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2023年7月23日日曜日

斎藤素巌 安永良徳 作 2600年「第十六回日本レントゲン学会長 岩井孝義君」為記念楯





1938(昭和13)年に第十六回日本レントゲン学会長となった岩井孝義を記念して、皇紀2600年、1940(昭和15)年に制作された楯ですね。

岩井孝義は、1894(明治27)年生まれ。
京都帝国大学を卒業し、大正12年京都帝国大学助教授となり、レントゲン部勤務。
レントゲン医学研究のため昭和2〜5年ドイツ、フランス、アメリカに留学。
その後、京大教授となります。

真ん中のヴィルヘルム・レントゲンを描いたのは斎藤素巌。
Soganと銘があります。
「2600」とその隣に「Yasunaga」とあります。
これは安永良徳でしょう。
彼は全体の構成とデザインを担当したのでしょうね。
つまり、このレリーフは構造社の作家による合作です。
構造社の作家はこういった合作を頻繁に行いました。

安永良徳のこの構成ですが、X線の放射の様でもあり、構成主義的でもありイイですね。
斎藤素巌の肖像も流石です。
ただ、この二つの方向がちょっと合わない様な気がしますけどね!

2021年6月7日月曜日

斎藤素巌作「帝都復興記念碑」レリーフ




大正12(1923)年に起きた関東大震災からの帝都復興事業を記念して、昭和5(1930)年に帝都復興祭が行われます。
このレリーフの背面に「帝都復興記念碑」とあり、これを記念して製作されたものだと思われます。
かなりの薄い浮彫なので、実際はもっと大きなレリーフ状の記念碑として製作され、その縮小版なのかもしれません。

三連祭壇の形状からわかるように、斎藤素巌はこのレリーフを宗教画として描いたと考えられます。
その為、復興からの再生が描かれているのだと思うのですが…そのストーリーがよくわかりません。
右側は震災難民しょうか。左には彼らに寄り添う豊穣の女神(災害から実りをもたらした大宜都比売神?)が描かれているように思います。
では、中心の三人の男は何を示しているのでしょう?
真ん中の男は斎藤素巌による第六回明治神宮体育大会メダルと同じような構図ですね。
左に鍬を持つ男が描かれていることから、復興を成し遂げた労働者の姿ではないかと思います。
(そこに女性の姿がないのは現代のフェミニズム的に問題ですね…)
当時の人たちであればこの物語が読み解けるのでしょうか?

2018年11月17日土曜日

齋藤素巌 作「杉村七太郎教授」レリーフ



齋藤素巌による「杉村七太郎教授」のレリーフです。
左側に篆書で「杉村七太郎教授」と、右側に大正5年-昭和16年とあります。
下のほうに「素巌」の銘がありますね。

斉藤素巌のレリーフは、破綻なく、うまいですね!
畑正吉より線が細く柔らかい感じがします。
おっさんの像なのに、どこか色気を感じるのですよね。

そのモチーフの杉村七太郎は明治12年生まれ、腎結核の研究で知られた東北帝大(現東北大学)教授でした。
「大正5年-昭和16年」は、東北帝大教授を勤めた間にあたり、このレリーフは、それを記念したものだと思われます。
ただし、どのようにこのレリーフが用いられ、何を顕彰されたのかは不明です。
また、どういった経緯で齋藤素巌に依頼されたのかもわかりません。

それでも、先に書いたように、レリーフに用いられた文字が篆書であることから、戦前の作だと思われます。

この篆書ですが、当時のメダル等にはよく使われます。特に構造社作家によるスポーツのメダルに多い。
一瞥しただけでは読めないこの書体は、きっと「かっこいいから」とか言う軟派な理由で構造社の若手が使い始めたのではないかと悪推量します。
「杉村七太郎教授」の「村」の字が、わざわざ「邨」に変えられているのですね。これがかっこつけでなくてなんであろう?(それとも、そういう決まりがあるのか?)

はたまた、メダルという作品に用いる「印」として、印であれば篆書と使い始めたのでしょうか?

ただ、海外から学んだメダルと言う媒体に用いる書体に、篆書を用いるのは、古典回帰の手法であることは確かです。

戦時下の書体の歴史というのは、調べがいがありそうですね。

2017年9月13日水曜日

小平市平櫛田中彫刻美術館にて 「メダルの魅力」展 開催!

