年です。
明治38年は日露講和条約が結ばれた年ですね。
この年を記念し、建てられた碑だとわかります。

この記念碑がいつ建てられた物かはわかりませんが、こうして水彩道具を外に持ちだし、写生を行った人物がいたのですね。
西洋で発展したチューブ入りの絵具は、印象派など新しい様式を生み出します。
日本においても、明治期に水彩による戸外制作がブームとなります。
この記念碑は昭和に入ってから描かれたものですが、しっかりと描かれた姿は、明治の戦争を記念するだけでなく、日本水彩画の歴史をも記念した作品になっていると思います。

2023年7月3日月曜日

独逸の彫刻家 Paul Scheurle(ポール・シューエル)「ガイア」絵葉書



1941年、ドイツで開催された「大ドイツ芸術展」。
そこに展示された作品で、彫刻家「Paul Scheurle」による「ガイア」です。
ナチスお抱えの彫刻家、アルノ・ブレーカーは巨大男性像で有名ですが、「Paul Scheurle(ポール・シューエル)」は女性像を多く制作していたようです。

この像のように、ヒットラー好みに理想化されたアーリア人「女性」は、産む性として大地や農作地のイメージと結び付けられます。
その均整とれたスタイルは、ナチスの「正しさ」の象徴するものであったのでしょう。

大地の神、豊穣の女神を想像したとき、例えばオーストリアで発見された土偶「ヴィレンドルフのヴィーナス」のような豊満な女性を想像するのではないでしょうか?
日本人なら、「まんが日本昔ばなし」で椀にペタペタとご飯をよそうお母ちゃんのような。
この「ガイヤ」に見られる女性像ではないでしょう。

ヒットラーの愛したアドルフ・ツィーグラー の「四大元素」の女性像も、筋肉質な労働者、近代的な女性像です。
この女性像が豊穣と結びつくのですね。

この豊穣は近代的な農業生産、または工業生産、大量生産を意味しているのかもしれません。
つまり、豊穣=近代的な生産→近代的な女性像 となるのでしょう。
その結果、「ヴィレンドルフのヴィーナス」が、ポール・シューエルの「ガイア」になるわけですね。

良い悪いは別として、近代化によって肥大化した戦争は、働き生産する女性を生みだしました。
これはドイツだけでなく、アメリカや日本もそうです。
日本では「銃後」と言われますね。

戦争が生みだした近代的な女性像は、それまであった男性に従属し、裸体を魅せる女性の彫刻とは異なるベクトルを生みだした、と私は思っています。
例えば、朝倉文夫や藤井浩祐の女性像と、日名子や清水多嘉示とは、その視線、ベクトルが異なる。
そして、佐藤忠良らに繋がるわけですね。
多様化、多様化と叫ばれる昨今、ここから日本の彫刻はどこに向かったと言えるのでしょうか?



2021年3月8日月曜日

70年代 上海で出版された「木雕小辑」絵はがき

今回は戦後の、しかも中国の絵はがきを紹介します。

1960年代から70年代にかけ、上海の木彫家たちは、当時のニーズに合わせ「红光亮」の特徴を備えた木彫を制作します。
この絵葉書は、それら木彫を集め、1970年代に上海で出版された「木雕小辑」です。


珍宝島英雄
1969年にダマンスキー島(中国語名は珍宝島)の領有権を巡って、中国とソ連が交戦した紛争をモデルにした木彫です。
そのプロパガンダの手法は下記のサイトで詳しく紹介されています。
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/13854?page=2

越南人民打得好(ベトナム人はよく戦った)

煤海丹心

创业

扎根

十姐妹牧马班

饲养员

向解放軍叔叔学习(人民解放軍のおじさんから学ぶ)

捕魚帰来

 作家は「侯志飞(Hou Zhifei」という方の様です。
http://www.xrsd-art.com/Cn/News_Detail.aspx?CorpNewsClass1_ID=5826&id=151246&UserInfo_ID=781320
サイトには『残念ながら、歴史的な理由により、多くの侯志飞の作品は保存されていません。現在、侯の芸術的キャリアと彼の作品の芸術的結晶化は、その年に残されたいくつかの作品の写真を通してのみ確認できます。』とあります。

中国のつげ彫刻史とプロパガンダ、そして日本との関係に興味がわきます。

2021年1月13日水曜日

第三回帝国美術院出品 甘露水 黄土水氏作 絵葉書

1921(大正10)年に行われた第三回帝国美術院出品 黄土水作「甘露水」の絵葉書です。
ようやく黄土水の作品の絵葉書を手に入れました!

