2014年1月18日土曜日

北村西望 作 児玉源太郎の銅像 絵葉書


児玉源太郎は、日露戦争で活躍された満州軍総参謀長です。
上記絵葉書の銅像は、1938年(昭和13年)に制作され、その満洲、新京の児玉の銘を冠した児玉公園内に設置されます。
終戦時のこの銅像の様子を、満州で第二航空軍に配属されていた佐藤友治さんの著書「朝が来て知る捕虜の命: シベリア抑留生活千余日」に書かれています。
それによると、非日派の手によって、この像の首が切り落とされていたそうです。

この銅像の制作したのは、彫刻家北村西望です。
あの長崎の平和記念像の作者ですね。

この時期の西望は、多くの騎馬像を依頼され制作しています。
その作風は、彼独自のあのゴツゴツした派手な表層はなされず、流れるようなラインの自然な姿を像にしています。
それにしても、同じ彫刻家の作品が、一方で平和の記念とされ、一方でレーニン像やフセイン像のように圧政の象徴として扱われる。皮肉ですね。

ちなみに、同じ日本の統治下にあった台湾には、新海竹太郎作の児玉源太郎像があり、現在国立台湾博物館が所蔵しているそうです。

 


2014年1月13日月曜日

陽咸二 作「さくらフィルム第二回懸賞写真 応募記念」メダル

あまりお目にかからない陽咸二のメダルが手に入りました。
けど、小さい! 形が潰れてる!
大きいのが欲しい...

このモチーフは、日本神話の神のようですが、なんでしょうか?
手に持つのは鏡でしょうか?
天照大神が岩戸隠れの際に石凝姥命が作った鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出したと言われていますが、その姿なのかもしれません。

陽咸二の代表作「サロメ」とよく似た構成ですね。

この陽咸二の父親、 陽其二はその経歴が凄い。
この時代に活躍した彫刻家は幾多もありながら、陽咸二の作品が東京国立近代美術館に多く所蔵されているのはなぜだろうと思っていましたが、こういう家柄が関係してて作品が離散せず、まとめて所蔵されたということなのかもしれないな。


2014年1月12日日曜日

自然の美と彫刻

彫刻家、中原悌二郎について書かれた本を読む。
彼は自然を美と捉え、その美を写し取る作業が彫刻制作であると考えていたようです。
この自然賛美と美術の概念は高村光太郎も同様でした。
この考えを彼らに伝道したのは荻原守衛であり、その荻原に伝えたのはロダンです。
荻原守衛が日本に戻ることになり、師であるロダンに今後どう勉強をしていったら良いかと問い、ロダンは、自然を師としなさいと答えます。

彼ら彫刻家にとって、自然の美を写すとは、単にそのままを写実することでなく、その存在の深意までも写すことを意味しました。

それは、文学で言えば自然主義文學に近いものがあると考えます。本物の美とは、美しく着飾ったものを言うのではなく、対象そのままを描くことだと。
その為に、 荻原守衛や中原悌二郎ら、日本美術院系の作家には、美人を美人に描く作品が無く、グロテスクとも言うべき生の姿を描いた作品、彫刻が多いのです。
ロダンで言えば花子の像がそうでしょう。

その思想の源流には、例えば松尾芭蕉の句などがあるのではないでしょうか。
古池や蛙飛びこむ水の音
この、ありのままを描いた句には、禅、つまり仏教のの影響があります。この句には、「自然」とそれを読む芭蕉との境界が失われています。
そして、この句を評価したのが、自然主義文学に影響を受けた正岡子規です。

つまり、この美意識はロダンから鞭撻されなくても、当時の日本の知識人たちの間で認識されだした美意識だったのだろうと思われます。
もしかしたら、ロダンにとっての「自然」は、荻原守衛や中原悌二郎、正岡子規のいうそれとは違うものだったかもしれません。

ともかく美しい「自然」を認識しだした荻原守衛や中原悌二郎は、その美が存在するものとして自国の仏教美術を見出します。
また、日本の女性美や文字通りの山や森といった自然に美を見出します。

ただし、そもそも開国前の日本人には、欧米のような「自然」観はもっていませんでした。
花や木を愛でてはいましたが、ことさらそれを目的化、堅苦しい「美」意識として認識していませんでいた。
山登り、ハイキング、風景画を描きに出ること、すべて外国からの影響で行われるようになったことです。
「自然」は、その認識を持つ者にとって、そこを中心に同心円的に広がりを持ちます。
つまり、「自然」を認識した者にとっては、自身の顔や姿から、伴侶、家、生まれた場所や住んでいる地域...とそれらを美と感じる範囲が形成されていくのです。そしてそれは日本という国土まで広がります。
つまり何が言いたいかというと、外国からもたらされた「自然」の美という認識によって、日本人は日本という国土を認識し、それを美だと感じるようになったのだと。

愛国心は身の回りの世界を愛することから始まります。
「自然」という言葉を手に入れた日本人は、その愛の向ける先を手に入れたということなのでしょう。
日本人にとって日本の国土と国家は同義語です。
愛国心は愛国家心になります。

その姿を、戦時の高村光太郎に見ることができます。
荻原守衛や中原悌二郎は戦争前に亡くなっているから、そこまでの愛国心は見せませんでしたが、もし生き残っていたらどうなっていたのか。