本日より11月12日までの間、小平市平櫛田中彫刻美術館にて「メダルの魅力」展が行われます。
http://denchu-museum.jp/

『小さなメダルの中には彫刻家たちの世界が広がっています。
メダルに魅せられた蒐集家のコレクションを中心に、メダルの魅力をご紹介致します。』

この展覧会には、私のコレクションも展示しており、ブログで紹介してきました幾つかのメダルを実際に見ていただけます。
「メダルの魅力」展とあるとおり、小さなメダルの魅力を少しでも知っていただければ幸いです。

また、10月28日 1時30分より、私のトーク・イベントも開催されることになりました。
どんなお話をしようかとまだ迷っている最中ですが、近代のアート・メダルと、それらを生み出した彫刻家たちの活動にご興味を持っていただけるような話ができればと思っております。

というわけで、来月末は久しぶりの東京です。
お会いしたい方もあります。
芸術の秋真っ盛りでイベントも盛りだくさん…(神田の古本祭りもやっているな~、国立歴史民俗博物館の「1968年」-無数の問いの噴出の時代-展も面白そうだな~~)
いかんいかん!
目的はアート・メダルの布教活動!!

2017年7月7日金曜日

日名子実三のシェパード像 ブック・スタンド

日名子実三は幾つか動物の像でメダルを制作していますが、これはシェパードをモチーフとしたブックスタンドです。
ちゃんと2対あり、そのどちらにも同じレリーフがあります。
このシェパードの像ですが、他にも化粧品用のコンパクトに用いられていることが確認されており、もしかしたら使用権をデパートなんかの業者に渡したのかもしれません。
ただ、このブックスタンドの円形のレリーフをみると、もともとはメダル用に制作したのかも。

日名子はシェパードの他にもエアデールテリアを飼っていたらしく、多くの軍用犬のメダルにその姿を描いています。
第二回軍用犬展覧会 メダル

犬好きの彫刻家として知られる作家には、他に藤井浩祐が上げられますね。
犬の著書まで出しています。

逆に猫好きは、朝倉文夫や木内克です。
犬を好む彫刻家と言うのは、その構造物としての確かさを好むのでしょうね。猫のような柔らかい姿を好む彫刻家の方が少数のような気がします。
その二者は交わらないのでしょう。そう考えると、日名子が朝倉文夫から離れた理由はそこにあったと言えるかもしれません!

また、馬と言えば、池田勇八。そして、皇居前広場の楠木正成像の馬像を制作した後藤貞行に、近衛騎兵だった新海竹太郎。
高村光雲の老猿のように猿、獅子、兎、牛、猪などは彫刻のモチーフとして多く使われています。

メダルで言えば、齋藤素巌のホッキョクグマといった変り種もあります。
このホッキョクグマとライオンは、1902年に、ドイツのハーゲンベック動物園から上野動物園に贈られたものだと思われます。

そして日名子の山羊。
このメダルは東京市で行われた「動物写真撮影週間」記念章です。
このイベントがどういったものかはわかりません。
そのモチーフに山羊を選んだのは何故でしょう?

動物をモチーフにしたメダルは、まだまだ探すとありそうです。
干支ぐらいはコンプリートしてみたいですね!

2016年3月19日土曜日

コレクション展のお知らせ

長らく企画を温めてきました私のコレクション展を開催することになりました!
場所は岐阜県博物館のマイミュージアムです。
期間はGW明けの一ヶ月になります。

メダル・コレクション ~戦前・戦中の彫刻家たち~
平成28 521日(土)~ 619日(日)

主にこのブログで紹介した作品になるかと思います。
メダルという小さな美術品をどうお見せしたら良いのか、思案中です。

また、「昭和10年に亡くなった彫刻家たち」と題して陽咸二木村五郎の作品を展示します。いくつかの木彫はこのブログでも紹介していない作品です。

当ブログで紹介した作品で、これは実物が見てみたい!といったご希望あれば、ここにお書き込み下さい。
検討いたしたいと思います。

ちなみにマイミュージアムは入場料無料です。



2015年10月11日日曜日

進藤武松作 ラグビーの灰皿



ラグビーワールドカップでの日本チームの快勝で盛り上がる日本。
日本のラグビーは1920年頃から広まる古くて新しいスポーツですね。
その結晶が今の日本ラグビーにあると考えると、なにか想うものがありますね。