黄土水は、1895年台北市艋舺生まれ。
1915(大正4)年に国語学校長隈本繁吉や総督府民政長官内田嘉吉の推薦を受け、東京美術学校彫刻科木彫部に留学します。
東京美術学校研究科を修了後、日台を往来しつつ活躍しますが、1930(昭和5)年に腹膜炎により東京池袋で35歳で病没。

黄土水の生まれた1895年は、日清戦争の下関条約によって台湾が清朝から日本に割譲された年になり、1945(昭和20)年の日本の敗戦までが統治時代の台湾になります。
統治下の台湾と大正から昭和初期の太平洋戦争が始まるまでのやや余裕のあった日本本土、そして彼の生涯は重なり合います。

当時、アジアにおいて彫刻をアカデミックに学ぶことのできる場所が東京でした。
中国や朝鮮、台湾の学生が東京に集まり、日本式西洋的「彫刻」を学びます。
しかし、戦時下の美術は現代の歴史の評価によって左右され、この日本ではあたかも無かったかのように扱われています。
中国や韓国、北朝鮮ではどうでしょう?
私の勉強不足でわからないのですが、こと台湾の黄土水に関しては、当地で近代彫刻の先駆として愛されている様です。


ただ、黄土水の美術は、日本の美術でもあります。
それは当時の台湾が日本の統治下だったからというわけではありません。
彼と彼の美術が当時の日本に影響を与えたと思うからです。
また、日本に留学した学生たちにも同様だったでしょう。
日本の近代美術史は戦時下のアジアの人々と(歴史の評価として良かれ悪しかれ)影響を与え合ってありました。
彼らを抜きに戦前の美術史は無かったと思います。

2020年8月26日水曜日

昭和16年 セメント美術工作研究会発行「セメント美術」





国家総動員法の翌年、昭和14年に「物価統制実施要綱」が制定。彫刻家に必要な物品に対しても統制がなされます。
そこで、銅像に必要な銅やその他の金属に代わり、セメントを使用した彫刻作品が推奨され、この研究の為にセメント美術工作研究会が発足となります。

冊子「セメント美術」は、昭和16年4月15~17日の間に東京帝国鉄道協会で開催された「日本ポルトランドセメント業技術会第26回例会」に於いて、セメント美術工作研究会理事の森田亀之助、矢崎好幸の研究講演を基礎に、セメント美術についてまとめられた内容だと言うことです。
右上の像が何だったか思い出せない!



 
森田亀之助は、東京美術学校の教授職の後、昭和21年に創設された金沢美術工芸専門学校の校長を勤めます。また美術史家として「美術新報」を含め多くの雑誌に寄稿、執筆を行っています。
矢崎好幸は、東京美術学校のセメント美術教室主任教官だった人物のようです。
当時の新しく、時局に沿った素材「セメント」の第一人者がこの方々なのですね。

この冊子には、
『ことに最近に於ける工藝界も、事変という大きな動揺によって、かつての貴族・個性・稀有・高貴・異常・自由という特殊の世界から、国民・実用・多量・廉価・通常・規格といった国家目的線変換し、著しくもモニュメンタルのものとなって、その合理化・機能化・経済化が強調されつつある』
と書かれています。
敗戦間近の日本の有様を見ると忘れがちなのですが、あの戦争は合理的で機能的で科学的な生活を求めた結果なんですよね。
はてさて、昨今の「新しい生活様式」はどちらなのでしょうね?

2019年5月18日土曜日

日名子実三作 第一回軍事援護美術展出品「サイパン」絵葉書

今までに何度か紹介してきました、この日名子の「サイパン」。
彼の最後の発表作であり、謎の多い作品です。

まず、この作品は女性なのか、男性なのか?
女性であったとして兵隊なのか?
「サイパン」とは、日本軍が全滅した「サイパンの戦い」を描いたものなのか?