2014年1月4日土曜日

寺畑助之丞 作 母子像

この高さ28cm程のブロンズ像は、彫刻家「寺畑助之丞」の作品です。
寺畑助之丞は母子像を多く作成し、松戸市にその作品の幾つかが収められています。

彼の作家歴で目に付くのは、まず「1920(大正9)年に朝鮮総督府技師としてソウルに赴任し、総督府新庁舎一般建築彫刻を担任」したことでしょう。
総督府新庁舎は、鉄筋5階建、延床面積33,000平方メートル、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデが基本設計をおこない、建築家野村一郎、國枝博らによって完成させた壮麗な建築だったと言います。
しかし、1995年には、韓国にとって「屈辱的な歴史」の象徴となったこの建物は撤去され、寺畑助之丞の仕事も見ることができなくなりました。
不の歴史も歴史だと思いますが、残念なことです。

このように建築と彫刻との関係を志向した寺畑でしたので、構造社への参加は必然でした。
また、日名子とは戦時下の彫刻のあり方を模索した彫刻家団体「三部会」でも一緒になります。

戦時中には、興亜造型文化連盟常務理事に就任、海軍省嘱託となります。
陸軍との関係の深かった日名子との仕事分けと言ったところでしょうか。
「興亜造型文化連盟」は日華(台湾)両国における工芸、建築その他の造型運動の連絡提携を図り以て中華民国(台湾)の造形文化を指導し、延て東亜共栄圏生活文化の建設に資せんと」することを目的としました。

このハイカラな西洋的イメージを持つ母子像と、日本の生活スタイル(建築などのデザイン)とか結びついたのが戦時下の日本であったのだなと思います。
そして当時考えられた、あるべき「東亜」の姿だったのだろうと。

2014年1月3日金曜日

日名子実三 作「第19回東京箱根間大学専門学校駅伝競走参加章」バックル

日名子実三はこういった作品も手がけています。
「第19回東京箱根間大学専門学校駅伝競走参加章」バックルです。
第19回は 1929年(昭和4年)。

今年も行われた箱根駅伝は、1920年(大正9年)から続いている歴史ある競技なんですね。
この関東の学校のみで行われる競技は、テレビ中継が行われた1987年から全国的なイベントとして認知されることになったそうです。

このバックルのデザインは、モチーフである選手同士が重なり合い、当時も今と同じように繰り広げられたろう熱戦が感じ取れます。
更にそれを盛り上げる、周りに配されたフォントにセンスを感じます。

荻島安二 作「第七回全日本女子籠球総合選手権大会 参加賞」メダル


先日亡くなられた彫刻家石黒鏘二さんが、芸大で石井鶴三教室で学び、卒業後マネキン制作会社で学んだことを自身の出発点と考えていらっしゃることを、ご自身の展覧会で紹介されていました。
その石井鶴三がセルロイド人形原型師になろうとしたように、当時の食っていくことの難しい彫刻家にとっての生活の糧としてのマネキン制作というというのがあったのでしょう。
石黒鏘二さんが「マネキン大学卒業」と言う時、そこには彫刻家の副業としての「マネキン制作」があり、アイロニーとしてそう話されていたのだと思われます。

しかし、そんなマネキンにも歴史があります。
そして、そのマネキンの歴史のはじめに語られるのが彫刻家「荻島安二」です。

荻島安二は明治28年の横浜生まれ、慶応大学予科より彫刻を志し、朝倉文夫氏の門下生となります。
1925年(大正14年)には、島津マネキンより依頼され、日本初の国産洋マネキンを発表します。
官展、二科展と出品しますが、その後日名子や齋藤素巌らの構造社に参加。
そして、昭和14年、43歳の若さで亡くなります。

彼はマネキンに関してこういう言葉を残しています。
「立体美術における総ての要素を含み、最も進化した彫塑の応用であり、行き詰まった彫刻に発展性を持った処女地」
まるで現代美術がオタク的フィギュアなんかを取り込んだ時の言説のようですが、マネキンから彫刻の新しい方向性を示そうという荻島の思いが読み取れます

そんな荻島の彫刻作品は、女性像が多く、そして横浜育ちだからか、ハイカラで御洒落。
この「第七回全日本女子籠球総合選手権大会 参加賞」メダルも際立って特徴的なモチーフではないのですが、どこかそんな感じを受けますね。

300点以上のデザインを生み出した荻島ですが、その作品のいくつかが東京国立近代美術館にあります。
こう見ると、ほんとうになんでもこなした荻島ですが、その中心に彫刻があったというのは面白い。
高村光太郎らとは別の方向で近代を表す彫刻家ではないかと思います。

2014年1月1日水曜日

謹賀新年

賀正
今年もコレクションを充実させていきます!

画像は、日名子実三 作 「紀元二千六百年(昭和15年)奉祝全日本軍用保護馬継走大騎乗」メダルです。
モチーフには埴輪の軍馬。
昨今、縄文土器は日本人の精神を表すものだとか言われていますね。
縄文人と現代の我々とを繋げるものがあるのかどうか疑わしいのにも関わらず。
この時代、それと同じように古墳時代の埴輪が扱われていました。
国へ殉じる姿や、自己犠牲精神などをそこから見出し、これを美と見ます。
美が政治的なものから逃れられないのは現在と同じですね。