そんな戦前の日本のラグビーの一つの姿を写したのが、この進藤武松の作品です。
この作品の裏には、「KURO 2595 12 20」とあります。
皇紀2595年は、昭和10年、その当時のラグビー界は、「第17回全国中等学校ラグビーフットボール大会」などが行われます。
この12月20日に行われた大会が何で、この灰皿がどんな目的で使われたのか知ることができませんでしたが、「kuro」の意味がわかればもう少し理解できることがあるかもしれません。

当時の進藤武松は、構造社の齊藤素巌に師事、前年には構造社展で構造賞を受賞した新進気鋭の作家でした。
この作品を見ても、その肉体と躍動感が素晴らしい。
ただ今の選手と違い。細マッチョですけどね。

同じ構想社の日名子実三も昭和7年、ロスオリンピックの芸術競技会に「ラグビー」を出品しています。
そうした流れから進藤に依頼が来たのかもしれません。

それにしても灰皿とスポーツなんて、今となっては合わせることを思いもしないもの同士なのでしょうけど、ただほんとうに美しい作品ですね!

2015年3月7日土曜日

中牟田三治郎 作「国際水上競技大会」メダル

彫刻家、中牟田三治郎の三回目の紹介です。
以前(ナカムタミチロウ)と紹介したのだけど(サンジロウ)が正しいみたいですね。

具象作品の多い中牟田ですが、これはイメージ化された対象を描いています。
高村豊周は彼の作品にドイツ表現主義の影響を見、「内へ内へと省みさせ考えさせる美である」と賛辞を送っています。
確かに、このメダルにある構成的で完璧主義的な美は、ドイツ表現主義彫刻を代表するエルンスト・バルラハの宗教性に近いものを感じますね。
 
この作品の原型は、1928(昭和3)年に行われた第二回構造社展に出品されています。
現在は福岡県立美術館に所蔵されているようです。
水泳をモチーフにした作品の多い構造社ですが、その中でも優れた作品の一つではないかと思っています。

2014年12月31日水曜日

陽咸二 作「日米国際陸上競技大会」記念章メダル


今年最後に紹介するメダルは、陽咸二作「日米国際陸上競技大会」記念章です。

縦3.8cm×横2.3cm、「The International dual athletic meet U.S.A. VS Nippon Tokyo-Osaka」及び「2594」の記述あり。

皇紀2594年は西暦1934(昭和9)年、この年に東京では神宮外苑競技場で、「日米国際陸上競技大会」が行われました。
1941年の真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が始まる7年前に行われた日米両国の親善陸上競技大会。
陽咸二による、両国が硬く結ばれた姿の像は、その後の悲劇への皮肉のようですね。

彼の作品に「燈火抱擁像」という男女が溶け合ったような像がありますが、このメダルも似た手法で、人体をデフォルメ化しています。
その「燈火抱擁像」のイメージが強いのか、このメダルの像が、なんだかホモホモしく感じませんか?



第拾回構造社展出品「壮者」
遺作展となった第10回構造社展の出品作です。
エジプト風というか、ガンダーラ的というか、不思議な魅力を感じるこの彫刻ですが、「壮者(壮年の人。働き盛りの人)」というわりには、破棄や雄雄しさを感じさせない。
どこか柔らかく、女性的で、これもまたホモホモしい。
なんか「さぶ」系といういうより、「BL」っぽいんですよね。

まぁ、本気のBL好きからしたら、どう見えるのかわかりませんが、陽咸二の作品ってそう見えるんですよね。

というわけで、今年の最後はこんなネタで締めます。

2014年12月7日日曜日

野村公雄 作 「男と女」 第拾弐回構造社展覧会出品


野村公雄は、1907(明治40)年東京生まれ、東京美術学校彫刻科塑像部選科卒。
同時期に東京歯科医学専門学校も卒業という変わった経歴の持ち主。

齋藤素巌に師事し、レリーフを多く作成する。しかし、戦後は殆ど制作を行わず、家業の歯科医を続けた。

絵葉書の作品は、第拾弐回構造社展への出品作品です。
この展覧会は1939(昭和14)年に行われました。
1939年はナチス・ドイツ軍によるポーランド侵攻を行い、第二次世界大戦勃発した年です。
日本においては、ノモンハン事件が起きた年であり、陸軍美術協会が発足、「聖戦美術展」が行われます。

そんな時勢でのこの作品は、非常に前衛的であり、アグレッシブ。
この手跡が、作品のもつ構造、構成に目を向けさせ、ジャコメッティのように人間の姿そのものを描こうとする作家の意思を感じさせます。

戦前、そんな作品を残した野村公雄ですが、戦後筆を置いたのにはどんな理由からなのでしょうか?
彼は戦時における統制によって、1944(昭和19)年、構造社を代表して解散届けを出しています。
こうしたことを行なった自身にたいして思うところがあったのでしょうか?
また、戦前彼が実験し、制作したような作品が、戦後になって前衛として受け入れられていく様子を見て 、どう感じていたのでしょう?
「戦争がなければ...」そう考えていたのでしょうか?