現状で分かっているのは、この作品が1944(昭和19)年の10月に行われた第一回軍事援護美術展に出品されているということだけです。

この謎を解くために、まずは当時「サイパンの戦い」が一般的にどのようにイメージされていたかを知らなくてはなりません。そして、特にサイパンにいた女性たちががどのように語られたのか知りたい。
そのため、フェミニストで女性史研究家の加納実紀代の著書『「銃後史」をあるく』より『殉国と黒髪―「サイパン玉砕」神話の背景』をもとにまとめてみたいと思います。

まず、当時の日本国民がサイパン陥落を知ったのは、南雲中将が自決し、全軍が玉砕突撃した1944年の7月7日から10日後の7月18日
この日のラジオによって大本営発表が伝えられます。

そして一ヵ月後の8月19日。朝日新聞の一面トップに『壮絶・サイパン同胞の最後/岩上、大日章旗の前/従容、婦女子も自決/世界驚かす愛国の精華』の見出しが掲げられます。これは、アメリカのタイムの記者ロバート・シャーロッドによるサイパンでの民間人死者にたいする記事を、大本営発表の内容に合わせ、殉死として変容した内容でした。
この記事では、『悠然、黒髪を櫛けづる』の小見出しで『(米軍の)海兵は女達が岩の上に悠然と立って長い髪を櫛けづるのを見てびっくりした』『息を殺してみつめているとやがて日本の女達は互いに手を取りあって静に水中にはいって行った』と入水自殺の情景を語っています。

21日には報知新聞でも『サイパン同胞かく自決せり 悲壮絶す!従軍記者の筆に偲ぶ実相』とタイムの記者による記事を取り上げ、『兵士自決の模範示す/婦女は黒髪梳って死出の化粧』とします。

さらに8月23日の朝日新聞では、高村光太郎や作家林芙美子、歌人中河幹子にこの殉死について語らせ、高村光太郎はその女性を『古代の穢れなき心」と評します。

そして、その1ヵ月強後の10月4日、第一回軍事援護美術展があり日名子の「サイパン」が発表されるわけです。

この「サイパン」が「サイパンの戦い」を示していることは間違いないでしょう。
ただし、サイパンの戦いで女性兵士がいたのかどうかは、『殉国と黒髪―「サイパン玉砕」神話の背景』には書かれていませんでした。

しかし、前述のとタイムの記者ロバート・シャーロッドが1945年に出版した「On to Westward: The Battles of Saipan and Iwo Jima」では、『サイパンの在留邦人女性がアメリカ軍部隊に向け小銃を乱射し、最後に足を撃ち抜かれ野戦病院に収容された話が掲載されている』そうです。
Wiki
また、サイパンの戦いで自決を試み重傷を負うもアメリカ軍に救助された従軍看護婦の菅野静子が“サイパンのジャンヌ・ダルク”と1944年7月25日付ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンで報道されたのだそうだ。
ただし、これらの情報を当時の日本人が知りえたのかはわかりません。

在留邦人女性と従軍看護婦...そのどちらも日名子の像とは異なります。
この像は、腰に弾薬盒を下げ、銃を立てかけながら、長い髪を梳かす姿です。
もしかしたら、「黒髪を櫛けづる」亡くなった女性と、米兵に乱射した在留邦人女性、また“サイパンのジャンヌ・ダルク”菅野静子の情報が入り混じり、日名子の描いた像となったのかもしれません。
この整理には、まだ情報が足りないようです。

ちなみに1944年の9月に始まったパラオのペリリューの戦いでは、『中川大佐配下の独立歩兵第346大隊長 A少佐の愛人芸者(慰安婦)がパラオの中心地のコロール島からペリリュー島にやってきて日本軍と一緒に戦い最期は機関銃を乱射アメリカ兵86人を死傷させ玉砕した』という、まさに日名子の像のままの伝説があるそうです。

もしかしたら、日名子のこの像が、その伝説をつくったのかもしれません。

2018年5月5日土曜日

Intermission 戦時下の絵画

防空頭巾を被った男子の図
日本画の様ですが、時代、作家ともに不明です。
もしかしたら戦後のものかもしれません。

作者の銘が入っていないので写しなのかも。それとも習作かな?
習作だとしたら、同じような構図の作品があるかもと色々探してみたのですが、見当たらず...