2014年11月24日月曜日

陽咸二 作 紀元二千六百年奉祝美術展覧会出品 メダルの絵葉書


陽咸二によるメダルの原型です。
絵葉書の裏側には、紀元二千六百年奉祝美術展覧会とあります。

「紀元二千六百年奉祝美術展覧会」は、1940(昭和15)年に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った展覧会であり、官展として行われました。

ただ、陽咸二は、昭和10年に亡くなっているので、この展覧会には自身で出品しているわけではないでしょう。
この展覧会の委員を勤めた齋藤素巌の推薦なのかもしれません。

戦前、陽咸二の亡くなった後に出品された展覧会は、1937(昭和14)年に行われた「明治・大正・昭和三聖代名作美術展」と構造社美術展くらいだと思っていたので、この絵葉書は発見でした。

また、このメダル原型は、バーレット連盟推薦賞メダルとして使用されているようです。
図柄は、何か神話がモチーフになっているようなのですが、なんだろう?

2014年10月13日月曜日

Intermission 岡山―大阪へ行ってきました。

岡山は市原市、井原市立田中美術館へ「ジャパニーズ・ヴィーナス―彫刻家・藤井浩祐の世界」展に行ってきました。

以前、藤井浩祐について当時の作家陣の中では保守的に感じると書きましたが、今回、彼の作品をまとめて見ることができ、若干違う印象を持ちました。

それは、「私の方が彼の作品をスタンダードだと見ている。」ということでした。

この時代の彫刻家の仕事とは、西洋からの輸入された彫塑という文化をどう日本に根付かせるかという全く新しい取組みです。
であるならば、当時において彫塑のスタンダードなどないはずなのに、私は彼の作品をそう見てしまう。
それは、現在、つまり後世からの視点からそう見えるのでしょう。
つまり、 日本彫塑史において、藤井浩祐の作品は常にその中心、王道であったのだと言うことなのだと気づきました。
朝倉文夫や北村西望のようなはみ出す個性を求めず、新海竹太郎らの「浮世彫刻」などを試みながらも、ただまっすぐ、現在から眺められる日本彫塑史の真ん中を「彫刻」とは何かを求めながら走ってきた作家なのではないか、そう考え直しました。

いや、それにしても見ごたえのある展覧会でした。
一日中居られそうでしたね。
ちょっとした興味から探索し始めた日本近代彫刻でしたが、実際この時代の作品が心底好きになっていたのだと確認させられました。

次は、東京の小平市平櫛田中彫刻美術へ巡回するそうです。

それと、この市原町も素敵な場所でした。
JRから井原鉄道に乗り込み、神話の時代の名前のような駅をいくつか越えたところにありまして、山と水と、水辺の植物、そして水鳥が多く見られる場所でした。
地元岐阜の切り立った崖を流れる川のとはちょっと違う生態系に感じましたね。

そんなゆったりとした気分のまま、大阪へ。
げっ、いまだに歩きタバコの人がいるんだね大阪。
気を取り直して今回の目的は「天神さんの古本まつり」。
台風のために一日短縮された古書まつりでしたが、そのためにまだまだ大量の百均本がどっさりありました。ヤッター。

その山の中から森口多里著「近代美術十二講」(大正13年11版)。
ダダや未来派など新興美術を紹介する本で、ブランクーシやザッキン、アーキペンコについても書かれています。
この本は既に持っているのだけど、読み返してみたら独逸表現主義の芸術家としてデゴバルト・ペッシュが紹介されてましたね。以前この作家について書いた時は思い出せなかった。
それと、何故か昭和30年の大阪市立汎愛高等学校の文化祭プログラムが挟まっていました。

後、 「近代美術十二講」にも言及されていた映画「カリガリ博士」について同じく言及していた美術手帳(1980年)の「回想の20年代」。プロレタリア美術について書かれています。

その一味の神原泰著「ピカソ」(大正14年)、その流れを組んでるのかどうか知りませんが吉本隆明著「高村光太郎」(昭和48年)とあと何冊か...


「カリガリ博士」もYouTubeで観れるんだね、凄い時代だね。

それと、この古書市と古本屋を廻って絵葉書を漁る。

○米原雲海 「松風」 (文部省第九回美術展)
○齋藤素巌 「日は昇る」 (紀元二千六百年奉祝美術展)
○日名子実三 「踊」 (第五回帝国美術院展覧会)
○水谷鉄也 「秀作」 「国際美術協会第二回内国美術展覧会」



水谷鉄也は、「大阪府立中之島図書館 大正11年増築記念のメダル 」でご指摘いただいた作家ですね。高村光太郎と同期のようです。

他にも面白いモノを探し出しましたが、それはおいおい...

2014年9月20日土曜日

齋藤素巌 原型 「第6回日米対抗水上競技大会」メダル


「日米対抗水上競技大会」は戦前から行われていた水泳大会です。
以前、この第一回大会のメダル(日名子実三作)を紹介しました。

終戦後、 1950(昭和25)年にこの競技大会が、第3回日米対抗水上競技大会として再興されます。
そして、1955(昭和30)年には、第4回日米対抗水上競技大会が、1959(昭和34)年には第5回日米対抗水上競技大会が行われました。

このメダルは、1963(昭和38)年に行われた「第6回日米対抗水上競技大会」のものです。

ただし、この齋藤素巌による図柄は、これ以前の大会にも用いられているようです。
それが戦前かどうかは不明です。
彼は昭和49年に84才で亡くなっていることから、 その10年前のこの大会のために、かつての作品の使用の許可をしたのかもしれませんね。

それにしても、このシュールな図柄に用いられてい魚はなんでしょう?
齋藤素巌は、このハゼのような古代魚のような魚を好んでモチーフにしていたようですね。

2014年8月30日土曜日

中牟田三治郎 作「秩父宮殿下台臨記念 京都帝国大学学友会」メダル


中牟田三治郎(ナカムタ ミチロウ)は、戦前、中原悌二郎や橋本平八のように、若くして亡くなった彫刻家の一人です。
彼は、1930(昭和5)年、38才で亡くなりました。
そのため、生前にその力を認められながらも、日本の彫刻史において、殆ど語られることのない作家の一人です。

中牟田三治郎は、1892(明治25)年、福岡生れ、19才で上京し、武石弘三郎に師事します。
1916(大正5)年に東京美術学校彫刻家塑像部に入学、白井雨山に学びます。
1922(大正11)年に京都帝国大学工学部建築学科彫塑実習第1部の講師となります。
1924(大正13年)には帝展に「或る日頃」を出品、1927(昭和2)年に構造社に参加します。

この「秩父宮殿下台臨記念 京都帝国大学学友会」メダルは、京都帝国大学工学部の講師だったことで制作依頼が来たのでしょう。
中牟田三治郎は、昭和4年に「きつね」という作品が秩父宮家に収蔵されています。(現在は宮内庁三の丸尚蔵館が収蔵)
これも、このメダルの縁なのでしょうか。

彼は、ドイツ表現主義に影響を受けたと言います。
このメダルの造形もその影響を感じさせます。
以前こんなことを書きましたが、彼もまた、日本表現主義彫刻のミッシング・リングを繋げる作家なのかもしれません。

そういえば、 三の丸尚蔵館に新館ができるとか。
「きつね」も展示されると嬉しいですね。

2014年4月28日月曜日

荻島安二 作 小西六(コニカ)本店 賞メダル

以前から紹介しています荻島安二のメダルです。
前回も写真関連のメダルを紹介しましたが、今回もカメラを手にした洒落たモダンな女性像です。
こうした女性を当時モガなんて言ったそうです。

メダルの裏側には「東京 小西六本店 賞」とあるのですが、この「小西六」とは後のコニカミノルタ。
Wikiによると
『1921年(大正10年)に「小西屋六兵衛店」は改組し、合資会社小西六本店に移行、その後1937年(昭和12年)に設立された株式会社小西六本店が、株式会社小西六と改称した上で、合資会社小西六本店を吸収合併。』
とのことなので、1921年から1937年までの間に、このメダルは用いられたと言えるでしょう。