ただ、こうやって子供が防空頭巾を被っていることがモチーフになるのは、終戦間近だったのではないかと思います。
鞄に挟まれた紅白の旗が手旗信号の物だとしたら、それを授業で習い始めるのは、これもまた終戦間際のようです。
そこから、昭和19年頃を描いた、またはその当時に描かれた作品ではないかと思います。

ただ、その当時の子供がこんなにふくよかで良いのかな?
けれど、だからこそ安心してこの絵を観れるのですけどね。

2018年2月4日日曜日

大連・星ヶ浦 後藤伯銅像の絵葉書

大連の星ヶ浦公園(現星海公園)にあった後藤新平伯の銅像です。


絵葉書には以下の内容が書かれています。
『星ヶ浦公園の丘上に第一次満鉄総裁たりし後藤新平伯の銅像が其功績を永遠に伝へて屹立している。
この星ヶ浦の公園は満鉄が此地を買収して星ヶ裏ヤマトホテルの前進たる海岸ホテルを建て園内道路其他の設備を行ひ又一般避暑地として別荘や付属建設をなし初めて公園らしい体裁を整へた。』

この銅像の建立は1930(昭和5)年。
1929年に後藤新平が亡くなり、彼の意思に基づき東京美術学校正木校長に依頼され朝倉文夫が制作を行いました。

この朝倉文夫の「後藤新平」像ですが、実は現在も同型の像を見ることが出来ます。
場所は、岩手県奥州市水沢区中上野町にあります水沢公園、岩手生まれの後藤新平を記念し、1978(昭和53)年に建立したものです。

こうして作品が残って見ることができるというのは嬉しいですね。
ただ、絵葉書にある大連にあった銅像はどうなったのでしょう?
なにより大連と言う日本の租借地で、当時の現地の人たちは日本人の業績を記念したこの像をどう見ていたのでしょう?


複数のイデオロギーが焦点をなし、その思いを受ける媒体となる銅像のあり方、問題は、今も昔も変りません。
私たちは今年、そんな銅像たちに違うあり方を見出すことができるでしょうか?

2017年1月30日月曜日

「戦争美術館 分館」構想

1977年9月号の美術手帳は、「戦争と美術」を特集しています。

アメリカ軍によって接収されていた日本の戦争画は、1970年に「永久貸与」として返還されます。
1977年には、その内50点近くが東京国立近代美術館にて展示される予定でしたが、突如それが中止となります。
このBTでの特集は、その件を受けて組まれたものです。

そこで、美術評論家 針生一郎は、こういった官のやり方に反対し、民間による戦争画展示施設「戦争美術館」を提言します。

この針生一郎という評論家が戦争画に対してどのような意見を持っているのか。
私の知っている限りでは、あまりはっきりと態度を表明していないように思えます。
たしかに、できが良くないとか、戦時中の軍の太鼓もち作家への批判とか、そういのはありますが、「戦争画」というジャンルにたいしては、どうも歯切れが悪い。

その理由の一つは、「戦争画」をしっかり観る機会がなかったからでしょう。
さらに、これは私の想像ですが、若い頃に観た聖戦美術展の印象を、彼がうまく処理できていないのではないでしょうか。

だからこそ、戦争画を一同に集めた「戦争美術館」を構想したのでしょう。

この「戦争美術館」構想に私も参加したい。
だからといって民間であればイデオロギーから自由になれるとは思いませんが。

イデオロギーから自由にはなることはできませんが、リベラル的に様々なイデオロギーを雑多に混合した企画はできるかと思います。
そこで私が提案するのは、「戦争美術館 分館」構想です!

それは、個々人が「戦争美術館 分館」を名乗り、自身のコレクションを展示します。
いつでも、どこでも、誰でも、どんなイデオロギーでも良く、その繋がらない点を総して「戦争美術館」とします。
多くの人が参加すればするほど良い。大事なことは、それぞれのイデオロギーを否定しないこと...

まずは、私からこの「戦争美術館 分館」を行いたい。
作品はありますので、後は場所...
どなたか賛同していただける方はいらっしゃいませんか??

★★★★★★★★★★★★

さて、今日紹介する戦争画は、神田周三による油彩で即興的描かれた病室です。
描かれた年は、昭和16年。
場所は、広島陸軍病院大野分院。




神田周三は、明治27年 広島 生まれ 。
中村不折、石井柏亭 に師事し、広島を中心に活躍した画家です。
広島県立美術館には「被爆後風景」など、原爆の悲劇を描いた作品が収蔵されています。

この病室の絵は、どういった経緯で描かれたのか不明です。
広島陸軍病院大野分院は、広島県大野村(現廿日市市)にあった陸軍病院のようです。
これが描かれた4年後の昭和20年、大野分院は多くの被爆者を収容したと言います。

人が描いた作品は、写真と違った意味で生々しいく感じますね。
吐く息や布団の擦れる音、そんなものまで聞こえてきそうです。