構造社の作家は、写真関連のメダルを多く制作してますが、その中で都会の空気を作品として作れたのは荻島安二だけだったように思えます。

2014年3月22日土曜日

荻島安二 作 メダル2点


荻島安二作と思われるメダル2点です。
荻島安二は、以前にも紹介しました彫刻家でもあり、デザイナーでもあり、特に日本初のマネキン制作に尽力した作家です。

上の女性像のメダルは、 昭和13年のカメラデー懸賞寫眞賞になります。
荻島らしい、モダンで、ハイカラな女性像です。
立体を意識した造形で、ちょっと無理やりな構図のあり方が彫刻家らしく思われます。
また、この像には、どこかブランクーシを感じませんか?
当時の彼ら彫刻家の思想に共有するものがあったのでしょう。

下の張子の虎は、同じく昭和13年、第5尋常小学校の卒業記念品です。
誰が荻島安二にこれを頼んだのかわかりませんが、御洒落ですね。
そして、この可愛らしいデザイン!
 当時の子供たちが羨ましい。

2014年1月13日月曜日

陽咸二 作「さくらフィルム第二回懸賞写真 応募記念」メダル

あまりお目にかからない陽咸二のメダルが手に入りました。
けど、小さい! 形が潰れてる!
大きいのが欲しい...

このモチーフは、日本神話の神のようですが、なんでしょうか?
手に持つのは鏡でしょうか?
天照大神が岩戸隠れの際に石凝姥命が作った鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出したと言われていますが、その姿なのかもしれません。

陽咸二の代表作「サロメ」とよく似た構成ですね。

この陽咸二の父親、 陽其二はその経歴が凄い。
この時代に活躍した彫刻家は幾多もありながら、陽咸二の作品が東京国立近代美術館に多く所蔵されているのはなぜだろうと思っていましたが、こういう家柄が関係してて作品が離散せず、まとめて所蔵されたということなのかもしれないな。


2014年1月4日土曜日

寺畑助之丞 作 母子像

この高さ28cm程のブロンズ像は、彫刻家「寺畑助之丞」の作品です。
寺畑助之丞は母子像を多く作成し、松戸市にその作品の幾つかが収められています。

彼の作家歴で目に付くのは、まず「1920(大正9)年に朝鮮総督府技師としてソウルに赴任し、総督府新庁舎一般建築彫刻を担任」したことでしょう。
総督府新庁舎は、鉄筋5階建、延床面積33,000平方メートル、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデが基本設計をおこない、建築家野村一郎、國枝博らによって完成させた壮麗な建築だったと言います。
しかし、1995年には、韓国にとって「屈辱的な歴史」の象徴となったこの建物は撤去され、寺畑助之丞の仕事も見ることができなくなりました。
不の歴史も歴史だと思いますが、残念なことです。

このように建築と彫刻との関係を志向した寺畑でしたので、構造社への参加は必然でした。
また、日名子とは戦時下の彫刻のあり方を模索した彫刻家団体「三部会」でも一緒になります。

戦時中には、興亜造型文化連盟常務理事に就任、海軍省嘱託となります。
陸軍との関係の深かった日名子との仕事分けと言ったところでしょうか。
「興亜造型文化連盟」は日華(台湾)両国における工芸、建築その他の造型運動の連絡提携を図り以て中華民国(台湾)の造形文化を指導し、延て東亜共栄圏生活文化の建設に資せんと」することを目的としました。

このハイカラな西洋的イメージを持つ母子像と、日本の生活スタイル(建築などのデザイン)とか結びついたのが戦時下の日本であったのだなと思います。
そして当時考えられた、あるべき「東亜」の姿だったのだろうと。

2014年1月3日金曜日

荻島安二 作「第七回全日本女子籠球総合選手権大会 参加賞」メダル


先日亡くなられた彫刻家石黒鏘二さんが、芸大で石井鶴三教室で学び、卒業後マネキン制作会社で学んだことを自身の出発点と考えていらっしゃることを、ご自身の展覧会で紹介されていました。
その石井鶴三がセルロイド人形原型師になろうとしたように、当時の食っていくことの難しい彫刻家にとっての生活の糧としてのマネキン制作というというのがあったのでしょう。
石黒鏘二さんが「マネキン大学卒業」と言う時、そこには彫刻家の副業としての「マネキン制作」があり、アイロニーとしてそう話されていたのだと思われます。

しかし、そんなマネキンにも歴史があります。
そして、そのマネキンの歴史のはじめに語られるのが彫刻家「荻島安二」です。

荻島安二は明治28年の横浜生まれ、慶応大学予科より彫刻を志し、朝倉文夫氏の門下生となります。
1925年(大正14年)には、島津マネキンより依頼され、日本初の国産洋マネキンを発表します。
官展、二科展と出品しますが、その後日名子や齋藤素巌らの構造社に参加。
そして、昭和14年、43歳の若さで亡くなります。

彼はマネキンに関してこういう言葉を残しています。
「立体美術における総ての要素を含み、最も進化した彫塑の応用であり、行き詰まった彫刻に発展性を持った処女地」
まるで現代美術がオタク的フィギュアなんかを取り込んだ時の言説のようですが、マネキンから彫刻の新しい方向性を示そうという荻島の思いが読み取れます

そんな荻島の彫刻作品は、女性像が多く、そして横浜育ちだからか、ハイカラで御洒落。
この「第七回全日本女子籠球総合選手権大会 参加賞」メダルも際立って特徴的なモチーフではないのですが、どこかそんな感じを受けますね。

300点以上のデザインを生み出した荻島ですが、その作品のいくつかが東京国立近代美術館にあります。
こう見ると、ほんとうになんでもこなした荻島ですが、その中心に彫刻があったというのは面白い。
高村光太郎らとは別の方向で近代を表す彫刻家ではないかと思います。

2013年6月9日日曜日

平和記念東京博覧会 絵葉書


「平和記念東京博覧会」は、第一次世界大戦終戦を記念し、1922(大正11)年、東京府主催で行われた博覧会です。
4ヶ月間の開催期間の中、1100万人の動員があったそうです。
この博覧会には、 日本の高い技術を展示する「蚕糸館」や「電気館」、そして朝鮮や台湾の文化を展示した各館が、当時の新進建築家によって建てられました。
会場の装飾を手がけたのが彫刻家の新海竹太郎らで、上の絵葉書にあるような噴水も、彼らによって制作されます。
この噴水の頂上にある子供の像「童子群像」は国方林三、ペリカン(?)の像「水禽」は堀進二の作です。

こういった博覧会は、彫刻家の名の上げどころであり、屋外だけでなく、屋内の展示場にも、数多くの彫刻作品が展示されます。
 

  
手元に当時のカタログがあるので作家を抜粋してみます。
石井確治「舞」「蓮歩」、小倉右一郎「実り」「平和來」、清水三重三「唄」、長田満也「芽生」、中村清人「池水」、清水彦太郎「浴後」、中村翫古「踊」、高村光雲「蘇東坡」、内藤伸「和琴」「六道将軍」、朝倉文夫「狛犬」「本山氏の像」、後藤清一「摩登伽」、赤堀新平「秘曲」、 堀江尚志「夫人の坐像」、齋藤素巌「早春」「疲れた人」、安藤照「習作」、陽咸二「無」、吉田三郎「牧夫」「l心」、中野桂樹「海のささやき」、木村五郎「旋れる桃太郎」、松田尚之「習作」、日名子実三「工房の女」、佐々木大樹「猫」「話」、荻島安二「M子」「鏡」etc... 

カタログ掲載された作品数でも76点。
官展系、日本美術院系、朝倉派、その後の構造社の作家等々と、多くの作家の思惑を超えて集められたことがわかります。
無いのは地方の作家くらいでしょうか。

カタログにカラーで掲載されたのは、すべて着色の木彫。
白いだけの塑像に花がなかったからかもしれませんが、これら木彫を見ると日本の伝統を感じさせる小品であり、国内というより外国向けの意識があったのかもしれません。

それと、数をそろえるためか、習作レベルの作品が目立ちます。
同年には第4回帝展もあったわけで、時間が限られていた作家もあったのでしょう。

それでもとにかく当時の国内最大級の彫刻の展示だったわけです。

齋藤素巌はこういった取組みにたいし、新聞紙上で『まだ工房から解放されていない彫刻家たちに対して、博覧会が新しい練習の場を提供している』と述べている。ただし『断片的な塑像を陳列しているに過ぎない事は、まだまだという物足りない感じを起こさせる』と苦言も忘れない。

 この博覧会が終えた翌年、1923(大正12)年の9月1日に関東大震災が起きます。
この震災は、この博覧会に参加した多くの彫刻家にとっても、日本の美術界にとっても転機となりました。